チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

世界は狭くないが、そこまで広くもない

そこまで経験豊富なわけじゃないが、どちらかといえば海外によく行っているほうだと思う。もう二十代のときみたいに一年に一回以上のペースでは旅をしないかもしれないけど、たぶんこれは性分のようなものだから、今後も思い立ったときにどこか知らない場所へ、一人でふらりと出かけることがあるはずだ。金のかかる趣味を持つ人間になってしまった。普段は酒も飲まないし家で大人しく読書してるだけの人間だから、神様ゆるして。

 

しかし、二十代の頃に感じていたような「わあ! あれもすごい、これもすごい、全部すごい〜〜〜〜!!!」みたいな、新鮮なわくわくは正直もう感じなくなったな、と思う。私がなぜブログやTwitterで旅行のことを発信するのかというと、当然見た人に「こんな場所があるんだ! いつか行ってみたいなあ!」と思って欲しいからで(※厳密には一人旅なので生存確認の意味もある)、そして実際本当に行ってみて欲しいからで、じゃあそんな夢壊すようなこと言うなよって感じなのだけど。まあ、風景とか建築とかじゃもうそう簡単には心動かないっすね。慣れちゃったから。

 

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二十代の頃は、まだまだ私の知らない世界が、想像もつかないような世界があるんだと思っていた。もちろん、三十代だろうが四十代だろうが知らない世界はあるし、死ぬまでそれはなくならないけど。

 

 

でも、一人旅を繰り返して心底理解したのは、人間の本質ってのはどこの誰であろうとそんなに根本的には変わらないってことだ。本質っていうとちょっと違うかな、人間ってのはどこの誰であろうと、「だらっとした退屈な日常」みたいなものを、みんな抱えてるんだみたいなこと。

 

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こちらは観光客だから、行く先々のものがキラキラして見えるし目新しいんだけど、当然、現地の人には現地の人の生活があって、日常がそんなキラキラしているわけではない。早く仕事終わんねえかなとか、土産買わねえのかよこのクソ観光客とか、どうでもいいから金欲しいなあ〜〜とか、まあ世界中誰でもだいたいそんなことを考えている(と、私は思う)。

 

 

でもそのことに、私はいちいち失望なんかしない。なんていうか、旅行を繰り返してきて、それこそが人間だと思うようになった。多かれ少なかれ、みんな孤独だし、怠惰だし、退屈だし、不安だ。「みんなだいたいそう」ってことに気付いたら、自分の孤独も怠惰も退屈も不安も、許せるようになった。

 

 

二十代の頃の旅行は、どこか桃源郷的なものを夢見て出かけていた気がする。この世には孤独も怠惰も退屈も不安も感じない生き方があって、身に付ければ私もそれを体現できるんじゃないかと。でも残念ながら、そんな生き方は、ない。もちろん個人差はあるし、その割合を減らすくらいはできるかもしれないけど、それらを完全になくす生き方なんてない。これが現時点での私の結論である。

 

 

まあだから、三十代の少しペースを落とすだろう旅は、もう桃源郷を夢見て出かけたりなんかしない。私は誰かの、孤独で怠惰で退屈で不安な日常に、ちょこっとお邪魔させてもらうだけだ。「この素敵な街にもし住むことになったら、最初の二カ月くらいはめっちゃ楽しいけど、すぐ飽きてつまんねーって言うようになるだろうな」なんて苦笑いしながら、カフェで街行く人を観察する。別に、世界中どこの街だろうと、街行く人がとりたてて楽しそうな顔をしているところなんてない。

 

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でも、それでいいんだと思う。つまんなくていいんだ、日常は。不思議なことに、つまんないけど、つまんないが積み重なるとそれはそれでけっこう重みがある。つまんない日常は、別に軽いわけではない。

 

 

今はイタリアのナポリにいて、もう少ししたら日本に帰るんだけど、ナポリの道行く人、別にみんな楽しそうなんかじゃないよ。クスリやってそうな奴ならいるけど、それは楽しそうの意味が違うしな。

 

 

次がいつになるかわかんないけど、私はまた、誰かの退屈な日常をのぞきに行きたいな、行くんだろうなって思う。桃源郷なんてないけど、そんなもんはもう探してないし、なくていいんだ。

アヘンで人は幸福になれるか?

世の人の苦悩は、たいてい「欲望と現実のギャップ」から生まれる。たいていっていうか、100%そうかも。モテたいのにモテないとか、結婚したいけど相手がいないとか、お金がいっぱい欲しいのにお金がないとか、好きなことを仕事にしてガンガン稼いでモテまくって雑誌とかウェブメディアに取材されたいのに上手くいかないとか、フォトジェニックなゴハンを作ってインスタにアップしたいのに料理が下手とか、っていうかこれカメラの性能の問題? とか(私のことじゃないよ! 全部一般論だよ!)


もう一度言う。大なり小なり、人の苦悩は「欲望と現実のギャップ」が生むのだ。



(※こちらは現在、午後の3時。わたくし今、シチリア島パレルモに滞在しております)


そして、世に蔓延るたいていの商品は、「私があなたの現実を、欲望に追いつかせてあげましょう」とアピールする。このカメラを買ったら、もっと素敵な写真が撮れるかも。この化粧品を買ったら、もっと綺麗になれるかも。このコーヒーメーカーを買ったら、もっと優雅な朝が過ごせるかも。このビジネス書を買ったら、もっと上手に仕事が進められるかも。このエッセイを買ったら、今よりもっと世界がキラキラして見えるかも。先行するのはいつだって欲望で、現実はそのあとを追いかけるもの。現実を欲望に近付ける。私たちは、苦悩を解消する方法はそれしかないのだと思い込んでいる。


でも本当は、もう一つ、別の方法が存在するのだ。私たちが、いつもやっていることの逆。そう、欲望を現実に近付けること。欲望をダウンサイズすること。「モテたいのにモテない」から苦しいのであって、そもそもモテたいと思わなければモテなくても苦しくないのだ。これは詭弁なんかじゃない。


欲望のダウンサイズを合法的にやるには精神の鍛錬が必要で、私ぜんっぜん詳しくないんだけど、たぶんガチでやるには仏教の世界とかに行くといいんだと思う。ただ、違法でいいから(良くねえよ)もっと簡単お手軽に欲望のダウンサイズがしたいよ〜! って人におすすめしたいのは、アヘン。真面目な話、アヘンの吸引と仏教の世界って繋がっていると私は思っていて、ていうかドラッグと宗教って全体的に繋がってるよね。

「欲望の器がちっちゃくなる」とは

と、人に勧めておいて私自身はアヘンを吸ったことないんだけど、アヘンを吸ったらどんなカンジになるのかはちょっとだけ知っている。なぜなら本で読んだから。「本かよ!」と笑うなかれ、本はすごい。リスクゼロ、コストはたった1000円、しかも合法で、アヘンを吸引したらどんな世界が見えるのかちょっとだけわかっちゃうのだ! 本はすごい。


アヘン王国潜入記 (集英社文庫)

アヘン王国潜入記 (集英社文庫)


というわけで、その世界を詳しく知りたい人がいたらぜひアヘンを本当に吸引する前に上の本を勧めたいのだが、著者の高野秀行さんによると、アヘンを吸うと「欲望の器がちっちゃくなる」らしいのね。モテなくてもいい。結婚なんてしなくていい。お金もなくていい。好きなことを仕事にしなくたっていい。ガンガン稼いでモテまくって雑誌やウェブメディアに取材なんかされなくてもいい。欲しいものもない。行きたい場所もない。食べたいものもない。ただこうして、横になって、ダラダラしながらアヘンを吸っているだけで、めっちゃ幸せ〜〜〜!


「そんなの、本当の幸せじゃないよ!」って言うことは簡単だ。ここまでプッシュしておきながらあれだけど、私だってアヘン吸って横になってるだけの廃人の日々が幸せだなんて本気で思っているわけじゃない。ただ、「なぜ?」に答えられないだけ。苦悩がないならいいじゃない。幸せだって本人が言うんだったらいいじゃない。どうして先行する欲望を現実が追いかけなきゃいけないの? どうして逆だといけないの? 


一つ問題があるとするならば、いつかお金が尽きるってことだ。アヘンには中毒性がある。ハマればハマるほど、それなしでは苦しくて生きられなくなる。人を殺してでもそれを手に入れたいと思ってしまう。アヘンを買うためのお金がなくなってしまったとき、たぶん私たちは法を犯す。普通の社会生活はもう送れなくなってしまう。

ではもし、アヘンが無限にあったなら

つまり、アヘンで(薬物で)幸せになれない理由があるとしたら、「それを永遠に摂取し続けることはできないから」だと思うんだよね。でも、だったらもう死期が近い老人が使うのはアリ? とか、アヘンや薬物ってのは違法だから高価なのであって、社会全体のインフラ的存在として安価で提供し始めれば問題ないんじゃないかとか、なんだかそんなことをずっと考えていたら春のうららかな一日が潰れた。ひどい過ごし方だ。


現実的に考えると、「アヘン(的なもの)を無限に提供し続けられる社会」を明日からすぐ始めようぜってのは無理だ。私たちはまだ当分、先行する欲望を現実が追いかけるこの地獄を生きなければいけない。


でも、もっともっとずっと先、たとえば百年後とか二百年後だったら、案外「無限アヘン」の社会が実現できるんじゃないかなって思うんだよね。雑用はぜーんぶAIに任せて、私たちはただ脳みそにコードをぶっさしてシアワセ成分を注入されながらゴロゴロするんだ。何もしなくていい。どこにも行かなくていい。誰からも承認されなくていい。生きてるだけで幸せだ。誰も苦しまない。


「そんなのは"生きてる”って言わない、ディストピアだ!」って言うことは簡単だ。私だって本気でそんな社会の到来を願っているわけじゃない。私、案外ふつうの社会生活を送っている人だから、友人と語らうことの楽しさも、恋をすることの美しさも、夢ややりたいことを追いかける充実感も一応人並みには知っている。


ただ、「なぜ?」に答えられないだけ。誰も苦しまない幸せな社会になったらいいなって思うのに、アヘンが無限にある未来社会を否定したくなるのはなぜだろう。もっと仏教とか勉強したらわかるのかな。


でも、好む好まざるに関係なく、人類の未来は案外マジで「無限アヘン」に向かっていくんじゃないかって気もする。だって、この地球上の全員を漏れなく幸福にする方法なんてたぶんそれくらいしかないから。SF小説の読みすぎかもしれないけど。


もうすぐ、私たち全員シアワセになれる。もうすぐ、誰一人例外なく。


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(※シチリアはとても快適です。パラダイス)

STUDIO VOICE vol.412 で「旅にかんするノンフィクション」を紹介しました

掲題のとおりなんですが、「STUDIO VOICE vol.412」にちょっとだけ登場しています。


vol.412のテーマは、「Documentary / Non-Fiction 見ようとすれば、見えるのか?」ドキュメンタリー映画とかインタビュー記事とかノンフィクションとかの特集なのですが、そこの現代ノンフィクション入門というページで「旅にかんするノンフィクション」を5冊おすすめしています。ブログでは触れていない本もあるので、ぜひ。STUDIO VOICEは学生時代の憧れの雑誌だったので、嬉しいのを隠しきれておりません……!



STUDIO VOICE vol.412

STUDIO VOICE vol.412


というわけで私の書評を読んで欲しいのはやまやまなのですが、今号はそれを抜きにしても本当に面白かったです。特に感想を書いておきたいのは、「インタビューをめぐるインタビュー」。プロインタビュアーの吉田豪さん、社会学者の蘭由岐子さんがインタビュイーになっているのですが、お二方がどんなふうに取材相手から話を引き出しているのかという話が興味深かったです。

相手のことを好きになる

まず吉田豪さんの場合は、これは著書『聞き出す力』にも書いてあったのですが「取材相手のことをとにかく好きになっている」。たとえ相手が犯罪者でも、殺人とかレイプとか、よほど悪質なものでなければまあ許せるらしいです。


しかし、相手のことを許せてもそれがすなわち「好き」に繋がるわけじゃないと思います。私も(大声では言えないが)モラル意識は低いほうなので、許せないことってあんまりない。でも、人の話を聞くの下手だし、あんまり目の前の人のこと好きになれない……! どうしたらいいんだ!


このあたりの話は個人的にもうちょっと聞きたかったのですが、「正しくないことは基本的におもしろい」という吉田さんの言葉はヒントになりそうです。


私、いきなり何を言い出すんだというアレですが、男の人に風俗の話を聞くのが好きなんです。相手がノンケの男性の場合、話題に困るといつも風俗の話を振って切り抜けている(風俗否定派でもそれはそれでそこから話が広がるので良し)。風俗は自分では体験できない分野だし、吉田豪さんの言葉を借りればやっぱりめちゃくちゃ正しくないので、面白いです。これは決して私がエロいわけではなく、処世術です。


女の人相手にもこういう「鉄板切り抜けネタ」があったほうがいいのかな。でも女の人相手だとそこまで話題に困らないからな。ノンケの男性に風俗の話を振る鉄板切り抜け、著作権フリーなので良かったらどなたでも自由に使ってください。意外とイケる。

話し上手、仕切り上手がインタビュー上手とは限らない


もう一人、蘭由岐子さんのほうは、ハンセン病患者への取材という重いテーマ。蘭さんはどうやってハンセン病の人たちから話を引き出したのかというと、これは意図してやったわけではないっぽいのですが、「あなたが言いたいのはこういうことですよね!」みたいなテキパキ調ではなく、滑舌悪くなんかもごもご言いながら取材をしたらしいのです。でもそれが逆に良かったみたいで、もごもご言ってたからこそいろんなことを話してくれたんじゃないかという話が印象的でした。


吉田豪さんは話を引き出すのがめちゃくちゃ上手いけど、人とベタベタ付き合うのは好きじゃないらしくて、取材相手と友達になったりすることはないらしい。自分のことを相手に話さず、飲みにもあまり行かず、「人との距離感は遠いほうだと思う」とおっしゃっていました。つまり、お二方の話を総合すると、「聞き上手」とか「インタビュー上手」に必ずしも決まった型があるわけじゃないってことです。私は、いわゆる「コミュニケーション強者」みたいなのがインタビュー上手だと思っていたので、それは違うんだな〜〜というのは発見でした。

まとめ

他、映画監督ジャ・ジャンクーのインタビューや沖縄のタトゥーのコラムとかもすごく面白かった。「真実をどう切り取るか、どう見せるか、そもそも真実なんてものは存在するのか」みたいなのはけっこう古くから私が考えているテーマなので、今号は興味のあるトピックでいっぱいでした。特集のタイトルにある「見ようとすれば、見えるのか?」って、かなりラディカルな問いだと思います。


ちなみに、私が出ているページを構成・取材してくださったのは、山本ぽてとさん! 『ルポ 川崎』読みたい度が爆上がりしたので、たぶん近いうちに読むでしょう……。



STUDIO VOICE vol.412、ぜひ本屋さんやAmazonでチェックしてみてください。

スタジオボイスに載ってて読みたくなった本リスト

ルポ 川崎(かわさき)【通常版】

ルポ 川崎(かわさき)【通常版】

人間はなぜ歌うのか? 人類の進化における「うた」の起源

人間はなぜ歌うのか? 人類の進化における「うた」の起源

うしろめたさの人類学

うしろめたさの人類学

いい感じの石ころを拾いに

いい感じの石ころを拾いに

残響のハーレム

残響のハーレム

ラディカル・オーラル・ヒストリー―オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践

ラディカル・オーラル・ヒストリー―オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践

Twitterに書こうとしたが文字数を余裕でオーバーしたので

1.

私は30歳過ぎの独身女性で仕事もそこそこお金もあんまないんですが、そのことはほとんど気に病んでおらず、わりと毎日のびのび、楽しく生活している。

2.

そんな生き方ができているから、本当はもっと、悩めるアラサーの独身女性に言ってあげられることがあるんじゃないかとも思うんだけど、私はそこらへんの共有が下手くそだ。というか、基本的にカルチャーにしか興味がないから、あんまり書けることがない。映画評とか文学評ならいくらでも書けるんだけど、恋愛コラムとか、結婚しない生き方とか、そういうのにそもそもあんまり興味がなくて(29歳を過ぎたあたりからさらに興味がなくなっちゃった)*1、無理やり書けば書けないこともないけど、やっぱり上手ではない。女性としての生きづらさみたいなのも、正直あんまり感じたことがない。

3.

私のまわりにはそういうのをとても上手に書く人がたくさんいて、そういう知人たちのことはとても尊敬していて、彼らが書いたコラムは彼らのことが好きなので読むけど、知らない人が書いた「生き方コラム」は、最近は興味がないので本当にほとんど読まなくなった*2

4.

単純に興味があるものとしては、SF小説の歴史! とか、南極を探検するぞ〜〜! とか、マフィアの地下経済! とか、そういうのばっかり読んでる。そういうの読んでるとすっごくわくわくするし、落ち着くし、何よりホーム感がある。

5.

そしてそういう文章はあんまり(というか全然)ネットにないので、あってもまずSNSでシェアされないので、必然的に本をたくさん読むことになる。インターネットでは、基本的にウィキペディアを延々とさかのぼってずっと読んでる。

6.

しかし、逆説的にはなるけど、カルチャーにしか興味がないからこそ、こんな状況でも特に気に病まず、のんびり生きていられるのかなと思う。「誰がなんと言おうと好きな世界がある、素晴らしいと思えるものがある」ってけっこう強いのだ。

7.

そして、「何か言ってあげられることがあるんじゃないか」なんて、やっぱり傲慢な思い過ごしだったかもしれない。

8.

なんていうか、かつて同じように悩み迷ったことがある人が、どうやってそれを克服したかってのをみんな聞きたいんであって、「最初からあんま気にしなかったです」なんて話は、別に誰も聞きたくないしどこにも需要はないよね。私に言えるのは「気にしなきゃ気になんないよ」っていうトートロジーだけだ。私の生き方が誰かの救いになったらいいのになって思わないこともないんだけど、やっぱりあんまり参考にならないよね……。

9.

私はそもそも自分の生き方について(親も含めて)あんまり人にとやかく言われないのだけど、それはたぶん「こいつに何言っても無駄オーラ」が出ているせいだと思う。

ああいうのって、絶対に人を見て言ってる。だから人に何か言われて落ち込んでいる人は、本当に、そういうの気にしなくていいと思う。人を見て言ってるだけだから。それは別に全然正しいことなんかじゃないから。「なんか言ったらこいつ思い通りに動かねえかな、動きそうだな」って人にしか、人はとやかく言わない。

(まあ、「こいつに何言っても無駄オーラ」を出すことのマイナス面もあるので、これが必ずしも良いことだとは思ってないが)

10.

そんなわけで、私はカルチャーに生きカルチャーに死ぬカルチャーバカ。今いちばんハマっていることはトマス・ピンチョンの小説を読むこと、コンプレックスは英語が上手にしゃべれないこと。さっきオンライン英会話のフィリピン人の先生に怒られたのでちょっぴりヘコんでいる。でもドMだからまたその先生で予約しちゃった。

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『V.』のあらすじ、何言ってんのか全然わかんなくてヤバイ

*1:しいていえば25〜27歳くらいのときがいちばんそういうことに関心があった気がする。当時のことを頑張って思い出そうとしてみたりもするが、喉元過ぎれば熱さナントカで、もう思い出せない

*2:知らない人枠でいうと、ヤマザキマリさんのコラムだけはわりと読む

「大好き」を叫び続けたら夢は叶う……の? まじで?

私のまわりだけかもしれないが、「好きなもの(人、こと)があるなら、それについて積極的に発信していったほうがいい」といった内容のことを、たびたび言う人がいる。ていうか、私自身もどっかで言ってたかもしんない。


上のようなメッセージに関して、私は賛成したい気持ちが7割だ。だけど実をいうと、批判したい気持ちも3割くらいある。そして、賛成したい気持ちについて、つまり「好きなもの(人、こと)について積極的に発信し続けることのメリット」については、他の人がすでに散々言ってくれている。だから今回の私は、3割ほどある批判したい気持ちのほうを書くことにしよう。


一応メリットについて触れると、私のまわりでよく聞くのは、まず好きなもの(人、こと)について発信し続けていると、それが本人や製作者に届いて励ましのメッセージになる可能性があること。次に、「◯◯に詳しい、△△が好きなホニャララさん」というアピールができるので、自分自身の仕事に繋がったりすることがあるらしいこと。どちらもとても良いことである。私自身も、身に覚えがまったくないとは言わない。「いいね!」を押し続けていると、毎日少しずつ、自分の世界が豊かになっていったりするんだろう。

暴力表現が好きだったらどうすんの?


というわけで、ここからは3割のほうの批判。


まずは掲題のとおりだけど、「それを好きだというだけで不快になる人がいる表現」というものが、残念ながら世の中には存在する。よく言われるのは、好きなものへの賛辞を表明するときに、それと対極にあるものをdisって相対的に好きなもののポイントを上げるのはやめようってことだけど、そんなことしなくても、ただ純粋に「好き」と言っただけで世の中の人を不快にさせてしまう表現っていうのもある。


例としては、暴力表現やエロの表現などがこれに該当することが多い(法的には問題ないものであっても)。わかりやすい話としては、最近「ふともも写真の世界展」という展示が批判を受けて中止になった。

池袋マルイが、女性の「太もも」写真展を中止 疑問の声受け


個人的なことを言うと、私もこの「ふともも写真展」は、開催されるだけで不快という気持ちがわからんではない。スクール水着や制服を着た女の子を見て楽しむ男性が、申し訳ないけど私は好きじゃない。だから感情的なほうの私は「中止になって良かった!」と思っている部分もある。だけど理性的なほうの私は、「"好き"という感情は社会的に"正しく"なければいけないのか? そうでなければ許されないのか?」と首を傾げてしまう。


「好きなもの(人、こと)があるなら、それについて積極的に発信していったほうがいい」と人は言うけれど、私にはこのメッセージには、ある注釈がついているように思えることがある。


それが多くの人に受け入れられ、社会的に"正しい"好きならば、積極的に発信していったほうがいい」ってね。

それでもやっぱり好きなものは好きって言ったほうがいいと思うけど、思うんだけど


正直なところ、この批判には嫉妬も入っていると思う。「大好きな人と焼きたてのパンを食べる幸せ」とか映画の『かもめ食堂 [DVD]』みたいな、「好き!」って言ったところで誰からも怒られないような、そういう"正しい"好きを持てる人が、私はちょっと羨ましいのだろう。


アイズ ワイド シャット (字幕版)』の乱交パーティーのシーンとかが、私は大好きなのね。乱交パーティー。でも、結局Twitterで堂々と言ってるからあんまり説得力ないかもなんだけど、あとなんだかんだで「キューブリックの映画なので、芸術なので」って言い訳が立つからたいしたことないんだけど、これは真昼間にランチしながら初対面の人には言えないっていうか、夜も深まってきた頃、仲良くなった人に「じ、じ、じつは」ってやっとの思いで告白するタイプの「好き」だと思うのね。



(※「脳細胞が壊死する」は最高の賛辞)


まあ、そんな私の個人的な話はどうでもいいんだけど、つまり批判したい3割の気持ちについてまとめるとこうだ。


1つは、「社会的に"正しくない"(かもしれない)好き」をどう扱うのかという問題。

世の中にはいろいろな「好き」を抱えた人がいて、正直「好き」って言っただけで怒られるようなカルチャーだって存在する。怒られない好き(例:『かもめ食堂』)は表明してよくて、怒られる好き(例:ふともも)は表明しちゃダメってことなら「矛盾!!!!」って私は思うし、これはそんなに無邪気な話じゃないんじゃないかって考えちゃう。もしこれが「"正しい"好きだけを発信してね!」っていうメッセージだったなら、そんなご都合主義は勘弁してくれって思うよ。


もう1つは、「"好き"はアイデンティティと密接に絡むので、言い過ぎると秘密がなくなる」って問題。

これは、上の問題と比べるとあんまたいしたことないんだけど、人間には真昼間から堂々と言える「好き」と、人前ではなかなか言えない「好き」があって、後者のほうを誰もが「秘密」として抱えている。それを告白したときにやっと友達になれる「好き」ってあると思う。だから、いろいろな「好き」を全然区別しないで、全部を正直に世の中に発信していいんだよ〜〜と言われると、「"好き"って気持ちをざっくりと見積もりすぎだ!」と私は思ってしまうかな。

まとめ


というわけで、それでも「好きって言おう、発信しよう」という言説に私は7割くらいは賛成なんだけど(やっぱり好きを発信するメリットってすごく大きいと思うし、いろいろ言ったけどハッピーになる人は多いから)、なんていうか、けっこう自分勝手で恣意的なメッセージを感じ取っちゃうときがあるんだよね。「みんなが不快にならない"好き"だけを発信してね!」みたいな。


「"正しくない"(かもしれない)好き」は、まあ、水面下で発信するとか、裏でこっそり語り合うとか、別にそれは今の時代だけじゃなく、ずっとそうやって受け継がれてきた。「好きって言おう、発信しよう」って言ってもらって全然いいんだけど、「ま、人に言えない好きもあるけどね」っていう注を一言入れてもらいたいもんだと、私はちょっぴり思ってしまうのだ。


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(※岡本太郎記念館は青山イチのパワースポットである)