チェコ好きの日記

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もう一度読む、村上春樹『1973年のピンボール』感想文

村上春樹の『1973年のピンボール』を読んだのは高校生のときだったので、もう10年以上も前です。

当時読んだ感想を覚えている限りで率直にいえば、この小説は正直何も面白くなかった。ただ私の読解力がなかったといえばそれまでですが、だってめちゃくちゃ読みにくいし、その読みにくさを我慢してまで読み解かなければいけない何かがあるようには、高校生の私には到底思えなかったのです。

が、「今読み返すとどうなんだろう?」とちょっとした好奇心を抱いてしまったので、10年経った今もう一度読んでみました。結論からいうと、面白いか面白くないかでいえば、やっぱりあんまり面白くなかった。だけどせっかく読み直したので、10年前にはできなかったこの小説における「謎解き」を今、やってみようと思います。

ちなみに、村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』を10年ぶりに読み返した感想も昔に書いています。

aniram-czech.hatenablog.com

時系列で考えるあらすじ

1973年のピンボール』を私が読みにくいとかんじる最大の要因は、まず時系列がぐちゃぐちゃってことです。1960年→1969年→1973年みたいに順繰りに話が進んでいってくれればいいものを、1973年の話が出てきたあとに1969年の話が出てきて、今度は1970年に飛んで、そしてまた1961年にもどって……みたいになっています。どの話がどの話の前なのか、あるいは後なのか、ぼーっと読んでいるとだんだんわからなくなってくる。話が盛り上がってきたところではぐらかされる。だから私にとってはすごく読みにくいし、つまらない小説です。

だけど、幸いなのはこの小説が「段落ごと」に場面が変わっているということです。つまり、時系列がぐちゃぐちゃでわかりにくいというなら、ブロックを解体して組み立て直すように、一度段落をバラバラにして時系列に並べればいいわけです。

まずこの小説は、大きく分けて「〈僕〉のパート」「〈鼠〉のパート」の2つがあり、それがだいたい交互に折り重なって進んでいきます。時系列がぐちゃぐちゃなだけでもわかりにくいのに、〈僕〉パートと〈鼠〉パートがあるもんだから余計わかりにくいのです。しかしとりあえず、2つのパートに分かれて話が進行していきます。

〈僕〉は現在、渋谷にある翻訳事務所に勤めながら仕事をしています。そして、〈僕〉はなぜか双子の女の子と共同生活を送っている。一方、〈鼠〉はジェイズ・バーという酒場に通い詰めて、なんだかごちゃごちゃやっています。

時系列順にあらすじを書くとするならば、まず1969年、〈僕〉はガールフレンドの直子と大学のラウンジでおしゃべりをしています。ところがその後、何か事情があったらしく、1970年に直子は自殺してしまいます。「直子が自殺した」とはっきり書かれているわけではないのがまたややこしいところなのですが、そう読み取れる描写が多いので、謎解き界のなかでは「1970年、直子自殺」が定説になっているみたい。そしてそのことに〈僕〉は大変ショックを受け、ゲームセンターにあった「スペースシップ」というピンボール・マシーンにハマってしまいます。だけど、1971年の2月、ゲームセンターが取り壊されたのと一緒に、その「スペースシップ」も姿を消してしまいます。

ピンボール・マシーン「スペースシップ」は直子の魂とつながっているらしく、〈僕〉がゲームをプレイしていると、「あなたのせいじゃない」「あなたは悪くなんかない」という声が聞こえてきます。なので、〈僕〉は直子の魂とつながったピンボール・マシーン「スペースシップ」を求めて、ピンボール・マニアの情報をもとに台を探しに行きます。そしてどうにか「スペースシップ」の台をとある倉庫のなかに見つけるのですが、直子との会話はそこで途切れています。

そして最後(本の順番的には冒頭なのですが)、1973年5月、〈僕〉は1969年に大学で直子と話していたとある駅を訪ねます。そして1973年の秋、〈鼠〉はジェイズ・バーでジェイと会話をしています。

〈僕〉と〈鼠〉、それから配電盤や双子

……というわけでここから意気揚々と謎解きに入ろうと思ったのですが、10年経った今でも、私は正直この小説全然わかんないです。まず中心に〈僕〉がいて、〈鼠〉はどうやら〈僕〉とまったく無関係の他人ではなく、ありえたかもしれない〈僕〉、パラレルワールドの〈僕〉のようです。だけど、なぜ〈僕〉の物語とは別軸で〈鼠〉の物語を進める必要があったのかよくわからないし、〈鼠〉を〈僕〉にドッキングさせて、構造をシンプルに、エピソードは時系列に並べるのではダメだったんだろうか? などと考えてしまいます。こんなに構造がぐちゃぐちゃしていることに意味があるのか、よくわかりません。あとは「配電盤」の意味は何かとか、「双子」の意味は何かとか、考えるべき題材はけっこうあるのだけど、謎解きはめんどいから私はあんまり好きじゃなくて、さっさと答えを出してくれ、という気分にもなってきます。

1973年のピンボール』は、その後の『羊をめぐる冒険』とか『ノルウェイの森』とかの準備をした小説であって、この作品単体ではあまり意味はないんじゃないかなんて思ってしまったのですが、はたして他のハルキスト──村上主義者はどう解釈しているんでしょう。私は村上春樹が好きだけど、「エッセイが面白い」とかいってる邪道ファンなので、そこらへんはよくわからないのでした。

しかし今、私のなかで〈再読ブーム〉が来ていまして、高校生や大学1・2年生のときに読んだ小説をいろいろ読み直しています。『カラマーゾフの兄弟』はKindleUnlimitedにあるので、ここぞとばかりに利用しています。

※村上主義者
村上さんのところ コンプリート版

村上さんのところ コンプリート版

なぜ松浦弥太郎さんは『オン・ザ・ロード』が好きなんだろう?

「なぜ松浦弥太郎さんは『オン・ザ・ロード』が好きなんだろう?」というタイトルを付けてしまったのですが、結論からいうと、個人の好みがすべてその人の作っているものや仕事に反映されているとは限らないし、この問いについて考えることに意味があるとは私はあんまり思っていません。だから、タイトルはただの話の枕くらいに考えてください。ちなみに松浦弥太郎さんは以下の本で、ケルアックの『路上(オン・ザ・ロード)』と、ヘンリー・ミラーの『北回帰線』が好きだという話をしています。

日々の100 (集英社文庫)

日々の100 (集英社文庫)

今回はケルアックの『路上』についてのみ触れますが、『北回帰線』も私はそのうち読みたいです。『北回帰線』はミラーの自伝的小説らしいですが、性描写が過激すぎたらしく、当初は発禁処分になってしまったそうです。

※今回参照するのはこちらの本の訳です

幸福とは、安定した暮らしのこと

まず『路上』を書いたジャック・ケルアックですが、この人は「ヒッピーの父」と呼ばれていて、ヒッピーの前身のような存在「ビート・ジェネレーション」という言葉を作った人でもあります。余談ですが、Wikipediaの「ヒッピー」の項目を読んでもなんだかよくわからん! という人がもしいたら、以下の文章を読むとちょっとだけわかりやすくなるかもしれないよ〜と手前味噌ながら思います。

【日記/41】ヒッピーとバックパッカー|チェコ好き|note
【日記/42】ヒッピー文化、わかりました|チェコ好き|note

そんな『路上』のあらすじはというと、サルとディーンという2人の青年が、ニューヨークを起点にアメリカを何往復も横断するというものです。なぜそんなにたくさん横断するハメになったのかといっても、どうやらそこにあまり意味はない。どこか目的地があって、そこに到達するために移動していたのではなくて、移動自体が目的の移動だった、というのが『路上』における移動です。

この小説が発表されたのは、一九五七年のアメリカ。物語のなかでとにかく「移動」をしまくる『路上』に反して、当時のアメリカの人々は、安定した暮らしや定住生活こそが幸福である、と考えている人が大半だったらしいです*1。いちばん身近なメディアはテレビで、お茶の間で家族みんなでテレビを見ているのが幸せ。だけど『路上』は、当時アメリカで幸福と思われていたそれらの要素をすべて否定して、安定を放棄し、定住ではなく移動を求め、そこに幸福(というか快楽)を見出します。そしてその価値観が新しかったので、当時の若い人たちからの圧倒的な支持を受けたわけです。

「結婚したいんだよ」ぼくは言った。「ゆったりと心を落ち着かせてその子と暮らし、なかよくじいさんばあさんになりたい。こういうことはいつまでもつづけられないだろ──こういうムチャクチャをしてあちこちを飛び回るのは。どこかに辿り着いて、なにかを見つけなきゃいけないよな」
「ああ、そうかねえ」ディーンは言った。「何年も聞かされてきたよ、家庭とか結婚とか、心が落ち着くすばらしい暮らしとか。好きだよ、お前のそういう話」悲しい夜だった。また、楽しい夜でもあった。フィラデルフィアで入った食堂では、なんとか食費をひねりだしてハンバーガーを食べた。(p162)

上の引用にある「ぼく」とは主人公のサル・パラダイスのことで、彼は「こういう飛び回る生活もいいけど、最終的には何かを見つけて、結婚して落ち着いて暮らしたい」といいます。今でもこういうことをいう若い人はいますね。そして、それを半端に聞き流す相棒のディーン。だけど、彼らは結局そこで止まることなく、その後も車での移動を繰り返し、行く先々で女の子と仲良くなったり、マリファナをやったり、トラブルを起こしたりします。そして最終的にはもといた場所、ニューヨークへもどってくる。

「定住か移動か」という問いは、当時は新しかったかもしれないけど、現代にそれを考えることにあんまり意味はないと思います。なぜなら、どちらかで満足できない人は両方やればよくて、それが十分実現可能な世の中になったからです。ずっと一箇所に腰を落ち着けて安定した暮らしを送りたい人はそうすればいいし、世界中を飛び回りながら仕事をしたい人はそうすればいい。両方やりたい人はそれらを交互に繰り返しながら、両方やればいい。ちなみに、自分は両方やりたい人です。もっと世界のいろんなところを旅行したいと思うけど、私は本を読むのが好きなので、読書は一箇所でじっと腰を据えながらやるほうが向いてるなと思うんですよね。

だけどそれは「選べる人」の話で

で、現代日本に生きる人の大半は「両方できる人」「どちらでも選択できる人」です。両方なんてできないと思っている人もいるかもしれないけど、それは本人の心がけの問題です。だけど、そういう心がけとかのレベルじゃなくて、絶対にどちらかしか選べない、という人もいます。選べないというか、異なる選択肢があることを知らない人です。たとえば、アマゾン川の源流域で暮らす原住民、イゾラドと呼ばれる人たち。あの方々たちは、今後どうなるかわからないけど、基本的にはあのブラジルとペルーの国境でしか生きられません。文明社会と未だ接触していない彼らは、自分たちが暮らしているのは南米大陸というところで、海を渡ると他の大陸があって、そこには自分たちと異なる顔付き、異なる言語、異なる文化を持った人間たちが暮らしている……なんてことは知らないはずです。だから、現状イゾラドはイゾラドの世界以外で暮らす選択肢を持ちません。知らないからです。
note.mu

『路上』のなかにも、こんな場面があるんです。

藁葺き小屋の前の庭で、三歳の小さなインディオの女の子が指をくわえて大きな茶色い目でぼくらをじっと見ていた。「きっと、生まれてこのかた、ここに車が停まるのなんて見たことないんだろう!」ディーンはささやくように言った。「ハロー、お嬢ちゃん、お元気? おれたちのこと、好きかい?」
(中略)
「いいか、おい、この子は岩棚に生まれてここで生きる──この岩棚が人生のすべてになるんだよ。たぶんおやじがロープで絶壁を下りて洞穴からパイナップルを取ってきたり、はるか下まで行って八〇度の斜面から木を切ってきたりするんだろう。この子はずっとここから出られない、外の世界について知ることもない。」
(中略)
ディーンは苦しそうに顔をしかめて指さした。「おれたちがかく汗とはちがう。べとっとしていていつもそこにある。一年中いつも暑いんだから、汗をかいていない状態を知らないんだよ。汗といっしょに生まれて汗といっしょに死ぬ」小さなおでこの上の汗は重たそうでどろっとしていて、流れていなかった。止まったまま、上質のオリーブオイルのように光っている。「こういうふうだと魂はどういうふうになるんだよ! 悩みも、価値観も、したいことも、おれらのとはまるでちがうぞ!」(p414-415)

移動を繰り返すサルとディーンは、道中で小さなインディオの女の子に出会って、「定住か移動か」を選べる自分たちと、「定住一択」の女の子とを比べてみて、そのちがいに愕然とします。私は実は、この場面が『路上』のなかでいちばん好きです。

選択肢が多いことが必ずしも幸福につながるとは限らない──という考え方には多くの人が納得してくれるだろうと思いますが、イゾラドやインディオの女の子はその最たるものです。彼らは選択肢が極限にまでない人生を送っているけれど、彼らはそのことによって不幸なわけではない。ただ、我々とは〈ちがう〉。悩みも、価値観も、したいことも。こういうふうだと魂はどういうふうになるんだよ! と私はディーンとまったく同じことを思います。私自身の経験でいえば、自分はカンボジアを旅行していて、赤ちゃんを抱えた真っ黒なストリートチルドレンに物乞いされたとき、これを強くかんじました。

「定住か移動か」なんてのはたぶん些細なことでしかなくて、もっと根源的な問題は「選択肢があることと、ないことは何がちがうのか」みたいなことなんだろう、と私は思います。

というわけで、松浦弥太郎さんは本気で話の枕に登場してもらっただけで、やっぱりあまり関係ありませんでした。しかし最後に無理やりまとめると、「暮らしの手帖」前編集長でずっと「よりよい定住」を考えてきたはずの松浦さんの好きな小説が、「アンチ定住」「移動」をテーマにしているって、話としてなかなか興味深いと思いませんか? 「無い物ねだり」っていってしまうといろいろなことが矮小化されてしまいますが、定住する者は移動に憧れ、移動する者は定住に憧れる。これはおそらく、「選択肢がある者」の宿命です。

では、選択肢がない者は……つまり、自分が選ばなかったどちらかへの憧れを持たないということです。だけど現代日本に生まれてしまった私はそんな人生を知らないから、彼らの魂がどういうふうなのか、上手く想像できません。そして、「選択肢のない人生」を選択できなかったという意味で、私もやはり彼らと同様に不自由なのではないか、などと考えたりもします。

選択肢がある者もない者も、同様に不自由で同様に不幸である(あるいは同様に自由で同様に幸福である)──『路上』はそういう小説だ、と思うと私のなかではけっこうしっくりくるんですが、どうでしょう。

北回帰線 (新潮文庫)

北回帰線 (新潮文庫)

※これもそのうち読む

*1:池澤夏樹「ものすごく非生産的な人生」

ウートピさんに『ハワイイ紀行』の記事を寄稿しました

少し前になりますが、ウートピさんに「おすすめの本」について書いた記事を寄稿しました。もし未読の方がいたら、ぜひ読んでみてください。私以外の方のおすすめの本について読むのも面白いです。

wotopi.jp

池澤夏樹『ハワイイ紀行』

寄稿先でおすすめしたのは、池澤夏樹の『ハワイイ紀行』という本についてです。ハワイイというのは、もちろんあの南国リゾート・ハワイのこと。だけど、この本にはオアフ島のビーチも、モアナサーフライダーも、アラモアナショッピングセンターも出てきません。ひたすらハワイのマニアックな島、マニアックな場所、たとえばアホウドリだらけのミッドウェー島とかが出てきます。ミッドウェー島、行ってみたいのだけど現在は一般人への公開は限定的らしい。他にも、そう簡単に行けるわけじゃないところばっかり登場するのですが、だからこそかきたてられる旅情というのもあるものです。

ハワイイ紀行 完全版 (新潮文庫)

ハワイイ紀行 完全版 (新潮文庫)

そしてジャレド・ダイアモンド『文明崩壊』

私がこの『ハワイイ紀行』を初めて読んだのってもう何年も前なのですが、当時たぶん同時に読んでいて「あー同じ話だ〜」と思って感動したのが、ジャレド・ダイアモンドの『文明崩壊(上)』だったりしました。

文明崩壊 上: 滅亡と存続の命運を分けるもの (草思社文庫)

文明崩壊 上: 滅亡と存続の命運を分けるもの (草思社文庫)

『文明崩壊(上)』には、太平洋をわたってハワイに移り住んだと考えられているポリネシア人に関する記述がちょっとだけあります。で、Googleマップででもテキトウに見ていただきたいんですが、よく考えるとハワイって「絶海の孤島」なんですよね。太平洋のポリネシアのなかでも、ちょうど三角形の先端あたりのところにポツッと浮かんでいる島です。

古代の人々はタヒチあたりからハワイ諸島へ移り住んだとされているようですが、たいした航海術もない、舟もカヌーくらいのやつで、よくもまあこんな遠いところに行ったよねぇって思いませんか!? 食糧難か嵐に飲まれるかサメに喰われるかわからないけど、絶対に死ぬ。しかもその先に島があるってわかっていない状態で。よく我々は自分やだれかのことを「好奇心が旺盛」などと称しますが、「好奇心が旺盛」なんてレベルじゃない。古代のタヒチってそんなに住みづらいところだったのでしょうか。「海を渡った先に、今の〈ここ〉とはちがう場所があるんじゃないか?」なんて興味はきっと私が古代タヒチ人でも抱いたと思いますが、だからといって、死ぬ覚悟でカヌー漕いであんな遠いところに行くのはなー、ちょっとやらないかもしれないです。でも、いつの時代のどの場所にも辺境マニア・危険マニアみたいな人はいるから、やっぱりそういう人が海に出たのかもしれません。

『ハワイイ紀行』にはポリネシア人のルーツについてなどの話もちょっとだけあるので、『文明崩壊(上)』と合わせて読むときっともっと面白いと思います。

いつか踏破したいコース

以上のことを踏まえて、太平洋の島々をアイランドホッピングする旅をいつかやってみたいなあって夢見ています。もちろん、カヌー漕いで島を渡るには私は体力と根性と精神力がなさすぎるので、フェリーだか飛行機だかでやりたいです。グアムからスタートして、チューク諸島、ポンペイ、コスラエ、マジュロ、そしてハワイ島オアフ島を経て、カウアイ島でゴール。ミッドウェー島まで行けたらとも思うけど、ちょっと難しいかもしれません……。

最近気が付いたのは、旅行は一都市に滞在するだけじゃなく、都市間(島間)を「移動」したほうがいいなってことです。もちろん日程や予算の限界はあるのだけど、イギリスに行くならロンドンを観光するだけじゃなくて、陸路でスコットランドのほうまで行ってみるとか、ウェールズまで見てみるとか。イタリアも、フィレンツェからローマ、ナポリまで縦断したほうが絶対に面白いと思います。「ああ、ここを境に景色が変わるんだ」とか、「ここを境に食べ物が変わるんだ」とか、そういうのを見つけられると私はけっこう楽しいです。

旅先としてメジャーであるハワイに行く人はきっと普通に多いと思うので、『ハワイイ紀行』(と、私が寄稿した記事も)ぜひ読んでみてください。

〈エジプト的〉から〈ギリシャ的〉へ/村田沙耶香『コンビニ人間』がおもしろかった

村田沙耶香さんの芥川賞受賞作、『コンビニ人間』を読みました。芥川賞って私は全然興味がなくて毎年スルーしているのですが、『コンビニ人間』はいつもとちがってちょっと面白そうだったのと、読む機会に恵まれたのでありがたく拝読。そして実際に読んでみたら、めちゃくちゃいい小説だったので感想を書きます。なお、物語の結末には触れませんが、細部のネタバレが少しだけあるのでご注意ください。

コンビニ人間

コンビニ人間

「社会がダメなのはデフォルト」──宮台真司の映画評

まずちょっとだけあらすじに触れると、『コンビニ人間』の主人公・古倉恵子は36歳の独身で、大学卒業後も就職せず、ずっとコンビニのアルバイトで生計を立てています。そのアルバイト歴、実に18年。もちろん、店内でもいちばんの古株です。著者の村田さん自身もずっとコンビニのアルバイトをしているそうですが、今回の感想文ではそのことには特に触れません。

この古倉恵子という主人公がちょっと変わった性格の持ち主で、小説の冒頭でその変わりっぷりが明らかにされます。たとえば幼稚園のとき、公園で小鳥が死んでいるのを発見して、他の子たちが「かわいそう。埋めてあげよう」と悲しんでいるところに、恵子は1人だけ「焼き鳥にして食べよう」と提案し周囲をギョッとさせています。

そんな変わり者の恵子が、生まれて初めて「世界の正常な部品になれた」とかんじるのが、コンビニのアルバイト。自分の意思で動くと奇行・奇発言で周囲をギョッとさせてしまう恵子だけど、コンビニの仕事にはマニュアルがあるので、その通りに動けばまわりの人に喜ばれます。そんなコンビニのバイトに大きなやりがいをかんじた恵子はそのまま仕事にのめり込んでいくのですが、とはいえ36歳で独身、アルバイトとなると、周囲からは次第に、再びおかしな目で見られるようになっていきます。「就職して正社員になったら普通」「結婚したら普通」と、世間は次々に新たな「普通」を、妙齢の恵子に対して提出してきます。

とはいえ、〈普通〉を押し付けてくる社会VSそれに抵抗する主人公、っていう構図は、今となってはそこまで珍しいもんじゃないですよね。しかし、『コンビニ人間』はそういう従来の物語とはちがいます。恵子が特殊なのは、真の意味で、〈普通〉を内包してはいないところなのです。

どういうことか説明すると、たとえば「30歳前後で結婚するのが〈普通〉」という価値観があったとして、今までの小説の主人公って、なんだかんだいいつつこの〈普通〉を内包しているんですよ。「世間では30歳前後での結婚を〈普通〉としている、だけど私はその〈普通〉に染まりたくない、私は私の人生を生きたい、だからこのままの私でいいんだ」、というように話が展開します。そして、この考え方は個人的には共感もするし素晴らしいと思うけど、物語として読むにはいささか手垢のついたテーマでもあり、私は正直あんまり面白いと思いません。

だけど『コンビニ人間』の恵子は、そうじゃない。「世間では30歳前後の結婚を〈普通〉としているがそのことがよくわからない、教えてくれれば〈普通〉になる、マニュアルをくれ、そして私を〈世界の正常な部品〉にしてくれ」と、いうんです。従来の物語の主人公は、〈普通〉をわかっていて、自分の意思でそれに抵抗しています。それに対して『コンビニ人間』の恵子は、そもそも〈普通〉がわからないんです。自分の価値観として、内包できていない。物差しを共有できていない。世間から圧倒的にズレています。同じ独身女性でも、前者はきちんとした世間の構成員ですが、恵子はちがう。

自分の意思であえて結婚しない人は、結婚しない理由を「仕事が充実しているから」とか「1人の時間を大切にしたいから」とか説明できるんですが、恵子は説明できない。だから妹に、「親の介護をしているっていいなさい」とか「持病があって就職できないっていいなさい」とかアドバイスをしてもらって、なんとか周囲を納得させる〈それらしい理由〉を作っています。

ここでちょっと参考にしたいのが、宮台真司氏が『FAKE』や『カルテル・ランド』などの映画について語っている文章です。
realsound.jp

今までの物語、つまり「私は〈普通〉に染まらなくても、私らしく、このままでいいんだ」となる主人公は、自分の内面を変化させることで、社会に適応し、そこに希望を見出します。このタイプの物語は、社会のダメさを特に指摘しません。ダメなのは社会ではなく、「未婚の自分にセクハラ発言をしてくる上司」とか、「子供は早く産んだほうがいいよ〜」と助言してくる友達とか、あくまで「個人」です。だから、そのダメな「個人」を排除すれば、世界は平和になります。排除というとやや物騒に聞こえますが、ようは、セクハラ上司のいない職場へ転職するとか、余計なお節介をやいてくる友達と和解するとか、そういうのが物語上では〈悪の排除〉となります。宮台真司の映画評の言葉を借りれば、〈エジプト的〉な思考です。世界はもともとは素晴らしくて完全なものなのだけど、何らかの悪の影響によってその均衡が崩れている、という世界観です。

一方で、『コンビニ人間』はそうではありません。この小説を読んでいると、世界がそもそも狂っている、社会のシステムがそもそもおかしい、という印象を受けます。だから恵子や、あるいは恵子のバイト仲間である白羽のような人間が、〈エラー〉として出てしまう。私の世界やあなたの世界が上手くまわらないのは、それを邪魔する悪が存在しているのではなくて、そもそも社会がデフォルトで狂っているから。〈悪の排除〉を行なったところでどうにもならない。つまり、『コンビニ人間』は、宮台真司の映画評の言葉を借りればギリシャ的〉な思考によって成り立っています。社会はもともと狂っているのに、私たちは何らかの目くらましによって、それを完全であると勘違いしてきただけ──という世界観です。そしてここに登場する「コンビニ」とは、そんなふうにして完全であると勘違いしてきた、〈社会〉の寓話的な象徴です。

宮台真司の映画評では、近年になって〈エジプト的〉思考から〈ギリシャ的〉思考へ物語は移行しつつある、とされています。私自身のことを語れば、自分は完全に〈ギリシャ的〉思考をする人間です。だからこそ、『コンビニ人間』がめちゃくちゃに面白かったのかもしれません。

人は世界に対して合理的であろうとしているだけ

この小説でもう1つ語っておきたい点がありまして、それが恵子のコンビニバイト仲間である、白羽という男についてです。白羽は35歳独身で、アルバイトとして新しく店に入ってきます。しかしマニュアルさえあれば正確な仕事をこなせる恵子とちがい、白羽はぶつぶつ文句をいっては周囲に煙たがられ、遅刻やサボりも多く、結果的にコンビニのバイトをクビになります。

で、この白羽という男、言葉を選ばずにいえば気持ち悪い奴です。仕事中に急に縄文時代の男と女の話を始めたり、コンビニの女性客にストーカーまがいの行為をはたらいたりします。だけど恵子は、そもそも人を嫌うとか人に対して怒るとかいう感情がないのか、コンビニを辞めた白羽とファミレスでお茶したりしています。そして白羽はそこで、独自に考えた「縄文時代からこの社会は機能不全に陥ってる理論」を披露するのですが、それを聞いて(読んで)みると、なるほど確かに彼のいうことには筋が通っているのです。個人で考えた理論としては、「なるほどなあ」と考えさせるものがあります。そしてもし彼の理論が「真」であるならば、彼の行動論理も理解できてしまうのです。

私たちは通常、〈エラー〉は〈エラー〉として処理し、排除あるいは無害化・修正しようとします。白羽のような気持ち悪い男とか、あとはコンビニに来て大声をあげて他の客にちょっかいを出す男とか、理解できないし何考えてんだろうって思いますよね。だけど、現実にはそんな機会はないけれど、じっくり話を聞いてみると、彼らの行為には彼らなりの正当性があるのかもしれません。彼らが設定している「世界観」があって、彼らはそれに沿うように行動しているだけ。私も私が設定している「世界観」があって、それに沿うように行動しています。あなたもあなたが設定している「世界観」があって、それに沿うように行動しているでしょう。〈エラー〉が〈エラー〉として現出するのは、その「世界観」の初期設定自体に〈エラー〉があるからであって、彼らの行動論理が破綻しているわけではないのです。少なくとも、この小説を読む限りだと、そう思わされます。ネタバレになってしまうので詳しくはいいませんが、『コンビニ人間』を最後まで読むと、駅のホームやコンビニで奇声をあげたり奇行をはたらいたりしている人たちの頭のなかが、ちょっとわかってしまうんです。なぜなら、あくまで〈エラー〉は彼らの「世界観」の初期設定であって、彼らの行動自体はとても論理的で筋が通っているからです。

比較対象として適切かどうかはわかりませんが、これと似た感覚が味わえるものとして、永田カビさんの『さびしすぎてレズ風俗に行ってきましたレポ』をあげておきます。

さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ

さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ

私がこの漫画ですごいと思ったのは、リストカットをする人がなぜリストカットをしてしまうのか、メンヘラがなぜメンヘラになってしまうのか、などがかなり論理的に明らかになっていたことでした。彼らもやはり、行動論理が破綻しているわけではないのです。「世界観」の初期設定に〈エラー〉が出ている。スタートがズレているから、コースが狂うのは当然です。だから逆にいえば「世界観」の初期設定を変えればいいのですが、これがなかなか難しいというのもわかります。なぜなら、私も自身が設定している「世界観」があって、それを変えるのは困難だとかんじるからです。そして、ここでは話をわかりやすくするために〈エラー〉という言葉を使ったのですが、そもそも社会自体がダメでクソで〈エラー〉なので、〈エラー〉のなかの〈エラー〉は真、つまり実はそちらが正常でこっちこそが〈エラー〉なんじゃないか、なんて考えることもできます。

さて、他にもいろいろと語れる小説なのですが、長くなりすぎるのでここで終わりにします。〈ギリシャ的〉思考、と聞いてピンと来る人は完全に面白く読める小説なので、ぜひ読んでみてください。

※後編もある
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新宿よりパレスチナのほうが近い イベント後記

8月6日(土)、お知らせしていたとおり、株式会社Waseiのくいしんさん、鳥井さんと一緒にトークイベントを行ないました。当日は8月らしくわかりやすい猛暑日で、こんな日に遠いところご足労いただいたみなさんには本当に感謝です。

aniram-czech.hatenablog.com

もちろん反省点なども多々あったのですが(百点満点のイベントを開催できたことはない)、それはそれとして、イベントが終わったあとにいろいろと1人で考えたことなどを書いてみようかと思います。

新宿よりパレスチナのほうが近い

まず、これはイベント当日ではなく、その前にWaseiの2人と行なったツイキャスが終わったあとに、1人でぼんやりと考えていたことです。

aniram-czech.hatenablog.com

なんか、私はやたらと海外に旅行に行きたがる性分で、あと関係ないかもしれないけど、小説も日本文学が苦手で海外の翻訳小説のほうが好きだったりします。それに対して、これは2人に限らずなんですが、「日本国内にも面白いもの、今までの常識や世界観を変えてしまうもの、ヤバイものはたくさんある。それなのになぜあなたは海外にばかり目が行くのか」ということをよく聞かれます。つまり、お前には「灯台もと暗し*1」の精神が全然ないじゃないか、どうなってんだ、ということですね。

これ実は、本当に自分でもなんでだかよくわからなくて、2年前くらいから断続的にずっと考えていました。おっしゃる通り、「世界観を変える」とか「面白いものを見つける」ためには、海外に行かないといけないわけでは全然ありません。というか、海外にさえ行けば見つかると思っているほうがアホです。屋久島とか沖縄とか九州とかの日本国内にもあるし、そんな遠いところ行かなくたって、首都圏在住の人であれば東京でも千葉でも神奈川でも、むしろ自宅の近くでだって見つけられると思います。

だけど最近考えるようになったのは、実はここで私たちが話題にしている、〈物理的な距離〉って、けっこうどうでもいいもんなのではないか、ということです。

たとえば、私は首都圏に住んでいるので、新宿にはまあまあすぐ行けます。一方で、中東にあるイスラエル占領下の地域、パレスチナは遠いです。距離もあるし、直行便もないから、ヨーロッパや近隣の国を経由して行かなければなりません。20時間とかかかります。交通費だって、当たり前だけど後者のほうは桁がちがいます。普通に考えたら、新宿とパレスチナのどちらが近いかと聞かれて、パレスチナと答えたらアホでしかありません。


でも、上手く伝わるかどうかわかりませんが、それでも私にとってはパレスチナのほうが「近い」んです。なぜかというと、新宿にあるお店、新宿にあるカルチャー、新宿の持つ雰囲気、そういうものが私をほとんど絡めとらないからです。縁がない、という言い方でもいいかもしれません。もちろん、詳しい人に案内してもらえば面白い体験はできるし、刺激的な一夜を過ごすこともできるでしょう。だけど、それって「1回」で終わってしまう気がします。どんなに面白くても、その夜が終われば明日からまた元どおり。それ以上のものって、少なくとも今の私は、新宿という街からは得ることができないと思っています。

しかし、エルサレムパレスチナ自治区といった地域で見たもの、聞いたもの、またそこで考えたことは、私にとって「1回」で終わるものではありませんでした。実際に行ったのは「1回」なんだけど、心理的には毎日のように通っているんです。エルサレムパレスチナが抱えている問題、またはあの場所のカルチャー、成り立ち、雰囲気、そういうものが私を絡めとるからです。私はイスラエルと縁がある。少なくも、新宿という街よりはずっとずっと強い縁を、私はエルサレムパレスチナといった場所からかんじます。


これは書籍でも書いたことなのですが、人間は、自分に関係のないメッセージは受け取れません。たとえそれがどんなに強く刺激的なものだったとしても、「これは自分と関係のないことだ」と思ってしまうと、たとえ運良く受け取ることができても十分に咀嚼しきれずに、1回で終わってしまいます。私は、新宿とは関係がない。だけど、イスラエルとは関係がある。物理的な距離はここではあまり意味をなさなくて、「関係がある」と思えるかどうか。だから、「そんなのってアリ?」と思われるかもしれないけど、実は私がモロッコやヨルダンイスラエルに行くことって、俄然「灯台もと暗し」だったのではないかと思うのです。自分の足元にあるもの、自分に関係があるもの、自分が今まで見落としてきたもの、それを改めて見つめ直すために、私は中東までわざわざ行かなくてはなりませんでした。


実際、「新宿の◯◯って店」などといわれると私、「わー、どこかわかんないし、遠いなあ」という印象をまじで抱きます。一方で、モロッコとかイタリアとかベトナムとかの海外の都市名や観光地をいわれると、「あー、あそこね。近い近い。今度行こ」って思います。だからホントの話、私にとっては新宿よりパレスチナのほうが近いんです。

なんだそれ、ってかんじでしょうが、「1回」で終わってしまう場所と、「1回」では終わらない場所の選別、これは考えてみるとけっこう面白いと思いませんか? もしあなたが、「私にとってはこんなに面白くて素敵な場所(モノ)なのに、他の人はそうでもないようだ。なぜ?」と思ったら、それは対象のものが、あなたには関係のあるもので、他の人には関係のないものだからです。

写真が撮れたらよかったのに

あとこれはイベントのなかでお話したことですが、最近「写真家になれてたら良かったのになあ」と思うことが度々あります。なぜかというと、文章って、何かを主張したり伝えたりせざるを得ないからです。だけど、写真って(報道写真とか、メッセージ性の強いものはもちろんあるけど)、基本的に何もいわないですよね。主張を込めることはできるけど、受け手次第によるところが大きくなるというか、表現で遊んでいられる。

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写真みたいな文章が書きたい、と思うことがあります。何も主張しない、何もいってない。……はずなのだけど、受け手を大きく動かす力がある。そういうのが書けたら最高だなーと夢見ています。

まとめ

「これからのインターネットとの付き合いを考えよう」というイベントだったのですが、今回のエントリはここまででインターネットという単語の登場回数がゼロなので、「いったいこいつは何をやったんだ」とご来場いただけなかった人は不審に思ったかもしれません。が、インターネットの話はもちろんしました。来ていただいた方に、何か1つでも考えるヒントをお持ち帰りしてもらえていたら、嬉しいです。ここに書いたこと以外にも、「世界の麻薬・準麻薬分布地図を作っている」という話や、ネットストーキングの技術などについて(これはくいしんさんが)お話しました。

あと三次会くらいで、「チェコ好きさんがいってるのって、『世界観が変わる』じゃなくて『世界観が増える』だよね」といってくれた人がいて、あーそうそうそれ、と思いました。

AとBがたとえ相反するものだったとしても、Bを覚えたらAを捨てなきゃいけないかというとそうじゃなくて、Aを抱えたままBを受け入れることって私はできると思います。AとBが相反するものだったとしても、です。

それから、お土産にお菓子をくれた方もありがとうございました。チェコ好きが美味しくいただきました。

最後に、今回のイベントを企画してくれたくいしんさん、鳥井さんに改めてお礼をいいます。ありがとうございました。

*1:Waseiさんのウェブメディアは「灯台もと暮らし」です http://motokurashi.com/