チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

「大好き」を叫び続けたら夢は叶う……の? まじで?

私のまわりだけかもしれないが、「好きなもの(人、こと)があるなら、それについて積極的に発信していったほうがいい」といった内容のことを、たびたび言う人がいる。ていうか、私自身もどっかで言ってたかもしんない。


上のようなメッセージに関して、私は賛成したい気持ちが7割だ。だけど実をいうと、批判したい気持ちも3割くらいある。そして、賛成したい気持ちについて、つまり「好きなもの(人、こと)について積極的に発信し続けることのメリット」については、他の人がすでに散々言ってくれている。だから今回の私は、3割ほどある批判したい気持ちのほうを書くことにしよう。


一応メリットについて触れると、私のまわりでよく聞くのは、まず好きなもの(人、こと)について発信し続けていると、それが本人や製作者に届いて励ましのメッセージになる可能性があること。次に、「◯◯に詳しい、△△が好きなホニャララさん」というアピールができるので、自分自身の仕事に繋がったりすることがあるらしいこと。どちらもとても良いことである。私自身も、身に覚えがまったくないとは言わない。「いいね!」を押し続けていると、毎日少しずつ、自分の世界が豊かになっていったりするんだろう。

暴力表現が好きだったらどうすんの?


というわけで、ここからは3割のほうの批判。


まずは掲題のとおりだけど、「それを好きだというだけで不快になる人がいる表現」というものが、残念ながら世の中には存在する。よく言われるのは、好きなものへの賛辞を表明するときに、それと対極にあるものをdisって相対的に好きなもののポイントを上げるのはやめようってことだけど、そんなことしなくても、ただ純粋に「好き」と言っただけで世の中の人を不快にさせてしまう表現っていうのもある。


例としては、暴力表現やエロの表現などがこれに該当することが多い(法的には問題ないものであっても)。わかりやすい話としては、最近「ふともも写真の世界展」という展示が批判を受けて中止になった。

池袋マルイが、女性の「太もも」写真展を中止 疑問の声受け


個人的なことを言うと、私もこの「ふともも写真展」は、開催されるだけで不快という気持ちがわからんではない。スクール水着や制服を着た女の子を見て楽しむ男性が、申し訳ないけど私は好きじゃない。だから感情的なほうの私は「中止になって良かった!」と思っている部分もある。だけど理性的なほうの私は、「"好き"という感情は社会的に"正しく"なければいけないのか? そうでなければ許されないのか?」と首を傾げてしまう。


「好きなもの(人、こと)があるなら、それについて積極的に発信していったほうがいい」と人は言うけれど、私にはこのメッセージには、ある注釈がついているように思えることがある。


それが多くの人に受け入れられ、社会的に"正しい"好きならば、積極的に発信していったほうがいい」ってね。

それでもやっぱり好きなものは好きって言ったほうがいいと思うけど、思うんだけど


正直なところ、この批判には嫉妬も入っていると思う。「大好きな人と焼きたてのパンを食べる幸せ」とか映画の『かもめ食堂 [DVD]』みたいな、「好き!」って言ったところで誰からも怒られないような、そういう"正しい"好きを持てる人が、私はちょっと羨ましいのだろう。


アイズ ワイド シャット (字幕版)』の乱交パーティーのシーンとかが、私は大好きなのね。乱交パーティー。でも、結局Twitterで堂々と言ってるからあんまり説得力ないかもなんだけど、あとなんだかんだで「キューブリックの映画なので、芸術なので」って言い訳が立つからたいしたことないんだけど、これは真昼間にランチしながら初対面の人には言えないっていうか、夜も深まってきた頃、仲良くなった人に「じ、じ、じつは」ってやっとの思いで告白するタイプの「好き」だと思うのね。



(※「脳細胞が壊死する」は最高の賛辞)


まあ、そんな私の個人的な話はどうでもいいんだけど、つまり批判したい3割の気持ちについてまとめるとこうだ。


1つは、「社会的に"正しくない"(かもしれない)好き」をどう扱うのかという問題。

世の中にはいろいろな「好き」を抱えた人がいて、正直「好き」って言っただけで怒られるようなカルチャーだって存在する。怒られない好き(例:『かもめ食堂』)は表明してよくて、怒られる好き(例:ふともも)は表明しちゃダメってことなら「矛盾!!!!」って私は思うし、これはそんなに無邪気な話じゃないんじゃないかって考えちゃう。もしこれが「"正しい"好きだけを発信してね!」っていうメッセージだったなら、そんなご都合主義は勘弁してくれって思うよ。


もう1つは、「"好き"はアイデンティティと密接に絡むので、言い過ぎると秘密がなくなる」って問題。

これは、上の問題と比べるとあんまたいしたことないんだけど、人間には真昼間から堂々と言える「好き」と、人前ではなかなか言えない「好き」があって、後者のほうを誰もが「秘密」として抱えている。それを告白したときにやっと友達になれる「好き」ってあると思う。だから、いろいろな「好き」を全然区別しないで、全部を正直に世の中に発信していいんだよ〜〜と言われると、「"好き"って気持ちをざっくりと見積もりすぎだ!」と私は思ってしまうかな。

まとめ


というわけで、それでも「好きって言おう、発信しよう」という言説に私は7割くらいは賛成なんだけど(やっぱり好きを発信するメリットってすごく大きいと思うし、いろいろ言ったけどハッピーになる人は多いから)、なんていうか、けっこう自分勝手で恣意的なメッセージを感じ取っちゃうときがあるんだよね。「みんなが不快にならない"好き"だけを発信してね!」みたいな。


「"正しくない"(かもしれない)好き」は、まあ、水面下で発信するとか、裏でこっそり語り合うとか、別にそれは今の時代だけじゃなく、ずっとそうやって受け継がれてきた。「好きって言おう、発信しよう」って言ってもらって全然いいんだけど、「ま、人に言えない好きもあるけどね」っていう注を一言入れてもらいたいもんだと、私はちょっぴり思ってしまうのだ。


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(※岡本太郎記念館は青山イチのパワースポットである)

最低な食事と、最高な食事

先日、こんなツイートをした。私、よくごはんを食べ忘れるのです。



「食」に関しては、誰であろうと一家言あるはずである。なぜなら、本を読まない人間、旅行に出かけない人間、働かない人間はいても、食べない人間はいないからである。というわけで、私の現時点の「食」に対する考え方を、少しだけ記録しておこう。

拝啓、悪役マーガリン様


最近、人にすすめられて松浦弥太郎さんの『場所はいつも旅先だった』を読んでいた。主にアメリカで過ごしたオシャンティな日々が綴られているエッセイなので、「けっ」と思いながらKindleのページをめくっていたのだが、「けっ」は私の場合、褒め言葉と紙一重というかほぼ同義である。たぶん自分がナルシストだからだけど、他人の書くものも、「この人、今、自分のことカッコイイって思っただろ!?」的な記述に強く共鳴してしまう。まあ、その話はいいとして……。


場所はいつも旅先だった (集英社文庫)

場所はいつも旅先だった (集英社文庫)


ちょっと驚いたのは、あの(?)松浦弥太郎さんが、毎朝の朝食として「マーガリンを塗ったトースト」を愛していたことである。


マーガリンといえば、やれトランス脂肪酸がどうのとかで忌み嫌われ、近年ではすっかり悪役扱いだ。この書籍が出たのは2011年らしいので、もしかすると今の松浦弥太郎さんはもう「マーガリンを塗ったトースト」を愛していないかもしれないけれど、少なくとも数年前は、「朝の忙しい時に前もって冷蔵庫からバターを出しておいて、やわらかく溶かしておくのは億劫で仕方がない」と、はっきり書いているのである。そして、私はこの部分を読んだら、すごく気が楽になった。

「毎朝の食事のこと、めんどくせえって思っていいんだ!」って。

最低な食事と、最高な食事

もう少し長目に引用してみよう。

『僕が好む単純な食生活とは、最低か最高そのどちらかの食事である。『プラザホテル』や『サラベス・キッチン』の朝食は最高であろう。我が家のトースト一枚、コーヒー一杯の朝食は、言ってみれば最低であろう。しかしどちらも僕にとってはうまいのである。
(中略)
僕は最低の中から最高を見つけたい。もしくは最高をもって最低を知りたい。


先日のツイートから、もしかすると、私がとてつもなく悲惨な食生活をしているのだと連想してしまった人もいるかもしれない。まあ、確かに悲惨には違いないかもしれないけど、でも私自身は今の自分の食生活に、ほどほど満足しているんだよな。「もっと丁寧な食生活をしたい……」とかは、あまり、というか全然、思っていない。なんていうか、日々の食事には、「ついうっかり忘れることもある」くらいのポジションでいてほしいのだ。


一人暮らしを始めたときからその兆しはあったのだけど、下の小倉ヒラクさんの記事を読んでからは「あ、じゃあもう私エンドレスこれでいいわ」と考え、基本的に家に一人でいるときは、お味噌汁と納豆ごはんとキムチor漬物を毎回食べている。お味噌汁の具はそのときによって変わるけど、メニューをほぼ固定にしたら食生活のストレスがなくなった。なんか、「毎回食べたいものを考えてレシピを検索して……」というのが、私にはかったるくてしょうがなかったみたいだ。


hirakuogura.com
(※まあ私、男子じゃないし、免疫力めちゃ高なんですけど)


土井善晴さんの『一汁一菜でよいという提案』とか稲垣えみ子さんの『もうレシピ本はいらない 人生を救う最強の食卓』とかも、まあだいたい同じ思想から発展しているんだろうなと思う。毎回の食事を丁寧に、豪華に、大切に彩っているとちょっとめんどくさい。私は1日2食スタイルなので単純計算で365×2=730回の食事を1年でするわけだけど、そのうち「1人でお味噌汁と納豆ごはんと漬物」という「最低の食事」が8割くらい占めていても、自分的には全然かまわない。「大好きな人たちと、すごく美味しいものを食べる」みたいなのももちろん好きだけど、そういう「最高の食事」は月に2回もあれば、もう十分めちゃめちゃ幸せだ。


「食」だけでなく生活全般に関して私はそういう考え方で、旅行に行ったり楽しみなイベントや集まりがあったりするときももちろん心踊るのだけど、ただ起きて、会社に行って、帰ってきて、一人でお味噌汁飲んでる日だって十分好きだ。そういう日は地味だし「最低」かもしれないけど、あとから思い出してしんみりするのはそんな「最低」な日々の積み重ねだったりすることもある。私、引っ越しするとき、壁のシミとかを見て、「もうこのシミを見ることもないのか……」とかって号泣するタイプだからな。「最低」というと聞こえは悪いけど、ようはハレとケであればケの日だってちゃんと愛でたいということだ。


この前美容院に行ってファッション誌を読んでいたとき、とある美容コラムニストの方が「美しい女性であるためには、〈めんどくさい〉という言葉を使ってはいけません」と書いていて、まあ一理あると思うし人それぞれだけど、うるせえ、私はめんどくせえことは積極的にめんどくさがっていくぞ、と思った。


自分にとって大切なものと、優先順位さえわかっていれば、「めんどくせえ」って言っても、いいと思う。ものすごくポジティブに解釈すれば、つまり「めんどくせえ」とは自分にとって大切でないものを省いていく言葉だからだ。ま、私はいろんなことをめんどくさがりすぎなので、もうちょっといろいろ丁寧にやらないと、真人間に一生なれない気がするけど。


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(※これは先日作った牡蠣の炊き込みご飯とインスタントのお味噌汁。牡蠣は半額になっていたので買った。私はスーパーの見切り品みたいなのをよく買うのだけど、それは節約以外に、「とりあえず安くなってるやつを買う」というルールにすれば考える手間を省けるからでもある)
(※この写真を恋人に送ったら「おかずはないのか」と言われたので、「牡蠣ご飯のおかずは牡蠣ご飯だよ」と言いました)

30歳女が観る"デキちゃった"映画『イレイザーヘッド』

このブログを書いている人は現在30歳の女性であるが、しかし実際の中身はオッサン……ではなく、ガリガリに痩せている病的にナイーブな16歳の少年である。そう、ちょうどガス・ヴァン・サントの映画に出てくるみたいなね。毎日ストリートでスケボーしてるし。もしくはやっぱり、『ライ麦畑』のホールデン・コールフィールドくんやね。



……と、いうのはもちろん冗談だけど、先日アップリンクデヴィッド・リンチの『イレイザーヘッド』を久しぶりに鑑賞してきた。前に観たのは学生のときだったから、およそ10年ぶりの再会ということになる。学生のときからずっとそうだけど、私はリンチの映画はたぶんこの『イレイザーヘッド』がいちばん好きだと思う。


イレイザーヘッド デジタル・リマスター版 [DVD]

イレイザーヘッド デジタル・リマスター版 [DVD]


物語のあらすじは簡単だ。イレイザーヘッド、つまり主人公の「消しゴム頭」ヘンリーはしがない町の印刷工。しかしまだまだ若いヘンリーくん、なんと恋人を妊娠させてしまう。彼女に泣かれ、彼女の両親には「結婚して責任をとれ」と迫られ、「俺の人生、終わった……」という心の声と同時に、彼は悪夢を見るようになる。


家族が集まる食卓にはピクピク動いて血を流す丸焼きチキン、生まれてきたのは奇形の赤ん坊、ラジエーターの中の女性シンガー、隣人の女性の誘惑、皮膚病の謎の男。

天国ではすべてが上手く行く。天国では何でも手に入る。あなたのよろこびも私のよろこびも、天国では何もかもいい気持ち


──ラジエーターの中の女性シンガーはそう歌うけど、つまり、この世では何もかも上手く行かないし、何も手に入らないし、あなたのよろこびも私のよろこびも、この世においては何もかもが不快で気に入らねえってことだ。


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10年ぶりに改めて観ても、私はこの映画の世界観がやっぱりめちゃくちゃ好きだった。


でも、これを素直に「好き」と言えるのは私の中の16歳のスケボー少年のほうで、もう1人の30歳女性のほうは、久々に観てちょっと首を傾げてしまっているところもある。実際、これを観て怒る女性は少なくないと思う(というか、奇形の赤ん坊が出てくる映画なので、妊婦さんや幼い子供がいる人は観てはいけない)。ヘンリーくん、君はのんきに悪夢を見ていられるかもしれないけど、女の人はこういう状況に陥ったら悪夢を見る暇すらなく、本当に本当に大変なんだよ!


まあ、突然ガールフレンドを妊娠させてしまって「やっべ」と思う気持ちは1人の人間として理解できなくはないのだけど、ちょっと自分勝手だし、「ごちゃごちゃ言い訳してねえでテメエがやったことの始末はテメエでつけな!」と言いたくもなってくる。この消しゴム頭め。とにかく、「俺の人生、終わった……」が主題の映画なので、女の人は置いてきぼり、ポリティカル・コレクトネスという言葉の前ではおそらく即死の作品である(いろんな意味で)。


それを反映してか、この映画のレビューを書いているのは圧倒的に男性が多い(たぶん)。しかしだからこそ、女性の私も何か書かないとバランスが悪いような気がして、ある種の使命感から今これを書いているんだけど。

天国ではすべてが上手く行く。天国では何でも手に入る。あなたのよろこびも私のよろこびも、天国では何もかもいい気持ち

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前述したように、『イレイザーヘッド』はひじょ〜に未熟で自分勝手なクズ・消しゴム頭のヘンリーくんが主人公だし、どうしても”デキちゃった”という部分に目が行きがちな作品である。ただ私はやっぱり、16歳の少年としてはもちろんだけど、30歳の女性としても、改めて観たこの映画がちゃんと好きだということを強調しておきたい。


映画の中では「赤ん坊」という形態をとっているけれど、このグロテスクな生き物が象徴しているのは、もっと普遍的な「他者」だと私は思う。


永遠に続くかと思っていた愛すべき俺の日常。でも、その日常には様々な形でいつか必ず「他者」が侵入してくる。ヘンリーくんの場合はそれがガールフレンドの妊娠や生まれてきた赤ん坊だったわけだけど、受験だって就職だってはじめてのセックスだって、グロテスクなのは皆同じだ。他者はいつだって暴力的で、俺をめちゃめちゃにしてしまう。「いい気持ち」になんてなった試しがない。そうだっただろ?


まあだから言いたいことは、あまりこの作品を「アレは精子のメタファーだから……」みたく「男の映画ですから!」みたいな文脈で語らないでほしいし、女の人にもこの作品を怒らずに観てほしいってことなんだけど、それはただの私個人の願望だ。これを普遍的な解釈にしようなんて思ってない。


でもほんと、私はこの作品好きだな〜〜〜。今のところ具体的な予定はないけど、きっと妊娠してもお母さんになっても、私の中にはずっと病的にナイーブでこの世の何もかもが気に入らねえ16歳の少年が住み続けるし、『イレイザーヘッド』は死ぬまで好きだと思う。


だれか、この「サリンジャー病」を治す方法を知っている人がいたら教えてほしい。まあ、教えてもらったところで治さないけどね。自らの意志で。


あとアップリンクで売ってたこの本が読みたい! デヴィッド・リンチキース・ヘリングに影響をあたえた本だそうです。


アート・スピリット

アート・スピリット

書くことがない2.0

1.

実はこっそり、長年そのままにしていたブログのサブタイトルを変更していたことに気付いた人はいるだろうか。そんなわけで、とりあえず2018年の間は、このブログは毎週木曜日の22時に更新される。更新されなくなったときは私が死んだとき……くらいの覚悟でマジで木曜日の22時には本当に絶対に何があっても更新するつもりである。

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2.

なぜそんな課題を2018年に課したのかというと、書くことがなさすぎて、そうでもしないとこのままインターネットの電子の海の藻屑と化して消えてしまいそうだからである。別に私が消えても誰も困らないのでいいっちゃいいのだが(これは自虐ではない。現実の私が消えると困る人はいるかもしれないがネット上の「チェコ好き」が消えても誰も困らない)、とりあえず書くことがなくても電子の海から「チェコ好き」を消したくないという欲だけはあるみたいだ。

3.

ちなみになぜこんなに書くことがないと感じているのかというと、「炎上が怖い」ってのはわりと強固にある気がしている。私はちょっと無神経で共感能力に欠けるところがあるので、恋愛、人間関係、自己肯定感など個人のナイーブな内面に言及する話題にはもう触れない……と2017年の自分脳内会議で結論が下されたのだが、それ以外の話題でもどこかに潜んでいる地雷を不用意に踏んでしまう予感が拭えない。地雷がどこに埋まっているのかわからない中を1人で歩く、というのはそれだけでけっこう疲れるのだ。平たく言うと、昨年夏の私史上最大の大炎上を未だにけっこう引きずっている。


人の心の奥にすっと入っていくような、優しい文章が書ける人が羨ましい。私はそういうのはあまり得意じゃなくて、どちらかというと和やかなパーティーをみんなで楽しんでいるところに、突如赤ワインのボトルを柱に思いっきり叩きつけてブチ割る、みたいなプレイスタイルのほうが得意で好きだ。でも、今の世はちょっと私のプレイスタイルは流行らないかな、という空気をひしひしと感じる。


でもこういうのにはたぶんサイクルがあるので、数年後にまた「もう何もかも全部ぶっ壊してくれ!!!」みたいなニーズが各所で発生するんじゃないかと思っている。そのときは、赤ワインのボトルをキュッキュと磨きながら駆けつけられるといいなあ。

4.

というわけで、無難に最近興味があるものでも書いておく。最近の私が興味を抱いているのは、「南極探検とSF」。南極は別に北極とかアラスカでもいいんだけど、とりあえず極寒の地に興味があるし、行ってみたいと思う。それは、オーロラが見てみたいとかじゃなくて(オーロラも見たいか見たくないかで言ったらそりゃ見たいが)、「死」がどんなものか体験してみたい。南極って、寒すぎて、菌もウィルスもいないんだって。菌もウィルスもいないから、風邪を引かないんだって。それってすごくない? だから戦前の南極探検隊の人は、いつも凍傷か壊血病で死んだ。今はたぶん行っても死にはしないだろうけど、「ああ、このままここに1人で置き去りにされたら、私、死ぬんだなあ」って感覚を味わってみたい。そういう意味では、砂漠にも行きたい。


同じく興味があるのはSF小説だけど、なんだか、「いま、ここ」から遠く離れたものが今は好きみたいだ。今は、っていうか私は昔からわりとずっとそうだけど。SF小説はやっぱり思考実験として面白くて、「もしアレがアレでコレがコレになったらどうする?」をゴリゴリに追究するのが楽しい。


どうしたら愛されるかとか、どうしたら幸せになれるかとか、どうしたら人と上手くやれるかとか、どうしたら好きを仕事にできるかとか、そういうのは私もよくわからん。ただ、「南極、菌さえもいないのスゲエ」とは言える。私にはそんな「南極SUGOI情報」しか発信できないんだけど、まあそんな女性ライターが1人2人いたっていいよね。ということにしておく。

5.

今週はそんなかんじで、また来週……。

人の気持ちは変わってしまう

先月、いつかじっくりお話できたらいいな〜とずっと思っていた方と、ランチをご一緒する機会に恵まれた。

その方は、私がスコット・フィッツジェラルドの大ファンであることを知っていたので、「チェコ好きさんは、フィッツジェラルドのどこがそんなに好きなんですか?」と質問してくれた。


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※こちらの店内はそのときのお店ではありません、念のため*1


この手の質問に関しては、常時答えを100通りくらい用意しているのだけど(ほんとかよ)、さすがに100通りすべてをお伝えするわけにいかないし、その100通りもいざとなると出てこなかったりして、キョドキョドしながら「ひ、人の気持ちが変わってしまうってことを、丁寧に描いているからですかね……」みたいなことを言ってしまった。すると「人の気持ちの変化を描いている小説は他にもありますよね?」と言われ、「うん、確かに……笑」と考え直し、その場ではそれ以上言葉が出てこなかった。なので、当日の帰り道に考えていたことをちょっとだけ書く。



お正月に、神奈川県小田原市にある実家に帰った。


そのとき、いつもはあまりそういうことはしないのだけど、ちょっとした出来心で、高校時代の写真のアルバムを開いて見てしまった。修学旅行のときの写真とか、文化祭のときの写真とか、体育祭のときの写真とか、卒業式のときの写真とか、あとはなんでもない日常の写真とかがあって、そのすべてに、スクールライフをそこそこ楽しくやっていそうな、かつての自分が写っていた。


その中の一枚で、高校3年の文化祭のときの写真があったのだけど、私はこの一枚を、どのようなシチュエーションで、誰とどんな会話を交わしながら撮ったのか、奇妙なほどくっきり覚えている。それは文化祭の最終日の夕方だったんだけど、クラスメイトたちと一緒に、出店したうどん屋の片付け作業を進めているときに、突然ざーっと雨が降ってきたのだ。


私たちは雨を避けるために慌てて校舎の中に入ろうとしたんだけど、そのとき、当時クラスで中心的な存在だった「廣川くん*2」が、突如テンションが上がってしまったのか、「写真撮ろうよ!」と言い出して、校舎に入ろうとしていた私たちを呼んだ。呼ばれたので雨が降る中もどってきたら、「廣川くん」のテンションにだんだんとその場にいたみんなが感染してしまい、結局ほぼクラス全員のメンバーが集まってきて、いつのまにか先生に渡っていたカメラの前で、その一枚の写真を撮った。大粒の雨を避けるように、みんな半目だったり、その場にあったテキトーなものを頭に被せたりしていて、突然だったからピースもまともにできていなくて、そんな一枚になった。


今でも覚えているんだけど、雨の中にフラッシュの光が混じった直後、私は、「この写真、撮らなければよかった」と思った。でもそれはシャッターが下りた後だったからもう遅い。その一枚はきちんと複製されて私の手元に渡り、今もこうして実家に保管してある。


この写真、撮らなければよかった。うつらなきゃよかった。だって後で見返したら、きっと悲しくなってしまうでしょ!


私の高校3年の文化祭の最終日は、私の長い長い人生の中で、たった1日しかない。私たちの出していたうどん屋は解体されて跡形もなく消えてしまうし、雨はいつか止んでしまう。一瞬はすぐに次の一瞬に移り変わって、消えてなくなってしまう。


その儚い一瞬を、大事な瞬間を、写真にしたり言葉にしたりするのは、生きている昆虫を捕まえてピンで刺して息の根を止めるようで、私にとってはどうしようもなく苦しい。ピンで止めたら死んでしまう。その一瞬が過ぎたことを認めることになってしまう。大事な瞬間は、ただ私の記憶の中だけにあってほしい。あとでいくらでも美化されればいいし、あるいは忘れてしまってもいい。そして、できれば永遠になってほしい。


世間知らずの私は、どうやら自分がこの点においてけっこう少数派らしいことを、最近になって知った。大切な瞬間は大切だからこそ、きちんと写真や文章にして残しておきたいって人のほうが、世の中には多いみたいだ。私は、大切な一瞬こそ、それがすでに過ぎ去ったものであると認めると悲しくなってしまうから、できればあまり形に残したくない。でもこの考え、今まで共感してもらえた試しがない。



自分一人で考えたことや感じたことならいくらでも書けるんだけど、誰かと一緒に体験したことは、その誰かが自分にとって大切な人であればあるほど、上手く書けないし、書きたくないのだった。


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翻ってフェッツジェラルドの話にもどるけど、私はなんとなく、彼なら私のこの気持ちをわかってくれるんじゃないかなと勝手に思っている。あ〜〜でもな、そんなことないか。それはちょっとわかんないや。でもとにかく、フィッツジェラルドは、「過ぎ去る一瞬」をものすごく大切にしている作家だ。


これは、懐古趣味とは違う。私は同窓会の類は全部断る人間なので(同窓会のかほりがする結婚式も全部断る)、「昔話」には1ミリも興味がない。昔は良かったって話をしたいわけではなくて(昔なんかより今のほうが絶対にいい)、ただ一瞬一瞬が過ぎて、人の気持ちも、世の中の景色もどんどん変わっていってしまうことに、一種の切なさを覚える。この一瞬が永遠に続いてほしい。今日の後も今日がくればいいのにと、けっこう毎日まじで思う。


だから究極の理想は、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』みたいに、絶対に時が過ぎない永遠ループの世界で暮らすことなのかもしれない。まあ、そうなったらそうなったで悪夢だけど……。あとは、H・G・ウェルズの『タイムマシン (光文社古典新訳文庫)』に出てくるみたいな、「極限まで発展しきってしまったのでもうこれ以上の発展が1ミリも望めない世界」とか。いずれにしろディストピアではある。

余談

この妙なコンプレックス、今年はちょっと克服しようかなと思う。ただ別の方に「チェコさんはいけない女子」と言われてちょっと嬉しかったので(嬉しがるな)、やっぱり男女関係なく誰に対してもこのまま愛人路線を貫こうかなとも思う……。


とにかく、ずっとお話できたらいいなと思っていた人と、ちゃんと会えて良かったなと思ったのでした。

*1:イメージ図をはさみたくて……

*2:一応仮名