チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

天皇にパチンコ玉、奥崎謙三を追う『ゆきゆきて、神軍』

先日、渋谷アップリンクにて原一男監督の『ゆきゆきて、神軍』を鑑賞してきたので感想文を書く。実は初見だったのだけど、脳が沸騰するくらい面白かった。上映後には原監督と映画史研究家の春日太一さんのトークショーがあり、そこで原監督が「これ、30年前の映画だけど全然古くないでしょ?」とおっしゃっていて、「はい、全然古くありません!」と思った。

感想を書くからにはもちろんブログを読んでくれた人に鑑賞を勧めたいのだけど、連日満席らしいのでチケット取りづらいかもしれません。

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たったひとりの「神軍平等兵」奥崎謙三

そんな『ゆきゆきて、神軍』とは、アナーキスト奥崎謙三を追ったドキュメンタリー。マイケル・ムーアマーティン・スコセッシも絶賛しているらしく、日本のドキュメンタリー映画を代表する傑作であるといわれている。

問題はこの映画の主人公である奥崎謙三という人なのだけど、彼は言葉を選んでいえば「昨今なかなかお目にかかれない過激な人」だ。言葉を選ばずにいえば「狂人」かもしれない。天皇がバルコニーにいるときを狙ってパチンコ玉を撃ったという「昭和天皇パチンコ狙撃事件」、ポルノ写真に天皇の写真をコラージュしたものを銀座と渋谷と新宿のデパートの屋上からばらまいたという「皇室ポルノビラ事件」などを起こしており、いずれも逮捕されている。「田中角栄を殺す」という宣伝文句がでかでかと書かれた街宣車に乗り、『宇宙人の聖書!?』なる本を自費出版している。一言ではなかなか言い尽くせない人なのである。


ゆきゆきて、神軍』は、そんなふうにして「神軍平等兵」を自称し、自らの活動を進める奥崎謙三を追うのだけど、焦点が当てられるのは彼自身がかつて所属していたウェクワ残留隊の部下射殺事件。戦中パプアニューギニアに赴任していた部隊が、止むに止まれず人肉食を行なったというのだけど、帰国した元隊員たちは口を開かない。そこで奥崎謙三が遺族を連れ、元隊員たちの自宅を訪問しながら、ときに暴力を振るいつつ証言を力ずくで引き出していく。『ゆきゆきて、神軍』は一応〈反戦映画〉の括りに入れられなくもないと思うのだけど、何しろ奥崎謙三が過激すぎるので、「戦争とは」「人肉食とは」「正義とは」なんてことを考えている暇はなく、とにかくグイグイグイグイ映画の世界に引きずられ、観終わったあとは心身ともにぐったり。常識も理解も、何もかもを超えてしまうのだ。

最後のほうのシーンで、奥崎謙三が「私は戦争を許しません。そしてそのことを暴力によって追及し続けます」みたいなことをいう場面がある。暴力を暴力によって追及するというのは、明らかな矛盾だ。映画のテーマがブレるので、このシーンを入れるか入れないかで原監督と編集の鍋島惇さんは揉めたらしいのだけど、原監督たっての希望によりこのシーンはカットされなかったという。

映画のテーマはブレるかもしれない。だけど、「その主張は矛盾しているのではないか」なんて奥崎謙三に突っ込むことは、こちら側がナンセンスなんじゃないかと思わされてしまうくらい、奥崎さんの思想は周囲を圧倒するパワーがある。パワーがあるから何なんだよといってしまえばそれまでだけど、とにかく圧倒的ではある。このパワーは、ぜひ映画を鑑賞して体験していただきたいと思う。もちろん、決して快いものではないけれど。

奥崎さんの性の目覚め……? 幻のパプアニューギニア

ゆきゆきて、神軍』は、とにかく情報量が多すぎる。薄い部分がないんじゃないかというくらい、作品すべてがすべてにわたって全部濃い(ブログにあらすじを書くだけで疲れる映画なんてそうそうない)。だけど、上映後に行なわれた原監督のトークショーで、私は疲れた脳を癒す間もなくますます混乱させられてしまった。

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左が原監督、右は春日太一さん

まずは、奥崎謙三という人物の「何ともいえなさ」である。暴力を振るうし、とにかく過激な人なので、個人的に関わり合いたいと思う人はレアだろう。私も、故人ではあるが、生きておられてもあまり奥崎さんと個人的に親しくなりたくはない。

しかしそんな奥崎さん、映画ではあたかも「(殴るけど)論理的に元隊員を追及する人物」として描かれている。ところが原監督によると、実際は「私は天皇にパチンコ玉を撃った!」等々の自慢話がめちゃ多く、カメラを向けるとバシッとキメる俳優肌の部分も持ち合わせている。最初は協力的に付き合っていた遺族もそんな奥崎さんにあきれてしまったのか、後半はだんだん奥崎さんの単独行動になっていってしまう。「暴力は振るうし、過激ではあるけれど、純粋で人間的には魅力的な人物」なのかと思っていたら、「暴力は振るうし、過激な上、狡猾で人間的にも問題のある人物」だった。やっぱり、個人的に関わり合いたくはない。

だけど、原監督が奥崎さんについて語るところを見ていると、「ムカつくしノイローゼになるし何度も撮影をやめようと思ったけど、それでも心のどこかで奥崎さんのことがちょっとだけ好きだった」というのが伝わってきて、しかもその気持ちがちょっとだけわかるので、何ともいえない気分になった。人は人のどこに惹かれるのだろう。容姿でもお金でも性格でも人格でも思想でもない。たとえそれらがすべて破綻していたとしても、人を惹きつける人というのはいる。トラブルが続いて撮影をやめようかという話になったとき、スタッフの一人が「でも、そんな奥崎さんだから、映画にしたいと思ったんじゃないんですか?」という旨の発言をして思いとどまったというエピソードを監督の口から聞いて、じわっと来るものがあった。

それから、本作には「幻のパプアニューギニア編」があったという。奥崎謙三が西ニューギニアの集落を訪れるドキュメンタリーだったらしいのだけど、インドネシア情報省によりフィルムを没収され、今日まで陽の目を見ていない。獄中生活が長く禁欲主義でいなければならなかった奥崎さんが、インドネシアのホテルでマッサージをしてもらった人とふと情事におよび、それを原監督に告白してきたというのだけど……悲劇なのか喜劇なのかわからない。幻のパプアニューギニア編についてまで書いているといよいよ長くなるのでここらで終わりにするけれど、悲劇の本質は喜劇であり、喜劇の本質は悲劇なのかもしれない。

ゆきゆきて、神軍』はDVDも出ているので、気になった人は観てみてほしい。脳が沸騰してすごく疲れるので。

ゆきゆきて、神軍 [DVD]

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想像力の向こう側

めちゃめちゃ暗い話なんだけども、数年前、あるブログを夢中で読んでいた。具体名は伏せるが、ブログ主の彼は、自殺を決意していた。

勤めていたエロゲーの会社を退職し、あとは働かずに貯金で生活、お金が尽きたところで死ぬという。ブログには、死をむかえるまでの日常が、丁寧な筆致で綴られていた。その人がブログに書いた最後の記事は、「これから樹海に行きます」だった。

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もちろん、真偽は不明である。私がそのブログを発見したのは、最後のエントリが更新されてからさらに3年くらい経ったときだったので、ブログ主と交流したりとかはなかった。それでも、そのブログが悪趣味な嘘であったらどんなにいいかと思った。もしくは、「樹海に行きます」のエントリを更新した後、気が変わって「やっぱやーめた」ってなっていたら、とか。

ブログ主亡き後に読む、彼の日常は平坦だった。

朝起きて、朝食をとって、近所の図書館に行く。一晩中かけてゲームをする。FXで貯金額を増やしたり、あるいは減らしたりする。気が向けば、公園を散歩したり、2泊3日くらいの小旅行にも行く。もしそれが「自殺を決意した人のブログ」でなければ、彼が書く日常生活はマイペースで、文化的で、なかなか快適そうにさえ見えた。そして同時に、これ以上ないくらい平和で、つまり、退屈だった。


だけど時折彼は、唐突に、「死ぬのが怖い」と言い出す。無論、死ぬのは誰だって怖い。首を吊る苦しさってどれくらいだろうとか、薬を大量に飲んだものの死に切れずに障害が残るだけだったらどうしようとか、電車に突っ込んだらやっぱり遺族が払う金額パないのかな、それともそれって都市伝説なのかな、とか。仮に自殺するとして、そういうのは私も怖い。死ぬ瞬間の痛みがおそろしい。それはよくわかる。

でも彼は、そういった瞬間的な痛みへの恐怖はとうに克服しているようで、それよりも、「自分の存在が消えてなくなってしまうことがおそろしい」と書いていた。死んだら自分はどこへ行くのか? 何もかも消えるのか? 何もかも消えるとはどういうことだ? 彼はそれを考えるために、よく図書館で借りてきた哲学の本を読んでいるようだった。こちらの恐怖は、実は私はよくわからない。それは、私がまだ「自分の死」というものを、実感をともなってイメージできていないからだろう。

(だけど1つ言うんであれば、自分の存在がまったくの「無」である状態、それを私たちは皆すでに経験済みである。それは、生まれる前だ。つまり「あの状態」にもどるのだ、と考えれば、私はやっぱりそんなに怖くないけどな)

それが最後の晩餐なの?

収入がないので当たり前だが、彼の貯金額は日に日に減っていった。あと100万、あと50万、あと30万。減っていく金額は、死へのカウントダウンである。だけど死が迫るにつれて、彼は「死ぬのが怖い」とはあまり書かなくなっていた。何かしら自分の中で結論が出たのか、覚悟ができたのか、同じことを繰り返し書いてもしょうがないと思ったのか。そして、残る金額があと3万くらいになったところで、彼はいよいよ自殺を実行する意をブログで表明していた。

「これが最後の晩餐です」という言葉とともにアップされた写真は、ファミリーレストランのハンバーグだった。たぶん、1200円くらいのやつ。確かに、これがなんでもない平日のランチとかだったら、まあまあ豪華な食事かもしれない。だけど、最後の晩餐としては、その茶色いソースがかかったハンバーグは、あまりにも質素だった。

本当に、これをこの世の最後の食事にする気なの?


なんかもっと、残金が10万くらいのときに銀座のめちゃ高い店に(比喩じゃなく)死ぬ気で入ってみるとか、5000円くらいのヨーグルトを取り寄せてみるとか、そういうことをなぜこの人は考えなかったのだろう、と思った。ちなみに私の場合、もし明日死ぬということがわかっていたら、最後の最後は自宅で好きなものを作ってゆっくり食べたい。だけど、死ぬ1週間前とか1ヶ月前とかに前ノリで高級店に入りまくって、この世の贅を知り尽くしたい。しかしこのブログ主はそういったこともせず、本当に最後の最後にした唯一の贅沢が「ファミリーレストランのハンバーグ」だったのだ。

なぜ? とずっと考えていた。「死ぬのが怖い」と言っていたから、自殺はするけども1日でも長く生きたいと思い、節約していたのか。でも、どうせ死ぬんだから1日2日、むしろ1ヶ月くらいどうでもよくないか? 変な話、大切な友人や恋人がいるなら1日でも長く生きていたいと思うかもしれないけど、このブログ主は友人もいないようで独り身で、ブログに誰か他の人物が登場したことはなかった。じゃあいいじゃん、1日1日を細々と生きるよりパーっとやってパーっと死んだらいいじゃん。貯金だって、最初は200万くらいあったのだから、2泊3日の小旅行なんかじゃなく、バックパッカーになって世界一周だってできたのに。

ひどいことを書いているようだが、これはすべて「私が彼だったらそうする」という話である。私だったらついでに、「死を覚悟したブロガーの世界一周ブログ!」とかで稼げないかなとワンチャン狙う。上手く行ったら「みなさんのおかげでもう一度生きようと思いました」とかテキトーに感動っぽくまとめればいい。失敗して死ぬことになってもちょっとした伝説になれる。私だったら絶対にそうする。汚い話を抜きにしても、世界中の美しいものを見ないまま自殺なんてごめんだ。

だから何となく、このブログ主の彼の行動は長年、疑問だったのである。「死ぬのってそんなにおっかないのかな〜」などと考えていた。銀座の高級店で死期を1ヶ月早めるのなら、1日でも長く生きてファミレスのハンバーグ。人間ってそういうもんなのかな、と考えていた。

想像力の向こう側

もちろん、真意は自殺した(かもしれない)彼にしかわからない。だから以下のことは、あくまでも私の推測である。

ブログ主はおそらく、想像できなかったのだ。あるはずの選択肢を除外したのではなく、最初から選択肢などなかったのだ。

って書くと、銀座の高級店くらい思いついてもいいだろと思うけど。だけどやっぱり彼は、「銀座の高級店に入る自分」というのを、思いつかなかったのだと思う。思いつかなかったというか、上手く思い描けなかったというか。その姿を、リアルに想像することができなかったのだと思う。

同じように、「バックパッカーになって世界一周する」ことも、「5000円のヨーグルトを取り寄せてみる」ことも、おそらく頭に浮かぶことさえなかったのではないかと思う。「そういうことをやるより、1日でも長く生きたかった」のではなく、「そういうことはそもそも思いつかなかった」のだ。


人間は、想像力の範囲内でしか動けない。

イタリアをリアルにイメージできない人は、イタリアに行く意欲なんてわかないから、イタリアに行けない。5000円のヨーグルトがあることを知らない人は、そんなものを頼むことをそもそも思いつかない。『シン・ゴジラ』が上映していることを知らなかったら、怪獣映画を観に映画館に足を運ぶことはない。知っていることしかできない。知っている範囲でしか動けない。想像力の向こう側には行けないのだ。

もちろん、この世のすべてを知り尽くすなんて神じゃない限り不可能である。だから私たちは例外なく、常に何かを知らずに、何かを見落として、何かの可能性を潰して生きている。それはしょうがない。彼が惨めだとも思わない。私にだって、想像力の限界がある。自殺するんならその前に世界一周したいけど、ある人は「世界一周ごときで済ますの?」と私を気の毒に思うだろう。でもその人だって、やっぱり想像力には限界があって、それはだれだって同じで、だれかの想像力の貧困さを笑える人間なんていないのだ。「ファミレスのハンバーグ」はだから、彼がリアルに想像できた範囲内では本当に、この世でいちばん贅沢な食事だったのだと思う。

想像力には限界がある。想像力の向こう側へは行けない。


だから、まだ知らないことを悔しいと思う。すでに知っていることを尊いと思う。全部はちょっと処理しきれないけれど、だれかが教えてくれたものは試したいと思う。自分も知識の出し惜しみをせずに、(余計なお世話にならない範囲で)だれかに教えてあげたいと思う。今日より明日の世界が豊かでありますように、今日より明日の選択肢が広がっていますように、と願う。


ブログ主が最後のエントリを更新したのは夏だった。私がそれを読んだのも、夏だった。だから夏になると毎年思い出してしまう。あの、ファミレスのハンバーグのこと。


(1つ言うんであれば、想像力の限界を突破できるものも私は知っている。それは他者がもたらす「偶然」である。他者は人間であることが多いけれど、必ずしも人間であるとは限らない。でも長くなるので、その話はまた別の機会に)

恋人の写真は、遺したい派ですか?@センチメンタルな旅

先日に引き続きまたアラーキーの写真展。東京都写真美術館にて9月24日まで。こちらの「荒木経惟 センチメンタルな旅 1971-2017-」は、アラーキーの妻である陽子さんに焦点を当てた展示らしい。

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〈センチメンタルな旅〉1971年 より 東京都写真美術館

恋人の写真は、遺したい派ですか?

いきなり話をすっ飛ばすが、奥さんと出会い、その奥さんの精神が狂い自殺してしまうその日まで、彼女の写真をフィルムに焼き続けた古屋誠一という写真家がいる。

Aus den Fugen

Aus den Fugen

この人の写真展に行ったのは学生時代なのでもうずいぶんと前だけど、展示されていた妻・クリスティーネさんの写真は時系列になっていた。もっとも新しいものから、もっとも古いものへ。頭を丸坊主にした奥さん。子供を抱えてこちらを睨みつける奥さん。そして最後は、古屋誠一と出会ったばかりの頃の、無邪気な笑顔が愛らしい奥さん。なんて残酷な展示だろうと思った。

時系列が逆だったのならたぶんまだ良かったのだけど*1、辛い結末を先に見せてから、何も知らなかった最初の頃の写真にもどるというのはなかなかショックで、写真展の会場を出た後の私は、強烈に落ち込んだ。

そして、「好きな人のことを作品として遺す意味がわからない」という話を友人とした。

私はなんとなく、2人の間のことは2人の秘密にしておきたい派なのである。なので、100歩譲って楽しいときの笑顔の写真とかならいいが、自殺をむかえるまでの妻の精神が蝕まれていく様子を記録し、作品にしてしまうなんてことは到底理解できなかった。

ちなみに話をした友人は、「私の好きな人がどんなに素敵な人だったか、みんなに見てもらいたいし知ってもらいたいから、遺したい」と言っていた。これは感性のちがい、価値観のちがいである。

で、今回の『センチメンタルな旅』も、古屋誠一とはまた毛色が異なるものの、そういった「好きな人記録系」である。

「好きな人記録系」の、見てはいけないものを見てしまった感が、私はやっぱり苦手だ。そこはあんたの胸の内にしまって墓場までしっかり持っていってよ、と思う。でも、苦手だといいつつ観に行くんだから、心のどこかではこういう表現が好きなんだろう。でも私は絶対にやらないし、身近な人にもやってほしくない。でも観る。たぶん今後も。


(……と、昔言っていた)

ごはんの写真がまずそう

今回の『センチメンタルな旅』には、「食事」と題された作品群がある。亡き妻の陽子さんが、生前に作っていた食事の写真だ。

で、この食事の写真がまずそうである。「まずそうはないだろうあんた」という指摘は甘んじて受けるが、料理が下手というわけではなく、アラーキーがわざとモノクロにしたり変にどアップにしたりしながら撮っているので、まずそうというか、ナマナマしい。エロティックですらある。アンチ・フォトジェニックである。

だけど、私はまずそうな食事の表現って実は大好きだ。チェコの映画監督、ヤン・シュヴァンクマイエルも、めっちゃまずそうな食事を映画の中に登場させる。彼は食べることが嫌いで、子供の頃は食事の時間が嫌だった、と語る。私も同じだったからすごくよくわかる。

小2のとき、給食を食べきれなくて残そうと思ったら担任に「残すな、食べろ」と言われたので、昼休みに遊びに行くのを我慢して一人で泣きながら給食を食べていたら、今度は「いつまで食べてるの」と怒られたことがあった。幼いながら「言ってることがめちゃめちゃじゃねえかよ」と思ったが、小2だったのでその後も泣きながら無理やり食べた。

別にトラウマとかではなくて、今は普通にランチタイムが楽しみなくらいには食べることが好きだけど、しかしあくまで幼少期に絞って食べ物の思い出をたどると、こんなことしか思い出せない。私は食べることが嫌いだった。まずそうな食事の写真や映像は、私にとって「食べる」とは何なのか、何だったのかを思い出させてくれるから好きだ。

アラーキーは、食事とは死への情事であると語る。それはちょっと、よくわからない……。

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〈食事〉1985-1989年 より 発色現像方式印画

いずれにせよ、「もしもあなたが芸術家だったとしたら、恋人や妻や夫との思い出を作品にしますか?」という問いはなかなか面白いのではないかと思う。今度だれかに会ったら、聞いてみよう。あなたもだれかに、聞いてみてほしい。

*1:これはある意味、離婚届を出すところから話が始まって、最後に2人が出会うところでラストシーンをむかえる、フランソワ・オゾンの『2人の5つの分かれ路』と同じ手法といえる。で、なぜかはわからないが私はこの手法を使われるとめちゃくちゃメンタルがやられる

おれのかんがえたさいきょうのワーク&ライフ

ネットや雑誌でたまに見かける情報商材みたいなやつの広告は、眺めてみるとけっこう面白い。わりと適切に、世相を反映している気がする。

一昔前、それは札束風呂に美女と入浴しているおっさんであった。あれは情報商材というよりパワーストーン系だった気もするが、「いいよねえ、札束風呂に美女と入浴、ほんといいよねえ」と見ると感心してしまう。しかし、最近はさすがに札束風呂のおっさんは下品だしギラギラしすぎと思われるようになったのか、そういった広告もあまり見かけなくなった。

ここ最近は、そんな札束風呂のおっさんよりも、もう少しスマートな広告が流行っている気がする。この前見かけたやつは、「世界を旅しながらネットで稼いじゃおう」というやつであった。青い空、青い海、白い砂浜、絶景、MacBook、そして俺。いいよねえ、ほんといいよねえ。「おばちゃんが入ったら以降、そのカフェはおしゃれではなくなり、廃れる」なんてひどい話もあるけれど、情報商材に使われるようになったらそのイメージはもう末期だ。末期というか、もう少しマイルドにいえば、「人口に膾炙した」と表現すればいいのだろうか。

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ステーキラーメン寿司付きセット、食べる?

「札束風呂に美女」でもいいし、「世界を旅しながらネットで稼いじゃおう」でもいいのだけど、基本的に、情報商材パワーストーンに目が行くような人は、想像力がないのだと思う。

札束が嫌いな人はいないし、美女が嫌いな人もいない。旅行はたまに嫌いな人がいるけれど海外はだいたいの人の憧れだし、ネットで稼ぐのも(イメージだけでふわっと考えれば)ラクそうだ。半年くらい前に羽田空港で「ステーキラーメン寿司付きセット」なる超カロリー高そうなメニューを見かけたのだけど、ようは情報商材の世界はステーキラーメン寿司付きセットの世界なのだと思う。みんなが大好きなものをとりあえず全部突っ込みました、という方式。情報商材パワーストーン系に感じるバカっぽさは、ステーキラーメン寿司付きセットを見たときに感じるバカっぽさと少し似ている。「おれのかんがえたさいきょうの食べ物」みたいになっているのだ。

ステーキとラーメンと寿司以外にも世の中には美味しいものがたっくさんあるけれど、想像力がなくて視野が狭いので、「さいきょうの食べ物」としてラーメンにステーキをのせて寿司を付けるくらいしか思い描けない。誰かが「美味しいよ〜」と出してくれたものに対して、疑いもなくとりあえず食らいつくくらいしか脳がない。

きつい書き方をしているが、これは私自身にも思い当たる節がアリアリである。さすがに「札束美女風呂」に入りたいとは思わないが、世界を旅しながらネットで稼いじゃおうは、ちょっと惹かれるものがある。旅行が好きだし、今現在、私も広い意味でいえば「ネットで稼いじゃおう」をやっている。だからこそ、この情報商材の広告を見つけたときはショックだったのだ。だって、「私のかんがえたさいきょうのワーク&ライフ」のイメージはもう末期だ、と宣告されたようなものだと思ったから。

おれのかんがえたさいきょうのワーク&ライフ

ステーキラーメン寿司付きセットを、美味しそうだと感じること自体は悪いことではないと思う。悪いことではないというか、人間として普通の、当たり前の思考回路だと思う。「最後の晩餐で食べたいものを考えろ」とたずねられたら、ステーキラーメン寿司付きセットを……いかないか。そこは、いかないか。でも、そこでステーキラーメン寿司付きセットを選ぶ人がいても、別におかしくはない。

だけど基本的に、自分と同じようなことを考えている人がいっぱいいたら、やばい。情報商材のイメージに使われるということは、「こういうのに憧れてる人がウン万人います」ということで、イメージはすでに飽和状態、氾濫しているといえる。私はいつも「人は自分オリジナルの願望なんて持てない。多かれ少なかれ他人の模倣になるのは構造上しょうがない」と口を酸っぱくして言っているが、さすがに情報商材まで行くと、それは自分が豊かで具体的な夢を思い描けていないことの証明になってしまう気がする。

……なんて思うのは、私がちょっと「自分内監査システム」を働かせすぎで、考えすぎなのかもしれないけど。おれのかんがえたさいきょうのワーク&ライフ、にならないように自分の欲望を微調整する必要性を感じて冷やっとした、という話だ。もし、「世界を旅しながら文章を書きたい」という夢を持っている方がいたら(私がまあまあそうなんだけど)、それがどこかで配られた無料ドーナツみたいにぐちゃぐちゃの砂糖にまみれていないかどうか、微に入り細に入りチェックしたほうがいいだろう。

夏なので、誰か一緒に冷やっとしてくれたらいいなと思い書きました。

こんな夢は二度と見たくない

人の夢の話ほど面白くないものはないという自覚はあるので、そういう場合は回れ右をしてもらえればいいのだが、以下は私が見た夢の話である。

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先日、朝7時頃目が覚めると、天気が悪かったせいか、頭痛がひどかった。

幸いその日は夜まで予定がなく、やらなければいけないこともそこまで切羽詰まっていなかったので、もう少しゆっくりしようと思い二度寝してしまった。しかし、次に目覚めたときに時計を見ると、あっという間に14時である。さすがにこれは怠けすぎだと思い、焦って飛び起きた。

が、起きると立ちくらみがし、頭がぼーっとする。まあでも、寝すぎも体に悪いし、何か作業してれば治るだろうと思い、そのまま着替えたり家事をしたりしていたら、もう17時になっている。なんか時計が進むのが早いなー、と思ったら、そこで意識がぷっつりと切れた。

次に目が覚めると、時計は朝の10時である。二度寝とはいえさすがに、気付いたら14時というのはひどい。つまりさっきのは夢だったんだなと解釈し、起き上がるとまた立ちくらみがする。だけどもう一度寝る気分でもなかったので、そのまま我慢して起き上がり、なぜかAmazonプライムビデオで『猿の惑星』を観ていた。あれ、なんで私『猿の惑星』観てるんだろ? この映画そんな好きだっけ? と思って時計を見たら、14時になっている。んんん!? やっぱりなんか、時計進むの早くない? と思ったら、またそこで意識がぷっつりと切れた。

その次にまた目が覚めると、時計が示す時刻は12時である。そして、起き上がろうとすると、立ちくらみがひどい。私は明晰夢をよく見るタイプなので、「あ、こりゃまだ夢の中だな」となんとなく判断し、思いつきで部屋の鏡の前に立ってみたら、そこに映っていたのは七福神の恵比寿さんであった。なんと、私は恵比寿さんだったのか。恵比寿さんといえば商売繁盛、縁起がよろしい。これはきっと吉夢だな〜と呑気に思っていたら、鏡の中の恵比寿さんがニタニタ笑い出したので、あ、やっぱ吉夢じゃないかも、気持ち悪いかも、と思ったら、そこでまた意識がぷっつりと切れた。

今度目が覚めて時計を見ると、次は12時半である。いい加減起きたいんだけど、と思って立ち上がると部屋がぐにゃぐにゃ曲がる。まだ夢の中なのかいと思い、夢の中で活動してもしょうがないので、私は布団の中に戻ってまた眠る。起きたいぞ。いい加減起きたいぞ。

その後、起きる→なんか変→夢か……→もう1回寝るというのをたぶん10回くらい繰り返し、永遠に夢の中から出られないのではと思いかなり焦った。途中で一度だけ「今度こそ現実だ〜!」と思って着替えて外出し、なぜか電車に乗って藤沢駅(神奈川県)まで行った。が、「あれ、なんで藤沢にいるんだっけ?」と思ったらそこで意識がぷっつりと切れた。その後目覚めたらやっぱり布団の中で、「やばい、出られない。夢の中から出られない」と私は戦慄した。


次に目覚めて時計を見ると、時刻は午前9時半である。んんん、もう夢なのか現実なのかわからない。しかし、夢なんだとしたら、せっかくだしなんかめちゃくちゃひどいことを書いて思いっきりブログを炎上させて遊ぼうかな、と思ってPCを開いた。

が、指でキーボードに触れると、いやに「くっきり」している。試しにTwitterなどを見てみても、これは夢にしては「出来すぎ」な気がする。私の脳みそにここまでの現実感構築能力はないはずだ。立ちくらみもひどくないし、今度こそ本当に目が覚めたらしい。これは現実だ。いやー、よかった。出られた出られた。

というわけで、遊びでブログを炎上させるわけにはいかなくなったので、今こうして、無難に夢の話などを書いている。原稿とかも書く。あああ本当によかった。一件落着、一安心だ。


ここでもし、「あれ、なんでブログなんて書いてるんだっけ?」などと考えてしまったら、また意識がぷっつりと切れて、夢の中に舞い戻ってしまいそうなので、それは問わないことにする。後ろで恵比寿さんがニタニタ笑っている。



こうして私の、平凡な日々は続く。