チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

こんな夢は二度と見たくない

人の夢の話ほど面白くないものはないという自覚はあるので、そういう場合は回れ右をしてもらえればいいのだが、以下は私が見た夢の話である。

f:id:aniram-czech:20160318125602j:plain

先日、朝7時頃目が覚めると、天気が悪かったせいか、頭痛がひどかった。

幸いその日は夜まで予定がなく、やらなければいけないこともそこまで切羽詰まっていなかったので、もう少しゆっくりしようと思い二度寝してしまった。しかし、次に目覚めたときに時計を見ると、あっという間に14時である。さすがにこれは怠けすぎだと思い、焦って飛び起きた。

が、起きると立ちくらみがし、頭がぼーっとする。まあでも、寝すぎも体に悪いし、何か作業してれば治るだろうと思い、そのまま着替えたり家事をしたりしていたら、もう17時になっている。なんか時計が進むのが早いなー、と思ったら、そこで意識がぷっつりと切れた。

次に目が覚めると、時計は朝の10時である。二度寝とはいえさすがに、気付いたら14時というのはひどい。つまりさっきのは夢だったんだなと解釈し、起き上がるとまた立ちくらみがする。だけどもう一度寝る気分でもなかったので、そのまま我慢して起き上がり、なぜかAmazonプライムビデオで『猿の惑星』を観ていた。あれ、なんで私『猿の惑星』観てるんだろ? この映画そんな好きだっけ? と思って時計を見たら、14時になっている。んんん!? やっぱりなんか、時計進むの早くない? と思ったら、またそこで意識がぷっつりと切れた。

その次にまた目が覚めると、時計が示す時刻は12時である。そして、起き上がろうとすると、立ちくらみがひどい。私は明晰夢をよく見るタイプなので、「あ、こりゃまだ夢の中だな」となんとなく判断し、思いつきで部屋の鏡の前に立ってみたら、そこに映っていたのは七福神の恵比寿さんであった。なんと、私は恵比寿さんだったのか。恵比寿さんといえば商売繁盛、縁起がよろしい。これはきっと吉夢だな〜と呑気に思っていたら、鏡の中の恵比寿さんがニタニタ笑い出したので、あ、やっぱ吉夢じゃないかも、気持ち悪いかも、と思ったら、そこでまた意識がぷっつりと切れた。

今度目が覚めて時計を見ると、次は12時半である。いい加減起きたいんだけど、と思って立ち上がると部屋がぐにゃぐにゃ曲がる。まだ夢の中なのかいと思い、夢の中で活動してもしょうがないので、私は布団の中に戻ってまた眠る。起きたいぞ。いい加減起きたいぞ。

その後、起きる→なんか変→夢か……→もう1回寝るというのをたぶん10回くらい繰り返し、永遠に夢の中から出られないのではと思いかなり焦った。途中で一度だけ「今度こそ現実だ〜!」と思って着替えて外出し、なぜか電車に乗って藤沢駅(神奈川県)まで行った。が、「あれ、なんで藤沢にいるんだっけ?」と思ったらそこで意識がぷっつりと切れた。その後目覚めたらやっぱり布団の中で、「やばい、出られない。夢の中から出られない」と私は戦慄した。


次に目覚めて時計を見ると、時刻は午前9時半である。んんん、もう夢なのか現実なのかわからない。しかし、夢なんだとしたら、せっかくだしなんかめちゃくちゃひどいことを書いて思いっきりブログを炎上させて遊ぼうかな、と思ってPCを開いた。

が、指でキーボードに触れると、いやに「くっきり」している。試しにTwitterなどを見てみても、これは夢にしては「出来すぎ」な気がする。私の脳みそにここまでの現実感構築能力はないはずだ。立ちくらみもひどくないし、今度こそ本当に目が覚めたらしい。これは現実だ。いやー、よかった。出られた出られた。

というわけで、遊びでブログを炎上させるわけにはいかなくなったので、今こうして、無難に夢の話などを書いている。原稿とかも書く。あああ本当によかった。一件落着、一安心だ。


ここでもし、「あれ、なんでブログなんて書いてるんだっけ?」などと考えてしまったら、また意識がぷっつりと切れて、夢の中に舞い戻ってしまいそうなので、それは問わないことにする。後ろで恵比寿さんがニタニタ笑っている。



こうして私の、平凡な日々は続く。

スマホからSNSアプリを消して4ヶ月

いつだったか、インターネットで「自分はTwitterのフォロワーが5000人に満たない人には新規で会わない」と公言しているらしい人を見かけたことがある(記述が曖昧なのはうろ覚えだからです、すいません)。

これは、いろいろと突っ込みどころがある意見ではあるけれど、考えようによってはそういう判断もまあ妥当ではあるかな、という理解も一応、私にはあるつもりだ。共感はできないが理解はできるというやつである。

会う目的にもよるけど、確かにフォロワーが5000人以上いる人であれば、何か面白いネタを持ってるとか、人脈が豊富であるとか、何かしらに秀でている人である可能性は高い。もちろんそれを承知の上であえて突っ込むのであれば、「フォロワー数という外部基準に頼るしかなく、自分自身でその人が面白いか面白くないか判断できないなんて、あなたの感性はなんて貧弱なの!」となるわけだけど、まあ忙しい人であれば致し方ないのかもしれない(ちなみにその人自身はもちろんフォロワーが5000人以上いるらしかったです)。

だけど、こういう「ハズレを引きたくない」「時間を無駄にしたくない」みたいな考え方、極めて現代的だけど厄介だよな〜と思う。だって、ハズレをたくさん引いて初めて良いものがわかるんだもの。

私は学生のとき映画批評をやっていたのだけど、古典映画から話題の作品からB級映画からカルト映画まで、なんでも観させられた。だけど、今も私の心の中に深く根付いていて、「大好き」だと言える作品は、そのうちの1/100にも満たない。でも、じゃあ残りの99/100の作品は観た時間が無駄だったのかというと、そんなことはない。99/100の記憶に残らなかった作品は、1/100の作品を語るための良き材料になっている。99/100を知っているからこそ1/100の輪郭はよりくっきりと浮かび上がってくるし、なぜ自分がその1/100を好きなのかわかる。

(人間と映画を一緒にするな、という声が聞こえてきそうですが、それはそれとして)

スマホからSNSアプリを消して4ヶ月

ところで、今年の3月にスマホからSNSアプリをすべて消して、そのまま気が付いたら4ヶ月経っていた。当初は、1週間くらい実験的に消してみて、すぐに再インストールするつもりだったので、この状態をここまで長引かせることは想定していなかった。消したアプリはTwitter、あとはSNSアプリとはちょっとちがうけれど、はてなブログとnote。Facebookはもとから入っていない。インスタは、私の場合直接の知人とは誰ともつながっておらず、「MoMAとガゴシアン・ギャラリーと料理系の投稿を見るための専用アカウント」と化しているので、そのまま入れている。

なぜ消したのかというと、これは「SNSをダラダラ見てる時間が嫌だったから」という超平凡な理由なのだけど、いざ消してみると思いのほか快適で、おそらくずっとこのまま行くのではないかと思う。モヤモヤしてないで初めからこうすれば良かったんだ、という感じだ。ちなみにSNSを見なくなった分何をするようになったかというと、読書と言いたいところだが、YouTubeポメラニアンの動画を見ている。疲れているのだろうか……。「結局ネット見てんのね」という感じであまりかっこいいことは言えないのだけど、しかし、平和ではある。ポメラニアン

これは雑な素人推測だけど、スマホは手の中に収めるものなので、「ながら時間」で見ることもあるし、身体的な距離が近い。だから、自分へ向けた批判も、他人への怒りも、けっこうダイレクトに響いてしまう。その点、PCは身体的な距離が遠く、接するときは机に向かっていたりして、姿勢がしゃんとしている。すると、同じような言葉でも響き方が全然ちがう。あの疲弊感みたいなやつは、接続する時間ではなくて、身体的な距離や姿勢がもたらしていたものでもあったのかな〜と思う。


先日青山ブックセンターに行ったら、「身体」のコーナーが拡大していた(気がする)。


これは、私の今の関心分野が「脳」「身体」「武術」「舞台芸術」などなのでそう見えたという、ただの認知の歪みかもしれないけれど、なんとなく、みんな似たようなこと考えてんのかなーと思った。

『夫のちんぽが入らない』ことはけっこうよくある

話題になってからだいぶ遅れてではあるけれど、こだまさんの『夫のちんぽが入らない』を読んだ。今回はその感想である。

夫のちんぽが入らない

夫のちんぽが入らない

「普通のことができない」はけっこう普通

読み終わったあとに直感的に思ったのは、「これってけっこうよくある話なんだろうな」ということ。

もちろん、夫のちんぽが入らないことで困っている知人が私の身近にいるということではない。本当はいるのかもしれないけど、少なくとも私はそのことを打ち明けられていない。そうではなくて、「夫のちんぽが入る」=「世間で普通とされていることの象徴」だとすると、普通だとされていることができなくて悩んでいる人はけっこういっぱいいるんだろうな、ということだ。

たとえば、先日読んだこちらのコラム。

私は松居一代のことを笑えない<ハイスペック女子のため息>山口真由 - 幻冬舎plus


こちらでは、著者が恋人に手紙を書くのだけど、宛先と差出人を逆に書いてしまい、送った手紙が自分のところにもどってきてしまった、というエピソードが紹介されている。そしてそのことで著者は、(私は、普通のことをきちんとこなすことができない……)と、落ち込む。

が、人を経歴で判断するのはいかなる場合であれ良くないかもしれないけれど、この著者は東大卒の弁護士、めちゃくちゃに優秀な人だ。

その優秀な人でさえ、(私は、普通のことをきちんとこなすことができない……)と落ち込むことがあるのだから、もうこれはどうしようもない。(私は、普通のことをきちんとこなすことができない……)ってそういえばかなりよく聞く独白だし、逆にいえば、「普通のことをきちんとこなすことができない」という感覚はけっこう普通、ということさえできそうだ。できそうだ、というか実際そうなのだと思う。

お風呂に入れない、ゴミ捨てができない、電車に乗れないなどのけっこう大変なレベルのものから、いつも遅刻する、電話に出れない、人付き合いが悪いなどのその人の手腕次第でどうにか切り抜けられる(?)レベルのものまで程度の差はあるけれど、だいたい誰でも何かしら、世の中で普通だとされていることができない。むしろ、「私は普通のことはだいたい普通にこなせる」と言い張る人がいたら、そっちのほうがマイノリティだろう。マイノリティというか、その人はたぶんただのおニブちゃんである。

したがって、この本の感想をさっくりまとめると、「自分が普通だと思っていることはあんまり普通じゃない可能性があるのでやたらめったら人に押し付けちゃいけないよ」とか、「普通ってのはだいたいが幻想なのでそこから外れていると思っても必要以上に気にしなくていいよ」とか、そんな感じになりそうである。

ただ、後者はともかく、前者は本人は無意識でやっていることが多いので、あまりちくちくとは責められない。私もきっと、今までたくさんの「MY普通」を他人に押し付けてきたはずなので、気を付けようとは思うけれど、あまり大きい顔はできない。

「私は普通じゃない」という甘く美しい世界

『夫のちんぽが入らない』の感想はここまでで、以下は本を離れて勝手に私が考えたことなのだけど(なのでこだまさんがどうこうという話ではない)、「私は普通じゃない」という境地に、他人に追いやられるのではなく自分で突っ込んでっちゃうことってあるよな、ということを(自分の胸に手を当ててみて)思った。

どういうことかというと、(私は、普通のことをきちんとこなすことができない……)とは通常、「普通のことを普通にこなせるきちんとした人間になりたい」という願望とセットのはずである。だけどそこに、「私は普通じゃない」と言ってしまうことによって免責されたいみたいな、逆方向の願望が紛れていることもたまーにある。

普通じゃないということは、特別な人間だということだ。誰だって、「あんたは普通だよ」と言われるよりは、「あなたは特別な人だ」と言われるほうが嬉しい。なので、「私は普通じゃない」って自分で思うのは、けっこう甘美な響きを伴ってしまうことがある。でも、それは罠なので気を付けたほうがよい。他人に「あなたは普通じゃないよ」と言われても「うるせえわ!」と相手にしなきゃいいけれど、自分でそっちの世界に行ってしまうと、もどってくるのがなかなか難しい。

だから、「『私は普通じゃない』という感覚はけっこう普通だ」という上記の私の考えは、もちろん誰かの気持ちをラクにできればと思って書いたのだけど、逆にこの考えを「きっつー」と感じる場合もあるんだろうな、と思う。私も、状況によっては自分で自分の言葉に苦しめられそうである。まあでも、やっぱり私たちはどう考えても、だいたい普通の人間だ。普通じゃない人間というのは、アインシュタインとかレオナルド・ダ・ヴィンチくらいのレベルの人のことを言う。

『夫のちんぽが入らない』は評判どおり良い本だったので、夏休みとかに読まれてはいかがでしょうか。

絶望と希望は多くの場合、セットになっている。

憧れのあの人に近づくために何をするか

ブルース・リー主演の『燃えよドラゴン』は、映画史上で唯一、五大大陸のすべてでヒットした作品なのだそうだ。イスラム教圏の人も、キリスト教圏の人も、仏教圏の人も、みんなブルース・リーが大好き。理由はもちろん、映画の中で「アチョー!」という意味不明の叫び声をあげながら手足を振り回していたリーが、ものすごくカッコよかったからである。

とはいえ、『燃えよドラゴン』を冷静に観てしまうと、「その掛け声、いる?」と私などはところどころでツッコミを入れたくなる。

これは自分が野暮なのかと思っていたら、リアルタイムでこの映画を鑑賞していた少年たちもまた、「さすがに『アチョー!』はバカなのでは……?」という思いを少なからず抱えていたらしい。いや〜そうだよねえ。

しかし、「バカなのでは……?」という思いを抱えつつも、映画館を出ると、「アチョー!」と叫びながら友達に膝蹴りをくらわせてしまう。友達もまた、「アチョー!」と叫びながらやり返してくる。

ブルース・リーの身体の動きはそういう、思わず真似したくなってしまうある種の感染性を持っているらしい。イスラム教圏の人も、キリスト教圏の人も、仏教圏の人も、みんなブルース・リーの動きを真似る。「ブルース・リーがかっこいい」は、もう少し具体的に言い換えると、「動きを真似したくなる」ということらしいのだ。

燃えよドラゴン ディレクターズカット (字幕版)

何か運動を始めたいな〜と思ったとき、ジム通いでも水泳でもなく格闘技を選んでよかったと感じることは、「真似することの難しさ」を身を持って体感できたことである。

毎回の練習で、「次はこの技を覚えますよ〜」という感じで先生がお手本を実演して見せてくれるのだが、最初、それはいかにも簡単そうに見える。二、三回やったらすぐにできそうな気がする。

だけど、簡単そうに見えるというのは実はすごいことで、それは余計なところに余計な力が入っていないということなのだ。だから、簡単そうに見えた技ほど覚えるのに苦戦する。複雑そうに見えた技はそれはそれで難しいのでつまり全部難しいんじゃねえかよという話になってしまうのだが、そう、全部難しいのである……。

私がもともと運痴で物覚えが悪いというのはあるにしろ、練習場の鏡で自分の動きを見ていると、「なんつー『頭の悪い身体』だ!」と愕然とするのは初回からあまり変わっていない。頭の悪い身体というのは日本語としておかしいけれど、自分の感覚としてはぴったり。

憧れのあの人に近づくために何をするか

私はこれまでの人生で、「好きな人」や「尊敬する人」にはそれなりに出会ってきたけれど、「この人みたいになりたい!」「この人の一部を自分のものにしたい!」と思う人には、幸か不幸か(不幸だな)、出会って来なかった気がする。

だけど、もしも今後そういう人に巡りあったら、たぶん、その人の読んでいる本を読むより、その人が勧めていた映画を観るより、その人の動きを観察して、喋り方から言葉遣いから息遣いまで、身体的なものをそっくりそのまま真似してしまうのがいいのだと思う。その人の思想の根本や本質は、きっと、そういうところに出ているのだと思う。そしてそのほうが、その人の読んでいる本を読むより、その人が勧めていた映画を観るより、何十倍も労力が必要で、難しい。

話題の占い師しいたけさんが、テレビ番組で見た精神科医名越康文さんを見て「この人は何だ!?」と衝撃を受け、番組を録画して名越さんの喋り方や息遣いを研究し真似したという話は、私にとってなかなか面白い。

それから、ある人や集団と一緒にいることによって「喋り方が移る」という体験を誰もがしたことがあると思うけど、あれもなかなか面白い現象だ。思い返すと、いくら一緒にいる時間が長くても、嫌いな人や集団の喋り方は絶対に移らない。少なからず好意のある人間の喋り方しか、一緒にいても移らないのだ。


「身体の動きを真似したくなる」ということは、もしかしたら「好き」の最終形態なのではないかと思う。

参考

白人の支配する香港のスラム街で育った元不良少年のブルース・リーが目指していたのは、あくまでハリウッド、白人社会での成功だった。武術と哲学で己を鍛え上げた人だったが、本当は最後の最後まで心に平安は訪れず、孤独なまま亡くなった人だったのだと思う。

ブルース・リーが唯一教えを乞うたカンフーの師匠、葉問(イップマン)が主人公の映画。最後のほうでブルース・リーと思われる少年がちらっと出てくる。監督はウォン・カーウァイ

東京墓情

7月23日まで、銀座のシャネル・ネクサスホールにて荒木経惟の個展「東京墓情 荒木経惟×ギメ東洋美術館」が開催されている。私は学生時代、アラーキーの写真集を図書館でよく眺めていたけれど、そういえば個展に行ったことはなかった。

「東京墓情」は、大病を経験した氏の独自の死生観が反映されているとの触書きだったが、「生」とか「死」みたいなことは正直よくわからなかった。

f:id:aniram-czech:20170713173358j:plain
東京墓情 荒木経惟×ギメ東洋美術館 Nobuyoshi Araki, "Tombeau Tokyo", 2016, gelatin silver print © Nobuyoshi Araki / Courtesy of Taka Ishii Gallery

ポートレイト

私の中で最近(?)のアラーキーの仕事といえば、村上春樹である。この写真も、今回の個展で公開されている。『職業としての小説家』の表紙になっているポートレイトだ*1

職業としての小説家 (新潮文庫)

職業としての小説家 (新潮文庫)

この写真の村上春樹は、ずいぶん健康的というか、男性的というか、マッチョである。ハルキというえばマラソン、ハルキといえば健康、みたいな認識になっている現在の状況からかえりみれば、妥当なポートレイトかもしれない。

実は私、学生時代に写真論の授業のレポートを書かなきゃいけなくて、そこで「小説家の肖像写真」の分析を行なったことがある。文庫本の表紙をぺらっとめくると著者の写真が登場することがあるけれど、小説家の写真100枚分くらいを時代別に並べてみて、そこにパターン性は見いだせるのか、人々が小説家に求めるイメージはどう変遷しているのかということを考えてみたのである。結果、何を書いたかはあまり細かく覚えてないけど、全体的には「カメラ目線であることは稀」「頬杖ついてる率めっちゃ高い」みたいなことを書いて提出した気がする。

だけどそのとき確か、ある時期を境に「うつむき加減で頬杖をつく」みたいなTHE小説家っぽい写真が徐々に減っていて、近年はむしろカメラ目線でにっこり微笑むものが増えていることにも気が付いた。そして、この傾向が今後加速するかもしれない的な予測を最後に付け足した気がするんだよな。だとすると、このカメラ目線でバシッとキメている村上春樹の写真は、当時の私の分析がなかなか的を得ていたことの証明になるかもしれない。

イエス・キリストの肖像も、時代によってイメージが変わる。まさしく神のように迷いなくマッチョなイエス像が求められる時代もあれば、人間らしく悩み迷うイエス像が人気の時代もある。小説家の肖像写真が変化しているということは、私たちが小説家に求めるイメージが変化しているということだ。小説家に限らず、近年は「不健康でアル中のクリエイター」よりも「健康でアメリカの西海岸にいてApple製品使ってそうなクリエイター」が人気アリ、というのは全体的な傾向だろう。別に優劣はないけど、傾向はある。

傾向があるということは、いつか揺り戻しが来るということだ。

メッセージ

小規模な個展には、「来訪者による作家へ宛てたメッセージ帳」が置かれていることがある。今回の展示でいちばん面白かったの、アラーキーファンには申し訳ないがこれだったかもしれない……。

荒木様、東京はすっかり一面タマネギ畑になってしまいました」というメッセージを見たときは、私はまったくタマネギに類似するものは東京にはないと思っていたので、そうか、この人にとっては東京は一面タマネギ畑なのか〜と思ったし、「これから彼とセックスしてきます」というメッセージを見たときは、楽しそうで何より、と思った。「さみしさは肥やしになりますか?」というメッセージを見たときは、どうかな、ケースバイケースかな〜と思ったし、「恋は墓です」というメッセージを見たときは、一理ある、と思った。
(※一部改変してお送りしています。)

来訪者の平均年齢は特に高いようには見えなかったので、全体的に「こりゃ本当に2017年に書かれたものなんだろうか……?」という気がしてならなかったが、時代の空気を忘れさせてしまう、というのもまた作家の持つパワーなのだろう。私が何を書いたかは秘密です。

f:id:aniram-czech:20170713201616p:plain
晩ごはん

そういえば最近、街で落書きを見ていない。私がそういう場所に近づいていないのか、書く人が減ったのか、書いてもすぐに消されてしまうのかわからないけれど、壁やトイレの落書きの文言を時代別に分析したら面白そうだ。だけどそもそも落書き自体がないのでは、分析ができない。

人が語る言葉は、時代や場によって決まる。だからやっぱり、「自分の言葉」なんてないんだろうな、と思う。

*1:偉そうに書いているが、これを撮ったのがアラーキーだってこと最近まで知らなかった……。