チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

「書いている」なんてレベルでは、まだまだ

私たちはだれでも、なんとなく、「ホンモノは、とても純粋だ」と思っている。お金が欲しいからとか、有名になりたいからとか、成功したいからとか、モテたいからとか、そういった感情のすべてを完全に否定するわけではない。でも、そういった感情はやっぱり不純物だと思っていて、有名になった人にかつてそういった感情があったことを知ると、ものすごく軽蔑したり幻滅したりする。


お金なんてなくてもいいし、有名になることなんて望んでいないし、成功もモテもいらないけれど、ひょんなことから人目について、話題になってしまった。全然、ねらってなんかいなかったんだけど。モデルや俳優の応募理由でよく「友達が勝手に応募しちゃって……」ってのがあるけれど、これもその典型だろう。なぜ私たちはお金や成功やモテにこんなにも否定的な感情を抱くのか、その理由を読み解くことは今回の主旨ではないので省略するけれど、いずれにせよそういった状況はある。ちなみに、私がブログを書いているのは、お金が欲しいわけでも、有名になりたいわけでも、成功したいわけでも、モテたいわけでもないよ。ホントだよ。


まあそれはいいとして、そんなふうに純粋な状況を究極的に求めるとなると、たどり着くのは「アウトサイダー・アート」になってしまうのではないかと思う。ピカソなんか、現世で金持ちになって女にモテまくってるから、レベルとしてはまだまだである。売れたかったけど現世では夢叶うことなく、死後にようやく評価されることとなったゴッホで「いいカンジ」だ。しかし、ホントのホンモノは、そもそも「金」「成功」「モテ」そういった邪心とは最初から完全に無関係なはずである。ただひたすらに、己の表現欲に突き動かされるまま描き、本人の死とともに危うくこの世から葬り去られそうになったそれを、知人が遺品の整理でたまたま発見して戦慄する。私たちはそんな、ヘンリー・ダーガーみたいなシチュエーションに、うっとりするような夢を見るのだ。


ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で

だれから習うことも、だれから盗むこともなく、だれから強制されることもなく、だれから対価を支払われることもなく、ただ自分の内なる声の命ずるままに、なにかを生み出しつづける人々がいる。芸術という名の産業から遠く離れた地にあって、彼らはときに変人と呼ばれ、知的障害者と呼ばれ、霊能者と呼ばれながら、黙々と自分だけの閉じた宇宙を紡いできた。アウトサイダー・アーティスト。動くのではなく、動かされる者。作るのではなく、作らされる者。俗界のはるか彼岸と交感しつづける、孤高のアンテナ。


都築響一珍世界紀行 ヨーロッパ編―ROADSIDE EUROPE (ちくま文庫)』(p225)


Twitterやインスタグラムでフォロワーが何万人もいる人のことを「インフルエンサー」なんて言ったりするけれど、そういう人たちを前にして、私たちが頭を抱えることは少ない。「何のために毎日、ツイートや写真を発信してるんですか?」なんて疑問に思ったりしない。それが仕事だから、あるいは仕事に繋がる可能性があるから、である。フォロワーをお金で買ったり、Twitterでキラキラ女子を演じたり、インスタ映えだけを重視してかわいいスイーツを撮影後に捨ててしまったり、そういう人たちを軽蔑することはあっても、疑問を持ったりはしない。何のためにそんなことをするのか、動機は十分に理解できるし、むしろ自分の中にも少しだけそういう部分があるからこそ、あからさまな行動に出る人を糾弾するのではないだろうか。


だけど、いわゆる「アウトサイダー・アーティスト」を前にすると、私たちは悩む。上の引用で都築響一さんが言っているように、彼らは「俗界のはるか彼岸」と交感している。自分だけの閉じた宇宙を、生涯をかけて紡いでいる。フランスには「シュヴァルの理想宮」という建造物があるが、郵便配達夫フェルディナン・シュヴァルがなぜこんな奇妙な宮殿を作り上げたのか、理解できる者は多くないだろう。「なんだそれ」と思った人はググって欲しいのだけど、彼は34年かけて、給料のほとんどをセメント購入にぶっこんで、周囲に変人扱いされながら理想の宮殿を作り上げた。これがホントの「好きなことして生きていく」だ、と私は思う。シュヴァルは自分の作りたいものを作るのに、だれからの評価も、対価も、名声もいらなかったのだから。


郵便配達夫シュヴァルの理想宮 (河出文庫)


19世紀後半、郵便配達夫のシュヴァルは43歳のとき、家路につく途中で小さな石に躓いた。その石を拾い上げて見てみると、なかなか面白い形をしている。石が気に入ったシュヴァルは、それを家に持ち帰る。以来、シュヴァルは石の収集がやめられなくなり、集めた石たちで自分の理想の宮殿を作ろうと思い立つ。郵便配達の仕事をしながら、勤務を終えたあとに、シュヴァルは暗闇の中でロウソクを灯しつつ、完成までの40年以上、宮殿作りをずっと続けたのである。もちろんインスタグラムなんてないので、「今日はここまで出来ました! #シュヴァルの理想宮 #めっちゃ疲れた #あと何年かかるの」なんて投稿できない。究極的に孤独な作業である。


だけど、きっとシュヴァルはこの作業が、毎日とても楽しかったにちがいない。楽しくなかったら40年以上も続かないだろう。「自分だけの閉じた宇宙」というと「無理!」と思う人も多くいそうだが、私は、それって理想的な世界だし羨ましいよな、とよく思う。動くのではなく、動かされる。作るのではなく、作らされる。自分のためでも、誰かのためでもなく。そういう流れの中で表現できているときが、たぶん人間はいちばん楽しい。


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(※都築響一さんの『珍世界紀行』の中で、私はラ・スペーコラとボマルツォの怪物庭園なら行ったことアリ)


シュヴァルが43歳デビューだったとはいえ、きっと私自身は、ヘンリー・ダーガーやシュヴァルのような作品を創造することは生涯できないだろう。だけど、市井に生きる一般人でも、ごくごくたまに、動くのではなく動かされる、作るのではなく作らされる、書いているのではなく書かされている、ような感覚に陥ることはある。そういうときは、名声を得たいという意志でもなく、他者から求められる需要でもなく、もっと別の何かが動いている。そして、完全なアウトサイダー・アーティストになることはできなくても、そういった瞬間が多く持てた人は、たぶん幸せだ。


自分の意志と他者からの需要の間で、私たちはたぶん今後も永遠に悩み続けることになるだろう。自分のやりたいと他者から求められるものの間で、妥協点を見出しつつ上手いやり方を模索するのは賢い生き方である。でもこの手の問いの本当の正解は、たぶん、自己でも他者でもない、もっと不思議な何かに動かされることだと思う。他者から「書かされる」のでも自分で「書いている」のでもなく、不思議な何かに「書かされている」。市井の人がごくたまにしか持てないその瞬間を常に保ち続けているように見えるから、アウトサイダー・アートは、やっぱり今日もすごく眩しい。

私はまだタイに行ったことがない。


……と、いう上のツイートはちょっとした冗談なんだけど、私は、やっぱり幽霊なんかいないんじゃないかって思ってる。いないっていうか、いるんだけど、それは私たちの外側ではなく内側に存在している。「何か嫌な予感」とか、「天候が変わる前触れ」みたいなのを感じ取れる人は確かにいて、ただそれは別に人の形をしてはいない。霊感がある人(の脳)っていうのは、「何か嫌な予感」という言語化・視覚化できないものを具現化するために、仕方なく、人の形をした何かを見ているのではないかと思うのだ。

森や丘や谷を前にすると 動物や他のものだった 私の前世が現れる

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ところで、タイに行ってみたい、と思ったことが私はこれまでほとんどない。というか、今もそんなに強くタイに惹かれているわけではなくて、バンコクにもチェンマイにも離島リゾートにもほとんど興味がない。


ただ一箇所、あの人の故郷を見てみたい、と思っている場所がタイにはある。

あの人とは、映画監督のアピチャッポン・ウィーラセタクンだ。彼の故郷はタイの東北、イサーンと呼ばれる地域である。タイでもっとも貧しく、メコン河の向こうはもうラオス。もしもタイに行くなら、ラオスから陸路で入国して、アピチャッポンの故郷であるイサーンを見てみたい、と思う。



映画『ブンミおじさんの森』予告編


アピチャッポンの代表作である『ブンミおじさんの森』は、初めて観たときから私の中でまったく色褪せておらず、むしろ深みを増しているから、この映画の公開が2010年だったことを知って今びびった。そうか、もうそんな前か……。しかし、あと50年は余裕で観られる強度のある作品である。エンタメ色はかなり薄いので、人にはあまり薦めないけど、私は初めて観たときからこの映画がずっと大好きだ。



ブンミおじさんの森』は、アピチャッポンがとある僧侶からもらった、『前世を覚えている男』という本がもとになっているらしい。

前世を覚えている男・ブンミさんは、今生きている人間としての自分だけでなく、その前の複数の生を思い出すことができるという。象狩りだったときのこと、水牛だったときのこと、さまよう亡霊だったときのこと。ただし、どの生を生きているときも、ブンミさんはいつもタイ東北、イサーンにいた。


この話をこれだけ聞くと、このブンミさんって人は、頭がおかしい人なんじゃないかと思うだろう。まあ実際、冷めたことをいうと本当にただ頭がおかしいだけの人である可能性めちゃめちゃあると思うんだけど、アピチャッポンの『ブンミおじさんの森』を観ると、ブンミさんの言ってること案外マジかもしれない、と思えてくるから不思議だ。


私はまだタイに行ったことがない。映画の舞台であるイサーンのことなんか、欠片も知らない。だけど、この映画に出てくるすべての映像になぜか私は見覚えがあって、知らないはずの場所が涙が出るくらい懐かしい。


Metaphors [HEADZ219]
(※アピチャッポン映画の音楽を集めたサントラ、めちゃめちゃよい)


これは、私も前世でイサーンに住んでいたのかもしれない……というオカルトな話ではなくて、単純に、優れた芸術というのはそういうもんなのだ、という解釈をするのが正しいと思う。アピチャッポンの『ブンミおじさんの森』以外にも、私はアンドレイ・タルコフスキーの『ノスタルジア』を観たときに同じ感覚に陥った。「どうしてこの人は私のことを知ってるの?」という気にさせるものが、アートでも、映画でも、文章でも、いちばん強い。


アピチャッポンはインタビューで、ブンミさんのことが羨ましかった、と語っている。その気持ちは私もすごくわかる。ブンミさんは前世を覚えているから、映画がいらない。映画がなくても、まだ見ぬ景色を懐かしいと思えるから、覚えているから、映画がいらない。今生きている生しか知らない私たちのような人間は、映画や文学を通してしか、他の生を生きることができない。


アピチャッポン・ウィーラセタクン  ──光と記憶のアーティスト

アピチャッポン・ウィーラセタクン ──光と記憶のアーティスト


ブンミおじさんの森』でいちばん好きなシーンは、行方不明だった息子が猿の霊になったといって毛むくじゃらになって訪ねてくるところもユーモアがあっていいけれど、やっぱり、王女さまが夜の川でナマズとセックスしてたら自分もナマズになっちゃうところである。このシーンのロケ地がイサーンのどこなのかわからないけど、そのものズバリの場所じゃなくても、似たような場所があるならいつか、イサーンを旅してみたいと思う。


このシーンで王女さまが言う「水面」とは、さながら映画のスクリーンのことであり、また文字が書かれた原稿用紙のことかもしれないと、私は思うのだ。

水面に映る影は幻とわかっているけれど 本当にあれは幻?

「語られて」しまうもの、あるいは編集された人生

インタビュー記事、取材記事、といった類のものがある。数は多くないけれど、私自身も、インタビュー「する」側「される」側、ともに関わったことがある。これらの機会をあたえてくれた人たちに、感謝している。


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これらの記事には、大きく分けて二種類あると私は思っている。一つは、「本人(インタビュイー)にとって名誉なことがクローズアップされているもの」。そしてもう一つがその逆の、「本人にとって不名誉なことがクローズアップされているもの」だ。


自分自身に関していうのであれば、私は今のところ前者にしか関わったことがない。

「される側」として、ライターとしての経験やお金の使い方を聞いてもらって記事にしてもらえたことがある。「する」側として、汚部屋から一転、お掃除ブログを立ち上げて書籍出版に繋げた方や、本業でバリバリやっている占い師の方に話を伺わせてもらったことがある。働き方とか、仕事論とか、あとは専門家にご意見を頂戴するとか、まあいろいろあるけども、いつもあなたがウェウブメディアで読んでいる記事をちょっと思い返してもらえれば、「本人にとって名誉なことがクローズアップされている記事」の意味をだいたい理解してもらえると思う。


もう一方の「本人にとって不名誉なことがクローズアップされている記事」は、貧困ルポとか、風俗嬢インタビューとか、そういうやつである。もちろん性産業に関わっている方への取材であっても、有名なAV女優に仕事論を語ってもらうとか、本人にとって良い部分をクローズアップしている場合は前者の範疇になる。つまり、まどろっこしいのでもっとスッパリ言ってしまうと、記事を読んだ人に「この人みたいになりたい・やってみたい・こういうのもアリかも」と思わせるのが前者で、「この人みたいにはなりたくない・なってしまったら怖い」と思わせるのが後者だ。


二者を並べて、優劣を語りたいわけではない。前者を批判する理由はないとして、後者に関しても、意義深いものはたくさんある。世の中、綺麗事だけじゃ済まねえのだ。


ただ、どちらの記事に関しても、読むと私の中にはいつも、拭いきれない違和感が残った。この違和感の正体は何なんだろうとモヤモヤしていたところに、岸政彦さんの『断片的なものの社会学』を読んだら、それがちょっとだけわかったのだ。


断片的なものの社会学

断片的なものの社会学


「どちらの記事に関しても」とは言ったものの、割合的には、後者の「本人にとって不名誉なことがクローズアップされている記事」を読んで違和感を覚えることのほうが多い。


理由はなんとなくわかっていて、後者で取材する貧困層の方の中には意思疎通そのものが難しいって場合があるだろうし、文章に関しては読むのも書くのもあまり得意でない方がいるだろうと推測する。つまり、取材する側が、いかようにも話をねじ曲げることができるのだ。ねじ曲げるというと嘘を書いているみたいになっちゃうけど、そういう意味ではなくて、ようは主導権が取材する側にあって、どんなエピソードもある決めた方向に回収していくことができる。


なので、「本人にとって不名誉なことがクローズアップされている記事」を読むと、私はいつも、「これ、ホントにこういう話なのかな?」と思ってしまうのだった。もっと強く言うと、「おいあんた、ちゃんと原稿チェックしたのか!? こういう話にされちゃってるけど、それであんたは良かったのか!?」と思ってしまう。もちろん、ここでインタビュイーのほうを責めるのは筋違いだってことは、百も承知してるんだけど。


前者タイプの記事においては、違和感が残る割合は後者タイプに比べて減りはするけれど、しかし「どんなエピソードもある決めた方向に回収する」ということをやっていないはずがない。ただ、名誉なことをクローズアップされる人というのは意思疎通がスムーズでかつ自身も文章表現に長けている方が多いと推測するので、主導権が半々になるだけだ。だから、割合は減じるものの、前者タイプの記事を読んでもやはり私はぼんやりと「これ、ホントにこういう話なのかな?」と思ってしまうのだった。


もちろん、こういった「エピソードの一定方向への回収」は、インタビューや取材記事だけで起きている現象ではない。個人ブログでも個人コラムでも、もっと言えばそれぞれの人生でも起きている。「私はAさんと結婚しました」という事実は、私がAさんのことを好きなうちは「いい話」だが、私がAさんのことを嫌いになり始めたら「悪い話」だ。日々起きたことを意味付け、解釈しないと、人は自分を語ることができず、生きていくことができない。だから、エピソードの一定方向への回収が起きること自体はしょうがないのだが、インタビューや取材は「本人じゃない人物がその人の人生・思想を語る」という性質上、それが目立ちやすいのだろう。これはライターが悪いとか下手とかいう話ではなく、「そういうもんだからしょうがない」という類の話である。


だけど、『断片的なものの社会学』で語られているのは、そういった「エピソードの一定方向への回収」から、こぼれ落ちてしまったものだ。「編集でカットされた断片の寄せ集め」である。


ある人を取材する。何時にどこどこで待ち合わせをして、その日はとても寒くて、互いにこういう服を着ていて、自分はコーヒーを、ある人はココアを頼んで、一時間近く話を聞かせてもらう。コーヒーやココアを飲みながら、こういうエピソードがあって、ああいうエピソードがあって、という話をずっと聞いている。でも途中で、ふとしたことから、ある人が飲食店の前を通った犬について言及する。取材の主旨に関係ないので、多くの場合、記事になるときその「犬」への言及はカットされる。「犬」には別に意味がない。実は「犬」に重要な意味が……なんてこともない。本当に、ただ単に意味がないのだ。私たちはそうやって、毎日自分の人生を編集している。


『断片的なものの社会学』は、だからすごく変な本だと思う。「犬」というのはもちろん例えだけど、こういう、通常はカットされるような「犬」の話ばかり書いてある。一つ一つの断片は無意味だが、その断片の集合にはとても大きな意味が……なんてこともない。だから、この本は何も言ってない。しいていうなら、「ああ、そういうこと、あるよね」って感じだ。意味なんてない。


「語られて」しまうものがる。一方で、語られなかったものがある。


重要なのは「語られて」しまうもののほうだが、しかし実は、語られなかったもののほうも、重さは同じだったみたいだ。語られなかったものは、取るに足らないものだから、もっと軽いと思っていた。『断片的なものの社会学』は、取るに足らないものの寄せ集めなのに、ずっしり重い。何かを語ることは何かを捨てることだ、と改めて思い知らされるからかもしれない。


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あたり前田のクラッカーなんだけども、自分だけが読む紙の日記にも、ブログにも、外部のコラムにも、書いてないことなんかいっぱいある。1日は24時間あって、それが365日×生きた年数分あるんだから、全部なんて書けるわけがない。わかってるんだけど、そういう、自分の「書いてこなかったこと」「語ってこなかったもの」を思い出して、ちょっとだけ涙が出た。


絶対に無理なんだけど、本当は、編集なんてしたくない。全部書きたいし、全部載せられたらいい。本当に、そう思う。無理だけど。

自分で「気付く」ために必要なこと

「ねえ、今すれ違った人、すごく美人だったね」。


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街を歩いているとき、一緒にいた知人にこんなことを話しかけられたとする。こういうとき、私はだいたい「えっ、そう? 見てなかった」と返す。「一緒にいた知人」というのが恋人で、ヤキモチを妬いているとかではない。女性と歩いているときでも、男友達や職場の人と歩いているときでも、だいたいこんな感じだ。ようは、街行く人なんか、私は全然見ちゃいないのである。


そんな私とは逆のタイプ、「そんな細かいとこよく見てましたね〜!?」っていう人もいる。いるだろう。ぜひ、あなたも身近な人のことを思い浮かべてみてほしい。あの場所に何があったとか、あのときあの人は体調が悪そうだったとか、もうホント、よく気付くなと思う。気付く人というのはだいたいすべてのことをよく見ていて、実は私とは目の総数がちがうんじゃないだろうか、なんて考える。私には目が二個しかついてないんだが、実はこういうタイプの人は目が六個くらいあるのかもしれない。しかし、本当にそうだったら諦めもつくんだけど、残念ながらどうもそういうわけではないらしい。


ただし、意識を向けることはできる。何も言われずにいつも通り街を歩かされたらそのままだが、「交差点を右に曲がったときポストの前にいる人に注目して」とか、「信号をわたった先にあるお店の屋根の色を見ておいて」とか、注文を入れてもらえれば反応はできる。こういうやつのことを、「焦点的意識」と言うらしい。多くの学校教育は、この「焦点的意識」を教えている。ここに注目すれば問題が解ける、ここを観察していると変化が見える、などなど。


「焦点的意識」を教えることは、もちろん意味がないことではない。ただし、学校教育であればそれでいいかもしれないが、たとえば私のような大人に「街をよく観察すること」を焦点的意識によって教え込もうとしても、キリがないし、そう上手くはいかないだろう。「これこれをちゃんと見ておきなさい」と言われたって、街の景色も自分も常に動いているから、「これこれ」のどこに着目していいのかよくわからなかったりする。

新しい視点をあたえられても世界は変わらない


1冊の本を読んで、あるいは印象に残る文章を読んで、まるで世界が変わってしまったかのような感覚に陥ることがある。「そういうふうに考えていいんだ!」という新しい視点は、世界を変えてくれる……と、私たちは思いがちだ。しかし、厳密にいうとこれはちょっと違っているらしく、ある視点をあたえられることによって一歩上の段階に行けるときというのは、すでに「学習」の段階にあるときのみに限定されるらしい。


何を言っているのかわからねーと思うので、順を追って説明すると、物事を習得する際には「発達」が必要な段階と、「学習」が必要な段階ってのがあるらしいのだ。


たとえば、あなたが唐突に、「チェコ語ができるようになりたい!」と思ったとする。なんとか教えてくれる先生を見つけて、週に一度、マンツーマンの授業を受けさせてほしいと頼み込む。すると、たぶん先生に最初にたずねられるのは、「あなた、ロシア語できる?」だ。チェコ語は文法がクソ難しく、日本語話者が習得する言語としては最難関レベルだと言われている。ただし、同じスラブ語圏の言語であるロシア語の素養があると、話がめちゃくちゃ早いのだ。私は結局「いや、ロシア語はできないっす……」と答えて当時の先生にため息を吐かせてしまったのだけど、ようは、「スラブ語圏の言語がまったくできない→1つだけでもスラブ語圏の言語を習得する」のが「発達」の段階で、「ロシア語はすでに習得している→チェコ語を習得する」というのが「学習」の段階だ。0を1にするのが「発達」で、1を2や3に増やすのが「学習」、と考えればいいのかもしれない*1


下記の本の著者である河本英夫さんによると、巷によくあるノウハウ本は「学習」の段階について書かれているものばかりらしい。確かに、ある技術について、本を読んだときは「おお、なるほど!」と思っても、いざ実践となると何も変化を起こせず、そのまま「おお、なるほど!」と思ったことすらも忘れて本は埃をかぶる……という体験をしたことのある人は多いはずだ。一方、この『哲学、脳を揺さぶる』という本は、そんな「学習」ではなく、「発達」の段階にある人を鍛えようという主旨で書かれている。


哲学、脳を揺さぶる オートポイエーシスの練習問題

哲学、脳を揺さぶる オートポイエーシスの練習問題


と、これが本当なら夢のような話だけど、読んでみたところまあそんな簡単ではない。言っていることはわかるんだけど、そして実際にいくつか練習問題を解いてみるのだけど、「こんなんでホントに大丈夫なのか!?」という感じである。ただ、他の人のレビューを読むと「できた、変わった、すごかった」と言っている人もいるので、私の頭が悪いだけかもしれない……。ちなみに、どういう練習問題(エクササイズ)があるのかというと、「限界まで息を吸う・限界まで息を吐くを繰り返す」とか、「俳句をつくる」とか、「スケッチをする」とか、である。


一つ「へぇー!」と思ったのは、「わかった」と思ったときに働くのは大脳皮質であり、「できた」という体験を通したときに働くのは脳幹から小脳、側頭連合野、頭頂連合野にわたる脳の広範囲だという話だ。つまり、何かを習得しようと思った際には、大脳皮質に働きかけるだけではいけない。脳幹から続く、脳の広範囲に働きかけるような何かをしなければいけない。そして、脳の広範囲に働きかける何か(体験)とは、「身体的なイメージ」のことである。そのため、この「身体的なイメージ」を拡張し、これまでの経験をリセットする、というのが本書の狙いであるわけだが、ま、難しいよね。私はそんなに上手にできませんでした。

三鷹天命反転住宅 ヘレン・ケラーのために―荒川修作+マドリン・ギンズの死に抗する建築
面白いなと思ったのは、この本で触れられている荒川修作の建築「天命反転住宅」である。「天命反転住宅」では、上下が逆転している。床が頭の上にあり、天井が足元にある。キッチンや水道も上からぶら下がっており、そもそも床と壁と天井の区別がない球体の部屋とかがある。ここでしばらく過ごすと、何やらめちゃくちゃに疲れて筋肉痛になるらしい。確かに、聞いてるだけで頭が痛くなる。「水道とは自分のちょうど腕のあたりにあるもの」という経験を強制的にリセットされ、身体イメージの変化を迫られるからだろう。


子供の頃は、「経験」がないから、言ってみればこういうことの連続なんだと思う。初めてスマホの画面を触ってそれが動くとき、初めて自転車に乗るとき、初めてプールに入るとき。だけど、知識として知らないことはまだまだあっても、さすがに身体的イメージのほうは一通り経験してしまった大人にとっては、新たな身体的イメージを加えることはかなり意識的にやらないと難しい。最近は、暗室の中に入ったり自分もシールを貼ったりする参加型の現代アートをよく見かける気がするんだけど、これはたぶん、私たちの身体的イメージをどうにか更新させようと、アーティストが頑張って考えているのだろう。上手くいっているかいっていないかは別として。


最初の話にもどって、では私のような"お鈍チン"が街をよーく観察できる人になるためには何が必要なのかというと、身体的イメージに改変を加えろ、ということになる。そんなこと言われても……という気がしないでもないが、真面目な話、目が六個あると思えばいいのかもしれない。本書にも、「目の位置を変えろ」というエクササイズがある。自分は役者で街は劇場、そこに客席にいる観客の目線を足せるようになれば、確かに何かは変わるのかもしれない。


aniram-czech.hatenablog.com

*1:たぶん

「境目」はない、という意識で生きてみる。

人は変わる。当然ながら、考え方も変わる。もちろん、1日2日でコロコロ変わっていたら問題だが、数年間単位で考え方が変わることはそう珍しいことではない。


私がここ数年間で、自分で明確に変わったと思う考えは、「境目」ってヤツはどうもないらしい……ということだ。2〜3年前は、「境目」があると思って生きていたし、それは目で見ればすぐにわかるものだと思っていた。


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たとえば、下世話な例で申し訳ないが、性行為をする際に、首を絞められることで快感を感じる、という女性がいるらしい。


「らしい」というのは、私自身はとにかく肉体的な痛みや苦しみにひどく弱い人間*1で、歯医者で「これくらいなら我慢できる人も多いんですけど……麻酔、します?」と聞かれたら即答で「絶対にします!」と返すようなヤツなのだ。ノー麻酔で様子を見つつ、それでもやっぱり耐えられなかったらとか、そんな悠長なことは言わんでいい。耐えられないことなんかわかってるので、麻酔という選択肢があるなら問答無用で麻酔。ほっぺがブクブクするほうが嫌だからノー麻酔で耐えた、などという武勇伝を聞くと「ありえない」と思う。


そんな人間なので、今は平和だからいいけれど、もしも日本が政情不安定になって秘密警察が跋扈するような国になってしまったら……私は拷問にかけられたら終わりである。普段はそれなりに口が固く、不用意な発言はしないほうだと思うんだけど、拷問にかけられたら初っ端から洗いざらい白状し、家族だろうが恋人だろうが友人だろうが関係なく警察に売る自信がある。いつかのために先に謝っておく、みんな、ごめん。


で、それはいいとして、だから首を絞められることで快感を感じるというのは、ちょっと私にはない回路だ。私にはない回路ではあるが、しかしこういうのは個人の自由なので、人の楽しみにいちゃもんをつけるつもりはない。でも、まあ、どうか気を付けて、とは思う。快感を越えた一歩先に、死が待っている可能性があるからだ。


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多くの人はその「一歩」を踏み超えることはなく、たぶん三歩くらい後ろで上手くやるんだろう。三歩と一歩、そしてそれを越えてしまった一歩先、それぞれの間には明確な「境目」があって、それはいついかなるときも見えているはずだ。見誤るのは故意、あるいはバカ。たぶん、2〜3年前はそんな意識で生きていたと思うのだけど、今年に入ってからは自分のこの認識が、たぶん間違ってるんだろうなと感じるようになった。


「境目」なんてのはない。仮に見えているとしても、それは脳内で作り出した幻想だ。どこまでが三歩前で、一歩前で、一歩先なのか、それは誰であっても絶対にわからない。


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そう思うようになったきっかけはいろいろあるのだけど、1つあげるとすれば、昨年インドネシアを旅したことかな、と思う。首絞めセックスから急に健全な話になるけども、昨年のちょうど今頃、私はバリ島、ギリ・アイル、ロンボク島、そしてジャワ島のジャカルタと、インドネシアの島々を船や飛行機でぐるぐるとまわっていた。



国と国との間には、通常「国境」がある。それは目に見えるもので、正式な手続きを経ずに越えるとけっこうマズイことになる。だから私たちは、他の国に行くときはパスポートを見せるなりビザを取得するなりするわけだけど、「国境」なんていうのは実は、脳内で作り出した幻想だ。


バリ島とギリ・アイルの間の移動は、船で二時間くらいかかる。バリ島と、海を渡った先のギリ・アイルは、雰囲気が全然ちがう。バリ島には湿ったような濃密な霊気があるけれど、ギリ・アイルはカラッとしていて空が抜けるように青い。でも、「同じ国」なんだ、海を隔てていてこんなに雰囲気がちがうのに、国境の内側だから同じインドネシアなんだ、変なの、と思った。


ギリ・アイルとロンボク島は船で10分なのでそんなに雰囲気に変化はないのだけど、ロンボク島から飛行機で首都のジャカルタまで移動すると、そこはもう別世界である。警察がピリピリしながら路上の物売りを怒鳴っていて、交通渋滞がひどくて、排気ガスがすごい。バリ島も、ギリ・アイルもロンボク島も、ジャカルタも、それぞれがこんなにちがうのに、全部「同じ国」ってことになっている。人間って、雑だな! 少し考えてみれば当たり前かもしれないんだけど、私がアホだったせいか知らなかった。


東京と沖縄が「同じ国」ってことになってるのだって、私たちは普通に受け入れているけれど、宇宙人からしたら「正気か? 雑だな!」って話なんじゃないだろうか。反対に、国境を隔てているけれど人々の顔付きも文化にもそんなに変化はないね、というケースもあるはずで、だからやっぱり国境なんて便宜的に引いているだけだ。


聖と俗の間に境目はない。男と女の間にも境目はない。今日と明日の間にも境目はない。たぶん、本当は全部ぐちゃぐちゃでごちゃまぜなんだろう。


「境目」はない、という意識で生きてみる。いろいろなものの輪郭は、ぼやけている。足元が不安定でちょっと怖い。しかし、こっちの世界はこっちの世界でなかなか楽しいので、私は来年以降も引き続き、こっちの世界観を続行だ。

*1:余談だけど、「忙しくてもめんどくさくても、体のSOSは無視しない」を読んで、痛みや苦しみに弱すぎるおかげで、私は絶対に無理をしないので、それで救われている部分もあるのかもしれないと思った。が、無理ができないので限界の一歩前で引き下がってしまう癖がマジで悩みでもある