チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

どうしても「待てない」人たちへ

本の受け売りなのだけど、人間を精神的に追い詰める状況は、以下の2パターンのどちらかに分別できるらしい。

①トラブルがいくつも重なる。まさに「弱り目に祟り目」といった事態。
②どうにも動きようがなく、じっと待つしかない状況。そのもどかしさと不安。


春日武彦待つ力 (扶桑社新書)


私自身のことを振り返ると、これは幸運といっていいと思うんだけど、今までの人生で①の状況に陥ったことはほぼなかった。大きな病気はしたことがなく、あり余っているわけでは決してないが、明日の食事に困るほど金銭的に困窮したこともない。仕事だったらトラブルが重なったことはあったけど、1つ1つが大したことなかったせいか、そんなに精神的に追い詰められなかった。もちろんこれから先どうなるかはわからないけど、私はあまりトラブルに巻き込まれるタイプの人間ではないみたいだ。


しかし、②の状況に陥って精神的に堪えたことは何度もあるし、「今精神的にヤバイ人〜!」という号令で体育館に人を集めたら、割合的にも②の人のほうが多いんじゃないかと思う。「こちらから何度も送っているうちに、ついに好きな人からLINEが返ってこなくなってしまいました。私はどうしたらいいんでしょうか?」みたいなのは(追い詰められる、というにはちょっと軽いけど)典型的な②の状況だ。そしてこのような状況に対する回答は、言い方には人ぞれぞれ個性が出るけれど、基本的には「何もするな。もうちょっと待ってみなさい」という内容で統一されるのではないかと思う。問題は、もどかしさや不安を抱えながらどのようにして「待つ」のか、というところにある。

いささか大げさに申せば、待つことは自分の運の強さを試す営みに近い。運命の悪意や気まぐれに、こちらは強制的に付き合わさられる。
(中略)
待つという行為は、それが切実なほど、待ち時間が長いほど、こちらの心が弱っているときほど、妄想的な色彩を帯びがちとなります。考えが現実離れしていったり、被害妄想的になっていきかねない。


春日武彦待つ力 (扶桑社新書)

アゴナールの城壁


話は変わって、イタリアの作家で、ディーノ・ブッツァーティという人がいる。雰囲気的にはカフカに似ていて、皮肉っぽくて意地悪な話が多いのだけど、私はそういうのが大好きなので漏れなくブッツァーティも大好き。そのブッツァーティの短編に、『アゴナールの城壁』という作品がある。


中東かどこかの砂漠地帯で、主人公は城壁に囲まれたアゴナールという町をガイドに案内される。アゴナールは周囲との交流を一切絶っていて、しかしユートピアに似た素晴らしいところらしい。主人公とガイドがたどりつくと、なるほど町は20〜30メートルの高い城壁に囲まれており、中の様子を窺い知ることはできない。そして、その城壁のまわりには、大小のテントがたくさん張られている。彼らはユートピアに憧れて、アゴナールの城壁の門が開くのを、今か今かと待っているのだ。


待っていたのは 短編集

待っていたのは 短編集

(※こちらの短編集に収録されている)

「で、門はいつ開くわけ?」と主人公はガイドにたずねる。だけどガイドは、「わからない」と言う。今日かもしれないし、明日かもしれないし、3ヶ月後かもしれないし、5年後かもしれない。それを聞いて、主人公は呆れる。そんな曖昧なもの、テント張って待ってるなんてバカなんじゃないか、と。


しかし、紆余曲折あって、主人公は実に24年もの間、野営をしながらアゴナールの城壁の門が開くのを待つことになってしまった。でも24年の間、結局、門は一度たりとも開くことはなかった。主人公はとうとう諦めて、自分の国へ帰る決心をする。そして、そんな主人公を見て野営仲間たちは言う。「あんたはせっかちだなあ。もう少し待ったら門が開くかもしれないのに。あんたは人生に多くのものを求めすぎだ」と。


主人公が去ったあと、アゴナールの城壁の門がどうなったのかは書かれていない。だけど、もし自分が去った一時間後に門が開いたとしたら、主人公はどう思うだろう。そしてその可能性はゼロではまったくない。「待つ」ことはだから、ギャンブルに似ている。自分の、運の強さを試すものだ。そして、だからこそ多くの人は、「待つ」ことに耐えられない。そんな不確かなものに自分の身を委ねるわけにはいかない。


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「続かない」のはなぜか


ダイエットが続かない、筋トレが続かない、ブログが続かない。よくある話だし、私自身にも腐るほど身に覚えがある。ではこれらが「続かない」のはなぜかというと、待てないからだ。今日食事を抜いて、明日すぐに目に見えて痩せるなら、ダイエットが続かない人なんていない。筋トレを始めて、明日すぐに心身の変化があって人に体を褒められたら、筋トレが続かない人なんていない。ブログを始めて、1週間後にすぐに10万円稼げたら、ブログが続かない人なんていない。


みんな、待てないのだ。効果が表れるのはいつなのか、自分の身に変化が訪れるのはいつなのか。続けても、このまま何も起きないんじゃないか。「継続は力なり」というが、どちらかというと「継続はギャンブル」だ。時期を教えてくれるだけでもいいのに、と思う。「1年間毎日続けたら確実に変化が起きます」。もしも神様のような絶対的な存在がそう教えてくれたら、まあうっかり1日2日忘れることはあるかもしれないけど、たぶん多くの人は、続く。アゴナールの城壁の門も、待ち時間が問題なのではない。「いつ開くのかわからない」ことが問題なのだ。「30年かかるけど、30年待てば確実に開く」ということがわかっていたら、主人公だって途中で野営をやめたりしなかっただろう。


で、じゃあ結局、『アゴナールの城壁』の主人公は、どうすれば良かったのだろうか? 最初からそんな曖昧なもの、待つべきではなかったのか? それとも、「3年」とか「10年」とか、期限を決めて待てば良かったのか?



前者のように考えた人は、もしかしたら、「俺は別に今、特に何も"待って"ないけど?」って人なのかもしれない。しかし、私たちは少なくとも、自分にいつか死が訪れることをわかっていて、その上で生きている。これは、死を待っている、とも言える。なので、本質的には「待つ」ことをしていない人は誰もいない。いつ死が訪れるかはわからない。明日かもしれないし、60年後かもしれない。これはまるで、『アゴナールの城壁』と同じ構造ではないか。なので、「最初からそんなもん待つべきじゃない」と言う人は、それは「今すぐ死ね」と言っているのと同義だ(ってのは、ちょっと暴論だけど、でも、そうじゃないです?)。


期限を決めて待つ。こちらはもう少し穏やかである。3年待ってみてダメだったら、10年待ってみてダメだったら。損切りが重要になってくるシーンもあるだろうし、まあ妥当なんじゃないかなという気はする。でも、なんか、モヤモヤする! 好きな人からのLINEが返ってこない女の子に、「1ヶ月待ってみて、ダメだったら彼のことは諦めなさい」というアドバイスは確かに有効に見えるけど、1ヶ月経った時点でスパッと切り替えられるかというとそうはいかないのが人間だし、その1ヶ月が長くて苦しいから相談しているのである。


そこで提案したいんだけど、実は、もう1つ道がある。それは、「待っていることを忘れること」だ。実際、私たちは自分の死に対しては、こちらの方策を採用している。


私たちは死を待っている。死は、いつか必ず訪れるものではあるけれど、いつ訪れるかはまったくわからないというひどく厄介なものだ。だから、忘れる。私を含め、多くの人は自分が死ぬことについて、リアリティを持っていない。それを平和ボケとか言うこともあるけど、しかし考えてみればこれはなかなか賢い選択なのだ。


アゴナールの城壁』の主人公は、待っていることを忘れれば良かった。テントを張って、野営をして、形式的には「待っている」ことになれども、仲間たちとの交流を楽しんだり、アウトドアにめちゃくちゃ凝ってみたり、砂漠でラクダに乗って遊んでみたり。そしてときどき、一瞬だけ思い出せば良かった、いつかアゴナールの城壁の門が開くかもしれないことを。そうすれば、いつまでもいつまでも待っていることができた。


いつも頭にあるから不安になる。いつも考えているから待てない。損切りしてしまったほうがいいシーンは確かにある。でも、私たちには死がある以上、すべての「待つ」ことからフリーになることはできない。だとしたら、やっぱり「いったん忘れる」しかないのだ。


忘れる、でも待っている。自分の運の強さを信じて。「待った上で、結果が出て、やっぱりダメだったら?」そのときは、運命を受け入れる覚悟をして。


神を見た犬 (光文社古典新訳文庫)

神を見た犬 (光文社古典新訳文庫)

(※『待っていたのは』は高いので、ブッツァーティの作品に触れてみたい方にはこっちのほうがおすすめ。『七階』が人気みたいだけど、私が好きなのは『コロンブレ』)

多くあたえる人は、多く受けとれる

基本的に、「気前のいい人」でいたほうがいいんだろうな、と思っている。たぶん、これは私が勝手に思っているだけではなくて、日常で私のまわりにいる人や、私のブログを読んでくれている人の多くが、共感してくれることだろう。


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「気前のいい人」は、とにかく人を褒めるのが上手い。

実際に言うとなると恥ずかしくてちょっとためらうようなことでも、平気で「素敵ですね」と言う。上手い人からすると、「だって褒めるのはタダだからね」とでも思っているんだろうか。また、ちょっと気の利いたプレゼントをくれたりだとか、押し付けがましくない程度の絶妙な気遣いを見せてくれたりだとか、ギブ&ギブの精神でとにかく「あたえて」くれる。そしてそういうことを続けていると、たくさんの人に好かれるので、結果、自分がトクをする。意識的にやっている人と無意識的にやっている人と両方いるんだろうけど、私の推測では前者のほうが多いような気がする。意識的にやるのが悪いってわけではもちろんなくて、むしろそっちの人のほうが、「わかって」いるんだろうなあ、という気がして私は好きだ。


だけど今日の話は、「はい、だからみなさんもギブ&ギブの精神で、慈愛をこめて周囲の人にあたえまくりましょうね。周囲の人を幸せにすることが、自分を幸せにすることの第一歩ですからね」みたいな内容では全然ない。私がそんなことを書くわけがないだろう(いや別に書いてもいいけど)。以下は一つの問題提起というか、私が最近考え込んでいた内容である。

彼女はなぜ多額の借金を背負ったのか?


これはある知人男性の話なのだけど、彼は風俗で働いている女の子とけっこう仲が良くなったので、そこで働くようになった動機をたずねてみたらしい。もちろんこれはその女の子限定の話なので、風俗で働く女性の全員が同じ動機だというわけでは全然ないんだけど、彼女に関していえば理由は「借金」だった。友達に誘われて行った催事場みたいなところで、100万円以上する指輪をいくつか買ってしまい、その支払いが滞ってしまったらしい。


知人男性は、その女の子のことをしきりに「優しい子だから」と言っていた。いわく、人を褒めるのが上手くて、人にお金を使うことに躊躇がなく、押し付けがましくない程度の絶妙な気遣いができ、いつも笑顔が可愛い(それが仕事だからかもしれないが)。だからこそ、友達を裏切ることができなくて、結果的に利用されるような形になっちゃったんだよね、という話だった。


勘のいい方は、ここで話が冒頭にもどることにお気付きだろう。ようは、「ギブ&ギブの精神で結果的にトクする人」と、「ギブ&ギブの精神でやっぱり何かを失う人」と、その境目はどこにあるんだろう、ということだ。たぶん、風俗嬢の彼女が「優しい子」だというのは本当に本当なんだろう。ただ、その優しさを利用されてしまう人と、利用されない人とでは、何がちがうんだろうとつい考え込んでしまった。


おそらく、何かそれっぽいことを言うことはできる。「周囲に依存しているかしていないか」とか。でも、なんかそれって曖昧だよね。だからなんとなく、グレーなんだろうな、と思った。トクをしているように見えて実は影で損しているのかもしれないし、「借金が返せなくて風俗の道へ」というととても可哀想な話に聞こえるけど、実は彼女は自分に向いた究極のサービス業に従事することができて、満足しているかもしれない。「損して得とれ」とはよく言うが、はたしてその「損」とは具体的に何を指すんだろうか?

ペイ・バックは贈与の裏返し


同じ時期に、パプアニューギニアの風習「ペイ・バック」について考えていた。「ペイ・バック」とは、仕返し、復讐のことである。「目には目を、歯には歯を」を地で行く風習で、たとえば日本人がパプアニューギニアで人身事故を起こしたりなんかすると、加害者は法律で裁かれる前に、現地の民族からの報復を受ける可能性がある。


事故を起こしたりなんかのトラブルはもちろんだけど、恋愛上のトラブルとか、仕事上のトラブルでもこの「ペイ・バック」はあるらしくて、女性とひどい別れ方をした男性が彼女の家族に「ペイ・バック」によって殺され、遺体がミンチ状になって発見された……なんて事件も起きているらしい。旅行者はこの「ペイ・バック」に非常に注意しなければならないと、どこの観光ガイドにも書いてある。


面白い(って言っちゃダメなんだけど)のは、この「ペイ・バック」は、トラブルを起こした当の加害者だけでなく、危害がその周辺の人物にも及ぶ可能性があるということだ。パプアニューギニアの民族は「ワントーク」という概念を持っていて、同じ言語を話す者たちは同じ民族だと考えている。Aが加害者になったとき、報復を受けるのはAだけでなく、Aと同じ民族であるBにまで及ぶことがある。


初めてこの話を知ったとき、なんかこれ、どっかで聞いたことあるんだよなと思ってしまったのだけど、それは私が今年に入ってからよく考えていた「贈与経済」だった。

浮いた氷山の水面下には何がある?:『発酵文化人類学』を読む - チェコ好きの日記

「ぐるぐる」をもう少しわかりやすくいうと「コミュニケーション」だけど、しかしやっぱり私が思う意味により忠実なのは「ぐるぐる」のほうだ。そして、「生きる」ことが「ぐるぐる」であるが故に、「ぐるぐる」の流れはあまり止めないほうがいいらしい。すごい平易な言い方をすると、「昔は上司におごってもらったから、今度は自分が部下におごってあげよう」みたいなことになると思うんだけど、おごられっぱなしだと実は得するようでめちゃめちゃ損するようになっているっぽい。なんでかは知らないけど。あと、「上司におごってもらったので上司におごり返す」のではなく、「今度は部下におごる」というのがミソで、右から来た首飾りは右に返すのではなく左に流すのがキマリのようだ。なんでかは知らないけど。


「贈与」では、贈り物をする。ただ、必ずしも贈り物をしてくれた本人に贈り物を返さないといけないわけではなくて、同じ流れの中にいる別の人に贈り物をしたほうが、「ぐるぐる」できる。なんだかこの仕組み、やりとりされるものが好ましい「贈り物」から、好ましくない「仕返し」になっただけで、「ペイ・バック」とよく似ている、と思った。


多くあたえる人は、多く受けとれる。


それは嘘じゃないが、そこにあるのは「仕組み」だけで、やりとりされるものの正体はいつだってわからない。マルセル・モースの『贈与論』には、giftという語には「贈与」と「毒」という二つの意味があると書いてあって*1、私は「ああ、やっぱり」と、とても納得したのだった。


呪いは、反転すると祈りになる。損は、反転すると得になる。仕返しは、反転すると贈り物になる。


誰が得をしていて、誰が損しているのか。それはたぶん、死ぬまでわからないんだろう。いや、死んだあとだってわからないかもしれない。


贈与論 (ちくま学芸文庫)

贈与論 (ちくま学芸文庫)

*1:p222

「書いている」なんてレベルでは、まだまだ

私たちはだれでも、なんとなく、「ホンモノは、とても純粋だ」と思っている。お金が欲しいからとか、有名になりたいからとか、成功したいからとか、モテたいからとか、そういった感情のすべてを完全に否定するわけではない。でも、そういった感情はやっぱり不純物だと思っていて、有名になった人にかつてそういった感情があったことを知ると、ものすごく軽蔑したり幻滅したりする。


お金なんてなくてもいいし、有名になることなんて望んでいないし、成功もモテもいらないけれど、ひょんなことから人目について、話題になってしまった。全然、ねらってなんかいなかったんだけど。モデルや俳優の応募理由でよく「友達が勝手に応募しちゃって……」ってのがあるけれど、これもその典型だろう。なぜ私たちはお金や成功やモテにこんなにも否定的な感情を抱くのか、その理由を読み解くことは今回の主旨ではないので省略するけれど、いずれにせよそういった状況はある。ちなみに、私がブログを書いているのは、お金が欲しいわけでも、有名になりたいわけでも、成功したいわけでも、モテたいわけでもないよ。ホントだよ。


まあそれはいいとして、そんなふうに純粋な状況を究極的に求めるとなると、たどり着くのは「アウトサイダー・アート」になってしまうのではないかと思う。ピカソなんか、現世で金持ちになって女にモテまくってるから、レベルとしてはまだまだである。売れたかったけど現世では夢叶うことなく、死後にようやく評価されることとなったゴッホで「いいカンジ」だ。しかし、ホントのホンモノは、そもそも「金」「成功」「モテ」そういった邪心とは最初から完全に無関係なはずである。ただひたすらに、己の表現欲に突き動かされるまま描き、本人の死とともに危うくこの世から葬り去られそうになったそれを、知人が遺品の整理でたまたま発見して戦慄する。私たちはそんな、ヘンリー・ダーガーみたいなシチュエーションに、うっとりするような夢を見るのだ。


ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で

だれから習うことも、だれから盗むこともなく、だれから強制されることもなく、だれから対価を支払われることもなく、ただ自分の内なる声の命ずるままに、なにかを生み出しつづける人々がいる。芸術という名の産業から遠く離れた地にあって、彼らはときに変人と呼ばれ、知的障害者と呼ばれ、霊能者と呼ばれながら、黙々と自分だけの閉じた宇宙を紡いできた。アウトサイダー・アーティスト。動くのではなく、動かされる者。作るのではなく、作らされる者。俗界のはるか彼岸と交感しつづける、孤高のアンテナ。


都築響一珍世界紀行 ヨーロッパ編―ROADSIDE EUROPE (ちくま文庫)』(p225)


Twitterやインスタグラムでフォロワーが何万人もいる人のことを「インフルエンサー」なんて言ったりするけれど、そういう人たちを前にして、私たちが頭を抱えることは少ない。「何のために毎日、ツイートや写真を発信してるんですか?」なんて疑問に思ったりしない。それが仕事だから、あるいは仕事に繋がる可能性があるから、である。フォロワーをお金で買ったり、Twitterでキラキラ女子を演じたり、インスタ映えだけを重視してかわいいスイーツを撮影後に捨ててしまったり、そういう人たちを軽蔑することはあっても、疑問を持ったりはしない。何のためにそんなことをするのか、動機は十分に理解できるし、むしろ自分の中にも少しだけそういう部分があるからこそ、あからさまな行動に出る人を糾弾するのではないだろうか。


だけど、いわゆる「アウトサイダー・アーティスト」を前にすると、私たちは悩む。上の引用で都築響一さんが言っているように、彼らは「俗界のはるか彼岸」と交感している。自分だけの閉じた宇宙を、生涯をかけて紡いでいる。フランスには「シュヴァルの理想宮」という建造物があるが、郵便配達夫フェルディナン・シュヴァルがなぜこんな奇妙な宮殿を作り上げたのか、理解できる者は多くないだろう。「なんだそれ」と思った人はググって欲しいのだけど、彼は34年かけて、給料のほとんどをセメント購入にぶっこんで、周囲に変人扱いされながら理想の宮殿を作り上げた。これがホントの「好きなことして生きていく」だ、と私は思う。シュヴァルは自分の作りたいものを作るのに、だれからの評価も、対価も、名声もいらなかったのだから。


郵便配達夫シュヴァルの理想宮 (河出文庫)


19世紀後半、郵便配達夫のシュヴァルは43歳のとき、家路につく途中で小さな石に躓いた。その石を拾い上げて見てみると、なかなか面白い形をしている。石が気に入ったシュヴァルは、それを家に持ち帰る。以来、シュヴァルは石の収集がやめられなくなり、集めた石たちで自分の理想の宮殿を作ろうと思い立つ。郵便配達の仕事をしながら、勤務を終えたあとに、シュヴァルは暗闇の中でロウソクを灯しつつ、完成までの40年以上、宮殿作りをずっと続けたのである。もちろんインスタグラムなんてないので、「今日はここまで出来ました! #シュヴァルの理想宮 #めっちゃ疲れた #あと何年かかるの」なんて投稿できない。究極的に孤独な作業である。


だけど、きっとシュヴァルはこの作業が、毎日とても楽しかったにちがいない。楽しくなかったら40年以上も続かないだろう。「自分だけの閉じた宇宙」というと「無理!」と思う人も多くいそうだが、私は、それって理想的な世界だし羨ましいよな、とよく思う。動くのではなく、動かされる。作るのではなく、作らされる。自分のためでも、誰かのためでもなく。そういう流れの中で表現できているときが、たぶん人間はいちばん楽しい。


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(※都築響一さんの『珍世界紀行』の中で、私はラ・スペーコラとボマルツォの怪物庭園なら行ったことアリ)


シュヴァルが43歳デビューだったとはいえ、きっと私自身は、ヘンリー・ダーガーやシュヴァルのような作品を創造することは生涯できないだろう。だけど、市井に生きる一般人でも、ごくごくたまに、動くのではなく動かされる、作るのではなく作らされる、書いているのではなく書かされている、ような感覚に陥ることはある。そういうときは、名声を得たいという意志でもなく、他者から求められる需要でもなく、もっと別の何かが動いている。そして、完全なアウトサイダー・アーティストになることはできなくても、そういった瞬間が多く持てた人は、たぶん幸せだ。


自分の意志と他者からの需要の間で、私たちはたぶん今後も永遠に悩み続けることになるだろう。自分のやりたいと他者から求められるものの間で、妥協点を見出しつつ上手いやり方を模索するのは賢い生き方である。でもこの手の問いの本当の正解は、たぶん、自己でも他者でもない、もっと不思議な何かに動かされることだと思う。他者から「書かされる」のでも自分で「書いている」のでもなく、不思議な何かに「書かされている」。市井の人がごくたまにしか持てないその瞬間を常に保ち続けているように見えるから、アウトサイダー・アートは、やっぱり今日もすごく眩しい。

私はまだタイに行ったことがない。


……と、いう上のツイートはちょっとした冗談なんだけど、私は、やっぱり幽霊なんかいないんじゃないかって思ってる。いないっていうか、いるんだけど、それは私たちの外側ではなく内側に存在している。「何か嫌な予感」とか、「天候が変わる前触れ」みたいなのを感じ取れる人は確かにいて、ただそれは別に人の形をしてはいない。霊感がある人(の脳)っていうのは、「何か嫌な予感」という言語化・視覚化できないものを具現化するために、仕方なく、人の形をした何かを見ているのではないかと思うのだ。

森や丘や谷を前にすると 動物や他のものだった 私の前世が現れる

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ところで、タイに行ってみたい、と思ったことが私はこれまでほとんどない。というか、今もそんなに強くタイに惹かれているわけではなくて、バンコクにもチェンマイにも離島リゾートにもほとんど興味がない。


ただ一箇所、あの人の故郷を見てみたい、と思っている場所がタイにはある。

あの人とは、映画監督のアピチャッポン・ウィーラセタクンだ。彼の故郷はタイの東北、イサーンと呼ばれる地域である。タイでもっとも貧しく、メコン河の向こうはもうラオス。もしもタイに行くなら、ラオスから陸路で入国して、アピチャッポンの故郷であるイサーンを見てみたい、と思う。



映画『ブンミおじさんの森』予告編


アピチャッポンの代表作である『ブンミおじさんの森』は、初めて観たときから私の中でまったく色褪せておらず、むしろ深みを増しているから、この映画の公開が2010年だったことを知って今びびった。そうか、もうそんな前か……。しかし、あと50年は余裕で観られる強度のある作品である。エンタメ色はかなり薄いので、人にはあまり薦めないけど、私は初めて観たときからこの映画がずっと大好きだ。



ブンミおじさんの森』は、アピチャッポンがとある僧侶からもらった、『前世を覚えている男』という本がもとになっているらしい。

前世を覚えている男・ブンミさんは、今生きている人間としての自分だけでなく、その前の複数の生を思い出すことができるという。象狩りだったときのこと、水牛だったときのこと、さまよう亡霊だったときのこと。ただし、どの生を生きているときも、ブンミさんはいつもタイ東北、イサーンにいた。


この話をこれだけ聞くと、このブンミさんって人は、頭がおかしい人なんじゃないかと思うだろう。まあ実際、冷めたことをいうと本当にただ頭がおかしいだけの人である可能性めちゃめちゃあると思うんだけど、アピチャッポンの『ブンミおじさんの森』を観ると、ブンミさんの言ってること案外マジかもしれない、と思えてくるから不思議だ。


私はまだタイに行ったことがない。映画の舞台であるイサーンのことなんか、欠片も知らない。だけど、この映画に出てくるすべての映像になぜか私は見覚えがあって、知らないはずの場所が涙が出るくらい懐かしい。


Metaphors [HEADZ219]
(※アピチャッポン映画の音楽を集めたサントラ、めちゃめちゃよい)


これは、私も前世でイサーンに住んでいたのかもしれない……というオカルトな話ではなくて、単純に、優れた芸術というのはそういうもんなのだ、という解釈をするのが正しいと思う。アピチャッポンの『ブンミおじさんの森』以外にも、私はアンドレイ・タルコフスキーの『ノスタルジア』を観たときに同じ感覚に陥った。「どうしてこの人は私のことを知ってるの?」という気にさせるものが、アートでも、映画でも、文章でも、いちばん強い。


アピチャッポンはインタビューで、ブンミさんのことが羨ましかった、と語っている。その気持ちは私もすごくわかる。ブンミさんは前世を覚えているから、映画がいらない。映画がなくても、まだ見ぬ景色を懐かしいと思えるから、覚えているから、映画がいらない。今生きている生しか知らない私たちのような人間は、映画や文学を通してしか、他の生を生きることができない。


アピチャッポン・ウィーラセタクン  ──光と記憶のアーティスト

アピチャッポン・ウィーラセタクン ──光と記憶のアーティスト


ブンミおじさんの森』でいちばん好きなシーンは、行方不明だった息子が猿の霊になったといって毛むくじゃらになって訪ねてくるところもユーモアがあっていいけれど、やっぱり、王女さまが夜の川でナマズとセックスしてたら自分もナマズになっちゃうところである。このシーンのロケ地がイサーンのどこなのかわからないけど、そのものズバリの場所じゃなくても、似たような場所があるならいつか、イサーンを旅してみたいと思う。


このシーンで王女さまが言う「水面」とは、さながら映画のスクリーンのことであり、また文字が書かれた原稿用紙のことかもしれないと、私は思うのだ。

水面に映る影は幻とわかっているけれど 本当にあれは幻?

「語られて」しまうもの、あるいは編集された人生

インタビュー記事、取材記事、といった類のものがある。数は多くないけれど、私自身も、インタビュー「する」側「される」側、ともに関わったことがある。これらの機会をあたえてくれた人たちに、感謝している。


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これらの記事には、大きく分けて二種類あると私は思っている。一つは、「本人(インタビュイー)にとって名誉なことがクローズアップされているもの」。そしてもう一つがその逆の、「本人にとって不名誉なことがクローズアップされているもの」だ。


自分自身に関していうのであれば、私は今のところ前者にしか関わったことがない。

「される側」として、ライターとしての経験やお金の使い方を聞いてもらって記事にしてもらえたことがある。「する」側として、汚部屋から一転、お掃除ブログを立ち上げて書籍出版に繋げた方や、本業でバリバリやっている占い師の方に話を伺わせてもらったことがある。働き方とか、仕事論とか、あとは専門家にご意見を頂戴するとか、まあいろいろあるけども、いつもあなたがウェウブメディアで読んでいる記事をちょっと思い返してもらえれば、「本人にとって名誉なことがクローズアップされている記事」の意味をだいたい理解してもらえると思う。


もう一方の「本人にとって不名誉なことがクローズアップされている記事」は、貧困ルポとか、風俗嬢インタビューとか、そういうやつである。もちろん性産業に関わっている方への取材であっても、有名なAV女優に仕事論を語ってもらうとか、本人にとって良い部分をクローズアップしている場合は前者の範疇になる。つまり、まどろっこしいのでもっとスッパリ言ってしまうと、記事を読んだ人に「この人みたいになりたい・やってみたい・こういうのもアリかも」と思わせるのが前者で、「この人みたいにはなりたくない・なってしまったら怖い」と思わせるのが後者だ。


二者を並べて、優劣を語りたいわけではない。前者を批判する理由はないとして、後者に関しても、意義深いものはたくさんある。世の中、綺麗事だけじゃ済まねえのだ。


ただ、どちらの記事に関しても、読むと私の中にはいつも、拭いきれない違和感が残った。この違和感の正体は何なんだろうとモヤモヤしていたところに、岸政彦さんの『断片的なものの社会学』を読んだら、それがちょっとだけわかったのだ。


断片的なものの社会学

断片的なものの社会学


「どちらの記事に関しても」とは言ったものの、割合的には、後者の「本人にとって不名誉なことがクローズアップされている記事」を読んで違和感を覚えることのほうが多い。


理由はなんとなくわかっていて、後者で取材する貧困層の方の中には意思疎通そのものが難しいって場合があるだろうし、文章に関しては読むのも書くのもあまり得意でない方がいるだろうと推測する。つまり、取材する側が、いかようにも話をねじ曲げることができるのだ。ねじ曲げるというと嘘を書いているみたいになっちゃうけど、そういう意味ではなくて、ようは主導権が取材する側にあって、どんなエピソードもある決めた方向に回収していくことができる。


なので、「本人にとって不名誉なことがクローズアップされている記事」を読むと、私はいつも、「これ、ホントにこういう話なのかな?」と思ってしまうのだった。もっと強く言うと、「おいあんた、ちゃんと原稿チェックしたのか!? こういう話にされちゃってるけど、それであんたは良かったのか!?」と思ってしまう。もちろん、ここでインタビュイーのほうを責めるのは筋違いだってことは、百も承知してるんだけど。


前者タイプの記事においては、違和感が残る割合は後者タイプに比べて減りはするけれど、しかし「どんなエピソードもある決めた方向に回収する」ということをやっていないはずがない。ただ、名誉なことをクローズアップされる人というのは意思疎通がスムーズでかつ自身も文章表現に長けている方が多いと推測するので、主導権が半々になるだけだ。だから、割合は減じるものの、前者タイプの記事を読んでもやはり私はぼんやりと「これ、ホントにこういう話なのかな?」と思ってしまうのだった。


もちろん、こういった「エピソードの一定方向への回収」は、インタビューや取材記事だけで起きている現象ではない。個人ブログでも個人コラムでも、もっと言えばそれぞれの人生でも起きている。「私はAさんと結婚しました」という事実は、私がAさんのことを好きなうちは「いい話」だが、私がAさんのことを嫌いになり始めたら「悪い話」だ。日々起きたことを意味付け、解釈しないと、人は自分を語ることができず、生きていくことができない。だから、エピソードの一定方向への回収が起きること自体はしょうがないのだが、インタビューや取材は「本人じゃない人物がその人の人生・思想を語る」という性質上、それが目立ちやすいのだろう。これはライターが悪いとか下手とかいう話ではなく、「そういうもんだからしょうがない」という類の話である。


だけど、『断片的なものの社会学』で語られているのは、そういった「エピソードの一定方向への回収」から、こぼれ落ちてしまったものだ。「編集でカットされた断片の寄せ集め」である。


ある人を取材する。何時にどこどこで待ち合わせをして、その日はとても寒くて、互いにこういう服を着ていて、自分はコーヒーを、ある人はココアを頼んで、一時間近く話を聞かせてもらう。コーヒーやココアを飲みながら、こういうエピソードがあって、ああいうエピソードがあって、という話をずっと聞いている。でも途中で、ふとしたことから、ある人が飲食店の前を通った犬について言及する。取材の主旨に関係ないので、多くの場合、記事になるときその「犬」への言及はカットされる。「犬」には別に意味がない。実は「犬」に重要な意味が……なんてこともない。本当に、ただ単に意味がないのだ。私たちはそうやって、毎日自分の人生を編集している。


『断片的なものの社会学』は、だからすごく変な本だと思う。「犬」というのはもちろん例えだけど、こういう、通常はカットされるような「犬」の話ばかり書いてある。一つ一つの断片は無意味だが、その断片の集合にはとても大きな意味が……なんてこともない。だから、この本は何も言ってない。しいていうなら、「ああ、そういうこと、あるよね」って感じだ。意味なんてない。


「語られて」しまうものがる。一方で、語られなかったものがある。


重要なのは「語られて」しまうもののほうだが、しかし実は、語られなかったもののほうも、重さは同じだったみたいだ。語られなかったものは、取るに足らないものだから、もっと軽いと思っていた。『断片的なものの社会学』は、取るに足らないものの寄せ集めなのに、ずっしり重い。何かを語ることは何かを捨てることだ、と改めて思い知らされるからかもしれない。


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あたり前田のクラッカーなんだけども、自分だけが読む紙の日記にも、ブログにも、外部のコラムにも、書いてないことなんかいっぱいある。1日は24時間あって、それが365日×生きた年数分あるんだから、全部なんて書けるわけがない。わかってるんだけど、そういう、自分の「書いてこなかったこと」「語ってこなかったもの」を思い出して、ちょっとだけ涙が出た。


絶対に無理なんだけど、本当は、編集なんてしたくない。全部書きたいし、全部載せられたらいい。本当に、そう思う。無理だけど。