チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

風邪とスピリチュアル

1.

最近まわりでよく「今、日記が面白い」という声を聞く。とってつけたようなライフハックでも逆張りのオピニオンでもなく、その人のふわっとした日常が溶け込んでいる日記が読みたい、と。逆張りのオピニオンが得意な私としては生きづらい世の中になったな……と嘆かざるを得ないし、私、日記書けないんだよな。その日あったことを書くのは苦手だ。ほぼ日手帳に毎日日記を書くという奇行をもう10年以上続けているけれど、それだって読み返すと、「その日あったこと」ではなくて「その日考えたこと」が書いてあることがほとんどだ。10年前の私が、5年前の私が、3年前の私が「何を考えていたか」はわかるけど、「何をしていたか」は、もうわからない。


でも、思うんだけど、人が頭の中で考えていることなんてたいしたことはなくて、本当に大切なのは「行動」だ。頭の中ではいくらでも嘘がつけるけど、行動では嘘がつけない。

2.

私は免疫力がめちゃ高で健康なのが取り柄だったのだが、今年はよく体調を崩している。2月はずっと咳が治らなかったし、先週も風邪を引いて発熱し、丸2日動けなかった。


しかし、「よく」とはいえ、元が年に一度も風邪を引かない元気ビンビン物語な人間だったので、これでやっと人並みという感じである。体調は一例だが、30歳を過ぎて、「おれ、やっと、人間になれた」と思う機会が多い。20代の私は、あまりにも世間からズレており、今思えば妖怪のようだった。昔のことを思い返して「そんな考え方でよく生きてこれたな……」とヒヤヒヤすることがある。


今だって所詮「半妖」といったところだが、たぶん前よりはマシ。でも、はたして「マシ」になることが私のやりたかったことなのか、なりたかったものなのかは、よくわからない。まあ、「マシ」にならないと早死にするだろうから、これで良かったのだろう。よりよい生産、よりよい適応。Fitter, happier. 

3.

風邪といえば、「治らない……」とメソメソしていたら彼氏に「ちまちま市販薬を飲んでないで病院でもらった薬を飲め」と言われたので、その通りにしたら、病院の薬って本当に効くんだなあとびっくりした。あまり病気をしない人間なので知らなかった。


「何によって体が治るか」というのは、「その人が本当は何を信じているか」という話に繋がる気がしている。アマゾンの奥地に住んでいるヤノマミ族は、文明と未接触だった頃は集落のシャーマンの「まじない」で、本当に体が良くなっていたそう。「まじない」で病気が治るなんて迷信でしょと我々は笑うが、ちがうのだ、本当に治るらしい。でも、外の文明と接触して、病院で薬をもらったり手術で病気を治したりしだしたら、「まじない」は効かなくなった。それはきっと、「まじない」より西洋医学が優れていたわけではない。彼らの、「信じているもの」が変わったのだ。


他にも、東洋医学にハマっていた人が伝染病にかかって病院に搬送され、点滴だの薬だのを大量に投与された結果ものの一発で体調が回復し、「やっぱ西洋医学すげえ」と鞍替えした話とかも、けっこう好き。この人は頭では東洋医学に傾倒していても、体はやっぱり西洋医学を信じたままだったのだ、きっと。


次に病気になったときは、薬を使わないで治してみようかなと思う。今回は、ちょっと耐えられなくて、「早く治りたい」と思ってしまった。『風邪の効用』とか読めば、体調不良ですら楽しめるかもしれない。「体」と「行動」は正直だ。

風邪の効用 (ちくま文庫)

風邪の効用 (ちくま文庫)

4.

ところで今年体調を崩しがちな原因だけど、これは単純に、ちょっと生活が不規則で睡眠不足気味だからだろうなと思う。熱でうなされているとき、「体の不調は宇宙からのスピリチュアルなメッセージが……」みたいなのを読んでうっかり信じてしまいそうになった。私はよく喉を痛めるのだけど、これは「言いたいことが言えてない」というスピリチュアルなメッセージが含まれているのだそうだ。


でも、毎日言いたいことが100%言えてる人間なんているわけがないので、「言いたいことが言えてない」なんて当たり前だ。誰にでも思い当たること言うんじゃねえ。これだからスピリチュアルとか占いとかは嫌いなんだよ私は……! と、キレたいところであるが、実は最近、興味がわいてタロットカードの勉強をし始めた。友人に理由をたずねられたのだけど、私はもともと西洋美術の勉強をしていた人間なので、宗教画のモチーフを読み解くとか、なんかの図像を読み解くとか、そういうの好きなのだ。


「目標は?」と聞かれたので、「ごくごく狭い身内を占って、お世辞でもいいから『当たってる〜!』と言われること」と答えたら笑われてしまった。私は人の心が読めなくてなかなか「言い当てられない」ので、それができるようになったら、ちょっとお世辞入っててもだいぶスゴイと思うんだよね。


しかし、実は私、ストレングスファインダーの結果に「共感性」が入っている。ストレングスファインダーがインチキなのでは? という説も拭い去れないが、たぶん、人の心が読めないのではなくて、読みすぎてるんだろうな、と最近は思っている。


今年中に、私の占いの生贄になってくれる人を誰か見つけよう。「全然当たってないよ」と笑ってくれたら嬉しい。

「毒」の含有量

かつてマザー・テレサは、「世界平和のために、私たちは何をするべきでしょうか?」と問われたのに対して、「家に帰って、家族を大切にしてあげなさい」と答えたという。実は私、この考え方にはけっこう前からあまり賛同できなかった。


これは屁理屈じゃないよ、じゃあさじゃあさ、たとえばだけど、たとえばだけど〜〜! 「家にナイフを持った強盗が入ってきたので、自分と家族の命を守るため、強盗を銃で撃ち殺しました」は「家族を大切にする」に含まれますか〜!?


みんな、それぞれの正義がある。でも、それぞれの正義を思い思いに貫き通すと矛盾が生じるから、今の世界は平和じゃないんだ。家に強盗*1が入ってきて自分と家族の命が危ういとき、どういう行動をとることが「家族を大切にする」ことになるのかなんて決められないだろう。家族を大切にするのもだいじだけれど、カート・ヴォネガット風に言うならば、「だけどもう、それだけじゃ足りないんだ」。これが私の長年の考えである。


みんな家族を大切にしていないわけじゃない。むしろ、みんなそれぞれのやり方で家族を大切にしている。その結果が、「今」なんだ。保守派カトリックだったマザー・テレサは中絶手術に反対していたそうだけど、中絶手術に否定的な立場をとることが「家族(隣人)を大切に」なのか、肯定的な立場をとることが「家族(隣人)を大切に」なのか、誰にも決められないでしょ。だから世界はこうやって対立しているのでは〜〜?

「毒」の含有量

マザー・テレサはだたの話の枕なんだけど、つい鼻息が荒くなってしまった。本題はここからである。


最近の私が考えていたのは、〈心に混ぜておける「毒」の含有量は人によってちがう〉という、とてもとてもシンプルなこと。この場合の「毒」とは、皮肉だったり、ちょっと意地悪な気持ちだったり、あるいは誰かに対して怒りの感情を抱いたりすることをいう。


たとえば私自身は、心に混ぜておける毒の含有量がけっこう多くても大丈夫なようにできている。何しろ、卒業論文修士論文のテーマが「チェコ映画におけるブラックユーモアの表現」だったのだ。私にとって、一定量の毒はむしろ薬である。悪意や怒りが活動のモチベーションになることがある。心に混ぜておける毒の含有量が少ない人は、たぶん私のことを「なんて邪悪な人間なんだ!」と思うんだろうけど……別にダークサイドに落ちてしまったわけではなくて、なんか、もともとこうなんだ。


「あなたは今、幸せですか?」と問われたとき、私はいつも言葉に窮した結果、「定義によりますが」とか言いながらはぐらかしている。でも最近考えたのだけど、おそらく「幸せ」のもっともわかりやすい定義は、「明日が来るのがそれほど嫌じゃない」ってことだ。「明日が来るのが超楽しみ!」まで行ったら毎日めちゃめちゃ楽しくて完璧かもしれないが、この手のヤツはあまりハードルを上げすぎないほうがいい。何かを手に入れられたらとか、何かになれたらとか、何かができるようになったらとかじゃなくて、「明日が来るのがそれほど嫌じゃない」ならば、私もあなたもひとつ幸せってことでいいだろう。(もちろん、これだって考えようによっては十分高いハードルで、「明日が来るのがそれほど嫌じゃない」って思うのが難しい状態にある人もいるってことはわかっている。)


ただ、この自分で決めた定義をガン無視すると、未だシリアでは「今世紀最大の人道危機」といわれる内戦が続いているわけで、自分が直接その被害を目にすることはなくても、シリアの人たちと同じ世界に生きていながら「幸せ」になんてなれるかコンチクショウ、という思いも私にはあるんだよな。まあだから、改まった機会でないと聞かれることもないが、「あなたは今、幸せですか?」なんていわれても困る。シリアのことも考えていいのなら私は幸せじゃない。


前述したように、私は長年、マザー・テレサの発言に賛同できなかった。「家族を大切に」する程度で平和になるんなら、もうとっくになっとるわい! と思っていた。でもなんか、「家族を大切に」をスローガンに日々を過ごすほうが「ハマる」人もいるんだろうなと、今は、想像だけど思う。心に混ぜておける毒の含有量が少ない人がいて、そういう人は、遠くの(自分と関係のない)世界の不幸まで抱え込んでいると、マジで病んでしまうらしいと最近ようやく知った。私は、遠くの世界の不幸を抱え込んでいても、怒ったり考えたりするだけで、あんまり「病む」ことはないんだけど……。それは心に混ぜておける毒の含有量がもともと多いせいだろう。マザー・テレサの発言を目にすると突っ込みたくてイライラしちゃうんだよな。それでそのイライラこそがエネルギーだったりもする。


どっちが良くてどっちが悪いという話ではもちろんない。こういうのは体質だ。私は肝臓がダメでお酒がほぼまったく飲めない。アルコールを分解する酵素をそんなに持っていないのだ。それと同じ話である。

まとめ

今週はそんなことを考えていたのだけど、特に結論はなし。ていうか、マザー・テレサはあくまで話の枕のつもりだったのだけど、結局こっちが本題だな! 

どう思う? ねえどう思う? 私、こういう話どうしても突っ込みたくなっちゃうんだよね。


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(※これはマルタ島で食べたごはん。)

www.youtube.com
(※これは最近観たマシュー・ハイネマン監督のドキュメンタリー。シリアの市民ジャーナリズム団体RBSSがイスラム国に対しスマホSNSを武器に闘っている。今のところ私の中で2018年ベスト映画である。)

*1:ちなみにここでは、「もし仮に本当に世界中の人が家族を大切にしたならば、強盗は生まれないのでは? という反論への反論が出てくると思うのだけど、私の考えでは、「大切にする」の定義が人それぞれちがい、人と人との関係においてそうした行き違いをなくすことはほぼ不可能だと思っているので、これを反論への反論への反論とする。

彼らは、「選べなかった」のではなく「選ばなかった」

前にこのブログで『サピエンス全史』の感想を書いたんだけれど、この本で私にとっていちばん衝撃的だったのは、「狩猟採集生活と農耕生活を比べたとき、必ずしも後者のほうが快適だったわけではない」っていうのがわかったこと。なんなら、そのままの狩猟採集生活を続けていたほうが人類は幸福だったのでは? なんて考えも浮かんでしまう。


とはいえ、農耕民族が生まれてからも、地球上のすべての人類が農耕を軸とする生活に移行したわけではない。そのままの狩猟採集生活を続けている民族は、なんなら今だって普通にいる(ヤノマミとか)。ただ、私たちはどうしても、彼らのことを「農耕を軸とした文明社会を〈選べなかった〉人たちである」と考えがちだ。山間部にいたとか、大陸の発見自体が遅かったとか、様々な地理的な事情により、文明が彼らのもとに届かなかったのだと。


しかしこの人たちは、文明社会を〈選べなかった〉のではなく〈選ばなかった〉のだとする説が、最近にわかに力を持って浮上しているらしい。


辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦

辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦


というわけで今日は、ノンフィクション作家の高野秀行さんと歴史家の清水克行さんの対談本、『ハードボイルド読書合戦』で印象に残った部分のメモ。

『ゾミア 脱国家の世界史』

ゾミア―― 脱国家の世界史

ゾミア―― 脱国家の世界史


まず、『ハードボイルド読書合戦』は特定の本を題材に高野さんと清水さんが話し合う〈書評本〉なので、このエントリは〈書評本の書評〉というマトリョーシカみたいな構造になってしまうんだけど……まあいいや、とりあえず『ハードボイルド読書合戦』で最初に取り上げられるのは、『ゾミア 脱国家の世界史』である。この本で話題になるのは、中国西南部から東南アジア大陸部を経たインド北東部に広がる丘陵地帯だ。



(※このへんの地域の話)

このあたりの山間部に住む人々は今もなお原始的な生活を維持しているらしいんだけど、私たちはつい、前述したように「山間部だから、文明が届かなかったのかな?」と考えがちだ。しかし『ゾミア』は、様々な証拠をもとに、「彼らのもとに文明が届かなかったのではなく、むしろ彼らは文明を知っていて、あえてそれを放棄し山間部に〈逃げた〉のだ」という論を展開しているらしい。


『ゾミア』について高野さんと清水さんが語る際にあげる〈文明〉の主な要素は3つで、農耕、文字、そしてリーダー。


農耕生活のデメリットは『サピエンス全史』にも書かれているのだけど、『ゾミア』で新たに取り上げられるのは、その国家的な性格だ。水稲耕作は、収穫高が計算しやすく、何かと「管理」がしやすい。中国西南部やインド北東部の山間に住む人々は、この性格を理解した上で、水稲耕作を〈選べなかった〉のではなく、知っていて、〈選ばなかった〉。国家的なものに管理されたくないから。


さらに、彼らは「文字」や「リーダー」が存在しない社会に長らく生きていたらしいのだけど、これも文字を持てなかったのではなく、持たなかった。文字が書かれた餅を食べてしまったので文字を失ったとか、水牛の皮に書かれていた文字を食べてしまったので失ったとか、そういう伝承がいくつか残っているらしいのだけど、『ゾミア』の著者はこれを、文字を意図的に放棄した証拠ではないかと見ているらしい。


文字を持ってしまうと、顔を合わせたことがない相手との意思疎通も可能になる。でも、互いに顔を合わせられる範囲で、大事なことは顔を突き合わせて話せる関係を維持できる社会であれば、確かに文字は必要ない。


『ハードボイルド読書合戦』で取り上げられるもう1冊『ピダハン』も、歴史を持たない民族についての本だ。ピダハンは「直接体験したことしか話してはいけない」という究極の社会らしい。ソースが自分か、もしくは直接の知人でないといけない。こんな社会ならばデマもフェイクニュースも出回りようがない。


ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観

ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観


そして最後のほうで触れられるのが、リーダー。『ゾミア』で語られる社会は、リーダーを意図的に作らなかった。リーダーとは別の社会、チームと接触する際の「窓口」である。窓口をあえて作らない(誰と接触すればいいのか外部の人間にはわからない)状態であれば、他の社会に取り込まれることもない。

世界は無政府状態に近づいているのでは

今回はちょっとしたメモというか走り書きになってしまったんだけど、ここ数年の間で、「大きな政府」から逃れよう逃れようとしている話をよく耳にする気がしている。「農耕社会のデメリットを書いた本によくぶちあたる」のはその1つだ。農耕社会というのは管理社会だから、大きな政府からの管理を逃れて遊牧民的に生きようというメッセージを暗に感じる。


さらにそれをヒシヒシと感じるのは「お金」に関する分野で、今後100年くらいの間に、人類にとっての経済のあり方がガラッと変わったりしそうだ。なんとなく、世界は無政府状態に近づいているのでは、という気がしている。


それは今のところ私にとって耳に心地いい話のほうが多いが、実際はどうなんだろうな。

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(※これはヴァチカン美術館の出口)

SNSが過剰に発達したディストピアを描いた『ザ・サークル』はあんまり面白くなかったけど面白くなさ故に考えたことがある

「コイツ、趣味悪いな!」と思われたら悲しいのだが、ディストピアもの」が好きである。「ディストピアもの」なんてジャンルは正式にはないので私が勝手にそう呼んでいるだけだけど、未来/近未来/平行世界などに存在する魔境を舞台に描かれた物語には、昔からどうしても惹かれるものがあった。それらはSFの形態をとっていることが少なくないが、私はSF好きというよりはディストピアが好きなのだった(ことに最近気が付いた)。


ディストピアものが好きな理由は、何も現代社会に恨みを抱いているからってわけじゃない。いや嘘、ちょっと抱いてるな。まあ恨みは恨みとしてあるのだが、どちらかというと思考実験の機会を提供してくれるところが好きな気がする。ディストピアものは現代社会のある要素をあえて露悪的・風刺的に描いていたりするわけだけど、そこまでやってくれるからこそ自分が何のどこを恨んでいるのか考えやすく、言語化しやすくしてみせてくれる。そんな感じで私はディストピアものが好きなのです。


GW中にAmazonプライムビデオで観たのがエマ・ワトソンが出てる『ザ・サークル』。以下は物語の核心部分を含むネタバレをやっているので、ネタバレが嫌な方は映画を観たあとにまた読みにきてください。



映画「ザ・サークル」日本版予告

思っていたのとなんか違った

ザ・サークル』はエマ・ワトソンがアメリカの巨大インターネットに企業に入社して、「シーチェンジ」という超小型カメラの被験者となって自分の24時間をフォロワーにシェアするSNSを使うようになる……という話。TwitterInstagramを風刺的に描いた物語やアートはもともと好きなのだけど、なんでそういうのが好きかっていうと、人間の肥大化していく承認要求について考えさせられるから。『ザ・サークル』も承認要求の話をやってくれるのかと思ったら、これはどちらかというと「民主主義とは何か?」みたいな話だった。


SNSで何を発信し何を発信しないべきかは個々人の考えがあるだろうけど、一つ重要なのは「任意性」だ。自分の24時間をシェアするなんて絶対に病むからやめたほうがいいと思うけど、本人が「やりたい! そんでフォロワーにちやほやされたい!」というんであれば、周りの人間があーだこーだいう権利はない。本人が「任意に」SNSを使う上で出さなくていいところまで出すようになったり、いわなくていいことまでいうようになったりしたらそれは承認要求の話になるけど、エマ・ワトソンが映画で使うSNSはこの「任意性」がないものだった。つまり、強制的に24時間をシェアしなければならないものだった。これは「え、それはダメに決まってるじゃん」としか私は思えず、あまり考えるのが楽しくない話になってしまった……。

社会は必ず一定のリスクと矛盾を孕んでいる

エマ・ワトソンが入った会社が運営しているSNSは「すべてをシェアする」ことを目的としている。いつどこで何をしていたか、誰と誰が友人なのか、趣味は、過去にハマっていたことは、両親の病気は、などなどすべて。それらは本人の任意性に基づくものではなく、加入者は強制的にすべてをシェアしなければならないみたいな作りになっている。そして、最終的にこのSNSへの加入をアメリカ国民すべてに義務付けて選挙のときに利用しようという話まで出てくるのだけど、すべての人が登録され行動が逐一記録されているので、指名手配犯とかを一発で捕まえることもできるのだ。


途中、エマ・ワトソンが「秘密とは嘘です」「秘密があると犯罪が起きる可能性があります」というセリフをいう場面があるのだけど、確かにこのSNSを使えば、殺人もレイプも強盗もなくすことができる。すべての人の24時間を誰かしらが監視しているので、犯罪の防止になる。ただ「すべての人が強制的に24時間をシェアしなければならない」なんてのは人権侵害になることが明らかだ(「これ、ありうるかも?」と思わせてくれるからディストピアものは面白いのであって、「それは絶対にない」と思ってしまうとつまらなくなっちゃうんだよな!)


人道上の理由で「すべての人が強制的に24時間をシェアしなければならない」SNSなんて絶対に作れないので、そうである以上、殺人もレイプも強盗も根絶したいのはやまやまだが、社会は常に一定のリスクや矛盾を孕まざるを得ないのだろうな……なんてことを考えた。リスクのない社会は、たぶん作れない。

まとめ

というわけで、『ザ・サークル』は期待していた承認要求の話とはちょっと違ったので私はそこまで面白いと思わなかった。ただいろいろ考えさせられることはあって、たとえば日本はまだお会計のときに現金で支払うことが多い(私も情弱なのでまだ基本的に現金派である)。けどそれがLINEPayとか電子マネーで支払うのが一般的になったら、自分の買い物がAmazonみたいにすべて履歴に残ることになるので、それって『ザ・サークル』の世界につながっている。すでに諸外国では現金で支払う機会が少なくなっているみたいなので、日本がそうなるのも時間の問題ではありそう。買い物以外にも、近い将来いろいろ履歴が残るようにはなりそう。


「任意性じゃないからこのSNSはありえない。つまらん!」と思ってしまったのだけど、よく考えたら案外ありえない世界の話ではないのかな?


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(※ローマ近郊にあるムッソリーニが構想した近代都市E.U.R。シュールで不気味な「お散歩できるディストピア。おすすめの観光スポットです。イタリアもまだ現金払いのことのほうが多かったな)

「人」はいない。「状態」があるだけで、それは環境によって変わる。

あくまで私の場合だけど、旅行なんて遊びに行ってるだけなので、そこから得た学びなんてそう多くはない。だけど世界の様々な地を歩き回った中で、確信を持ったことが一つだけある。


それは、「人間は環境の奴隷だ」ということだ。

「人」はいない、「状態」があるだけ。

この考えがちゃんと伝わるかどうかあまり自信がないんだけど、たとえば、あなたが日頃仲良くしている「とっても感じのいい人」を誰か一人思い浮かべてみてほしい。彼/彼女はいつも上機嫌で楽しそう、他人を悪く言ったり無闇に嫉妬したりせず、何かと気が利いて、自分の仕事や夢にいっしょうけんめい。「何だか感じの悪い人」がもしいるとしたら、これをそっくり反対にすればいい。そういう人は、いる。


ただし最近の私が思うのは、「感じのいい人と、感じの悪い人がいる」という言い方は実は適切ではなくて、「感じのいい"状態"を保てている人と、保てていない人がいる」という言い方のほうが、より正しいんじゃないかってこと。なんていうのかな、「感じのいい」はあくまでその人に状態として一時的に宿っているだけで、その人自体が感じいいわけじゃない、みたいなこと。



鹿児島で会社をやっている友人のシモツくんがある日こんなツイートをしていたけど、「物欲」も同じだと思う。物欲のある人とない人がいるのではなくて、物欲がある状態の人と、物欲がない状態の人がいる。私自身の場合でいえば、私は「物欲がない状態が数年間ずっと続いている」。思い返せば、私も大学生くらいのときは今よりももう少し物欲があった。「私は物欲がないです」という言い方は、したがって適切ではない(知人としゃべってるときはこんな言い方をするとめんどくせえので「物欲ないです」で良いと思うが)。


で、じゃあその「状態」を作り出すのは何かというと、これは「環境」としか思えない。シモツくんに物欲が生まれたのは彼が鹿児島に引っ越したからで、彼が渋谷にとどまっていたら、きっとこうは言ってなかったはず。同様に、「感じのいい人」は感じの良さが求められる環境にいるからたまたまそう振る舞っているだけだし、「感じの悪い人」はある種、感じの悪さが有効に働く場にいるのだろう。人間自体には良いも悪いも美しいも汚いもない。みんなだいたい一緒だ。


ちなみになぜ旅行でこのことを悟った(?)のかというと、一昨年訪れた中東の砂漠気候が、私の中で衝撃だったのがある。日本やアジアやヨーロッパにいると「一神教? なんで?」と思ってしまうんだけど、中東の砂漠気候の中に身を置くと、一神教の思想というのは「さもありなん」って気がしてくる。神様は世界にたった一人、アッラーのみだ。当たり前だろそんなん、って気になる*1。人間の思想は環境が作る。人間は動物だから、環境に合わせて生きやすいように自分を変える。人間はすべてカメレオンだ。


note.mu
※詳しくは前にnoteに書きました

他にも、話し出すと長くなるからほどほどにするけど、バリ島付近はウォレス線を境に気候分布が分かれていて、そのラインで宗教が変わっている。本当に面白いよね。

場所が変われば人間は変わる

なんでこんなことを書こうかと思ったのかというと……最近、「黒人」が登場する本を何冊か集中して読んだ。具体的には、トニ・モリスンの『青い眼がほしい』とマーク・トウェインの『ハックルベリ・フィンの冒険』だ。それらの本に今回のようなことが直接書かれていたわけではないので、今回の論は私の中での飛躍がだいぶあるのだけど、とにかくそれらの本を読む中で、改めて今回のようなことを考えた。


池澤夏樹さんの『世界文学を読みほどく』が大好きで、10年前くらいから毎年1回は読み返しているのだけど、この中に非常に興味深い『ハックルベリ・フィンの冒険』論がある。詳しくは割愛するけど、当時のアメリカで、黒人差別を支持していたのは誰だったか。「白人」と一言で片付けてしまうと、本質を見失う。黒人差別を支持していたのは、白人の中でも特に、「プア・ホワイト」と呼ばれる貧しい白人たちだった。

自分たちは白人であるけども、貧しい白人であって、何かと不満の多い苦労の多い生活をしている。だから、白人でないくせに裕福になっている奴が許せない。

これは妬みの基本心理です。人間にとって始末の悪いもので、みんなのこういう妬みが横に連結して一つの制度になると、差別になるわけです。「差別はいけない」とか、「人間は平等だ」とか、「民主主義」「みんなに投票権を」というのは、表の論法、表に出てくる言葉であって、その背後には必ず、気に入らない、許せねえ、足を引っ張りたい、裏で言いたい放題を言いたい、という「2ちゃんねる」的な思いを、人は持っているものなのです。そういう心理はずっと人についてまわるし、それは議論やお説教や制度ではなかなか始末がつけられない。


池澤夏樹世界文学を読みほどく: スタンダールからピンチョンまで【増補新版】 (新潮選書)』p.293


なんとなくだけど、この『ハックルベリ・フィンの冒険』論を読んで、憎むべきは「人」ではなく「環境」なのではないかと思ったのだ。気に入らねえ、許せねえ、足を引っ張りたい。仮に今、あなたがそういう醜い妬みの感情を抱かないでいられるとしたら、それはあなたが素晴らしい人間だからではない。あなたがそういう妬みの感情を持つ場所にいなくて済んでいるからってだけだ。ただの「偶然」だ。このことを前提にいろいろなことを考えないと、あんまり物事は上手く進まないんじゃないかなーと思う。


(※ただ、逆に「今の自分はそういう妬みの感情が強いぞ〜!」という自覚がある人は、「俺のせいじゃない。環境のせい」と思ってしまうと他罰的になって結局また自分の首を絞めるので、もしこのブログをお読みの方でそういう人がいたら、そこは「どうしたら妬みの感情が少ない場所に"移動"できるかな?」と考えるのが有効な気がする。確かにあなたは悪くないが、工夫して環境の"移動"をするための知恵を絞るくらいはしてもいいんじゃないか。しかし、「これは妬みだ」という自覚があるだけで物事はずいぶん良い方向に向かっているように思う。本当に妬んでいる人はおそらく「これは妬みだ」という自覚がない。私は、妬みの感情っぽいものを抱いてしまったときはなるべく自分しか見ない紙の日記に書くようにしている。)


性悪説」とか「性善説」とかって言い方があるけれど、私は「性中庸説」みたいな立場をとりたいと思っている。本来、人間に良いも悪いもないんだ。ただ、環境によって出る面が変わるだけ。ルービックキューブみたいなものだ。「だから何だよ!?」と言われると「べ、べつに……」ってかんじなんだけど、最近の私の人間観は、こんなふうになっている。


青い眼がほしい (ハヤカワepi文庫)

青い眼がほしい (ハヤカワepi文庫)

ハックルベリー・フィンの冒険(上) (光文社古典新訳文庫)

ハックルベリー・フィンの冒険(上) (光文社古典新訳文庫)

ハックルベリー・フィンの冒険(下) (光文社古典新訳文庫)

ハックルベリー・フィンの冒険(下) (光文社古典新訳文庫)

たぶん関連エントリ

aniram-czech.hatenablog.com

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※イタリアの写真がたくさんあるのでサムネイルとして使っていきたい所存

*1:って思うんだけど、この論だとイスラム教やキリスト教の信仰がなぜ全世界に広がっていったのかあまり上手く説明できない。もちろんこれには私なりの仮説があるのでさらに説明を重ねたいんだけど、今回のエントリではそれは本題ではないのでいつかの別の機会に譲る。すべて根拠はなくただの私の与太話です。