チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

アヘンで人は幸福になれるか?

世の人の苦悩は、たいてい「欲望と現実のギャップ」から生まれる。たいていっていうか、100%そうかも。モテたいのにモテないとか、結婚したいけど相手がいないとか、お金がいっぱい欲しいのにお金がないとか、好きなことを仕事にしてガンガン稼いでモテまくって雑誌とかウェブメディアに取材されたいのに上手くいかないとか、フォトジェニックなゴハンを作ってインスタにアップしたいのに料理が下手とか、っていうかこれカメラの性能の問題? とか(私のことじゃないよ! 全部一般論だよ!)


もう一度言う。大なり小なり、人の苦悩は「欲望と現実のギャップ」が生むのだ。



(※こちらは現在、午後の3時。わたくし今、シチリア島パレルモに滞在しております)


そして、世に蔓延るたいていの商品は、「私があなたの現実を、欲望に追いつかせてあげましょう」とアピールする。このカメラを買ったら、もっと素敵な写真が撮れるかも。この化粧品を買ったら、もっと綺麗になれるかも。このコーヒーメーカーを買ったら、もっと優雅な朝が過ごせるかも。このビジネス書を買ったら、もっと上手に仕事が進められるかも。このエッセイを買ったら、今よりもっと世界がキラキラして見えるかも。先行するのはいつだって欲望で、現実はそのあとを追いかけるもの。現実を欲望に近付ける。私たちは、苦悩を解消する方法はそれしかないのだと思い込んでいる。


でも本当は、もう一つ、別の方法が存在するのだ。私たちが、いつもやっていることの逆。そう、欲望を現実に近付けること。欲望をダウンサイズすること。「モテたいのにモテない」から苦しいのであって、そもそもモテたいと思わなければモテなくても苦しくないのだ。これは詭弁なんかじゃない。


欲望のダウンサイズを合法的にやるには精神の鍛錬が必要で、私ぜんっぜん詳しくないんだけど、たぶんガチでやるには仏教の世界とかに行くといいんだと思う。ただ、違法でいいから(良くねえよ)もっと簡単お手軽に欲望のダウンサイズがしたいよ〜! って人におすすめしたいのは、アヘン。真面目な話、アヘンの吸引と仏教の世界って繋がっていると私は思っていて、ていうかドラッグと宗教って全体的に繋がってるよね。

「欲望の器がちっちゃくなる」とは

と、人に勧めておいて私自身はアヘンを吸ったことないんだけど、アヘンを吸ったらどんなカンジになるのかはちょっとだけ知っている。なぜなら本で読んだから。「本かよ!」と笑うなかれ、本はすごい。リスクゼロ、コストはたった1000円、しかも合法で、アヘンを吸引したらどんな世界が見えるのかちょっとだけわかっちゃうのだ! 本はすごい。


アヘン王国潜入記 (集英社文庫)

アヘン王国潜入記 (集英社文庫)


というわけで、その世界を詳しく知りたい人がいたらぜひアヘンを本当に吸引する前に上の本を勧めたいのだが、著者の高野秀行さんによると、アヘンを吸うと「欲望の器がちっちゃくなる」らしいのね。モテなくてもいい。結婚なんてしなくていい。お金もなくていい。好きなことを仕事にしなくたっていい。ガンガン稼いでモテまくって雑誌やウェブメディアに取材なんかされなくてもいい。欲しいものもない。行きたい場所もない。食べたいものもない。ただこうして、横になって、ダラダラしながらアヘンを吸っているだけで、めっちゃ幸せ〜〜〜!


「そんなの、本当の幸せじゃないよ!」って言うことは簡単だ。ここまでプッシュしておきながらあれだけど、私だってアヘン吸って横になってるだけの廃人の日々が幸せだなんて本気で思っているわけじゃない。ただ、「なぜ?」に答えられないだけ。苦悩がないならいいじゃない。幸せだって本人が言うんだったらいいじゃない。どうして先行する欲望を現実が追いかけなきゃいけないの? どうして逆だといけないの? 


一つ問題があるとするならば、いつかお金が尽きるってことだ。アヘンには中毒性がある。ハマればハマるほど、それなしでは苦しくて生きられなくなる。人を殺してでもそれを手に入れたいと思ってしまう。アヘンを買うためのお金がなくなってしまったとき、たぶん私たちは法を犯す。普通の社会生活はもう送れなくなってしまう。

ではもし、アヘンが無限にあったなら

つまり、アヘンで(薬物で)幸せになれない理由があるとしたら、「それを永遠に摂取し続けることはできないから」だと思うんだよね。でも、だったらもう死期が近い老人が使うのはアリ? とか、アヘンや薬物ってのは違法だから高価なのであって、社会全体のインフラ的存在として安価で提供し始めれば問題ないんじゃないかとか、なんだかそんなことをずっと考えていたら春のうららかな一日が潰れた。ひどい過ごし方だ。


現実的に考えると、「アヘン(的なもの)を無限に提供し続けられる社会」を明日からすぐ始めようぜってのは無理だ。私たちはまだ当分、先行する欲望を現実が追いかけるこの地獄を生きなければいけない。


でも、もっともっとずっと先、たとえば百年後とか二百年後だったら、案外「無限アヘン」の社会が実現できるんじゃないかなって思うんだよね。雑用はぜーんぶAIに任せて、私たちはただ脳みそにコードをぶっさしてシアワセ成分を注入されながらゴロゴロするんだ。何もしなくていい。どこにも行かなくていい。誰からも承認されなくていい。生きてるだけで幸せだ。誰も苦しまない。


「そんなのは"生きてる”って言わない、ディストピアだ!」って言うことは簡単だ。私だって本気でそんな社会の到来を願っているわけじゃない。私、案外ふつうの社会生活を送っている人だから、友人と語らうことの楽しさも、恋をすることの美しさも、夢ややりたいことを追いかける充実感も一応人並みには知っている。


ただ、「なぜ?」に答えられないだけ。誰も苦しまない幸せな社会になったらいいなって思うのに、アヘンが無限にある未来社会を否定したくなるのはなぜだろう。もっと仏教とか勉強したらわかるのかな。


でも、好む好まざるに関係なく、人類の未来は案外マジで「無限アヘン」に向かっていくんじゃないかって気もする。だって、この地球上の全員を漏れなく幸福にする方法なんてたぶんそれくらいしかないから。SF小説の読みすぎかもしれないけど。


もうすぐ、私たち全員シアワセになれる。もうすぐ、誰一人例外なく。


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(※シチリアはとても快適です。パラダイス)

STUDIO VOICE vol.412 で「旅にかんするノンフィクション」を紹介しました

掲題のとおりなんですが、「STUDIO VOICE vol.412」にちょっとだけ登場しています。


vol.412のテーマは、「Documentary / Non-Fiction 見ようとすれば、見えるのか?」ドキュメンタリー映画とかインタビュー記事とかノンフィクションとかの特集なのですが、そこの現代ノンフィクション入門というページで「旅にかんするノンフィクション」を5冊おすすめしています。ブログでは触れていない本もあるので、ぜひ。STUDIO VOICEは学生時代の憧れの雑誌だったので、嬉しいのを隠しきれておりません……!



STUDIO VOICE vol.412

STUDIO VOICE vol.412


というわけで私の書評を読んで欲しいのはやまやまなのですが、今号はそれを抜きにしても本当に面白かったです。特に感想を書いておきたいのは、「インタビューをめぐるインタビュー」。プロインタビュアーの吉田豪さん、社会学者の蘭由岐子さんがインタビュイーになっているのですが、お二方がどんなふうに取材相手から話を引き出しているのかという話が興味深かったです。

相手のことを好きになる

まず吉田豪さんの場合は、これは著書『聞き出す力』にも書いてあったのですが「取材相手のことをとにかく好きになっている」。たとえ相手が犯罪者でも、殺人とかレイプとか、よほど悪質なものでなければまあ許せるらしいです。


しかし、相手のことを許せてもそれがすなわち「好き」に繋がるわけじゃないと思います。私も(大声では言えないが)モラル意識は低いほうなので、許せないことってあんまりない。でも、人の話を聞くの下手だし、あんまり目の前の人のこと好きになれない……! どうしたらいいんだ!


このあたりの話は個人的にもうちょっと聞きたかったのですが、「正しくないことは基本的におもしろい」という吉田さんの言葉はヒントになりそうです。


私、いきなり何を言い出すんだというアレですが、男の人に風俗の話を聞くのが好きなんです。相手がノンケの男性の場合、話題に困るといつも風俗の話を振って切り抜けている(風俗否定派でもそれはそれでそこから話が広がるので良し)。風俗は自分では体験できない分野だし、吉田豪さんの言葉を借りればやっぱりめちゃくちゃ正しくないので、面白いです。これは決して私がエロいわけではなく、処世術です。


女の人相手にもこういう「鉄板切り抜けネタ」があったほうがいいのかな。でも女の人相手だとそこまで話題に困らないからな。ノンケの男性に風俗の話を振る鉄板切り抜け、著作権フリーなので良かったらどなたでも自由に使ってください。意外とイケる。

話し上手、仕切り上手がインタビュー上手とは限らない


もう一人、蘭由岐子さんのほうは、ハンセン病患者への取材という重いテーマ。蘭さんはどうやってハンセン病の人たちから話を引き出したのかというと、これは意図してやったわけではないっぽいのですが、「あなたが言いたいのはこういうことですよね!」みたいなテキパキ調ではなく、滑舌悪くなんかもごもご言いながら取材をしたらしいのです。でもそれが逆に良かったみたいで、もごもご言ってたからこそいろんなことを話してくれたんじゃないかという話が印象的でした。


吉田豪さんは話を引き出すのがめちゃくちゃ上手いけど、人とベタベタ付き合うのは好きじゃないらしくて、取材相手と友達になったりすることはないらしい。自分のことを相手に話さず、飲みにもあまり行かず、「人との距離感は遠いほうだと思う」とおっしゃっていました。つまり、お二方の話を総合すると、「聞き上手」とか「インタビュー上手」に必ずしも決まった型があるわけじゃないってことです。私は、いわゆる「コミュニケーション強者」みたいなのがインタビュー上手だと思っていたので、それは違うんだな〜〜というのは発見でした。

まとめ

他、映画監督ジャ・ジャンクーのインタビューや沖縄のタトゥーのコラムとかもすごく面白かった。「真実をどう切り取るか、どう見せるか、そもそも真実なんてものは存在するのか」みたいなのはけっこう古くから私が考えているテーマなので、今号は興味のあるトピックでいっぱいでした。特集のタイトルにある「見ようとすれば、見えるのか?」って、かなりラディカルな問いだと思います。


ちなみに、私が出ているページを構成・取材してくださったのは、山本ぽてとさん! 『ルポ 川崎』読みたい度が爆上がりしたので、たぶん近いうちに読むでしょう……。



STUDIO VOICE vol.412、ぜひ本屋さんやAmazonでチェックしてみてください。

スタジオボイスに載ってて読みたくなった本リスト

ルポ 川崎(かわさき)【通常版】

ルポ 川崎(かわさき)【通常版】

人間はなぜ歌うのか? 人類の進化における「うた」の起源

人間はなぜ歌うのか? 人類の進化における「うた」の起源

うしろめたさの人類学

うしろめたさの人類学

いい感じの石ころを拾いに

いい感じの石ころを拾いに

残響のハーレム

残響のハーレム

ラディカル・オーラル・ヒストリー―オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践

ラディカル・オーラル・ヒストリー―オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践

Twitterに書こうとしたが文字数を余裕でオーバーしたので

1.

私は30歳過ぎの独身女性で仕事もそこそこお金もあんまないんですが、そのことはほとんど気に病んでおらず、わりと毎日のびのび、楽しく生活している。

2.

そんな生き方ができているから、本当はもっと、悩めるアラサーの独身女性に言ってあげられることがあるんじゃないかとも思うんだけど、私はそこらへんの共有が下手くそだ。というか、基本的にカルチャーにしか興味がないから、あんまり書けることがない。映画評とか文学評ならいくらでも書けるんだけど、恋愛コラムとか、結婚しない生き方とか、そういうのにそもそもあんまり興味がなくて(29歳を過ぎたあたりからさらに興味がなくなっちゃった)*1、無理やり書けば書けないこともないけど、やっぱり上手ではない。女性としての生きづらさみたいなのも、正直あんまり感じたことがない。

3.

私のまわりにはそういうのをとても上手に書く人がたくさんいて、そういう知人たちのことはとても尊敬していて、彼らが書いたコラムは彼らのことが好きなので読むけど、知らない人が書いた「生き方コラム」は、最近は興味がないので本当にほとんど読まなくなった*2

4.

単純に興味があるものとしては、SF小説の歴史! とか、南極を探検するぞ〜〜! とか、マフィアの地下経済! とか、そういうのばっかり読んでる。そういうの読んでるとすっごくわくわくするし、落ち着くし、何よりホーム感がある。

5.

そしてそういう文章はあんまり(というか全然)ネットにないので、あってもまずSNSでシェアされないので、必然的に本をたくさん読むことになる。インターネットでは、基本的にウィキペディアを延々とさかのぼってずっと読んでる。

6.

しかし、逆説的にはなるけど、カルチャーにしか興味がないからこそ、こんな状況でも特に気に病まず、のんびり生きていられるのかなと思う。「誰がなんと言おうと好きな世界がある、素晴らしいと思えるものがある」ってけっこう強いのだ。

7.

そして、「何か言ってあげられることがあるんじゃないか」なんて、やっぱり傲慢な思い過ごしだったかもしれない。

8.

なんていうか、かつて同じように悩み迷ったことがある人が、どうやってそれを克服したかってのをみんな聞きたいんであって、「最初からあんま気にしなかったです」なんて話は、別に誰も聞きたくないしどこにも需要はないよね。私に言えるのは「気にしなきゃ気になんないよ」っていうトートロジーだけだ。私の生き方が誰かの救いになったらいいのになって思わないこともないんだけど、やっぱりあんまり参考にならないよね……。

9.

私はそもそも自分の生き方について(親も含めて)あんまり人にとやかく言われないのだけど、それはたぶん「こいつに何言っても無駄オーラ」が出ているせいだと思う。

ああいうのって、絶対に人を見て言ってる。だから人に何か言われて落ち込んでいる人は、本当に、そういうの気にしなくていいと思う。人を見て言ってるだけだから。それは別に全然正しいことなんかじゃないから。「なんか言ったらこいつ思い通りに動かねえかな、動きそうだな」って人にしか、人はとやかく言わない。

(まあ、「こいつに何言っても無駄オーラ」を出すことのマイナス面もあるので、これが必ずしも良いことだとは思ってないが)

10.

そんなわけで、私はカルチャーに生きカルチャーに死ぬカルチャーバカ。今いちばんハマっていることはトマス・ピンチョンの小説を読むこと、コンプレックスは英語が上手にしゃべれないこと。さっきオンライン英会話のフィリピン人の先生に怒られたのでちょっぴりヘコんでいる。でもドMだからまたその先生で予約しちゃった。

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『V.』のあらすじ、何言ってんのか全然わかんなくてヤバイ

*1:しいていえば25〜27歳くらいのときがいちばんそういうことに関心があった気がする。当時のことを頑張って思い出そうとしてみたりもするが、喉元過ぎれば熱さナントカで、もう思い出せない

*2:知らない人枠でいうと、ヤマザキマリさんのコラムだけはわりと読む

「大好き」を叫び続けたら夢は叶う……の? まじで?

私のまわりだけかもしれないが、「好きなもの(人、こと)があるなら、それについて積極的に発信していったほうがいい」といった内容のことを、たびたび言う人がいる。ていうか、私自身もどっかで言ってたかもしんない。


上のようなメッセージに関して、私は賛成したい気持ちが7割だ。だけど実をいうと、批判したい気持ちも3割くらいある。そして、賛成したい気持ちについて、つまり「好きなもの(人、こと)について積極的に発信し続けることのメリット」については、他の人がすでに散々言ってくれている。だから今回の私は、3割ほどある批判したい気持ちのほうを書くことにしよう。


一応メリットについて触れると、私のまわりでよく聞くのは、まず好きなもの(人、こと)について発信し続けていると、それが本人や製作者に届いて励ましのメッセージになる可能性があること。次に、「◯◯に詳しい、△△が好きなホニャララさん」というアピールができるので、自分自身の仕事に繋がったりすることがあるらしいこと。どちらもとても良いことである。私自身も、身に覚えがまったくないとは言わない。「いいね!」を押し続けていると、毎日少しずつ、自分の世界が豊かになっていったりするんだろう。

暴力表現が好きだったらどうすんの?


というわけで、ここからは3割のほうの批判。


まずは掲題のとおりだけど、「それを好きだというだけで不快になる人がいる表現」というものが、残念ながら世の中には存在する。よく言われるのは、好きなものへの賛辞を表明するときに、それと対極にあるものをdisって相対的に好きなもののポイントを上げるのはやめようってことだけど、そんなことしなくても、ただ純粋に「好き」と言っただけで世の中の人を不快にさせてしまう表現っていうのもある。


例としては、暴力表現やエロの表現などがこれに該当することが多い(法的には問題ないものであっても)。わかりやすい話としては、最近「ふともも写真の世界展」という展示が批判を受けて中止になった。

池袋マルイが、女性の「太もも」写真展を中止 疑問の声受け


個人的なことを言うと、私もこの「ふともも写真展」は、開催されるだけで不快という気持ちがわからんではない。スクール水着や制服を着た女の子を見て楽しむ男性が、申し訳ないけど私は好きじゃない。だから感情的なほうの私は「中止になって良かった!」と思っている部分もある。だけど理性的なほうの私は、「"好き"という感情は社会的に"正しく"なければいけないのか? そうでなければ許されないのか?」と首を傾げてしまう。


「好きなもの(人、こと)があるなら、それについて積極的に発信していったほうがいい」と人は言うけれど、私にはこのメッセージには、ある注釈がついているように思えることがある。


それが多くの人に受け入れられ、社会的に"正しい"好きならば、積極的に発信していったほうがいい」ってね。

それでもやっぱり好きなものは好きって言ったほうがいいと思うけど、思うんだけど


正直なところ、この批判には嫉妬も入っていると思う。「大好きな人と焼きたてのパンを食べる幸せ」とか映画の『かもめ食堂 [DVD]』みたいな、「好き!」って言ったところで誰からも怒られないような、そういう"正しい"好きを持てる人が、私はちょっと羨ましいのだろう。


アイズ ワイド シャット (字幕版)』の乱交パーティーのシーンとかが、私は大好きなのね。乱交パーティー。でも、結局Twitterで堂々と言ってるからあんまり説得力ないかもなんだけど、あとなんだかんだで「キューブリックの映画なので、芸術なので」って言い訳が立つからたいしたことないんだけど、これは真昼間にランチしながら初対面の人には言えないっていうか、夜も深まってきた頃、仲良くなった人に「じ、じ、じつは」ってやっとの思いで告白するタイプの「好き」だと思うのね。



(※「脳細胞が壊死する」は最高の賛辞)


まあ、そんな私の個人的な話はどうでもいいんだけど、つまり批判したい3割の気持ちについてまとめるとこうだ。


1つは、「社会的に"正しくない"(かもしれない)好き」をどう扱うのかという問題。

世の中にはいろいろな「好き」を抱えた人がいて、正直「好き」って言っただけで怒られるようなカルチャーだって存在する。怒られない好き(例:『かもめ食堂』)は表明してよくて、怒られる好き(例:ふともも)は表明しちゃダメってことなら「矛盾!!!!」って私は思うし、これはそんなに無邪気な話じゃないんじゃないかって考えちゃう。もしこれが「"正しい"好きだけを発信してね!」っていうメッセージだったなら、そんなご都合主義は勘弁してくれって思うよ。


もう1つは、「"好き"はアイデンティティと密接に絡むので、言い過ぎると秘密がなくなる」って問題。

これは、上の問題と比べるとあんまたいしたことないんだけど、人間には真昼間から堂々と言える「好き」と、人前ではなかなか言えない「好き」があって、後者のほうを誰もが「秘密」として抱えている。それを告白したときにやっと友達になれる「好き」ってあると思う。だから、いろいろな「好き」を全然区別しないで、全部を正直に世の中に発信していいんだよ〜〜と言われると、「"好き"って気持ちをざっくりと見積もりすぎだ!」と私は思ってしまうかな。

まとめ


というわけで、それでも「好きって言おう、発信しよう」という言説に私は7割くらいは賛成なんだけど(やっぱり好きを発信するメリットってすごく大きいと思うし、いろいろ言ったけどハッピーになる人は多いから)、なんていうか、けっこう自分勝手で恣意的なメッセージを感じ取っちゃうときがあるんだよね。「みんなが不快にならない"好き"だけを発信してね!」みたいな。


「"正しくない"(かもしれない)好き」は、まあ、水面下で発信するとか、裏でこっそり語り合うとか、別にそれは今の時代だけじゃなく、ずっとそうやって受け継がれてきた。「好きって言おう、発信しよう」って言ってもらって全然いいんだけど、「ま、人に言えない好きもあるけどね」っていう注を一言入れてもらいたいもんだと、私はちょっぴり思ってしまうのだ。


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(※岡本太郎記念館は青山イチのパワースポットである)

最低な食事と、最高な食事

先日、こんなツイートをした。私、よくごはんを食べ忘れるのです。



「食」に関しては、誰であろうと一家言あるはずである。なぜなら、本を読まない人間、旅行に出かけない人間、働かない人間はいても、食べない人間はいないからである。というわけで、私の現時点の「食」に対する考え方を、少しだけ記録しておこう。

拝啓、悪役マーガリン様


最近、人にすすめられて松浦弥太郎さんの『場所はいつも旅先だった』を読んでいた。主にアメリカで過ごしたオシャンティな日々が綴られているエッセイなので、「けっ」と思いながらKindleのページをめくっていたのだが、「けっ」は私の場合、褒め言葉と紙一重というかほぼ同義である。たぶん自分がナルシストだからだけど、他人の書くものも、「この人、今、自分のことカッコイイって思っただろ!?」的な記述に強く共鳴してしまう。まあ、その話はいいとして……。


場所はいつも旅先だった (集英社文庫)

場所はいつも旅先だった (集英社文庫)


ちょっと驚いたのは、あの(?)松浦弥太郎さんが、毎朝の朝食として「マーガリンを塗ったトースト」を愛していたことである。


マーガリンといえば、やれトランス脂肪酸がどうのとかで忌み嫌われ、近年ではすっかり悪役扱いだ。この書籍が出たのは2011年らしいので、もしかすると今の松浦弥太郎さんはもう「マーガリンを塗ったトースト」を愛していないかもしれないけれど、少なくとも数年前は、「朝の忙しい時に前もって冷蔵庫からバターを出しておいて、やわらかく溶かしておくのは億劫で仕方がない」と、はっきり書いているのである。そして、私はこの部分を読んだら、すごく気が楽になった。

「毎朝の食事のこと、めんどくせえって思っていいんだ!」って。

最低な食事と、最高な食事

もう少し長目に引用してみよう。

『僕が好む単純な食生活とは、最低か最高そのどちらかの食事である。『プラザホテル』や『サラベス・キッチン』の朝食は最高であろう。我が家のトースト一枚、コーヒー一杯の朝食は、言ってみれば最低であろう。しかしどちらも僕にとってはうまいのである。
(中略)
僕は最低の中から最高を見つけたい。もしくは最高をもって最低を知りたい。


先日のツイートから、もしかすると、私がとてつもなく悲惨な食生活をしているのだと連想してしまった人もいるかもしれない。まあ、確かに悲惨には違いないかもしれないけど、でも私自身は今の自分の食生活に、ほどほど満足しているんだよな。「もっと丁寧な食生活をしたい……」とかは、あまり、というか全然、思っていない。なんていうか、日々の食事には、「ついうっかり忘れることもある」くらいのポジションでいてほしいのだ。


一人暮らしを始めたときからその兆しはあったのだけど、下の小倉ヒラクさんの記事を読んでからは「あ、じゃあもう私エンドレスこれでいいわ」と考え、基本的に家に一人でいるときは、お味噌汁と納豆ごはんとキムチor漬物を毎回食べている。お味噌汁の具はそのときによって変わるけど、メニューをほぼ固定にしたら食生活のストレスがなくなった。なんか、「毎回食べたいものを考えてレシピを検索して……」というのが、私にはかったるくてしょうがなかったみたいだ。


hirakuogura.com
(※まあ私、男子じゃないし、免疫力めちゃ高なんですけど)


土井善晴さんの『一汁一菜でよいという提案』とか稲垣えみ子さんの『もうレシピ本はいらない 人生を救う最強の食卓』とかも、まあだいたい同じ思想から発展しているんだろうなと思う。毎回の食事を丁寧に、豪華に、大切に彩っているとちょっとめんどくさい。私は1日2食スタイルなので単純計算で365×2=730回の食事を1年でするわけだけど、そのうち「1人でお味噌汁と納豆ごはんと漬物」という「最低の食事」が8割くらい占めていても、自分的には全然かまわない。「大好きな人たちと、すごく美味しいものを食べる」みたいなのももちろん好きだけど、そういう「最高の食事」は月に2回もあれば、もう十分めちゃめちゃ幸せだ。


「食」だけでなく生活全般に関して私はそういう考え方で、旅行に行ったり楽しみなイベントや集まりがあったりするときももちろん心踊るのだけど、ただ起きて、会社に行って、帰ってきて、一人でお味噌汁飲んでる日だって十分好きだ。そういう日は地味だし「最低」かもしれないけど、あとから思い出してしんみりするのはそんな「最低」な日々の積み重ねだったりすることもある。私、引っ越しするとき、壁のシミとかを見て、「もうこのシミを見ることもないのか……」とかって号泣するタイプだからな。「最低」というと聞こえは悪いけど、ようはハレとケであればケの日だってちゃんと愛でたいということだ。


この前美容院に行ってファッション誌を読んでいたとき、とある美容コラムニストの方が「美しい女性であるためには、〈めんどくさい〉という言葉を使ってはいけません」と書いていて、まあ一理あると思うし人それぞれだけど、うるせえ、私はめんどくせえことは積極的にめんどくさがっていくぞ、と思った。


自分にとって大切なものと、優先順位さえわかっていれば、「めんどくせえ」って言っても、いいと思う。ものすごくポジティブに解釈すれば、つまり「めんどくせえ」とは自分にとって大切でないものを省いていく言葉だからだ。ま、私はいろんなことをめんどくさがりすぎなので、もうちょっといろいろ丁寧にやらないと、真人間に一生なれない気がするけど。


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(※これは先日作った牡蠣の炊き込みご飯とインスタントのお味噌汁。牡蠣は半額になっていたので買った。私はスーパーの見切り品みたいなのをよく買うのだけど、それは節約以外に、「とりあえず安くなってるやつを買う」というルールにすれば考える手間を省けるからでもある)
(※この写真を恋人に送ったら「おかずはないのか」と言われたので、「牡蠣ご飯のおかずは牡蠣ご飯だよ」と言いました)