チェコ好きの日記

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『夫のちんぽが入らない』ことはけっこうよくある

話題になってからだいぶ遅れてではあるけれど、こだまさんの『夫のちんぽが入らない』を読んだ。今回はその感想である。

夫のちんぽが入らない

夫のちんぽが入らない

「普通のことができない」はけっこう普通

読み終わったあとに直感的に思ったのは、「これってけっこうよくある話なんだろうな」ということ。

もちろん、夫のちんぽが入らないことで困っている知人が私の身近にいるということではない。本当はいるのかもしれないけど、少なくとも私はそのことを打ち明けられていない。そうではなくて、「夫のちんぽが入る」=「世間で普通とされていることの象徴」だとすると、普通だとされていることができなくて悩んでいる人はけっこういっぱいいるんだろうな、ということだ。

たとえば、先日読んだこちらのコラム。

私は松居一代のことを笑えない<ハイスペック女子のため息>山口真由 - 幻冬舎plus


こちらでは、著者が恋人に手紙を書くのだけど、宛先と差出人を逆に書いてしまい、送った手紙が自分のところにもどってきてしまった、というエピソードが紹介されている。そしてそのことで著者は、(私は、普通のことをきちんとこなすことができない……)と、落ち込む。

が、人を経歴で判断するのはいかなる場合であれ良くないかもしれないけれど、この著者は東大卒の弁護士、めちゃくちゃに優秀な人だ。

その優秀な人でさえ、(私は、普通のことをきちんとこなすことができない……)と落ち込むことがあるのだから、もうこれはどうしようもない。(私は、普通のことをきちんとこなすことができない……)ってそういえばかなりよく聞く独白だし、逆にいえば、「普通のことをきちんとこなすことができない」という感覚はけっこう普通、ということさえできそうだ。できそうだ、というか実際そうなのだと思う。

お風呂に入れない、ゴミ捨てができない、電車に乗れないなどのけっこう大変なレベルのものから、いつも遅刻する、電話に出れない、人付き合いが悪いなどのその人の手腕次第でどうにか切り抜けられる(?)レベルのものまで程度の差はあるけれど、だいたい誰でも何かしら、世の中で普通だとされていることができない。むしろ、「私は普通のことはだいたい普通にこなせる」と言い張る人がいたら、そっちのほうがマイノリティだろう。マイノリティというか、その人はたぶんただのおニブちゃんである。

したがって、この本の感想をさっくりまとめると、「自分が普通だと思っていることはあんまり普通じゃない可能性があるのでやたらめったら人に押し付けちゃいけないよ」とか、「普通ってのはだいたいが幻想なのでそこから外れていると思っても必要以上に気にしなくていいよ」とか、そんな感じになりそうである。

ただ、後者はともかく、前者は本人は無意識でやっていることが多いので、あまりちくちくとは責められない。私もきっと、今までたくさんの「MY普通」を他人に押し付けてきたはずなので、気を付けようとは思うけれど、あまり大きい顔はできない。

「私は普通じゃない」という甘く美しい世界

『夫のちんぽが入らない』の感想はここまでで、以下は本を離れて勝手に私が考えたことなのだけど(なのでこだまさんがどうこうという話ではない)、「私は普通じゃない」という境地に、他人に追いやられるのではなく自分で突っ込んでっちゃうことってあるよな、ということを(自分の胸に手を当ててみて)思った。

どういうことかというと、(私は、普通のことをきちんとこなすことができない……)とは通常、「普通のことを普通にこなせるきちんとした人間になりたい」という願望とセットのはずである。だけどそこに、「私は普通じゃない」と言ってしまうことによって免責されたいみたいな、逆方向の願望が紛れていることもたまーにある。

普通じゃないということは、特別な人間だということだ。誰だって、「あんたは普通だよ」と言われるよりは、「あなたは特別な人だ」と言われるほうが嬉しい。なので、「私は普通じゃない」って自分で思うのは、けっこう甘美な響きを伴ってしまうことがある。でも、それは罠なので気を付けたほうがよい。他人に「あなたは普通じゃないよ」と言われても「うるせえわ!」と相手にしなきゃいいけれど、自分でそっちの世界に行ってしまうと、もどってくるのがなかなか難しい。

だから、「『私は普通じゃない』という感覚はけっこう普通だ」という上記の私の考えは、もちろん誰かの気持ちをラクにできればと思って書いたのだけど、逆にこの考えを「きっつー」と感じる場合もあるんだろうな、と思う。私も、状況によっては自分で自分の言葉に苦しめられそうである。まあでも、やっぱり私たちはどう考えても、だいたい普通の人間だ。普通じゃない人間というのは、アインシュタインとかレオナルド・ダ・ヴィンチくらいのレベルの人のことを言う。

『夫のちんぽが入らない』は評判どおり良い本だったので、夏休みとかに読まれてはいかがでしょうか。

絶望と希望は多くの場合、セットになっている。

憧れのあの人に近づくために何をするか

ブルース・リー主演の『燃えよドラゴン』は、映画史上で唯一、五大大陸のすべてでヒットした作品なのだそうだ。イスラム教圏の人も、キリスト教圏の人も、仏教圏の人も、みんなブルース・リーが大好き。理由はもちろん、映画の中で「アチョー!」という意味不明の叫び声をあげながら手足を振り回していたリーが、ものすごくカッコよかったからである。

とはいえ、『燃えよドラゴン』を冷静に観てしまうと、「その掛け声、いる?」と私などはところどころでツッコミを入れたくなる。

これは自分が野暮なのかと思っていたら、リアルタイムでこの映画を鑑賞していた少年たちもまた、「さすがに『アチョー!』はバカなのでは……?」という思いを少なからず抱えていたらしい。いや〜そうだよねえ。

しかし、「バカなのでは……?」という思いを抱えつつも、映画館を出ると、「アチョー!」と叫びながら友達に膝蹴りをくらわせてしまう。友達もまた、「アチョー!」と叫びながらやり返してくる。

ブルース・リーの身体の動きはそういう、思わず真似したくなってしまうある種の感染性を持っているらしい。イスラム教圏の人も、キリスト教圏の人も、仏教圏の人も、みんなブルース・リーの動きを真似る。「ブルース・リーがかっこいい」は、もう少し具体的に言い換えると、「動きを真似したくなる」ということらしいのだ。

燃えよドラゴン ディレクターズカット (字幕版)

何か運動を始めたいな〜と思ったとき、ジム通いでも水泳でもなく格闘技を選んでよかったと感じることは、「真似することの難しさ」を身を持って体感できたことである。

毎回の練習で、「次はこの技を覚えますよ〜」という感じで先生がお手本を実演して見せてくれるのだが、最初、それはいかにも簡単そうに見える。二、三回やったらすぐにできそうな気がする。

だけど、簡単そうに見えるというのは実はすごいことで、それは余計なところに余計な力が入っていないということなのだ。だから、簡単そうに見えた技ほど覚えるのに苦戦する。複雑そうに見えた技はそれはそれで難しいのでつまり全部難しいんじゃねえかよという話になってしまうのだが、そう、全部難しいのである……。

私がもともと運痴で物覚えが悪いというのはあるにしろ、練習場の鏡で自分の動きを見ていると、「なんつー『頭の悪い身体』だ!」と愕然とするのは初回からあまり変わっていない。頭の悪い身体というのは日本語としておかしいけれど、自分の感覚としてはぴったり。

憧れのあの人に近づくために何をするか

私はこれまでの人生で、「好きな人」や「尊敬する人」にはそれなりに出会ってきたけれど、「この人みたいになりたい!」「この人の一部を自分のものにしたい!」と思う人には、幸か不幸か(不幸だな)、出会って来なかった気がする。

だけど、もしも今後そういう人に巡りあったら、たぶん、その人の読んでいる本を読むより、その人が勧めていた映画を観るより、その人の動きを観察して、喋り方から言葉遣いから息遣いまで、身体的なものをそっくりそのまま真似してしまうのがいいのだと思う。その人の思想の根本や本質は、きっと、そういうところに出ているのだと思う。そしてそのほうが、その人の読んでいる本を読むより、その人が勧めていた映画を観るより、何十倍も労力が必要で、難しい。

話題の占い師しいたけさんが、テレビ番組で見た精神科医名越康文さんを見て「この人は何だ!?」と衝撃を受け、番組を録画して名越さんの喋り方や息遣いを研究し真似したという話は、私にとってなかなか面白い。

それから、ある人や集団と一緒にいることによって「喋り方が移る」という体験を誰もがしたことがあると思うけど、あれもなかなか面白い現象だ。思い返すと、いくら一緒にいる時間が長くても、嫌いな人や集団の喋り方は絶対に移らない。少なからず好意のある人間の喋り方しか、一緒にいても移らないのだ。


「身体の動きを真似したくなる」ということは、もしかしたら「好き」の最終形態なのではないかと思う。

参考

白人の支配する香港のスラム街で育った元不良少年のブルース・リーが目指していたのは、あくまでハリウッド、白人社会での成功だった。武術と哲学で己を鍛え上げた人だったが、本当は最後の最後まで心に平安は訪れず、孤独なまま亡くなった人だったのだと思う。

ブルース・リーが唯一教えを乞うたカンフーの師匠、葉問(イップマン)が主人公の映画。最後のほうでブルース・リーと思われる少年がちらっと出てくる。監督はウォン・カーウァイ

東京墓情

7月23日まで、銀座のシャネル・ネクサスホールにて荒木経惟の個展「東京墓情 荒木経惟×ギメ東洋美術館」が開催されている。私は学生時代、アラーキーの写真集を図書館でよく眺めていたけれど、そういえば個展に行ったことはなかった。

「東京墓情」は、大病を経験した氏の独自の死生観が反映されているとの触書きだったが、「生」とか「死」みたいなことは正直よくわからなかった。

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東京墓情 荒木経惟×ギメ東洋美術館 Nobuyoshi Araki, "Tombeau Tokyo", 2016, gelatin silver print © Nobuyoshi Araki / Courtesy of Taka Ishii Gallery

ポートレイト

私の中で最近(?)のアラーキーの仕事といえば、村上春樹である。この写真も、今回の個展で公開されている。『職業としての小説家』の表紙になっているポートレイトだ*1

職業としての小説家 (新潮文庫)

職業としての小説家 (新潮文庫)

この写真の村上春樹は、ずいぶん健康的というか、男性的というか、マッチョである。ハルキというえばマラソン、ハルキといえば健康、みたいな認識になっている現在の状況からかえりみれば、妥当なポートレイトかもしれない。

実は私、学生時代に写真論の授業のレポートを書かなきゃいけなくて、そこで「小説家の肖像写真」の分析を行なったことがある。文庫本の表紙をぺらっとめくると著者の写真が登場することがあるけれど、小説家の写真100枚分くらいを時代別に並べてみて、そこにパターン性は見いだせるのか、人々が小説家に求めるイメージはどう変遷しているのかということを考えてみたのである。結果、何を書いたかはあまり細かく覚えてないけど、全体的には「カメラ目線であることは稀」「頬杖ついてる率めっちゃ高い」みたいなことを書いて提出した気がする。

だけどそのとき確か、ある時期を境に「うつむき加減で頬杖をつく」みたいなTHE小説家っぽい写真が徐々に減っていて、近年はむしろカメラ目線でにっこり微笑むものが増えていることにも気が付いた。そして、この傾向が今後加速するかもしれない的な予測を最後に付け足した気がするんだよな。だとすると、このカメラ目線でバシッとキメている村上春樹の写真は、当時の私の分析がなかなか的を得ていたことの証明になるかもしれない。

イエス・キリストの肖像も、時代によってイメージが変わる。まさしく神のように迷いなくマッチョなイエス像が求められる時代もあれば、人間らしく悩み迷うイエス像が人気の時代もある。小説家の肖像写真が変化しているということは、私たちが小説家に求めるイメージが変化しているということだ。小説家に限らず、近年は「不健康でアル中のクリエイター」よりも「健康でアメリカの西海岸にいてApple製品使ってそうなクリエイター」が人気アリ、というのは全体的な傾向だろう。別に優劣はないけど、傾向はある。

傾向があるということは、いつか揺り戻しが来るということだ。

メッセージ

小規模な個展には、「来訪者による作家へ宛てたメッセージ帳」が置かれていることがある。今回の展示でいちばん面白かったの、アラーキーファンには申し訳ないがこれだったかもしれない……。

荒木様、東京はすっかり一面タマネギ畑になってしまいました」というメッセージを見たときは、私はまったくタマネギに類似するものは東京にはないと思っていたので、そうか、この人にとっては東京は一面タマネギ畑なのか〜と思ったし、「これから彼とセックスしてきます」というメッセージを見たときは、楽しそうで何より、と思った。「さみしさは肥やしになりますか?」というメッセージを見たときは、どうかな、ケースバイケースかな〜と思ったし、「恋は墓です」というメッセージを見たときは、一理ある、と思った。
(※一部改変してお送りしています。)

来訪者の平均年齢は特に高いようには見えなかったので、全体的に「こりゃ本当に2017年に書かれたものなんだろうか……?」という気がしてならなかったが、時代の空気を忘れさせてしまう、というのもまた作家の持つパワーなのだろう。私が何を書いたかは秘密です。

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晩ごはん

そういえば最近、街で落書きを見ていない。私がそういう場所に近づいていないのか、書く人が減ったのか、書いてもすぐに消されてしまうのかわからないけれど、壁やトイレの落書きの文言を時代別に分析したら面白そうだ。だけどそもそも落書き自体がないのでは、分析ができない。

人が語る言葉は、時代や場によって決まる。だからやっぱり、「自分の言葉」なんてないんだろうな、と思う。

*1:偉そうに書いているが、これを撮ったのがアラーキーだってこと最近まで知らなかった……。

2017年上半期に読んで面白かった本ベスト10

2017年上半期が終了したので、今年の1月から6月にかけて、私が読んだ本の中で面白かったものを10冊まとめておきます。この時期恒例のやつです。長いので注意!

ちなみに2016年編はこちらです。
aniram-czech.hatenablog.com

10位 『悲しき熱帯〈1〉〈2〉』レヴィ=ストロース

悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

悲しき熱帯〈2〉 (中公クラシックス)

悲しき熱帯〈2〉 (中公クラシックス)

本書は「私は旅や探検家が嫌いだ」という有名な一文から始まる文化人類者・レヴィ=ストロースのフィールドワーク体験記。主な舞台は中南米とインド。なぜ旅が嫌いかというと、現地で自分が体験した疲労、空腹、病気、危険、そういったものは語ることによってすべて、口当たりのいい食物として呑み下されてしまうかららしい。

これは何となくわからんでもない話で、私も旅の中でもっとも色濃く記憶しているのは、疲労困憊で意識が朦朧としていた瞬間のことだったりする。具体的にいうと、大嵐の中、船酔いしまくりながらスペインからモロッコへ渡るためジブラルタル海峡を越えた日のことですね。いちばん最悪な日だったのに、いちばん目に入ってきたものが美しい日だった。それを他人に綺麗なところだけ切り取られてしまうと、ちょっと違うんだよなーと思ってしまう。あの美しさは、あの最悪さとセットなのだ。

9位 『センス・オブ・ワンダーレイチェル・カーソン

センス・オブ・ワンダー

センス・オブ・ワンダー

センス・オブ・ワンダー』は、著者のレイチェル・カーソンが甥のロジャーに捧げて書いた本。ロジャーと一緒に海辺や森を散歩しながら、そこに住む様々な生き物や植物の1つ1つにすごくびっくりする。

人間は飽きる生き物で、飽きると退屈する。ただそういうとき、安易にお祭り騒ぎをしてみたり強い刺激を求めたりしてしまうと、感覚が麻痺してしまう。退屈だな〜と思ったときは、自分の中の「センス・オブ・ワンダー(美しいもの、未知なもの、神秘的なものに目を見はる感性)」が何かに反応するのを、じっと待っているのがいい。本書はその「センス・オブ・ワンダー」を呼び覚ます一助となるはずだ。

誰が言ってたのか忘れたけど(村上春樹?)、人は恋が始まるとき「あなたのことをもっと知りたい」と思い、恋が終わるとき「あなたのことはもうわかった」と思うという。なかなか言い得て妙だ。世界に対しても同じで、「わからない、知りたい、びっくりする」は生きる原動力になり、「だいたいわかった、もう知っている」は人を死に向かわせるのだろう。本書の終わりの部分には、「死に臨んだとき、わたしの最期の瞬間を支えてくれるものは、この先に何があるのかというかぎりない好奇心だろうね」という言葉がある。

8位 『アピチャッポン・ウィーラセタクン──光と記憶のアーティスト』夏目深雪ほか

アピチャッポン・ウィーラセタクン  ──光と記憶のアーティスト

アピチャッポン・ウィーラセタクン ──光と記憶のアーティスト

アピチャッポン・ウィーラセタクンという超覚えにくい名前のこの人は、タイの映画監督である。20世紀の映画史におけるもっとも重要な人物がジャン=リュック・ゴダールであるとするなら、21世紀におけるもっとも重要な人物はアピチャッポンであると言われている。

私はアピチャッポンの映画を観るといつも途中で寝てしまう。だけどそれはつまらないからではなくて、一種の催眠のようなものだと思っている。途中で目が覚めたとき、映画のシーンと自分がうたた寝しながら見ていた夢が混ざり合っていて、ものすごく変な気分になる。

いちばん好きな作品は『ブンミおじさんの森』なのだけど、ブンミおじさんというのは実在の人物らしい。ブンミさんは、自分の生きた複数の人生のことをすべて記憶している。水牛だったときのこと、王女だったときのこと、さまよう亡霊だったときのこと。ブンミさんには映画はいらない。だけど、私たちは今のこの1つの人生しか覚えていないから、映画という記憶の集合体が必要なのだ……みたいなことを本書でアピチャッポンが語っている。

7位 『鬱屈精神科医、占いにすがる』春日武彦

これはすでに感想を書いているので割愛。

『鬱屈精神科医、占いにすがる』を読む - チェコ好きの日記

6位 『永い言い訳西川美和

永い言い訳 (文春文庫)

永い言い訳 (文春文庫)

映画を観るのがめんどくさかったので小説を読んだ。妻をバスの事故で亡くした小説家が主人公。

詳しくはネタバレしそうなので書かないけれど、私は『ベルサイユのばら』の最後のほうにあるマリー・アントワネットの独白がすごく好きだ。アントワネットは若い頃、派手な生活を送りながら、ダサい夫は放ったらかしにしてスウェーデンの貴族フェルゼンと熱烈な恋に溺れる。だけど晩年、夫ルイ16世が処刑されるという段階になって、「恋ではなかったのかもしれない。フェルゼンとの恋のように燃えるような思いを夫に抱いたことはなかった。でも、フェルゼンとは違った形で、私は夫を確かに愛していたのだ」みたいなことを言う。

人と人との繋がりは、本当は「夫婦」や「恋人」なんていう言葉にはあてはめられないくらい多様で歪で、二人の関係の本質は、当事者の二人以外が理解することはできない。そういうことを考えた小説だった。

5位 『バッタを倒しにアフリカへ』前野ウルド浩太郎

バッタを倒しにアフリカへ (光文社新書)

バッタを倒しにアフリカへ (光文社新書)

バッタが大好きで、夢はバッタに食べられること──そんなバッタを愛してやまない著者が研究のためモーリタニア渡航するが、アフリカで計画が予定通りに進むことはまずないといっていい。夜の砂漠で迷子になったり(怖い)、サソリに噛まれて死にそうになったり(超怖い)、野生のハリネズミと友達になったり(楽しそう)、研究職に就けるかヒヤヒヤしたりしながら、バッタの群れを追いかけまくる。

著者は最終的には無事に京大の研究職のポストをゲットするのだけど、本書はとにかくユーモアとエンタメ性を重視して書かれているのでとても楽しい。緑色の全身タイツを着てバッタの群れに飛び込み「私を食べたまえ!」とかまえる著者の写真だけでも、書店で立ち読みして見てみるといいと思う。狂ってる。

4位 『中動態の世界』國分功一郎

これも感想をすでに書いているので割愛。

自身には冷酷に、そして他者には寛容に:『中動態の世界』 - チェコ好きの日記


3位 『恋するソマリア高野秀行

恋するソマリア

恋するソマリア

上半期に読んだ『恋するソマリア』はベストセラーになった『謎の独立国家ソマリランド そして海賊国家プントランドと戦国南部ソマリア (集英社文庫)』の続編だけど、前作よりエッセイっぽいというか、抒情的なので、個人的にはこちらのほうが好き。

本書の主人公は、表紙にもなっているソマリア美女のハムディ。ただし彼女はただの美女ではなく、ホーン・ケーブルTVというテレビ局の剛腕なボスである。高野さんいわくハムディは「母性本能」と「ボス性本能」を持ち合わせており、イスラム過激派アル・シャバーブが潜む南部ソマリアの戦地をレポーターとして駆け回る。州知事から脅しの電話がかかってきても動じず、「私は有名になりたいの。目標は大統領になること」と言って笑う。同僚の男が自分の前で下ネタをいえばサンダルでぶっ叩く、そんな22歳! いい女すぎて手も足も出ない。

最終的には彼女は「敵が増えすぎた」といってノルウェーで難民申請をするのだけど、「先進国の大学を出て政治家になる」と命を狙われてもなお野心満々。高野さんもハムディのことが大好きで、世話になりすぎて始終頭が上がらない感じでいるのもまた面白い。

2位 『はい、泳げません』高橋秀実

はい、泳げません (新潮文庫)

はい、泳げません (新潮文庫)

これもすでに感想を書いているので割愛。

「できる」と「できない」の間の話 - チェコ好きの日記

1位 『バビロンに帰るスコット・フィッツジェラルド

バビロンに帰る―ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック〈2〉 (村上春樹翻訳ライブラリー)

バビロンに帰る―ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック〈2〉 (村上春樹翻訳ライブラリー)

表題作の『バビロンに帰る』は、主人公の男が、自分の娘を迎えに行くためにかつて住んでいた街へ帰るという話だ。

その街に住んでいたころ、自分は酒を飲んで奔放に遊びまわり、妻を病気にさせて亡くしてしまった。当然、主人公は妻の親族に嫌われ、娘も妻の姉夫婦が引き取って育てていた。若き日の後悔、死んだ妻への思い、自分にはもう娘しかいないという孤独──という、フィッツジェラルド作品でおなじみのなよなよとした女々しいストーリー。私なんでこんなのが好きなんだろうな〜でも超泣けるんだよな〜。

本書には訳者・村上春樹のエッセイもついているのだけど、このエッセイがまた泣かせる。私は村上春樹の小説は実のところそんなに好きじゃないけど、村上春樹のエッセイと翻訳はやっぱり死ぬほど好きみたいだ。

フィッツジェラルドは、精神を病んだ妻に対して「僕はもうゼルダをかつてのようには愛していない。僕の中には彼女に対する深い同情があるだけだ」と何度か周囲に漏らしていたらしい。この部分はなんだか、『永い言い訳』で夏子が残した「もう愛していない。ひとかけらも。」というメッセージを想起させる。だけど、恋が愛に変わり、その愛すら希薄になってもまだ続く二人の関係というのはある。フィッツジェラルドはそれを「同情」と言っているが、その本質はやはりフィッツジェラルドゼルダの間にしかない独特のもので、他者が理解することはできないのだろう。


というわけで、最後はちょっと辛気臭くなってしまったけど、下半期も頑張りましょう。

自身には冷酷に、そして他者には寛容に:『中動態の世界』

「自分の頭で考える」「自分の幸せの定義は自分で決める」

なーんて言葉をよく耳にするようになって早数年、当初はそれなりに目新しかったこれらの言葉も今じゃすっかり手垢がついたように感じられ、むしろ陳腐にすら聞こえる。それは私自身が、自分の1つ1つの選択に関して「これは本当に私の意志か? どこまでが私の意志だ?」と疑い出したらキリがなくなってしまったということがあって、今年の2月にはちょうどこんなツイートをしている。

そしたらちょうど都合よく、この私の疑問を徹底的に考え尽くしている書籍があった。國分功一郎さんの『中動態の世界』である。これを読んで、はたして「自分の意志」というのを私たちはどのレベルまで信用していいのか、ということを今回はちょっと考えてみたい。

──ちょっと寂しい。それぐらいの人間関係を続けられるのが大切って言ってましたよね。
「そうそう、でも、私たちってそもそも自分がすごく寂しいんだってことも分かってないのね」

──ああ、それはちょっと分かるかもしれないです。
「だから健康な人と出会うと、寂しいって感じちゃう」


『中動態の世界』p2

ハーバードに入れたのはあなたの実力ですか?

いきなり本の話ではないところに飛ぶのだけど、数年前にマイケル・サンデル先生の「ハーバード白熱教室」という番組が流行った。そこでサンデル先生が出していた印象的な議題があるのだけど、教壇のサンデル先生は学生たちに、「君たちの中で、自分の努力と実力でハーバード大学に入ったと思う者は手をあげなさい」と聞いていた。

大多数の学生がそこで手をあげたのだけど、サンデル先生はそれを一蹴する。

「なるほど、君たちは確かにここに来るためによく努力をした。しかし、その『雑事を気にせず勉強に集中できる』という環境、努力を奨励してもらえる環境、それらの多くは君たちの親御さんの教養や経済力が実現したものだ。そして、そんな親御さんの元に君たちが生まれることができたのはただの偶然であって、君たちの努力の結果ではない。つまり、君たちがここにいるのは努力とか実力とかじゃなくてただの偶然である」と、だいたいそんなことを話していた。

私はハーバード大学の出身ではないのでただの僻みに聞こえるかもしれないけど、確かに、と思った。自分の意志、自分の実力、自分の努力、それってあんまり信用ならないものなんじゃないか? と私が疑問を抱いたのは、思えばここが始まりだった気がする。

『中動態の世界』で展開されていくのは、平たくいうと上のサンデル先生のような話である。たとえば、「カツアゲされたのでしぶしぶ財布からお金を出す」は【自分の意志】か? 「本当はラーメンが食べたかったけど、友達が蕎麦を食べようと言ってきたのでまあいっかと思い蕎麦屋に行った」は【自分の意志】か? ……などなど。

前者は拒否すると暴力的な圧力を加えられるので【自分の意志じゃない】けど、後者は拒否しようと思えば拒否できるので【自分の意志】である──とか考えていくこともできなくはないけど、たとえば友達といえど自分がのび太で相手がジャイアンだったりした場合は? なんて可能性を考えると、こういう区分けは実はめちゃくちゃ難しいということがわかる。物騒な話につなげると、たとえば強姦の加害者と被害者の間で「同意があった」「いやあれは同意ではなかった」ということで揉めることがあるけれど、これも被害者が【自分の意志】で行為を受け入れたか否かを第三者的に判断するのはすごく難しい(私は女性なので、個人的にはできるだけ女性の味方をしたいけど)。【自分の意志】の所在は実はかなり曖昧で、他者が(あるいは自分が)都合のいいように捻じ曲げることも十分可能だ。

身近に起きていることでちょっとした皮肉をいうと、たとえば「会社員を辞めてフリーランスになります! フリーランスという生き方を、ぼくは【自分の意志】で選択したのです! 社畜乙!」みたいなことを言っている人を見ると、「ふう〜〜〜〜ん」と思う。確かに、その選択はなかなか立派なものだ。ただ、もし今が2017年じゃなくて1970年だったら、1900年だったら、1800年だったら? とか考えると、絶対にフリーランスなんて生き方をあなたは選ばないじゃん、というかそもそもフリーランスという生き方を選択できるのはインターネットやテクノロジーの恩恵であってあなたの意志はそこにないじゃん、それは【自分の意志】って本当に言い切れる? 環境にその選択をさせられているだけ、と考えることはできない?【自分の意志】の存在を驕りすぎでは? なーんて思ってしまう。まあこれは私の性格が悪いからですけど……。

性格が悪いことは認めるけれど、著者の國分さんもこの本で「われわれはどれだけ能動に見えようとも、完全な能動、純粋無垢な能動ではありえない。外部の原因を完全に排することは様態には叶わない願いだからである。完全に能動たりうるのは、自らの外部をもたない神だけである(p258)*1」と書いているので、私の指摘もあながち的外れとも言い切れないのではないだろうか。

と、まあそれを言い出すとキリがないので

『中動態の世界』を読み進めていくと、「つまり【私の意志】なんてのはどこにもないんだ、あるのは【そうさせる環境】だけだ……」という虚無的な思想に陥っていくのだけど、しかし実生活でこの思想を適用するのはあまりにも「飛びすぎ」であることは認める。「自分の生き方を自分で決める」とか「自分の幸せの定義は自分で決める」とかは、環境要因を完璧に排除することはできない以上100%は無理だけど、60%くらいは実現したい、ですよね。

そのために必要なのは、本書にあるスピノザの考えを借りると、「状態を明晰に認識する」ことであるという。つまり、ある種のメタ思考だ。これを私の言葉で言い直すと「自身には冷酷に、そして他者には寛容に」ということになる。

たとえば、私がハーバード大学の出身でなんかの会社を起業して儲けまくってウハウハな上にイケメンでモテモテだとする(想像力が貧困ですいません)。ただ、それは私の意志・実力ではない。ハーバードに入れてウハウハな会社を作れたのはそういう環境に生まれることができてラッキーだったからだけだし、イケメンなのは言わずもがな、自分が努力したからではない。そういう環境にいたのがたまたま自分だったのだ。*2どんなに調子のいいことがあっても、自身に対してはそういう冷酷な視線を持っていたいし、だからこそ欧米では寄付文化とかが盛んなのだろう。

他者に対しては、たとえば本書の例を採用すると、よくわかんないけどなんかめっちゃ怒ってる人がここにいたとする。そういうとき、「こいつ何怒ってんの?」と考えるのではなく、「何がこの人を【怒らせた】のだろう?」と考える。その人自身に責任を負わせるのではなく、外部要因を考えてみる。アルコール依存症の人を見かけたら、「自分の意志で酒をやめられない弱い奴」と考えるのではなく、「何がこの人に酒を【飲ませる】のだろう?」と考える。確かに、そういう考え方の癖をつけると、他者に寛容な、優しい視線を持てる気がする。全部偶然だし、たまたまだし、持ちつ持たれつだし、お互い様なのだ。

自分の生き方を自分で決めたい。だけど、私たちは60%(あるいはもっと少ない)くらいしか、自分のことを自分で決められない。良くも悪くも、誰においても、外部に左右されない人間というのはいない。

空虚感にやられる考え方ではある。ただ、この考え方を出発点にしたい、とは思う。ここからスタートして初めて、【自分の意志】の範囲をちょっとだけ広げることができるのだろう。

まあ、ほんとにちょっと、ちょっとだけかもしれないけれど。

おまけ:「自分の意志ってやっぱよくわかんないな」がわかる本

利己的な遺伝子 <増補新装版>

利己的な遺伝子 <増補新装版>

私たちはすべて遺伝子のヴィークルであり、魅力的な異性を魅力的だと判断するのは自分の意志ではなく、生殖に有利そうだから、みたいな遺伝子の判断であることが多いという話。自分の意志より遺伝子のほうが強い。

「自分の意志で判断した!」と思い込んでいることも、無意識レベルの脳の反応であるというようなことを様々な実験結果から説いている本。やはり、「自分の意志」なんかでは説明のつかないことのほうが多い。

(哲学の世界と生物学・脳科学の世界がつながったー! 感があり、どの本も非常に刺激的です。)

*1:下線はわたくし

*2:この考えを悪いほうに応用すると、自分の調子が悪いときに「これはアタシのせいじゃなくてまわりが【そうさせる】のが悪いのよ!」となってしまうので注意したい。が、「何が私を【調子悪くさせている】のだろう?」と第三者的に考えることは、やっぱり有効である気がする。自分を責めすぎるのは良くない。