チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

お金と時間。私らしくないことを、する。

1.お金と時間。

今年に入ってからというもの、私は、「ああ〜お金と時間が自由だなあ」と感じることが多々あり、すごく解放感を覚えていた。


というと、私のおおよその収入や勤務形態を把握できそうな近しい間柄の人たちに「いや、アンタそんなに稼いでないでしょうよ! 時間だってけっこう縛られてるでしょうよ!」とツッコミを入れられそうだけど、もちろん、これはあくまで主観の話である。


ただ、私はよく「もし、今4億円手に入ったらどうする?」というアホな妄想をするのだけど、たぶん4億円が手に入っても、私は今と変わらない生活を送ると思う。い、家だけ、もうちょっと都心に引っ越そうかな。でも今の家は今の家で気に入っているし、ほんと、それくらいだ。お仕事は今、複数かけ持ちしているけど、ぜんぶ面白いからやってる or お仕事を通して会いたい人がいるからやってるのであって、4億円手に入ったところでそれらを手放す理由はないのだった。4億円手に入っても今とそんなに生活変えない=(持ってないけど)4億円持ってるのと同じ=自由! というロジックである。


しかし、だからといって私が今の生活に満足しているかというと、全然満足できていない。よく自己啓発界隈の怪しいセミナーで「好きなことを仕事に! お金と時間の自由をあなたに!」みたいなやつがあるけど、好きなことを仕事にできても、(主観とはいえ)お金と時間の自由が手に入っても、所詮こんなもんだ。お金と時間の自由は、私の理想の生活において、必要条件ではあるけど十分条件ではないのだった。あんまり「圧倒的成長!」みたいなことを言うと気持ち悪いけど、もっともっと自分自身のレベルを上げていかないと、お金がいくらあったって時間がいくらあったって全然楽しくないのだった。


「お前ごときが、ふてぶてしい……!」と思われるかもしれないけど、今年はずっとそんなことを考えていた。まあ、こういうことを感じるのは、元来私に物欲というものが著しく欠如していることもおおいに関係はしていると思う。相変わらず、本と旅行以外に使い道が思い浮かばない。服や化粧品もそれなりに好きだけど、私は「家に使っていないものがある」とか「まだ使えるのに捨てる」とかがものすごく嫌なので、こっちもそんなに過剰に増やせない。あと、これは人としてダメだと思うのでむしろ改善しようとしているのだけど、美味しい食べ物に興味がない。興味は、持とう!


あと、ガチなお金の話をすると、みんな、歯医者に行ったほうがいいよ! 歯は、虫歯が進行すればするほど健康を害すしお金がかかりまくるので、予防したり初期段階で治したりしたほうが絶対にいいよ! 私は、危うくめちゃめちゃお金がかかるところだったのを滑り込みセーフで治したので、「危機一髪!」と思いました。予防歯科の重要性を説くブロガーに転向しようかな?

2.私らしくないことを、する。

誰かが昔*1「いつものその人らしくないことをしているとき、その人のセクシーさがにじみ出る」ということを言っていた。

セクシー路線を歩みたいグラビアアイドルの卵である私は「なるほど」と思い、2017年はそんなわけで、「私らしくないこと」をけっこうたくさん頑張った1年になったかなと今振り返っている。たとえば、これは始めたの自体は2016年だったけど、格闘技はその一例といえるかもしれない。


aniram-czech.hatenablog.com

身辺雑記的なことを書くと、2016年、私は1月に前の会社を退職し、2月から3月にかけて中東へ旅行し、その旅行中にTwitter上のご縁から次の職場のアテを見つけ、5月からそちらの職場でお世話になり始め、11月にバリ島へ旅行し、12月に引っ越し……となんかわたわたしていたのだけど、2017年は私の脳が「じっとしてたい〜〜〜!」と申していたので、けっこうじっとしていた。2016年ははるばるイスラエルまで行ったのに、2017年は、なんと、関東地方から出なかった……! いちばんの遠出で静岡とかな気がする。静岡県、地味に好きなんですよね*2。あと職場や居住地をコロコロ変えるのも実のところそんなに好きではないので(前の職場5年勤めたしな)、今年はもちろん転職・引っ越し等もしておりません。


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ただ、あくまで旅行に関していうのであれば、半年前くらいに「飽きた」と書いたのだけど、やっぱり私は定期的に外国に行かないと、どうも脳細胞が死ぬらしい。多動症だとか、いてもたってもいられなくなる! という感じでは全然ないのだけど、むしろ根本は「え〜外行くのめんどくさ〜い」みたいなタイプだから半径1キロ内で生活しろとか言われても全然余裕なんだけど、それが快適であるだけに、たまには嫌がる体を無理に引きずってでも遠方に行かないと、静かに、でも確実に、脳細胞がプチプチ死んでいくようである。カラーだった日常の光景が、徐々に色あせてセピアになり、気がつくとモノクロになっているような。おそろしいのは、本人はモノクロになっていることに気づかず、まるで世界が最初からそうで今後も永遠にそうなのではないかと錯覚してしまうことである。……みたいな危機を感じたので、来年は、またどこかに出かけると思う。


下のヤマザキマリさん『世界の果てまで漫画描き*3』のエピソード、すごく共感してしまった。 わ、わかる〜! 旅行前の私は30%のワクワクと、70%の「めんどくせえ」でできているのだ。


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そんな感じで、来年もよろしくお願いします! みんな、歯医者に行こう。

*1:本当に誰だったか忘れた。身近な人なのか著名人だったのかも忘れた。すみません

*2:静岡県は関東地方じゃないが、近場という意味で。

*3:1巻が今、無料だった! 世界の果てでも漫画描き【期間限定無料】 1 キューバ編 (マーガレットコミックスDIGITAL)

「夜のお店」の入り口には、よく盛り塩がしてある

取材の一環で体験入店をしてみたキャバクラの入り口に、盛り塩がしてあった。以来、夜のお店とか、あとはラブホテルの入り口にある盛り塩に目が行くようになり、そういえば今まで通りかかったお店にもそういうところが多かったな、と思い出した。


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最初に盛り塩に気が付いたときはつい、何かおどろおどろしいものを連想してしまったのだけれど、調べてみるとどうやら、魔除けとか幽霊が出るとかっていうよりは、単に商売繁盛を願ってという意味合いが強いみたいだ。でも、本当に商売繁盛だけでいいんなら招き猫でもいいじゃんって思うし、塩を取り替えるのってけっこうめんどくさいし、「夜のお店」に多い、っていうのはきっとその慣習に何かしらの意味はあるんじゃないだろうか。人間の欲望が入り乱れる場所なので、清めておかないと悪いものが溜まるとか考えられているのかもしれない。そういえば、シチリアエクソシストに迫ったドキュメンタリー『悪魔祓い、聖なる儀式』では塩を水に溶かして聖水(スピリチュアルウォーター!)を神父が作っているシーンがあるのだけど、塩に魔除けの意味合いを持たせている文化圏は、世界各所にある。なんでだろ。


聖と呪力の人類学 (講談社学術文庫)

聖と呪力の人類学 (講談社学術文庫)


古い本なので今はまた変化しつつあるのかもしれないが、『聖と呪力の人類学』によると、日本の民俗学シャーマニズムを研究する際、東京や大阪などの大都市は無視されることが多かったようである。確かに、シャーマニズム研究ってなると青森のイタコか沖縄のユタか、みたいな話になりそう。しかし、当然ながら大都市にもシャーマン(霊能者)はいて、こちらの本ではその“大都市圏のシャーマニズム”にきちんと言及している。


大都市圏のシャーマニズムの大きな特徴は、青森のイタコや沖縄のユタのような「型」がないことだという。特徴がないことが特徴、と言われているみたいで「はぁ!?」と思うが、一般の人と同じように、大都市においてはシャーマンもまた地方出身者が多い。そのため、それぞれの出身地域の型を独自に持ち込むので、「東京」「大阪」など全体としての型は定まらないんだそうだ。


ただ世界の大都市と比較してみると、実はシンガポールやクアラルンプールや台北のシャーマンには「型」があるそうで、大都市だから型がない、と一般論で語ることはできないらしい。このへんは深く掘ると、そもそもの「都市の成り立ち」みたいなのを考える話になってしまいそうなので、面白そうだけど今回は割愛。


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「霊能者に会って以来、人の心が見えるようになった」と語った知人がいた。


話を聞いたときは、うわ、めっちゃ胡散くさ〜〜と思ったが、しかしまあ彼の言い分によると、知り合いのツテで会った霊能者にアドバイスされた通りに日本全国のパワースポットを巡ってみたら、眠っていた力が開花したのだそうだ。人の心が見えるので、仕事の商談などで役に立ちまくりで、その日も億単位の契約を取り付けてきた、と誇らしげに語っていた。週末になると、「今日は箱根だな〜」などと思い立って、日本全国の温泉にエネルギーをチャージしに行くという。


「私にもその霊能者、紹介してくださいよ〜〜」と揉み手でモミモミしながら言ったら「ダメ」と言われたので、話半分に受け取っているが、その霊能者はタロット占いが得意らしい。神奈川出身で関東にしか住んだことのない私は、いわゆる「東京」と「地方」の比較はできないのだが、東京は本当にいろんな人がいる。


「夜のお店」自体は地方にだって全然あるけど、ラブホテルや風俗店が百花絢爛と咲き乱れているのは、大都市だけだ。


東京って、食べ物とか建築とか自然とか、物理的な魅力はもうほとんどないんじゃないかと私は思うんだけど、唯一やっぱりまだ魅力的に映る点は、「とにかく人が多い」という部分だろう。この部分だけは絶対に地方都市は勝てない。人が多いから、人に寄せ付けられてさらに人が集まる。嫉妬も醜い欲望も、嘘も真実も全部集まる。「うさんくさい金をうさんくさいとも思わず、金で願いごとをかなえた街──。」これは私がブログで何度も引用している、フィッツジェラルドグレート・ギャツビー』に出てくるマンハッタンを形容した一節だけれど、いつ読んでもなんて美しい文章だろうと感心してしまう。


東京の飲食店や風俗店の入り口にある盛り塩を全部合わせたら何キロになるだろう。それらを持ってしてもなお浄化できない、大都市に入り乱れる醜い欲望のことを、私はやっぱり嫌いになれないのだった。

2017年に読んで、面白かった本ベスト10

メリークリスマス! 今年も、読んで面白かった本ベスト10をまとめてみる。もし気になる本があったら、サンタさんにお願いしてみてください(今からじゃ遅いか)。

ちなみに2017年上半期編はこちら。年間ランキングなので一部重複しております。
aniram-czech.hatenablog.com

2016年編はこちら。
aniram-czech.hatenablog.com

10位 『珍世界紀行』都築響一

珍世界紀行 ヨーロッパ編―ROADSIDE EUROPE (ちくま文庫)

珍世界紀行 ヨーロッパ編―ROADSIDE EUROPE (ちくま文庫)

全ページ閲覧注意な勢いで気持ち悪い本なので、夜に読んではいけません。蝋人形博物館とか拷問博物館とかセックスミュージアムとか医学研究所とか、ヨーロッパの気持ち悪い観光名所をひたすら紹介しています。私はこの中だと、イタリア・フィレンツェのラ・スペーコラ、ローマ近郊のボマルツォの怪物庭園、それからローマの骸骨寺に行ったことアリ。

私はエログロがイケるクチ、というかそれが専門みたいなところすらあるので*1、ちょっとくらい変なところは全然許容範囲なんだけど、これを読んで拷問博物館だけはダメかもと思った。ね、ねずみをさ、胸の上に置いたゲージに入れて、その上で炭を焼くと、ねずみが熱から逃げようとして胸の皮膚を食い破って体内にもぐるらしいのね。そんなとこいちいち蝋人形で再現してくれるなっていう。私は痛いのがダメなんですわ。山本英夫の『殺し屋1』が読めないタイプなんですわ。でも拷問博物館以外はわりと全部行ってみたい。


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(※これはボマルツォの怪物庭園のエロい彫刻)

9位 『風姿花伝・三道』世阿弥

風姿花伝・三道 現代語訳付き (角川ソフィア)

風姿花伝・三道 現代語訳付き (角川ソフィア)

「良い文章ってどうやったら書けるんだろう?」というのは私にとって終わりのない命題だ。今年はちょこまかといろいろなことに挑戦しつつも、裏ではずっとずっとそれだけを考えていた気がする。そして世阿弥の『風姿花伝』は、「良い文章を書くために」という問いに対する1つのアンサーであり、また広く芸事に従事する人にとって必読の書ではないかと思う。

栄光は長く続かない。時の運によって獲得した名声を、自分の実力だと思ってはいけない。世間はいつも気まぐれである。「面白い」とは何か。それは咲いて散る花であり、常に自分が変化し続けなければ手に入らないものである。

などなど、要約するとめちゃ意識高いことが書いてあるんだけど、600年以上も前の人が言うんだったらまあちょっとくらい意識高くてもいっかという気になる。ちなみに角川文庫の『風姿花伝』を読むのがダルイという人は、NHK「100分de名著」シリーズのほうもあるので、これも内容が上手くまとまっていておすすめです。

NHK「100分de名著」ブックス 世阿弥 風姿花伝

NHK「100分de名著」ブックス 世阿弥 風姿花伝

8位 『とらわれない生き方』ヤマザキマリ

実は長年、「女性の書いたエッセイ」があまり好きではなかった。好きではないというか、別に嫌いではないのだけど、「いい本だったなあ」で終わってしまうことが圧倒的に多く、作者自身の思想や生き方に共感することがほぼ皆無だった。まあ本くらい別に好きに読めばいいんだけど、「ひょっとして、私は名誉男性の地位が欲しいのかな? 女性としてのアイデンティティを受け入れられないのかな?」と自分で自分を心配したりしていた。

でも、去年の終わり頃から少しずつ読むようになったヤマザキマリさんのエッセイはそういえばすごく共感できて、SOLOのコラムで「憧れの年長女性がいない」と書いた私にしては珍しく「こういうふうになれたらいいなあ!」と素直に思える女性だったことに気が付いた。尊敬できる憧れの女性、いるじゃん! いたわ!

というわけで、別に私は名誉男性の地位が欲しかったわけでも女性としてのアイデンティティを受け入れられなかったわけでもなく、女性の思想や生き方があまり響かないのは単に趣味嗜好の問題だったという話にできそうで一安心している。ヤマザキマリさんは物事を楽観的かつ大局的に捉える人なので、私と同じようなタイプの人は落ち込んでしまったときとかに読むのおすすめ。悩みに寄り添ってくれるというよりは、「そんなんで悩む必要あります?」みたいなことを言う人だ(だから合わない人にはすすめない)。

7位 『日本人の身体』安田登

日本人の身体 (ちくま新書)

日本人の身体 (ちくま新書)

能楽師の安田登さんが書いた身体論。ついでに言うと、安田さんが連載しているウェブのコラムが大好きで、毎回楽しみにしている。

風姿花伝』に続き能関係の本ではあるのだけど、能楽論の中に出てくる「老」についての思想が私は好きだ。「老」は現代では醜いものであり、避けるべきものとして扱われるけど、本当に実力のある役者は老いてなお輝くものを持っているらしい。芸事に従事する人間は、「若さ」に頼っていては危険なのだ。

6位 『断片的なものの社会学』岸政彦

断片的なものの社会学

断片的なものの社会学

「語られて」しまうもの、あるいは編集された人生 - チェコ好きの日記

詳しい感想は前に書いたので割愛。この本、「断片的」というだけあって全体がぼわ〜んとしているし、かなり捉えどころのない本だと思う。にも関わらず私のまわりでとても評判がいいので、もしかしたらみんな「編集」に疲れているのかもしれないな。

5位 『神を見た犬』ディーノ・ブッツァーティ

神を見た犬 (光文社古典新訳文庫)

神を見た犬 (光文社古典新訳文庫)

どうしても「待てない」人たちへ - チェコ好きの日記

この本の感想、というわけではないんだけどそれに近いものを以前書いた。『神を見た犬』は短編集で、表題作の他『七階』という作品が人気らしい。『七階』はめちゃめちゃに後味が悪い話なんだけど、ブッツァーティらしくて良い。カフカとか星新一が好きな人は読んでみてください。

4位 『はい、泳げません』高橋秀実

はい、泳げません

はい、泳げません

「できる」と「できない」の間の話 - チェコ好きの日記

このエッセイ、やっぱりいいな〜。いつかこんな文章が書けたら素敵だな、と思う本。笑ってしまうので電車とかではなくおうちで読みましょう。

3位 『バビロンに帰るスコット・フィッツジェラルド

バビロンに帰る―ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック〈2〉 (村上春樹翻訳ライブラリー)

バビロンに帰る―ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック〈2〉 (村上春樹翻訳ライブラリー)

30歳を過ぎたら - チェコ好きの日記

私やっぱりフィッツジェラルドが好きなんですよね。あと彼の作品で読んでないのは『ラスト・タイクーン』かな。遺作。でもこれ未完なんだよな。

2位 『「待つ」ということ』鷲田清一

「待つ」ということ (角川選書)

「待つ」ということ (角川選書)

この本については、2018年に新たに何か書けたらいいなと思っている。これもまた全体がぼわ〜んとしてる系の本なのだけど、最近の私はそういうのが好きなのかもしれない。

1位 『嘘つきアーニャの真っ赤な真実米原万里

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)

コミュニティに執着しない - チェコ好きの日記

前にも感想を書いているけど、改めて、私がいちばん好きなのは表題作の「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」。これはエッセイだからハッピーエンドもバッドエンドもないんだけど、「アーニャ」をどちらかに分類しろと言われたら、やっぱりバッドエンドということになってしまうんだろう。

子供の頃に仲良くしていた大切な友達。大人になってから会っても変わらず大好きで、かけがえのない存在。でも月日は残酷で、久々に再会した旧友との間には、子供の頃には意識することのなかった政治的思想の対立が生まれていた。米原さんはアーニャのことが理解できないし、アーニャは米原さんを理解しようともしない。対立は決定的な溝となって二人の間に表出してしまった。

米原さんの場合は幼少期をチェコスロバキアソビエト学校で過ごしているので、大人になってからできてしまった女友達との溝が「政治的思想の対立」だったわけだけど。角田光代さんの『対岸の彼女』は、同じことをもうちょっと日本人的なテーマで書いていると思う。女同士の一方が結婚や出産を経て、人生の中で大切なものが変わってしまい、お互いのことが理解できなくなってしまうという話だ(ずいぶん前に読んだのでちょっと記憶が曖昧なんだけど、確かそういう話だったと思う)。

対岸の彼女 (文春文庫)

対岸の彼女 (文春文庫)

友達同士に限らず、恋人でも家族でも、長い年月を経て互いの環境や考え方が変わり、かつてのように語り合うことができなくなってしまうことは、全然珍しくない。誰もが、多かれ少なかれ経験することだ。

人は変化し続けなければ面白くなれないし、変化し続けなければ「世界」を見ることはできない。だけど、変化はやはり苦痛を伴うのだ。だからこそ、変化し続けることをやめない人が、魅力的に思えるのかもしれないけど。

世界を見る、とは - チェコ好きの日記


というわけで、気になる本があったらぜひ手にとっていただき、年末あたたかくしてお過ごしください! 私は寒いのが苦手なので外に出ません。

*1:ヤン・シュヴァンクマイエルが卒論の人間なので

何をしたら癒されるのか、についての仮説

「麻薬」「幻覚」「変性意識状態」みたいな単語を目にすると、知らず知らずのうちに顔がニッコニコになっているので、んもう私って本当にそういうのが好きなんだな、と思う(違法なことはしておりません)。現実逃避がしたいのだろうか。


それはいいとして、こういう話を突き詰めると、カウンター/アングラカルチャーみたいな方向に進む人と、人類学的な方向に進む人とが両方いる気がするんだけど、私に関していえば後者だ。ただ、カウンター/アングラカルチャーも詳しくないだけで好きではある。というか、本当の底の底まで突き詰めると、アングラカルチャーと人類学の繋がりみたいなものも発見できる。浅い感想で恐縮だけど、10月25日の「クレイジージャーニー」のケロッピー前田さんの回はすごかった。私は痛いのだけはまじのまじで無理なので絶対やらないけど、アフリカとかアメリカの少数民族とかけっこう身体改造やってるし、古代の人はボディサスペンションみたいなことも普通にやってたのかもな、と思った。


スウェット・ロッジ


話は変わって、アメリカの南西部に、ナバホ族という先住民族がいる。このナバホ族は、「スウェット・ロッジ」という悪を追い出すための儀式を行なうことがあるんだそうだ。スウェット・ロッジは、一言で言うと、「くっそ熱いサウナ」である。雪のかまくらみたいに土を盛った中の、中心部分に焼けた真っ赤な溶岩を置く。準備ができたら入り口を封鎖して、溶岩がジュージュー焼ける音を聞きながら、熱い水蒸気を吸い込むのだそうだ。代表者が、祈りの言葉を唱えながら溶岩に追加で水をばしゃばしゃかけるので、だんだん喉が焼けるような感覚に陥ってくる。そして時間が経つごとに、熱過ぎて意識が朦朧としてくる。本来であれば数時間この状態を保つらしいが、話を聞いただけでも相当につらそうなので、初心者はたぶん数十分が限界だろう。


ナバホへの旅 たましいの風景

ナバホへの旅 たましいの風景

(※参考文献)


繰り返すが、この「くっそ熱いサウナ」は悪を追い出すための儀式だ。何か問題を持った人とその家族などがスウェット・ロッジをやると、意識変容とともにものすごい一体感が生まれるらしい。めちゃくちゃつらそうなのでにわかには信じがたいが、実際に体験した人によると、「すごく癒される」という。っていうか、にわかには信じがたいって言っちゃったけど、一緒に意識変容を体験する・一体感を経て変性意識状態に入るっていうのは、ようするにセックスと同じだ。だから、そういうこともありうるんだろうなと思う。雑にいやらしい文脈にしてしまって申し訳ないが、昨今、一部の人の間で起きているサウナブームの原因も、「ゆるスウェット・ロッジ」として考えると私はけっこう納得できる。

「人間を越えたい」


10月25日放送回の「クレイジージャーニー」に出ていたロルフさんという男性は、身体改造をしまくっている(上のツイート、写真右上)。頭にインプラントを埋め込んでツノみたいにしたり、何十?何百?箇所もピアスを空けて、全身に刺青をしている。「わーお!」っていう感じの外見ではあるが、私は、ロルフさんの言っていた「人間を越えたい」という思いを聞いて、なぜ彼がこんなに身体改造をするのかすごく納得がいった。


さきほど参考文献としてあげた本によると、ナバホ族に伝わる神話を読み解いていくと、人間と他の生物をあまり区別しておらず、連続性を持たせていることがわかるという。まあ、ナバホ族に伝わる神話が〜とかわざわざ言わなくても、日本にだって竹を切ったら人間が出てきましたとか、桃を切ったら人間が出てきましたとかいう話はたくさんあるので、神話とか民話ってのはどこのだってある程度そういうもんなのだろう。ロルフさんは「人間を越えたい」と言っていたけれど、古代の人々はたぶんほとんどが人間を越えた世界に生きていたし、ロルフさんがそういう欲望に目覚めたのはまったく不思議なことではない。


これは推測だけど、ロルフさんは身体改造をするたびに、自分の身体が人間らしきものから離れていくたびに、「癒されて」いたはずだ。ボディサスペンションで、お尻にフックを刺してぶら下がるのも「癒し」である。スウェット・ロッジやサウナも「癒し」だ。セックス、風俗、マッサージも「癒し」である。人間を越えて他の生物や自然と繋がる、あるいは変性意識状態を経て他者と繋がる。


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こう書くと「当たり前じゃんか」という気がしてきたけど、ようは、自己と他者の境界が曖昧になると、人間はすごく癒されるのだと思う。


それくらい、私たち一人一人は孤独なのだ。

「婚活でパワースポット巡り」なぜダメなの?

「これ、別に当たってなくない……?」と感じることのほうが多いので、基本的に占いを信じていない。とはいえ、美容院とかで雑誌を渡されるとなんだかんだでブツブツ言いながら最後のほうのページを見ているし、またネットの占いも文句を言いつつけっこう見ている。


アフリカの呪術師市場に行くとウィッチ・ドクターが使う用に猿の頭が売ってるんだってよとか、パプアニューギニアではいまだに黒魔術が信じられているんだってよとか聞くと、つい「ウワ〜」と思ってしまうけど、そんな彼らと私たちの間に、はたしてどれほどの違いがあるんだろうかとも考える。


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イタリアやアメリカやイギリスでは、昨今「エクソシスト」が増加傾向にあるらしい。

なぜ増加傾向にあるのかというと、もちろん需要が存在するためである。悪魔に取り憑かれてしまい、それを祓って欲しいという人がたくさんいるのだ。ブリッジで階段をドタドタ降りたり首がぐるんぐるん回転したりするやつはさすがにフィクションだとしても、「悪魔に取り憑かれた人」もそれを祓う「エクソシスト」も、2017年にしてなお実在する。『悪魔祓い、聖なる儀式』はイタリア・シチリア島のとあるエクソシストを追ったドキュメンタリーだが、この映画を観ると、アフリカだろうがパプアニューギニアだろうが日本だろうがイタリアだろうが、やっぱりどこもそんなに変わらないような気がしてくる。


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(※インドネシア・バリ島も呪術の島である。私が「(自称)サイババの弟子」という怪しさしかない人に占いをしてもらったときの話はこちら


イタリアやアメリカやイギリスでは、なぜ悪魔に憑かれる人が増えているのだろうか。これはもう、むっちゃ雑に言っていいのならば「社会不安が増してるから」なんだろうが、実際、ドキュメンタリーの舞台となったシチリア島は、大卒の若者でも就職がかなり難しいという。どこも大変である。


しかし、自分の友人や家族が突然奇声を上げるようになったり、または犬(猫?)のような唸り声を上げてゴロンゴロンするようになってしまったときどうするかを考えると、まず連れていくのは病院だ。アフリカやパプアニューギニアならともかく、シチリアの人は何で病院行かないんだろ? と疑問に思って映画を観ていたら、どうやら病院には行っているみたいで、でも医者に「原因がよくわからん」とお手上げされてしまったようである。まあ、そうなったら確かにエクソシストにでも頼み込むしかない。


医療では救うことが難しいような人のほか、シチリアではエクソシストは「島の何でも屋」みたいな扱いなんだそう。しかし、いわゆる「汚部屋」を悪魔の仕業として、神父が部屋に聖水をまいている場面はちょっと笑ってしまった。汚部屋は……頑張って掃除するしかないのではないだろうか。あれは悪魔の仕業だったのか……。


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日本人は宗教やスピリチュアルを嫌う。理由はおそらく1995年の「地下鉄サリン事件」が国民的トラウマになっているのと、あとは戦後に天皇人間宣言を行なったことも大きいのかもしれない。命まで投げ打って信じたものに「実は聖なる力とかありませんでした〜」などと言われたら「もう二度と何かを信じたりなんかするもんか!」って思うのは無理もない。婚活のためにパワースポットを巡る女子はバカにされるし、誰かが手首に数珠をつけたりしていると「おっ? おっ!?」と二度見してしまう。


ただし、いつも真実を正しく把握していることが幸せだとも限らない。これは別に宗教でもスピリチュアルでもないけど、たとえば悪徳商法に騙されて超高額な布団を買っちゃったおばあちゃんなんかは、事件が発覚したあとも騙されたなんて露ほども思っていないなんて話をたまに耳にする。孫くらいの年の子が親身になって話を聞いてくれて、しかも買った布団はちょっと高かったけどふかふかでよく眠れて、いったい何が悪かったのと言われると確かに言葉が見つからない。「エクソシスト」も、悪魔なんていないでしょとその存在をなくしてしまったら、はたして医療で救えない人々を誰がどうやって救うのだろうか。


映画では、神父がスマホで「立ち去れサタン……!」と通話しているシーンが笑いを誘うのだけど、おそらくどれだけテクノロジーが発達しようと、科学で解明できることが増えようと、宗教もスピリチュアルもオカルトもなくなりはしないのだろう。なぜなら、人間がそれを求め続けるからである。占いだって、偶然を偶然と片付けてしまう人より、偶然と偶然を結びつけてプラスの何かに解釈できる人のほうが、きっと楽しく生きられる。粗探しのようなことをしてケチをつけているより、それくらいまるっと信じていたほうが人間として賢いのかもな、などと私は我が身を振り返って思うのだった。


でも、占いやシチリアの悪魔祓いは許せるのに、婚活のためにパワースポットを巡ったり、子宮が元気になるセミナーに行ったり、ジェムリンガを膣に入れたりすることへの嫌悪感や軽蔑は、正直なところ消えない。


このOK(許容)とNG(嫌悪感)の境界線にあるものって何なんだろうと考えていて、結局答えが出なかった。そこに文化や伝統があるかどうか、とか? お金がかかるかどうか、とか?? 健康被害が出るかどうか、とか??? 「婚活でパワースポットなんて巡っても結果につながりませんよ!」と説教を垂れてみたとき、「じゃあシチリアで神父が汚部屋に聖水まくのもダメですよね?」となってしまい、けっこう世界のいろんなことを否定せざるを得なくなる。「占いは、上手く活用して付き合っていくのがベストですよね」っつう人がいるが(私もそう言ったが)、じゃあ、子宮のセミナーも上手く活用して付き合っていくぶんには文句は言えないはずだ。もしかしたら、結局、「アタシの信じていないものを信じるのは気持ち悪いからやめろ」って話だったのだろうか。シチリアエクソシストは遠すぎて嫌悪感すらわかないってだけで。


全財産を搾り取られるか、深刻な健康被害が出るか*1、命を落とすか、近しい者と縁を切り始めるか。そういうレベルまでいかないのであれば、もしかしたらある程度のことは許容すべきなのかもしれない。人間なんて世界中どこを見ても、そんなもんだからだ。結果なんて出なくてもいい、それで一時的にでも救われるのなら本望だろう。


『悪魔祓い、聖なる儀式』は渋谷のイメージフォーラムにて上映中です。

*1:だからジェムリンガはやっぱりダメなんですが