チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

【読者寄稿】2年かけて西欧を旅してきたので、役に立った持ち物とか紹介する。

2年かけて、西欧を旅してきた。

出発当時の僕は20歳で、今は22歳になっている。今回は寄稿という形でこの場を借りて、僕が2年かけて旅をしてきた中で、持ってきてよかった! と思ったモノを7つと、あと記憶に残っている旅のエピソードなんかも、いくつか紹介させてもらおうと思う。

1.ノート、筆記用具

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最初に、今回の2年間の旅のルートを具体的に言うと、出発はロンドンだった。そこからドーバー海峡を船で渡って、フランスのカレーって街まで行く。それからパリに行って、リヨンからジュネーブを抜け、アルプスを越えてトリノに出た。トリノからジェノヴァフィレンツェシエナ、そしてローマまで行って、ナポリが終点だった。このルートを、1つの街にだいたい2〜3ヶ月滞在して、2年かけてまわった。


なぜこのルートだったのかというと、正直、父親に勧められたからっていうのが大きい。僕の父も同じく20歳前後のとき、今回の僕とほぼ同じルートで旅に出たのだそうだ。そういえば、僕の友達で1人、このルートにさらに追加してベルリンやウィーンまで行っていたヤツもいたんだけど、僕はこの旅の話をしたときに、父親にそっちのルートは必要ないって言われたから行かなかった。ベルリンやウィーンの宿屋や道路は劣悪だし、何よりパリやフィレンツェやローマに比べると、あのあたりは文化的には二流だと思う。だから必要ない。


持っていって良かったなと思うものは、1つ目は定番だけどノートと筆記用具。何に使うかっていうと、もちろん現地で見聞きしたことを記録しておくため。僕はあまり字が綺麗なほうじゃないんだけど、それでも3日に1回は日記みたいなものを書いていたから、2年経った今ではけっこうな量になった。ここに記録してあることはすべて、大切な、僕の旅の思い出だ。

2.パスポート、ヴィザ、健康証明書などの書類*1

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フランス、サルデーニャ王国トスカーナ大公国ローマ教皇領、シチリア王国……今回の旅はたくさんの国のヴィザを取得しないといけなくて、準備がすごく大変だった。


書類で忘れちゃいけないのが健康証明書だ。特にヴェネチア共和国の検疫所はめちゃくちゃ厳しいから、健康証明書に加えて、ヴェネチアの前に立ち寄った都市で本人が健康であることを証明するサインをもらわないといけない。これを忘れると、検疫所が管理する施設に三週間くらい放り込まれることになるから、ヴェネチアに立ち寄る予定がある人は絶対に注意してほしい。


なんでヴェネチアがこんなに厳しいかっていうと、東方貿易の拠点がここにあるから。香辛料、絹、真珠、染料なんかに混じって、アジアからコレラやペストの菌が西欧に入ってくることがたまにある。だから、海外からこの地にたどり着いた外国人や物資は、念入りにチェックされるってわけ。毎年どこかしかでペスト流行ってるし、僕も旅をしているとき健康管理には気を付けてた。


あとは、金・銀・銅の硬貨をジャラジャラ持っていると大変だから、銀行から為替手形を発行してもらうと良い。それから、僕は父親に紹介状を書いてもらって、現地の侯爵や銀行家に旅行中の衣食住の面倒を見てもらったりしていた。紹介状も、旅の道具としてはマストだろう。

3.常備薬

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次は常備薬だけど、これはもちろん、人によって差が出るところ。僕は船酔いするほうだから、ドーバー海峡は酔い止めがないと絶対に無理! と思って、薬を持っていった。


他は、酢を1瓶、ブランデーを1瓶、アルクビュザード水(硫酸、酢、アルコール、砂糖水などの混合液)、ペルーの香油、塩化アンモニアの小瓶、鎮痛剤の小瓶、オーデコロンとか。これらを木箱に入れて持って行った。


ちなみに僕の旅には、家庭教師の先生が1人と、召使が1人同行してくれて、3人で2年間移動していました。荷物は召使か現地で雇った人が持つから自分で持つ必要はないんだけど、それでもできるだけコンパクトにしていたつもり。

4.乾燥させた動物の膀胱

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乾燥させた動物の膀胱。何に使うかっていうと、傷口に包帯を巻きたいときの代わりとか。あとはやっぱり、旅行中に羽を伸ばして、いろいろ体験してみたいと思ったんだよね。ていうか、僕の父親も若い頃やったことだし、むしろ旅行中のそれを奨励してるムードすらある。女性のことが何もわからないなんてダサイし、紳士になるための通過儀礼ってヤツじゃないかな。


一応、なるべく売春婦と女優と歌手とは遊ぶなって父親に言われた。病気が移る可能性が高いからね。遊ぶなら由緒正しい伯爵夫人にしとけって。お互い本気になると大変だから、人妻と遊ぶくらいが手頃でいいと僕も思う。まあ、やるなと言われるとやりたくなるもので、売春婦とも何度か遊んだけどね。幸い、この「乾燥させた動物の膀胱」を毎回使っていたからか、病気にはなってない。


あ、付け加えておくけど、今回の僕の旅の持ち物は、『一七九三年の旅行者心得』ってガイドブックの内容とけっこうかぶっている。僕は帰国した後に読んだんだけど、この冊子、めちゃくちゃ役に立つからオススメです。旅に出る前に読みたかったな。

5.折りたたみ式の鉄のベッド

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宿屋のベッドって、僕レベルの人間が泊まるところですら、ノミとダニと南京虫だらけでちょっと寝られたもんじゃない。だから、家から折りたたみ式の鉄のベッドを持って行く。マットレスも持っていくし、枕も、ベッドシーツも持って行ったよ。まあ、持つのは僕じゃなくて召使だけど。


僕がいちばん長く滞在したのはパリだったんだけど、パリにいるときももちろん、この鉄のベッドで寝起きしていた。朝遅くに起きて、裁判所や廃兵院を見て、昼食をとって、芝居小屋に行って、そのあと飲み屋で同じ境遇の仲間とどんちゃん騒ぎ。ちなみに、パリってすごく美しい都市なんだけど、なんか臭うんだよね。どこも馬車が通っていてガラガラうるさいし、肉とか魚が腐ってゴミが散乱してる。もう一度行きたいかって聞かれたら、NOかも。

6.馬車

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馬車。これは、我らが祖国イギリスのものを旅行でも使いたい派と、現地調達すればいいじゃん派で分かれると思うんだけど、僕は後者。やっぱり、イギリス製のベルリーナ・タイプの四輪馬車はエレガントで軽くて最高だけど、僕はドーバー海峡を渡った先のカレーで中古の馬車を買って、フランスにいる間はずっとそれを使っていた。馬車ではアルプスは越えられないから、フランスを出るときに一度売り払って、ジェノヴァに行ったときにまた中古のやつを買い直した。


中古の馬車の乗り心地はあまり良いとは思えなかったけど、フランスの道路もここ最近でだいぶ改善されたみたい。座席に詰め物をいっぱいして、あとはクッションもたくさん用意しておいたほうが良い。そうしないとお尻が痛くなっちゃう。

7.ピストル

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僕が思う旅の必需品、最後はピストル。これがないと何かあったとき命を守ることができないから、絶対に必要。幸い僕は一度も使うことがなかったんだけど、だからといって持っていかなくてもいいって理由にはならない。父の知り合いで、カレーからパリに行くまでの道中、馬車が盗賊に襲われて、現金も指輪も時計もすべて盗られた上に一行まるごと皆殺しにされたって人がいる。彼らはピストルも鉄砲も持っていなかったんだそうだ。


直接襲われはしなかったけど、パリからリヨンに向かう途中、オルレアンの森を抜けるときはやっぱりちょっと不気味だった。オルレアンの森って追い剥ぎが出ることで有名なんだけど、この追い剥ぎ、捕まって裁判にかけられた後、立木に吊るし首にされるんだよね。馬車でガラガラ走ってて、ちょっと外の景色でも見ようかなと思って周囲に目をやったら、2〜3人が木にぷらーんとぶら下がっているわけ*2


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このオルレアンの森って、怖いからできるだけ通りたくないんだけど、それでもどうしても通らないといけないルートだったりする。かなり危険な場所なので、従者ともども、行く人は絶対に武装していってほしい。

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最後に。親としては、僕にこの旅を通して、フランス語やイタリア語を身につけさせたり、芸術の審美眼を養わせたり、コミュニケーションのスキルを上げて国際人として通用する人物になって欲しいっていう願いがあったみたいだ。でも、実際に2年旅してみて、僕の中でそれらが培われたかっていうと微妙かも(笑)。


それでも、パリでどんちゃん騒ぎしつつもセンスを磨いて最先端のファッションに身をつつんだり、各地でいろんな売春婦や貴婦人と遊んだりしたのはやっぱり楽しかったし、あとは真面目な話、ローマやナポリでの光の輝きの美しさにはけっこう感動した。あの太陽の光のきらめきは、僕たちの街・ロンドンではちょっとお目にかかれないと思う。


何にせよ、貴重な体験をさせてくれた父に感謝している。僕も息子が生まれたら、僕が旅したのとほぼ同じルートを旅させて、国際人としての教養を養わせたい。


楽しいことだけじゃなく、無駄なことも、怖かったことも、危険なこともたくさんあったけど、それらすべてが、今の僕を作っているんだって思う。

まとめ(ブログ管理人よりコメント)

というわけで今回は、2年間かけて現在のフランス・イタリアにあたる地域へ「グランド・ツアー(大周遊旅行)」に出かけ帰国したばかりの、1767年ロンドン生まれの貴族のおぼっちゃま、ヘンリー・ハズリット氏より読者寄稿をいただきました。18世紀の英国では、20歳前後の貴族の若様が、大学へ行く代わりにフランスとイタリアを旅するのが流行りだったみたいです。みなさんも、ヘンリーぼっちゃんの旅の持ち物、ぜひぜひ参考にしてみてくださいね。


ところでヘンリーぼっちゃん、いつもブログ読んでますって言ってくれてるんですが、どうやって読んでるんだろう? まあいっか。寄稿ありがとう!

参考文献

グランド・ツアー―英国貴族の放蕩修学旅行 (中公文庫)

グランド・ツアー―英国貴族の放蕩修学旅行 (中公文庫)

イタリア紀行(上) (岩波文庫 赤405-9)

イタリア紀行(上) (岩波文庫 赤405-9)

イタリア紀行 中 (岩波文庫 赤 406-0)

イタリア紀行 中 (岩波文庫 赤 406-0)

イタリア紀行 下 (岩波文庫 赤 406-1)

イタリア紀行 下 (岩波文庫 赤 406-1)

滞欧日記 (河出文庫)

滞欧日記 (河出文庫)

TRANSIT(トランジット)17号  美しきイタリアへ時空旅行 (講談社 Mook(J))

TRANSIT(トランジット)17号 美しきイタリアへ時空旅行 (講談社 Mook(J))

※この記事の内容は、資料をもとにできる限り当時の様子をリアルに再現しようと頑張りましたが、もちろんすべてフィクションです。歴史に関する記述ミスなどはお手柔らかにご指摘いただけると嬉しいです。※

【感想】『サピエンス全史』×『銃・病原菌・鉄』

1月上旬に『銃・病原菌・鉄(上・下)』を再読して、その上で勢いあまって『サピエンス全史(上・下)』も読み、これらが超〜〜面白かったので以下、要約と私なりの感想を書きます。『サピエンス全史』を中心に、合間に少し『銃・病原菌・鉄』の話をしています。

人種差別のパンドラの箱

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福


『サピエンス全史』は、およそ250万年前、東アフリカでアウストラロピテクス属という猿人が進化し、「人類」が姿を現したところから話が始まっている*1。250万年前の「人類」は、尖った棒などの、いわゆる「道具」をすでに製造・使用していたらしい。


彼らは徐々に東アフリカを離れ、北アフリカ、ヨーロッパ、アジアなどの広い範囲に進出していく。そして進出したアウストラロピテクスはそれぞれの土地の気候に合わせ、ネアンデルタール人ホモ・エレクトス、ホモ・ソロエンシスなどの種に進化していく。ただし、時が進んで100万年前までになっても、人類はせいぜい尖った石器くらいしか製造することができず、植物や昆虫や小さな動物を食料として捕らえ、大型の肉食獣に怯えながら生活をしていた。


人類が「火」を使用できるようになったのは、だいたい30万年前のことらしい。しかしそれから15万年前までになっても、人類はまだまだ取るに足らない生き物で、それぞれの大陸でほそぼそと暮らしていた程度に過ぎなかったという。


話がややこしくなってくるのは、およそ7万年前だ。このとき東アフリカの人類は、アラビア半島ユーラシア大陸に進出するが、進出先にはすでに他の人類が定住していた。そしてこのとき、それぞれの人類に何が起きたかについて、「交雑説」「交代説」の2つの説があり、長い間、論争が続いていたという。


「交雑説」は、東アフリカのサピエンスがユーラシア大陸などに進出したとき、すでにそこに住んでいたネアンデルタール人ホモ・エレクトスなどと交雑し子孫を残したという説である。対する「交代説」は、東アフリカのサピエンスが他の大陸に進出したとき、すでにそこに住んでいた他の人類と交雑せず、皆殺しにし彼らすべてに取って代わったという説である。そして、この「交雑説」と「交代説」、どちらをとるかによっては、人種差別のパンドラの箱を開けることになりかねないと『サピエンス全史』の著者ユヴァル・ノア・ハラリは述べる。


「交代説」が正しければ、今生きている人類はすべて同じサピエンスの子孫であり、無視できる程度にしか遺伝子コードの違いを持っていない。しかし「交雑説」が正しければ、アフリカ人とヨーロッパ人とアジア人の間には、遺伝子的な違いがあることになってしまう。最近までは「交代説」のほうが堅固な考古学的裏付けがあるのでこちらの説がとられることが多かったらしいが(そのほうが穏便だし)、2010年、中東とヨーロッパの現代人の一部にネアンデルタール人のDNAが入っていることが立証されたらしい。とはいえ、「交代説」も間違っていたわけではなく、ネアンデルタール人のDNAが入っているといってもそれはほんのわずかしかゲノムに影響を与えていない……という。しかし、このデータを持って人種差別的な方向に話を持っていくことはいくらでも可能な気がするので、なんというか、おっかない話ではある。

原因不明の認知革命

東アフリカのサピエンスが他の大陸の人類を一掃し始めた頃、約7万年前から3万年前にかけて、彼らは舟、ランプ、弓矢、針などを発明している。およそ250万年前からこの時点までの人類が、尖った石の棒を持ってウホウホしているに過ぎなかったことを考えると、数万年の間にいろいろ発明しすぎだろと思う。約7万年前のサピエンスに何が起きたのか、なぜこの短期間の間に急速な発展を遂げたのかについては、なんと、「まだわかんない」らしい……。とりあえず、この時期のサピエンスが新しい思考と意思疎通の方法を獲得したことを、「認知革命」という。


新しい思考と意思疎通の方法とは、具体的にいうと「言語」の獲得である。ちなみにジャレド・ダイアモンドは『銃・病原菌・鉄』において、なぜこの時期の人類が言語を獲得できたかについて、「人類の喉頭が発話可能な構造になったから……かなぁ?」みたいに書いている。


「認知革命」以前の人類は、簡単な合図を出して意思疎通することはできても、噂話をしたり、虚構を信じたり、物語を語ったりすることはできなかった。しかし革命以後の人類は、宗教とか、貨幣の価値とか、神話とか、そういったものを集団で信じることができるようになった。人類の大躍進を可能にしたのは、このような言語能力を獲得できたことが大きかったらしい。

農業革命の罠 ←個人的にいちばん面白いとこ

『サピエンス全史』によると、人類によって最初に飼いならされた動物は「犬」だという。時期でいうと、1万5000年前には人類が犬を飼育していた証拠が見つかっているらしい。死んだ犬は、人間が死んだときと同じように、丁寧に埋葬された。そして、人類が「農業」を発明したのは、それよりも後のことである。具体的にいうと、紀元前9500〜8500年頃の時期だという。


農業が発明される以前の人類は、基本的には数十平方キロメートルから数百平方キロメートルの生活領域を行ったり来たりしながら、狩猟採集生活を送っていた。日本でいうと、東京23区内から出てない感じ……? と考えると、けっこう広いような狭いような。もちろん、ときおり自然災害や人口の負荷などの原因によって、縄張りの外へ出ていくこともあった。


いちばん驚きなのは、これはすでに他のいろいろな本で言われていることでもあるけれど、「狩猟採集民より農耕民のほうが、豊かで安定した生活を送ることができる」という考えは大きな誤りだということである。現代の私たちの平均的な労働時間が1日8時間×5日で週に40時間だとして、狩猟採集民が狩りや採集などに励むのは、もっとも過酷な地域に住んでいる場合でも週に35〜45時間くらいだったという。つまり、生きる糧を得るために頑張る時間は、なんと狩猟採集民の時代から現代までほとんど変化していない。こ、こんなにテクノロジーを発展させたのに!? ていうか、週40時間労働なんてそこそこホワイトだし、ブラック企業やアジア・アフリカの発展途上の地域で働いている人たちのことを考えると、むしろ、労働時間、増えてる。がーん。壮大なブラック・ジョークみたいだ。


それに、古代の狩猟採集民と農耕民の骨などを調べてみると、農耕民より狩猟採集民のほうがはるかに健康状態がいいらしい。狩猟採集民はたくさんの種類のバラエティに富んだ食物を口にしていたのに対し、近代以前の農耕民は小麦やジャガイモや稲など、ほとんど単一の食物からしか栄養を摂取することができなかった。もちろん狩猟採集民だって、災害などによって一時的に食物を獲得するのが困難になることはあるが、それは農耕民だって飢饉があるから同じだ。さらに、これは『銃・病原菌・鉄』にも書いてあったことだけど、天然痘や麻疹、結核など、多くの感染症は家畜由来であり、飼っていたのがせいぜい犬くらいだった狩猟採集時代は、こうした集団の感染症によって命を落とすことも少なかったという。


こうして考えるとデメリットしかないような気がする農業革命だけど、メリットももちろんある。子供の死亡率が低くなったこと、事故に逢っても医学などによってそう簡単に命を落とすことはなくなったこと、特定の集団で敵意を買い嘲りを受けた人間でも生きのびることが可能になったこと、そして何より、歳をとったり障害を負ったりした人間も生きられるようになったこと。今も狩猟採集民の時代とほとんど変わらない生活をしているアマゾンの先住民族「ヤノマミ」の社会には、障害者がいない。私たちの常識で考えると、これはやっぱり残酷である。


ヤノマミ (新潮文庫)

ヤノマミ (新潮文庫)


ただし当然ながら、最初に小麦やエンドウマメやトウモロコシの野生種を栽培化し始めた人類が、そこまで計算し尽くしていたはずがない。ユヴァル・ノア・ハラリは「私たちが小麦を栽培化したのではなく、小麦が私たちを家畜化したのだ」と刺激的な言葉でその様子を語っているけれど、小麦なんかよりそのへんになってる苺とか動物の肉のほうが絶対に美味しいし、確かになんでわざわざ栽培化なんてしたんだろ? と思う。健康に生きのびることができた個人にとっては、狩猟採集生活のままだって十分に豊かで幸せだったのだから。


人類が小麦等を栽培化してしまったのは、言ってみれば「偶然」なのだけど、最後の氷河期が終わって地球が温暖化に向かい始めた頃の気候が、中東の小麦やその他穀類にとって理想的な環境だったことが影響しているらしい。たぶん最初は、「なんかこれ、育てられるっぽい? 便利かも〜〜〜」くらいの軽いノリだったんだと思う*2


農業革命がある意味致命的だったのは、人類を定住によって土地に縛り付けたことで、女性の出産と出産の間の期間を短くすることが可能になったことだ(移動しながらの狩猟採集生活は3〜4年あけないと次の子供が産めない)。女性が毎年のように子供を産めるようになったので、人口は爆発的に増えた。そして、一度増えた人口を養うためには、もっともっと多くの畑で栽培を行わなければならなかった。こうなると、もう後には戻れない。1人1人の栄養状態を見ると狩猟採集時代よりも悪くなっているなんてことに気付く人間は、誰もいなかったのである。


「歴史の数少ない鉄則の一つに、贅沢品は必需品となり、新たな義務を生じさせる」とユヴァル・ノア・ハラリは言う。確かに、もう人類はインターネットやスマホがない時代には戻れない。一度前へ進んだら、後ろの扉は閉じてしまって、永遠に開かない鍵がかかっているのだ。

で、人類は幸せになったのか?

この後の『サピエンス全史』は、貨幣や宗教や帝国などの「共同幻想」についてページが割かれている。東京23区内くらいの面積の中で狩猟採集生活をしているぶんにはその土地の素朴な精霊を信仰していればよかったけれど、村を作り、社会を作り、遠く離れた地域の定住者を説得してさらなる拡大を目指すためには、多神教なり一神教なりの、より強い「神」が必要だった。宗教、貨幣、帝国といった共同幻想は、小さな社会と小さな社会を統合し、世界をさらなる統一へ向かわせるという目的のためには、確かになかなかたいした発明だった。紀元前1万年ごろには何千とあったはずの小さな社会は、紀元前2000年には数百程度、そして紀元後になるとさらにその数は減少していく。現代はインターネットなどによって地球の裏側で起きたことであってもリアルタイムで知ることができるし、世界はこのまま統一へ向かうことをやめないだろう。


で、ここで上がってくるのは、「人類は農耕や宗教や貨幣や帝国や科学によって、はたして幸せになったのか?」という問いである。


確かに、狩猟採集時代と、そのすぐ後の農耕社会、はたまた中世などを比べてしまうと、「いや、むしろ不幸になってますけど……?」という気がしてくる。人口が増えても1人1人の健康状態は悪化しているし、労働時間も長くなっているし、奴隷の身分などに生まれてしまったらたまったもんじゃない。しかし、たとえば戦後の社会、狩猟採集時代と「現代」を比べてみると、乳児の死亡率も下がっているし、1人1人に人権があって権利が保障されているし、冬は暖かく夏は涼しい場所で過ごすことができるし、そうそう飢え死になんてしないし、「お、ちょっと幸せになってる!?」って感じがする。しかし、ユヴァル・ノア・ハラリはあくまで、「話はそう単純じゃないっすよ」という姿勢を崩さない。


私たちは、物質的な豊かさが自分たちを幸福にすると信じている。ここ最近は「モノより体験だよね〜〜〜」なんて言説が流行ったりして徐々にその思想も薄れてきている気もするけれど、どっこい、まだまだまだまだ、私たちは物質的な豊かさこそが幸福をもたらすのだと強く強く信じていて、その域から脱出していないと個人的には思う。


ここ数十年、心理学者と生物学者は、「人を真に幸福にするものは何か?」を熱心に研究しているらしい。そして、それについて今のところわかっていることは、人を幸福にするのは「主観的厚生」であるということだ。他と比べて私はお金持ちとか、他と比べて私は頭がいいとか、他と比べて私はモテるとか、そういうことじゃない。ただ自分自身が、「私の人生はなかなか良いもんだ」と思えていればよろしい*3。……主観的厚生とは、どうやらそういうことのようである。


となると、狩猟採集時代と現代の社会に生きる人にそれぞれ、「あなたの人生ってけっこう良いもんだと思いますか?」ってアンケートをとったとして、はたしてYESの回答が多いのはどちらかと考えると、ちょっとわかんないなという気がしてくる。狩猟採集時代の人にアンケートとれないけど。


私たちは、毎日お風呂に入って服を着替えている。それが常識だと思っている。だけど、中世の人はお風呂になんてそうそう入らなかったし、服もあまり着替えなかった。だけど、悪臭なんか気にしなかった。なぜなら、「悪臭」という概念は、近代以降に「発見」されたからである。


だから、毎日お風呂に入って服が着替えられるようになって良かったね! なんて話にはならないのだ。だって昔はそもそもその必要がなかったのだから。


新版 においの歴史―嗅覚と社会的想像力

新版 においの歴史―嗅覚と社会的想像力

※……という話はこの本に書いてある。

まとめ

最終章には、ホモ・サピエンスは今後「超ホモ・サピエンス」になるんだぜ! みたいなことが書いてある。超ホモ・サピエンスとは、遺伝子改良や不死化、AIなどによって、つまりもうSFの世界の住人になっちゃうぜみたいなこと……(たぶん)。そしてその世界では、今価値があるとされているもの──お金や愛、憎しみ、男性と女性といった概念、そのすべてが意味を持たなくなるかもしれない、とユヴァル・ノア・ハラリは語る。


人類は、社会やテクノロジーをたえず進化させてきた。ただ、それは何のためだったのか? ということは、あんまり考えてこなかったのかもしれない。人類は神になれるかもしれないが、自分が何を望んでいるのかわからない神ほど怖ろしいものはない。というコメントで、『サピエンス全史』は終わっている。


以上、素人の要約なので間違っているところがあったらすみません! でも面白かった!

*1:『銃・病原菌・鉄』では人類の誕生は700万年前になっている。たぶん何を「人類」とするかの違い?

*2:宗教的な建造物を作るために定住を選ばざるを得ず、そのために農業が発達した説もあるみたいだけど

*3:となると、SNSなんてやってるとどうしたって人と自分を比べるので、やっぱこのツール全然幸せになれねぇじゃんかと思う

「面白い人」論。

「面白い人になりたい」「面白い人に会いたい」。

今日も風に吹かれ、どこからともなくそんな声が聞こえてくる。いや、何を隠そう、私自身がそう思っているところがあるのだけど……。


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しかし、「面白い人になりたい」なんてことをあんまり大声で言ってしまうと、「私自身はたいして面白くない人なんです」と街を宣伝カーでまわりながら言いふらすのと同じである。


よって、今回はできるだけひそひそ声でしゃべるつもり*1なのだけど、ご注意いただきたいのは、以下はあくまで「現時点の私の考察断片」であり、まだ考え途中だということだ。なので小穴も中穴も大穴もあり、ツッコミは大歓迎。「面白い人とつながりたい」じゃなくて、自ら「面白い」をクリエイトするんだよ〜〜! などなど、各人の「面白い人論」を私は今後もたくさん聞いていきたいと思っている。


(※ちなみにこういう話を公の場でするとき、「じゃあお前自身はどうなんだ」という罵声が飛んできそうで怖いのだけど、自分自身のことをいちいち神妙な顔して振り返っていたら話が前に進まないので、以下はすべて自分のことは思いっきり棚に上げて考えております。私は透明人間デス。)

〈目次〉
1.「面白い」と「人間的魅力」は別、論。
2.「面白い」はいかにして獲得できるのか、論。
  ①レアな経験を積んでいる
  ②何かに異常に詳しい
3.レアな経験を積んでも何かに異常に詳しくなってもそれだけじゃ面白くなれない、論。
4.まとめ

1.「面白い」と「人間的魅力」は別、論。

まず前提として、今回の考察における「面白い」とは、その人の発言や発信が仲間内だけでなく、わりと広く、見ず知らずの人にまでウケる(現時点ではそれほどウケていなくても、今後ウケる可能性がある)的な意味で使っている。つまり、その人のことを個人的にはまったく知らなくても、その人の話を「なるほど」と思って聞く人が多いかどうか。松本人志村上春樹の言うことは誰が聞いてもそこそこ面白いけれど、とある中学校の人気者・田中くんが行なう「山田先生のモノマネ」は、山田先生を知らない人が見ても何も面白くない。今回の考察における「面白い人」とは、松本人志村上春樹のことであり、田中くんのことではない。


では、とある中学校の人気者・田中くんの面白さは何なのかというと、今回の考察ではそれを「面白い」ではなく「人間的魅力」と表現することにした。田中くんがクラスのみんなを笑わせることができるのは、田中くんのモノマネの技術の高さというよりはむしろ、彼の普段のコミュニケーション能力や、空気を読む巧さや、意外なところで見せる気遣いや、容姿によるもののほうが大きいはずである。このように、今回の考察では、「面白い」と「人間的魅力」は別のジャンルとして扱う。


表にすると、以下の4種類の人間がいるイメージだ。

面白い 面白くない
人間的魅力がある
人間的魅力がない


①の「面白くて、かつ人間的魅力もある人」は言わずもがな、いちばん人気者でいちばん憧れの存在だ。彼/彼女は言ってることもやってることも面白い上、イケメンだったり美人だったりし、さらに仕事きっちり性格も良い*2。ただレアケースではあると思うけど、こういう人に限ってサイコパスが潜んでいたりすることもなくはないらしい。私はよく「みんなに好かれるようなやつは嫌いだよ……!」とか陰で言っていたりするのだけど、「こいつ好かんわ〜」と思ってた人に実際に会ってみると本当にいい人で前言撤回、うっかり好きになってしまったりする。どうしてそんなに人間ができているの?


②の「面白くはないが、人間的魅力はある人」は、あなたの身近にもけっこういるのではないかと思う。家族や恋人や古い友人などのことを頭に思い浮かべてもらうと、彼/彼女は父母兄弟パートナー友人としては素敵な人だしたくさん笑わせてくれるけど、この人の発言や発信が広く注目を集められるかというとそれは違うかなってケースがあるはず。そういう人がこの区画にいるイメージ。特に芸で身を立てる(?)つもりがないのであれば、正直①より②の人のほうが幸せそうでもある。前述の「とある中学校の人気者・田中くん」はここに入っている。


③は、「面白いけど、人間的魅力はない人」。私には「この人の書いている文章は面白いと思うし好きだけど、個人的には一切関わりを持ちたくない」と思っている書き手が何人かいるのだけど(すべて男性の著述家)、そういう人がここに入るイメージ。敵は多そうだが、とにかく面白いのでなんとかなる。個人的な関わりを持たなければ被害はないので、今後も面白い発信を続けてください(私は何様なんだ)。当然、最初は①だと思って親しくしていた人が、関わりが深くなるうちに③に変わり、絶交に至るみたいなケースもあるだろう。


④の「面白くもないし、人間的魅力もない人」。ここで具体的な人物を思い浮かべてしまうとめちゃくちゃ角が立つので、あえて飛ばしましょう。でももちろん、「人間的魅力」は「面白い」以上に多様だから、本当の意味で人間的魅力がない人なんて誰もいないんですけどね。と、いい人ぶったコメントを付け加えておく。


「面白い人に会いたい」とあなたや私が言うとき、④はとりあえず除外するとして、①〜③のどのカテゴリの人のことを言っているのか? ということは少し立ち止まって考えてみてもいいのではないかと思う。まあだいたいは①を指しているんだろうけど、恋人募集中の女の子が「話が面白い人がいいなあ」とか言ってたりするときは②の人のことを指してるんだろうし、逆に「人柄とかはどうでもいいんだよ、とにかく面白いヤツ!!!」などと言う猛者は③の人に会えるといいですね。


あと、②の人の面白さを見出して①の人にプロデュースする、という道もなくはない。もしくは④の人を③になるようプロデュースするとか(こちらはだいぶしんどそうだ)。あと自分が「面白い人になりたい」というときも、④は除外するとして、①〜③のどれのことを指していて、かつその程度はいかほどなのか、念頭に置くべきだろう。


もちろん、上記の分類はあくまで主観的判断に基づくものなので、私にとっては①である人がある人にとっては②だったり、私にとっては③の人がある人にとっては①だったりもする。そして「私」の中でも、①が③になったり②が④になったり、人はこの4つの区画を常に流動的に動いている。「面白い人」を考えることの難しさは、万人にとって面白い人は存在せず、かつ個人にとっての面白い人も変化や入れ替わりをたえず繰り返している点にあるといえるだろう。

2.「面白い」はいかにして獲得できるのか、論。

さてここまでは前哨戦、本題はここからである。先に説明したように、今回の考察における「面白い」とは、仲間内の人間を笑わせることができるという意味ではなく、仲間はもちろん見ず知らずの人にまで広く自分の発信を届けることができる的な意味を念頭に置いている。発信を広く届けるには、その発信の観点が目新しかったり、独自であったり、あるいは痒いところに手が届くような繊細さを持っていたりしなければならない。


で、問題になるのは、いかにしてその「目新しさ」や「独自性」や「繊細さ」は獲得できるのか、という点である。この問題において、私は以下の2つをとりあえずの方法としてあげておく。自分が「面白い人」になりたい場合も、あるいは誰かを「面白い人」に仕立てあげたい場合も、以下の2つを持っているか、今後できるか、掘り出せるかが、さしあたってのポイントになるだろう。

①レアな経験を積んでいる

これは、もっとも早くわかりやすく「面白い人」になるための材料だ。「世界一周をする」「銀座ホステスNo.1になる」「バンジージャンプをやったことがある」みたいな派手でポジティブなものから、「30年間毎日富士山の写真を撮り続けている」みたいなちょっと地味なもの、「借金1000万円を返済したことがある」みたいなネガティブスタートのもの、いろいろあるけれど、とにかく「多くの人がなかなかしていない経験」を1つでも積んでいると「面白い人」になれそう。あとこれの亜種として、「けん玉がめちゃくちゃ上手い」みたいなレアな特技を持っているのもアリだと思う。

性善説ならぬ「性おもしろ説」をとるならば、誰だって1つくらいはレアな経験をしているはずなので、それを掘り起こせ、ということになる。

②何かに異常に詳しい

ウィスキーに異常に詳しい、マンガに異常に詳しい、歌舞伎町の裏事情に異常に詳しい、などなど何かの事柄に関する膨大な知識がある。もしくは、大学の先生のように、何かに関する専門的な知識を持っている。知識を身に付けるにはどんなに頑張ってもそれなりの年月を要するはずなので、「世界一周に行ってきたよ!」で済む①に比べると少々ハードルが高い場合があるが、一度のぼりつめたらそうそう他の人に追い抜かれないというメリットもある。

誰だって1つくらいはレアな経験を積んでいるものだが、誰だって1つくらいは異常に詳しい分野があるか? というとそんなことはないので、こちらを掘り起こすのはちょっと難しそうだ。ただ楽観的に考えると、「異常に詳しい」まで行かなくても「他の人よりちょっとだけ詳しい」くらいで意外となんとかなるような気もする。

3.レアな経験を積んでも何かに異常に詳しくなってもそれだけじゃ面白くなれない、論。

はい、というわけで、「面白い人」になりたい人は、①レアな経験を積むか、②何かに異常に詳しくなりましょうね。頑張ろう解散〜〜!


という話で終わりにしてもいいのだけど、①や②を盛れば盛るほど「面白い人」になれるのかというと、そういうわけでもないな〜って気がする。ものすごいレアな経験を積んでいるのにありきたりな意見しか言えない人もいるし、そんなに珍しい経験をしているわけじゃないのに洞察がめちゃくちゃ鋭い人もいる。それに、もし「面白い」が①や②だけで作れるものなら、理論的には経験や知識を積み重ねた年長者に面白い人が多くなるはずである。が、周知のように、実際はそうではない。経験や知識を積んでいるにも関わらずあまり面白くない人、そんなに珍しい経験をしているわけじゃないのに面白い人。両者の差はいったいどこにあるのだろうか?


実をいうと、この問いに対する答えは私自身がまだ見つけられていない。だからこんな考察をわざわざ書いている、ともいえる。したがって、以下は「レアな経験をたくさんしているはずなのにあんまり面白くない人」と、「そんなに珍しい経験をしているわけじゃないのにすごく面白い人」の差を作り出しているものの、私なりの【仮説】である。

アウトプット量

たとえば、今日あなたが初めて、自分の部屋に飾る用に、近所の花屋でバラを買ってみたとする。「近所の花屋」に行ったのも初めてだし、そもそも誰かへのプレゼントではなく、自分のために花を買うのも初めてだったとする。しかし、あなたにとっては初めてづくしでも、正直「近所の花屋でバラを買う」のはありふれているし、それ自体は珍しい経験ではまったくない。


でも、「面白い人」は、それでもその体験を、文章なり詩なり音楽なり絵なりにして、アウトプットするのだと思う。「近所の花屋」は「エキュート品川の青◯フラワーマーケット*3」とどこがどのように違っていたか。誰かへのプレゼントとして花を買うのと、自分の部屋に飾る用として花を買うのとでは、自分の気持ちはどのように違う動きをするか。


当然ながら、「近所の花屋で初めてバラを買った話」よりも、「人生で初めてメキシコシティに行ってみた話」とかのほうが人目を引くし、自分としても気持ちの動きが大きいはずだから、言いたいことや書きたいことがたくさん出てくるだろう。だからさっきの話で出した「レアな経験を積む」というのも、もちろん意味がないわけではない。


だけど、「メキシコシティグアテマラに行ってみたけど遊んで写真をちょいちょい撮っただけで他は何もしなかった人」と、「近所の花屋で初めてバラを買った」「初めて映画を1日5本ぶっ続けで観た」みたいな体験を毎日細かく細かくアウトプットしている人とだと、おそらく後者のほうがのちのち「面白い人」になる確率が高いのではないかと私は思う。ただ、珍しくもなく特に変化もない日々の出来事から何かをアウトプットし続けるのは凡人にとって至難の技なので、「レアな経験を積んじゃったほうが手っ取り早い」ということは言えそうだ。近所の花屋でバラを買ったくらいじゃあまり気持ちが動かない人はいるだろうが、さすがにメキシコシティグアテマラに行って心が何も動かないという日本人はあまりいないだろう。

4. まとめ

「月に1度、何か新しいことをする機会を持とう」なんて言う人がたまにいるけれど、これはたぶん本当だ。ルーティンに陥りがちな凡人は、月に1度でも何か新しいことをする機会を意識して持たないと、気持ちが動く回路が死んでしまう。いや、気持ちが動く回路というと語弊があるかもしれないので、「差異を見つける回路」と言い直しましょうか……。先月の自分と今月の自分。昨日の世界と今日の世界。それらを構成しているものの、違いは何か。


「新しいこと」は、あくまで「自分にとって新しいこと」であればよい。まあ、それが「多くの人にとって新しいこと」でもあればより手っ取り早いという事情はあるんだけれど、だから「近所の花屋で初めてバラを買う」とかで全然いいのだ。昨日の自分と違うことをする。それによって動く自分の思考や心を観察してアウトプットする。昨日を構成していた世界と、今日を構成している世界に、線を引く。それを積み重ねた人が、「面白い人」になれるのではないかと思う。


ところで、エッセイストの宮田珠己さんは、「何かあったことを書くのは簡単だけど、何もないことをどう書くかということが必要」と以下のインタビューで語っている。そう、「メキシコシティグアテマラに行った話」は誰であってもけっこう面白く書けると思うんだけど、「新幹線で食べた駅弁の卵焼きが美味しかった話」を面白く書くのはかなり難しい。腕が問われるのは後者だ。


www.marunage.co.jp


なので、「特別なことである必要はない。あなたにとっての"新しいこと"を積み重ねて、それを丁寧にアウトプットし続ければいいんだよ」という一見優しめの結論を今回は出したのだけど、自分の感性にあまり自信がない人は、やっぱりメキシコシティグアテマラに行っちゃったほうが早いよな、とは思う。今回は透明人間に徹している私だけど、最後にちょっとだけ顔を出させてもらうと、私自身はすごく普通だし、自分はたいした感性を持っていないと思う。日々を丁寧に紡ぐ……みたいなのはたぶんどちらかというと苦手なほうだ。だから、新幹線で卵焼き食べるよりはメキシコシティに行ったほうがいいかなと思う。でも、メキシコシティより新幹線で卵焼き食べるほうが「気持ちの動き」が大きいって人もいると思うので、ここはやっぱり人それぞれではある。つまり、

「自分の心は何をすることによってより大きく動くのか?」

ということを把握している必要がある。心が動かないとアウトプットはできないし、できても内容が薄いものになってしまう。ある意味、①レアな経験を積む②何かに異常に詳しくなる、なんてことよりも、自分の心の動きを把握するほうが難易度が高い。しかし、それさえわかっていれば、あとはインプットとアウトプットを繰り返すだけだ。


最後に。前半のほうで少し書いてはいるが、私は、「面白い人」よりも、「人間的魅力のある人」のほうが全体的な幸せ度は高いと思っている。面白い人はそれはそれで気苦労が多いのだ。よって、全員が面白くなる必要はまったくない。今回の考察はあくまで「面白い人に会いたい」「(自分が)面白い人になりたい」と思っている人へ向けた文章であることを、もう一度言い添えて筆を置く。

*1:そのわりには字数が多いけどな

*2:ちなみに、容姿があまりにも優れすぎていて身内に好かれる範疇を飛びこえている、という意味で石原さとみなどの芸能人は①に入る

*3:私がよく利用するので

【メモ】大麻・アヘンの歴史

※この記事は私が見聞を集め次第、今後もアップデートを繰り返す予定です。

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大麻の歴史

年代 地域 記録
B.C.13世紀以前 インド バラモン教聖典にて大麻の使用が記述されている。医薬品として、もしくは儀式の際に使われていたもよう。中国で漢方薬として使用されていた記録も残っている。
B.C.9世紀 トルコ アンカラの古墳から大麻が出土している。薬物や繊維として、中東でも大麻が栽培されていたことが確認されている。
A.D.16世紀 イスラム インドからイスラム圏へハシシが広まったもよう。北アフリカでも喫煙習慣があったと伝えられている。
18〜19世紀 ヨーロッパ エジプトからヨーロッパへ大麻喫煙の習慣が伝わったらしい。イギリスでは上流階級も喫煙していたとか。
1873 日本 明治政府が大麻栽培を奨励。
1937 アメリカ マリファナ規制法が成立。
1948 日本 GHQにより大麻取締法が制定される。繊維利用のため栽培している農家も多かったので、国会では賛否両論だったらしい。

アヘンの歴史

年代 地域 記録
B.C.5000年頃 スイス 住居跡にケシの種が大量にあったことが確認されている。ただしドラッグとして利用されていたかはわからず、葉を食用にしていただけの可能性もある。
B.C.1550 エジプト 医薬品としての記述。鎮痛剤、頭痛薬、「子どもの泣きすぎを防ぐ薬」として利用されていた。
B.C.4〜5世紀 ギリシャ 病人治療の「神の薬」として使われていた可能性。
A.D.2世紀 ギリシャ 医学者ガレンの登場。以後、1500年にわたって西洋医学をリードすることになる。「テリアカ」という万病に効く霊薬の主成分として使われていた可能性。
7〜13世紀 アラビア地方 ローマ帝国没落後、「テリアカ」研究がアラビア地方で引き継がれる。医薬品としてだけでなくドラッグとして利用されるようになったのはこの頃からである可能性が高い。アヘンと大麻を加えた「テリアカ」常習者も現れる。
14〜17世紀 中国 唐、元の時代にすでに伝わっていた可能性もあるが、はっきりと文献の記録に現れるのは明の時代。おもな利用目的は下痢止めとしての医薬品。アヘンが医薬品としてではなくドラッグ目的で使用されだしたのは清の時代(17〜20世紀)からだと考えられている。なお、台湾ではマラリアの治療薬として活用されていた可能性も。
1804 ドイツ 薬剤師フリードリヒ・ゼルチュルナーがモルヒネを生成。
1840〜1842 - アヘン戦争。イギリスからの輸入アヘンに対抗するため、19世紀後半から中国の山岳地帯でケシ栽培が始まる。この地域はここから目覚ましい勢いでアヘン生産を拡大していき、やがて「ゴールデン・トライアングル」と呼ばれるまでに発展。
1853 - モルヒネの皮下注射が開発され、合成医薬品として普及する。
1861 アメリカ 南北戦争。負傷兵にモルヒネが投与され、依存症に苦しむ兵士が増える。
1898 ドイツ 1874年に開発されたヘロインを、98年にドイツのバイエル社が発売開始。鎮痛剤として使われる。
1912 - 万国アヘン条約でモルヒネ、コカインなどとともにヘロインも規制対象になる。
1914 アメリカ 第一次世界大戦。同年、アメリカでハリソン法制定。麻薬の購入などが登録制に。
1920 スイス ジュネーブにて国際アヘン会議。大麻も規制対象へ。
1924 アメリカ メモ:禁酒法制定。1933年までアルコールの製造・販売・輸送が禁止される。フィッツジェラルドの時代!

参考文献リスト

※今後追加していきます。

ノイエ・ザハリヒカイト 社会の「不安」が生み出す文化

わくわくする、どきどきする、うきうきする! 


そんな幸せな気分が、いついかなるときも素晴らしいものを生み出すとは限らず、かえってキッチュでくだらないものを生産してしまい、カルチャーの空白地帯になることがある。反対に、倦怠、不安、恐怖、嫉妬、絶望、一般的には好ましくないとされるそれらの感情から素晴らしい文化が生まれることもあり、これは個人であっても社会であっても同じことだ。神様は、つくづくこの世を厄介に設計したものだな、と思う。


「新しい(ノイエ)即物性(ザハリヒカイト)」、もしくは「魔術的リアリズム」。後者はガルシア・マルケスの文学作品を言い表すときに使う言葉でもあるが、前者は意味的には同じでも、1920〜30年代のドイツで生まれた芸術を指すことが多いらしい。そしてその頃のドイツ、あるいは周辺国であるベルギーやオランダをとり囲んでいたのは、「わくわく・どきどき・うきうき」というよりはむしろ、倦怠や不安や絶望のほうだったといえるだろう。いや、より正確には、その両者が複雑に混ざり合ったものだった、といったほうが正しいのかもしれない。


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フランツ・ラジヴィル 『ストライキ』 1931年


「ノイエ・ザハリヒカイト」を生んだ1920〜30年代のドイツはたぶん、真っ暗な闇の中を、わずかな灯りをたよりに手探りで、しかし超高速で進んでいかねばならぬような時代だった。西欧の工業化が進み、産業は発展するも、それらはどこか自分たちの本質を置いてきぼりにしていくような不安をともなうものだった。


不安をかき消すために、人々は歴史の中で初めて手に入れた人工の灯りを街灯にともし、大都会に輝く「夜の街」を作り出した。劇場に映画館、キャバレーにナイトクラブ。イルミネーションが彩る中で、人々は酒を飲み、歌をうたい、踊って、恋をして、時代の不安をかき消した。そしてもちろん、芸術は時代のムードに呼応する。


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A・カレル・ウィリンク 『悪い知らせ』 1932年


オランダ出身のカレル・ウィリンクは、「終末と没落の画家」とよばれる。廃墟、無人の都市、SF的幻想、悪夢、ギャグ、ブラックユーモア。陰鬱なのは絵の雰囲気だけではなく、ウィリンク自身の人生にも多分にそういうところがあったようで、絵のモデルにもしていた三番目の夫人が麻薬絡みの事件に関与し、惨死体で発見されたりしている。


この人の絵を観ているとすごく不安になるし、とてもじゃないが「いい気分」にはなれない。でも、吸い込まれるような魅力があって、ついずっとずっと眺めてしまう。まさしく、不安の時代が生んだ芸術家だ。ウィリンクがこの年代のオランダに生きていなかったらどんな作品を作っていたんだろうという疑問もわいてくるけれど、歴史に「もしも」は不要である。


明るかろうが暗かろうが、幸せだろうが絶望していようが、自由の身であろうが監獄の中であろうが、どんな環境であれ人間はおそろしいほどのクリエイティビティを発揮してしまう。明るくって、幸せなものだけが人を動かすわけではない。ノイエ・ザハリヒカイトやシュルレアリスム魔術的リアリズムの作品群を私が好きなのは、「どんな環境だって面白がってやるよ」という挑発を根底に垣間見るからかもしれない。


ところで、今って、「幸せに向かう明るい時代」なのか、「絶望に向かう不安な時代」なのか、どっちだろうな。前者のような気もするし、後者のような気もする。100年後に、今の時代に登場した作品を批評家たちが分析して、初めて答えがわかるのだろう。リアルタイムではよくわからなかったりする。たぶんそこまで生きられないし、生きたくもないけれど、答えが出るのが今からとっても楽しみだ。