チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

【5】ロンボク島の神様

バリ島旅行記の続き(しかし、繰り返すが正確にいうともう「バリ島旅行記」ではない)。バリ島から船で2時間のところにあるギリ・アイルという島に行き、そこからさらにボートで10分、ロンボク島という島に行った。

【4】ギリアイルの停電する夜 - チェコ好きの日記

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呑気に海を眺めていたら残念ながら雨が降ってきてしまい(雨季だからしょうがない)、宿に戻る。読書でもしようかなと思ったけど少し体を動かしたい気分だったので、雨がうつ宿のプールを一人で独占して、すいすい泳いでいた。

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翌日は、ロンボク島の空港からいっきにジャワ島へ、ジャカルタへ飛ぶ予定になっていた。なぜジャカルタに行こうと思ったのかというと、私はアホなので、ジャカルタからボロブドゥール遺跡に行けるもんだと思っていたからである。ボロブドゥール遺跡を見るためには、ジョグ・ジャカルタというところに行かなければならない。が、私はジョグ・ジャカルタってジャカルタの郊外かなんかなんだろうと思っていて、ロンボクからジャカルタ行きの航空券、そしてジャカルタの宿、さらにジャカルタから羽田空港行きの航空券も買ってしまっていた。出発する3日前くらいに「もしかして、ジャカルタとジョグ・ジャカルタってめっちゃ離れてます?」ということに気付いたのだが、そのときはもう、遅かった……。強行採決スケジュールも考えたが、かなり無理があったので諦め、ボロブドゥール遺跡はまた次の機会に行くことにする。

ロンボク島からジャカルタに行くまでにけっこう時間があったので、宿から徒歩で行ける、バツ・ボロング寺院というヒンドゥー教のお寺を訪ねてみる。ロンボク島イスラム教の島なのだけど、やはりバリ島に近いからかヒンドゥー教の寺院もあることにはある。

受付のおばちゃんに喜捨をして門をくぐると、そこはアジア人も欧米人も観光客は一人もおらず、現地の人ばかりだった。名所というほどでもないし、外国人でここまで来る人は稀なのかもしれない。おじちゃんたちがくつろぎ、子供たちがはしゃぎまわり、おばちゃんたちが熱心にお供えの手入れをしたりしていた。

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観光客だらけの名所も、私は歴史や美術(建築)をすごい調べるので、たとえスタンプラリーと揶揄されようとけっこう好きだ。だけど、ガイドブックに載らない、地元の人だけがのんびり集まる場所に一人でふらりと訪れてみるというのも、なかなかいいもんだなあと思った。というか、なんだかぽつんとした気分になるのが似合う場所だったので、一人で来れて良かったなあと思った。


バリ・ヒンドゥーの世界は、どうしてこうも色鮮やかなのだろう。人々が着ている服と、花や果物がまったく同じ色調である。どうしてこんな眼が覚めるような色使いをするのだろう。

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神様に向かって祈りを捧げる人々を見つめながら、もしかしたらバリ・ヒンドゥーの世界では、人も花も果物も価値が等しいのかもしれない、などと思った。人は花より優れているわけじゃないし、人は果物より賢いわけじゃないのだ。全部、神様へのお供え物という点では一緒なのかもしれない。

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色が美しいのは正義だ。私は陰気な性格なので、霧の中に消えてしまいそうな東欧の憂鬱さも好きだけど、色彩豊かなものを目にしていると、「生きねば!!!」という気分になってくる。

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次回へ続く(たぶん最後)

都市の孤独と、地方『移住女子』のモテ

灯台もと暮らし編集長、伊佐知美さんから著書『移住女子』をご恵贈いただき、週末に読んでいました。以下は、そんな『移住女子』の感想です。

移住女子

移住女子

『移住女子』になると、孤独から解放されるかも?

さっそくですが、私が本書を読んでいちばん印象に残ったのは、新潟県十日町市池谷に移住した、佐藤加奈子さんのこんなお話。

移住をしてから祈ることが増えました。正月には「どんど焼き」で五穀土壌を祈り、1月の「鳥追い」では鳥害を防ぐために子どもたちが集落を練り歩きます。また11月には「農神祭」が行われ、無事収穫できたことを集落住民全員でお祝いする儀式をします。人間にはどうすることもできない自然相手だからこそ、祈りを捧げる意味があるのだと思います。それは不思議な感覚で、信じる神様がいたわけではなかった私にも、農業を営んでいると、神様がいるような気がしてきます。
(p.72、強調はチェコ好き)

東京や大阪などの都市に住んでいると、「神様」なんてのは海外のイスラム教やヒンドゥー教か、あるいは新興宗教くらいしか縁がなくなってしまいがちです。だけど、日本はもともと色濃い多神教の国。都市に住んでいる私たちが気になるのは会社や飲み会やSNSを通した「人」の視線ですが、地方に移住して農業などをやると、自然と触れ合う中で「人」以外のものの存在がもう一度、蘇ってくるんだなあと思いました。

実は私、連載しているSOLOで「都市に生きる者の孤独」について書いたことがあります。

村上春樹の「さみしい」物語の主人公はたいてい都市で生活している | チェコ好き - SOLO

都市に住んでいると、土はコンクリートの下にしかないし、緑は手入れされた街路樹や芝生しかありません。そんな中では、「人」しかいないので、とにかく「人」のことが気になる。「うわっ、私の年収、低すぎ……?」とか、「酔って転んで男に抱えて貰うのは25歳までだろ 30代は自分で立ち上がれ もう女の子じゃないんだよ? おたくら*1」とか、「人と比べて自分はどうか」ということに思考が行きがちです。「人」に仕事で認められたい、「人」に愛されたい。だけど、「人」に認められたり「人」に愛されたりするのは、いつも上手くいくわけじゃないし、なかなか難しいときもあるので、現代人の多くはそこで悩んで苦しんでいるのだと思います。

でも自然豊かな場所へ居を移すと、実は世界は「人」以外にも有象無象がうじゃうじゃしていることに気付く。そしてその有象無象のうじゃうじゃが季節とともに移り変わって、美しい景気を見せてくれたりすると、なんとなく「私の命、愛されてるな〜」という気分になれるんじゃないかと思います。

もちろんどんな状況においても私たちが「人」であることに変わりはないので、「人からの承認」は必要です(『移住女子』のみなさんはだいたい移住先で結婚されている)。それでも、都市に住んでいるときほどせかせかしなくなるような気がします。佐藤加奈子さんの話を読んで、そんなことを考えました。

あとは現実的な話として、地方へ移住すると世代を超えた地域コミュニティみたいなものに属すことになるらしいので、コミュニティの結びつきが希薄な都市部よりも孤独を感じにくくなるという側面もあるようです。「孤独だ!!!」とつらい夜を過ごしがちな方は、きっと移住が向いているのではないかと思いました。

若さとは相対的なもの

加えて面白かったのは、「移住女子はモテるのか?」という伊佐さんのコラム。ここではマンガの『東京タラレバ娘』を例に、「33歳はおばさん」という都市でありがちな価値観が地方へ行くと変わる、という話がされています。高齢者が多い地方では、20代や30代なんてのはまだピチピチで、40代だって若者扱いされることがあると。実際の『タラレバ娘』でも、倫子たちが地方の港町に行ったらおじいちゃんたちにすごいチヤホヤされたというエピソードが出てきます。

一見すると笑い話のようでもあるけれど、都市で重視されがちな「若さ」とか「賢さ」とか「センス」に絶対的な基準なんてありません。そういうのは全部相対的なものであると気付くのは、生きることをかなりラクにしてくれそうです。

ちょっとちがう話ですが、私の友人にものすごくモテる女子がいて(現在は既婚)、以前モテるコツを聞いたことがあります。そのとき彼女が「コツはない。自分の釣り堀の場所を把握すればいいだけ」と潔く答えていたことを思い出しました。女性の魅力だって絶対的な基準はなく、あくまで相対的なもの。都市に住んでいていまいちモテないと悩んでいる方は、思い切って地方へ移住すると、(釣り堀が変わるので)何もしてなくてもすごくモテるようになる。これは十分ありうる話だなと思いました。


現在の私は地方への移住は特に検討していないのですが、そんな人であっても、「日本の伝統」「多神教信仰」などに興味を持っている人は面白く読めそう。そして蛇足ですが、現在の私が都市に住んでいる理由、それは今ここにある「孤独」をまさに愛しているからだと、自分の生活を見直すきっかけにもなりました。というわけで、おすすめです。

【4】ギリアイルの停電する夜

バリ島旅行記の続き(正確にいうともうバリ島じゃないが)。

【3】ウォレス線をこえて、バックパッカー・アイランド - チェコ好きの日記

バリ島からフェリーで2時間、ギリアイルという島にやってきたものの、何せ一周しても徒歩1時間というとても小さい島だ。観光名所もないし、海岸を散歩してお昼ご飯を食べたら、そのまま海を眺めながらカフェで読書でもするしかない。というわけで、夕方になるまで私は本を読みつつぼーっとしていた。

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(※お昼ご飯のミーゴレン)
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やることがなさすぎたので、夕方からはヨガのクラスに参加する。私の前に陣取っていたフランス人(たぶん)の女の子が超絶体が柔らかく、「ビギナークラスって書いてあったから参加したのに……!」と一瞬後悔したが、左右をよく見ると90°しか開脚できない私のような人もけっこういたので安心した。しかし、体が柔らかい人を見るとそれだけで、私よりその人が人生を何倍も楽しんでいるのではないかと疑ってしまう。いっそあのベターっと開脚の本を買ってしまおうかという気になるが、思いとどまる。

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ヨガの時間は1時間くらいだった。

全体の最後に、ちーんちーんという鐘の音を聴きつつ、ヨガマットに仰向けに寝転がり目を閉じる。太陽が沈み、瞼の外の世界が、鐘と音と合わさってゆっくりゆっくり暗くなっていくのがわかる。

繰り返すが、ギリアイルはとても小さな島で、その気になって拡大しないと地図上には存在しないも同然だ。だけど、私は今その小さな島で、ヨガをやって息を整えている。鐘の音を聴きながら、太陽が沈みきるのを待っている。

これはとても不思議な体験だった。海が近いせいだろうか、目を閉じていると、波の音と太陽の角度が少しずつ下がっていく音と、自分の呼吸がだんだん重なってくるような気がした。

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先生の合図とともに最後、目を開けると周囲はすっかり暗くなっていて、それはもちろん当たり前なんだけど、私はなんだか狐に化かされたような気分だった。信じられないくらい頭も体もすっきりしていたけど、なんでそんなにすっきりしたのかよくわからなかったし、やっぱり何かに騙されたんじゃないかという気がした。


釈然としないままヨガスタジオを出て、途中でココナッツアイスを買ったりしつつ宿に戻るが、そのときいきなり街灯や店頭の電気が消えあたりが真っ暗になる。どうも停電らしい。ウブドの宿にもどる途中も真っ暗でiPhoneのライトが大活躍したが、まさかここでも使うとは。頼りない明かりで道を照らしつつ、歩いてのんびり戻る。途中、照らした先に牛がニュッと現れたりして、すごくびっくりする。

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(※これは翌日、明るい時間に撮った牛です)

宿に着く直前くらいで、復旧したらしく電気が元どおりに点く。しかしこの後、部屋でシャワーを浴びているときと髪を乾かしつつベッドでくつろいでいるとき、またも電気が消える。一晩に三回も停電するなんて生まれて初めてだ。だけど、これが本来の地球の暗さなんだよななんて思いつつ、また停電すると面倒なのでその日は早く寝てしまった。

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翌日は、スピードボートに乗ってロンボク島へ進む。船の出発前、改めてギリアイルの海岸を散歩したが、本当にはてしなくのんびりした島だ。島の人は大人も子供もみんなニコニコしていて呑気そうだし、動物も人間様おかまいなしで堂々と道を歩いている。もう一泊してもよかったかななどと思い、今度は隣のギリメノやそのまた隣のギリトラワンガンまで行こうと決める。

ギリアイルからロンボク島までは、ボートで10分程度。すぐに到着する。だけど、10分でも海を隔てたそこはもう別世界だ。ロンボク島のバンサル港というのは客引きがしつこいかつ悪どいことで有名で、私もボートを降りたその瞬間に営業攻撃に遭う。ロンボク島はバリ島と同じくらいの規模がある島なのだが、大きい島というのはなんだか余裕がない。

しかし、しつこい客引きに関してはこちらもモロッコの旅で鍛えられている。私は難なくかわして信頼できそうなドライバーと値段を交渉し、宿の近くにあるロンボクのスンギギというビーチを目指した。

こちらは、波が荒い。

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次回へ続く

【3】ウォレス線をこえて、バックパッカー・アイランド

バリ島旅行記の続き。

【2】私は島とセックスできただろうか? - チェコ好きの日記

バリ島を歩いていると、ここでは神様を信じることが、とても自然なことなんだとわかる。バリ島というか、インドネシアでは全体としても多くの人が何らかの宗教を信仰していて、「自分は無宗教だ」というと無神論者すなわち共産主義者だと思われてしまうこともあるらしい。……と、いう話を聞いていたので、私は「あなたの宗教は?」とたずねてきた幾人かのバリ人・インドネシア人に、ひたすら「仏教」と答えていた。だけどもちろん、本当は仏教のことなんて何も知らない。

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バリの人は、とても自然に祈る。そばで観光客が写真を撮っていようが、外からちらちら見ていようが、特に気負いなく神に祈る。当たり前のように観光客がうじゃうじゃいるこの島では、そんなのにいちいち構ってたんじゃオチオチ生活もできないというのもあるんだろうが、神に祈っている人というのが私はどうも好きみたいだ。

はじめて、信仰を持つことを羨ましいと思った。神様がいる世界にとても自然に馴染んでいけた彼らを、羨ましいと思った。私が今ここから何かの宗教を信じることは、かなり不自然なことになるからやらない。そうではなくて、何かを信じるという環境を、生まれながらに用意されていたことを羨ましく思った。

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あとは、物売りの子供がまあよく語学ができる。もちろん使える単語は値段交渉ができるシーンに限られてはいるのだろうが、それにしたって日本語も英語もフランス語もペラペラしゃべる。「あの子ら、ああ見えて七ヶ国語くらいできるんだ」とワヤンさんがいう。私も、つい先延ばしにしているが、どこかで語学は本気でやらなければいけない気がする……英語もロクにできないうちから欲張るのは滑稽かもしれないが、もっといろいろな言葉がわかるようになりたいと思う。アラビア語とかわかったらかっこいい。

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バリ島観光は実はここまでで、翌日から私は、フェリーでこの島を離れ、ギリ・アイルという島、それからロンボクという島を訪れてみることにした。船の予約はインターネットでできて、値段は片道四千円から七千円くらい。ちなみにこれらの島については、高城剛の本に少しだけ記述がある。ギリ・アイルは「ギリ三島」とよばれる三つの島の中の1つで、仲間とはしゃぐパーティー・アイランド「ギリ・トラワンガン」、カップルで行くハネムーン・アイランド「ギリ・メノ」とならび、バックパッカー・アイランド」とよばれている。要するに、独り身の島である。

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予想はしていたが、フェリーに乗り込んだアジア人は私1人で、他はみんな欧米人だった。私はバリ島からギリ・アイルまでの片道チケットをネットで予約し、その後ギリ・アイルからロンボクへ、そしてロンボクの空港からジャカルタに飛ぶことにした。

で、上でもいっているように、このギリ・アイルは徒歩一時間くらいで一周できてしまう本当に小さな小さな島である。だから車がない……というか必要なく、移動は基本的に徒歩、現地の人は自転車、重いものを運びたいときは馬車、みたいになっている。車がないせいか空気がきれいで、そしてはてしなくのんびりした雰囲気の島である。

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そして、ここからはちょっとマニアックな話になるのだけど(興奮)、バリ島とロンボク島の間には、実はウォレス線という、生物分布境界線が存在する。どういうことかというと、このウォレス線によって、生物の分布が東洋区(バリ側)とオーストラリア区(ロンボク側)で分断されているのだ。生物や植物の雰囲気が、どことなく変わる。そして面白いことに、宗教も変わる。バリはヒンドゥー教だが、ギリ三島やロンボクはイスラム教だ。船で二時間という距離しか離れていないのに。それで、バリ島のちょっと下にあるレンボンガン島という島もたぶん東洋区なのだけど、ここもどうやらバリ・ヒンドゥーの島。つまり、この生物分布境界線が宗教分布も変えている*1。この話めちゃくちゃ面白くないですか?

というわけで、ギリ・アイルに着いてからは懐かしの、アザーンが聞こえてきた。アザーンイスラム教のお祈りの合図の放送で、私はモロッコと、ヨルダンと、イスラエルでこれを聞いたことがある。女性はヒジャーブをかぶっている。ここはもう、イスラムの世界だ。

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次回へ続く

*1:このあたりについて研究した書籍はないのだろうか。知っている人がいたらご一報ください。海外文献でも英語なら頑張って読みます

【2】私は島とセックスできただろうか?

バリ島旅行記の続き。

【1】サイババの弟子に未来を占ってもらってきた。 - チェコ好きの日記

バリ島の伝統的呪術師「バリアン」のいまいちすっきりしない占いを体験した日の夜、私はガイドのワヤンさんにすすめられ、ウブドの中心地で伝統芸能ケチャダンスを鑑賞してみた。

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しかし当然といえば当然なのだけど、「観光客向けにやっている」感が否めない。それもそのはず、ケチャ1920年代から30年代にかけて、廃れきっていたところをドイツ人の画家が再興させバリの伝統芸能ということに「した」、なんて話を聞いた。日本の初詣も明治から大正にかけて鉄道会社が行なったキャンペーンがもとになっているという話があるけれど、まあ伝統の中にはそんなものもあるのだろう。

が、じゃあケチャはつまらなくて見る価値がなかったかというと、もちろんそんなことはない。火の玉を素足で蹴っとばすショーがあったのだけど、あれは普通に危ないしどうやってるんだろう? と思った。足の裏の皮が厚いのだろうか。そういう問題じゃないのだろうか。

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それよりも印象に残っているのは、ケチャダンスの鑑賞を終えて宿に戻ろうとした帰り道だ。私は宿泊先をAirbnbで予約したのだけど、この宿が田んぼのど真ん中でだいぶ辺鄙なところにあり、昼はいいが夜になると街灯もなく真っ暗だったのである。iPhoneのライトを点けなければ足元がまったく見えない。

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(※これは明るいときに撮った写真だが、この場所が暗くなったときを想像してみてほしい)

まったくの闇──というのをきっと、都心に住む日本人の多くは久しく体験していないのではないだろうか。日が暮れて太陽が沈んでも、街はネオンや街灯やオフィスビルの電気で、眠ることなくぴかぴかしている。だけど私が歩いた、宿へと帰る道には、そんなものは一切なかった。iPhoneのライトという頼りない明かりで(それだってないよりはだいぶマシだが)、この道で合っているのかと不安になりながら、虫や蛙の声を聞きながら一人で歩いた。途中、道を間違えたらしく変な畦道に入り込んでしまい、だいぶ焦った。

だけど、私はこの「まったくの闇」、頼るものが視覚以外の自分の五感しかないという状況を、ずっとずっと求めていたようにも感じた。バリ島到着前の飛行機で読んでいた『ヤノマミ (新潮文庫)』という本は、「闇、なのだ。全くの、闇なのだ」という一文から始まるのだけど、私はこの一文でかなり動揺してしまったのである。「まったくの闇」を私は知らないし、知っていたとしても、だいぶ昔に忘れてしまった気がする。漆黒の闇と吐き気がするほどの恐怖。私は、人類が必死で逃げてきたはずのそれを、なぜか今ものすごく懐かしく思っている。

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(※本当に田んぼのど真ん中にある宿)

翌日は、ガイド・ワヤンさんの車で終日バリ島を観光した。ティルタ・エンプルとか、ブサキ寺院とか、キンタマーニ高原とか、ゴア・ガジャとか、カルタゴサとか、そのあたりの有名どころの寺院を巡る。

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ふと疑問に思ったので、ワヤンさんに「インドのヒンドゥー教とバリのヒンドゥー教は何がちがうんですか?」と聞く。いわく、バリには4世紀頃インドからジャワ島を経てヒンドゥー教が伝わったが、オリジナルのヒンドゥー教がバリの土着の多神教と合体し、それが今あるようなヒンドゥー教になっているらしい。日本の神仏習合みたいなものだ。ヒンドゥー教では牛は神聖な生き物なので食さないことになっているが、バリ・ヒンドゥーではカーストの階級によっては一部食べる人もいるし、他にもいろいろなローカルルールがあるらしい。

だけど、実はインドネシアでは、バリ島に住む人々以外のほとんどがイスラム教を信仰している。なぜかバリ島だけ*1が、後から伝わってきたイスラム教が根付かず、そのままヒンドゥー教の島として残ったのだ。理由はよくわからない。この島は、よっぽど多神教の世界観が強固なのかもしれない。

それぞれの寺院は、地元の人と観光客が入り乱れていてなんだか不思議な雰囲気だった。私たちがパシャパシャ写真を撮る傍で、地元の人が熱心に神様に祈りを捧げている。キリスト教の教会でも、エルサレム嘆きの壁でもそうだけど、「祈る人々」を見るというのはすごく変な気持ちだ。

彼らはそれを信じている。だけど、私はそれを信じていない。彼らには見える。だけど、私には見えない。人と人との間にある断絶を、まざまざと見せつけられている気分になる。

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「バリ島にいると、何だかこの島とセックスしているような気持ちになる。とても不思議な気分だ。他の島ではこうはならない。バリ島だけだ。このクタ・ビーチで波を眺めている間に、ふと気がつくと十八年もたっていた」(p.153)

中島らもの小説『水に似た感情 (集英社文庫)』はバリ島を舞台にしていて、この島を一人の人間になぞらえている。バリ島に入ることは一人の人間の胎内に入ることであり、いわくクタ・ビーチで波を眺めていると島とセックスができるらしい。もしそれが本当なら、こんな極楽はないと私はわくわくして出かけたのだが、私が島とセックスできたかどうかは疑問が残る。やはり小説にあるように、マジックマッシュルーム*2でもやらないとそんな没入感は得られないのだろうか。

バリ島の11月は雨季なので、お昼頃から雨が降ってきてしまった。しかし、雨が降ると生き物が喜んでいるのがわかる。なんだか得体の知れないものがたくさんいるのがわかる。だから、私はバリの雨はとても好きだと思った。

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次回へ続く

*1:正確には、バリ島近くのレンボンガン島などもバリ・ヒンドゥーの島であるらしい。私は宗教分布に生物分布境界線が関連していると考えていて、これに関しては後日書く。

*2:もちろん犯罪です。