チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

わたしは痴呆老人になってもべつに平気

なんとなくだけど、おそらく多くの人が痴呆──いわゆる「ボケる」ことを嫌がっていて、だからこそ一時期「脳トレ」とかが流行ったのだろう。なぜ「ボケる」ことに恐れおののいているのかというと、家族や他人に迷惑がかかるのが嫌なんだろう。


だけど最近の私は、自分に痴呆の症状が出ることをあまり嫌だと感じない。もちろん積極的に出てほしいとは思わないが、まあなったらなったでしょうがないので、あとはヨロシク、という感じである。ただ、介護士さんとか世話してくれる人に、暴力を振るったりしないおばあちゃんだといいと願うばかりだ。

認知症」が増えているのはなぜ

「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書)

「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書)

上の本によると、認知症の患者数は、アメリカにおいてこの四半世紀のうちに10倍に増えているという。しかし、これをもって「現代人の脳がおかしい!?」と考えるのは早計だ。正確にいうと、痴呆症状が出る老人は太古の昔も今と同じように、普通にいた。ただ、その老人たちに「認知症」という病名をあたえていなかっただけだ。認知症になる老人が増えているのではなく、認知症という病名によって認識される老人が増えている、が正しい言い方である。


問題は、なぜ「認知症」という病名があたえられるようになったのか、だ。


沖縄県のとある村では、かなりの数の老人にはっきりとした痴呆の症状が見られていたのに、村の人たちは彼らを「認知症」だと思って接していなかったという。「認知症」は、痴呆症状が出ている老人の世界と、痴呆症状のない若い人との世界のつながりが断たれてしまい、その間で双方に苦痛が生じている状態を指す。つまり、老人に痴呆の症状が出ていても、彼らの世界とつながり、双方に苦痛が生じていなければ、それは目が悪いとか耳が遠いとかいった症状と同じ単なる機能低下であり、「認知症」ではない。

情報ではなく情動でコミュニケーションする

toyokeizai.net


以前書いた「思い出を愛しているの? - チェコ好きの日記」でも引用した記事だけど、上の記事に出てくる老年の母親は、毎日16時になると徘徊に出てしまう。息子はそのことにとても困っており、徘徊をやめさせようとするが、母親は激しく抵抗して暴力を振るう。この状態だと母親も息子も苦しいので、「認知症」という病名で母親の状態を言い表す。


しかし、16時に母親が徘徊に出る理由は実は、幼い息子が幼稚園のバスに乗って帰ってくるのを迎えに行っていたのである。ベテランの介護士がそれに気が付いてからは、「今日は、息子さんは幼稚園のお泊まり会で、帰ってきませんよ。バスも今日は来ませんよ」と伝えるだけで、母親は徘徊をやめた。痴呆症状が出ている老人の世界と、こちら側の世界は、こういった言葉のやりとりによって、「つながる」。双方に苦痛がなければ、痴呆症状は病気ではなく単なる機能低下である。


認知症のケアにあたる人たちの間では、「偽会話」というコミュニケーション形態が知られている。

「主人なんてやっかいなものです。でもいないと困るし……」
「そうそう、うちの息子が公認会計士になりましたんで忙しくてね」
「あら、いいじゃないとっても。浴衣を着ればステキに見えるよ」
「◯◯さん辛かったろうに。いつも△△さんって言ってましたよ」


たとえば、上の会話は支離滅裂である。互いが互いの言葉に応えていないし、何一つ身のある情報がやりとりされていない。でも、この会話のやりとりをしている痴呆老人同士は、「一緒に会話をして楽しい」という気分を共有している。それによってつながり、互いの不安を軽減している。だから、これは一見めちゃくちゃでも、きちんとした「コミュニケーション」なのだ*1

痴呆によって時間や空間が正しく認識できなくなると、老人は不安になる。だけど、その不安を取り除き、状況を理解し、痴呆老人の世界とまたつながることができれば、痴呆症状は出ていても「認知症」にはならない──というのがこの本に書かれているおおよその内容だ。

世界の構築と解体

ところで前回、私は「認知症になった老人が再現する過去とは〈いつ〉なのだろう?」と疑問を抱いていたんだけど、これは当初私が想定していた答えとあまりズレていなかった。認知症の老人が再現する過去とは、「自分がいちばん、世界とのつながりを感じていられた時代」らしい。まあ、すごく平べったくいうとやっぱり「いちばん幸せだった時代」ってことだろう。


いちばん幸せなのは〈今〉でしょ! って私はいつも思っているんだけど、痴呆症状が出て再現した過去が〈今〉じゃなくて〈あのとき〉だったらどうしようって思うし、こりゃ本当にヒヤヒヤものだ。そういうのも含めて老後が楽しみ……なんていったら不謹慎だろうか。ちょっとしたブラックジョークなんだけど。


終末期の痴呆老人をケアしていると、彼らが「この世」と「あの世」が浸透しあった「あわい」の世界にいる印象を受けることがあるという。


人間は生まれると、名前があたえられて、いろいろな言葉やこの世界のルールを覚えて、世界を構築していく。反対に、終末が近づくと、言葉を忘れ、ルールを忘れ、周囲の人との関係を忘れ、自分のことも忘れていく。詩的な表現だけど、著者はこの過程を「土に還っていく」自然なプロセスと書いていて、ああそうかもしれないと思った。


日本だといまいちピンと来ないが、アマゾンの原住民の間では、産み落とされたばかりの赤ん坊は人間ではなく「精霊」だ。母親が抱き上げて、初めて彼/彼女は人間になる。逆の発想で、構築した世界が少しずつ紐解かれて解体に向かっていく──「あわい」の存在になっていくと考えれば、私は痴呆症状をそれほど怖いと思わなくなった。(周囲の人に暴力を振るったりすると嫌だけど)自分の世界がほどけていくことは別に構わない。


まあ、だから、脳トレをやっている人はDSをつんつんするその手を止めて、一度この本を読んでみるといいんじゃないか。DSの脳トレゲームしている人、このブログ読んでないと思うけどさ。

*1:痴呆老人に限らず、こういう「偽会話」みたいなコミュニケーションは女性が本当に得意だなと思う。「中身のないコミュニケーション」をバカにしてはいけない。ちなみに私はこういう会話は苦手で、それがむしろコンプレックスである。

2018年上半期に読んで面白かった本ベスト10

恒例のやつです。今年の1月から6月末までに私が読んだ本の中で、面白かった本10冊のまとめ。SF小説が増えました。

10位 『旅のモザイク』澁澤龍彦

3月末〜4月にかけて南イタリアに行っていたのだけど、旅先の観光スポットはこちらのエッセイを参考にまわっていた。パレルモ郊外の「パラゴニア荘」は本当に行ってよかった。昔のパレルモはかなり治安が悪かったらしい。今はそんなに怖くない(野犬以外は)。


9位 『サピエンス全史』ユヴァル・ノア・ハラリ

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

【感想】『サピエンス全史』×『銃・病原菌・鉄』 - チェコ好きの日記

詳しい感想は前に書いたので割愛。文明の発達により、人類の生活はどんどん豊かに快適になっているのかと思いきや、実はそうとも限らないかもしれないという衝撃。マンモス狩ってた頃と今、私たちが幸せなのはどっちだ。

8位 『生活の発見』ローマン・クルツナリック

生活の発見 場所と時代をめぐる驚くべき歴史の旅

生活の発見 場所と時代をめぐる驚くべき歴史の旅

この本は感想を書きそびれているけれど、かなり面白かったのでおすすめ。「愛」「家族」「感情移入」「仕事」「時間」「金銭」「感覚」「旅」「自然」「信念」「創造性」「死生観」からなる12章で構成されていて、それぞれが時代を経る中でどのように受容され、またその受容が変化していったかを考察している。

たとえば「家族」。私たちは一家団欒といえば、3〜4人の家族でひとつの食卓を囲んで和気藹々と会話を楽しみながら食事している様子を想像する。だけど、その昔イタリアでは、食事中の会話はご法度であったらしい。口数が多いことは利己的であり、信頼できない人というイメージを持たれやすかった。沈黙の時代であった中世を経て、食事の席で会話が楽しまれるようになったのは、18世紀、ロンドンでのコーヒーハウス文化の興隆がきっかけだという。

私たちが「正しい」と思っていることは、実はまったく正しくなんかはなく、歴史もたいして古くない。いろいろな思い込みメガネを外させてくれる良書なので、12章の中に気になるキーワードがあった人には、ぜひ読んでみてほしい。

7位 『地底旅行ジュール・ヴェルヌ

地底旅行 (光文社古典新訳文庫)

地底旅行 (光文社古典新訳文庫)

私はドラえもんの映画の中で『のび太の創世日記』がいちばん好きなのだけど、『地底旅行』はドラえもんにちょっと似ている。『のび太の創世日記』は南極に空いたどでかい穴を降りて洞窟探検に向かうけど、『地底旅行』も、アイスランドレイキャビクから地下世界に降りて行くからだ。

どちらの作品にも共通しているのは「地球の中心は空洞になっている」というかつて信じられていた(?)科学的仮説である。もちろん今はそんなものを信じている人はいないけど、地球の中心に空洞があって、その空洞には地上とは別の世界が広がっている……ってかなり夢があると思う。

6位 『辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦』高野秀行 清水克行

辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦

辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦

彼らは、「選べなかった」のではなく「選ばなかった」 - チェコ好きの日記

ハードボイルドとタイトルに掲げているだけあって、高野さんと清水さんが選ぶ本はどれもアナーキーである。『ゾミア 脱国家の世界史』なんて、読む人が読んだら発狂ものの大変な危険書だ。

5位 『世界最悪の旅─スコット南極探検隊』アプスレイ チェリー・ガラード

世界最悪の旅―スコット南極探検隊 (中公文庫BIBLIO)

世界最悪の旅―スコット南極探検隊 (中公文庫BIBLIO)

STUDIO VOICE vol.412 で「旅にかんするノンフィクション」を紹介しました - チェコ好きの日記

この本は、実は書評を載せていただいたSTUDIO VOICEで紹介している一冊である。イギリスのスコット南極探検隊は、世界初の南極点到達を目指すも、アムンセン率いるノルウェー人たちに見事に破れ、帰途で遭難し隊が全滅。まさしく「世界最悪の旅」だ。

本書は生き絶える直前に書かれた隊員の日記などが載っていて、かなり辛くて泣いてしまった。壊死していく手足、動かなくなった仲間を見捨てて前進を続けるところ(そうしないと自分も死ぬから)、本当に辛い。南極、一度行ってみたいのだけど、想像を絶する世界だ……。

4位 『すばらしい新世界オルダス・ハクスリー

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)

ディストピアな未来を描いたSF小説。作者のハクスリーは生前、仏教やヒンドゥー教の関係者と交流し、自らLSDやメスカリンなどの幻覚剤を服用して実験を行なっていた「ちょっとヤバイ人」である。まあそれはそれとして、『すばらしい新世界』はシェイクスピアの引用があったり、韻を踏んだ言葉がブラックジョークを吐いていたりして、世界観がかなり私好みであった。


3位 『スローターハウス5カート・ヴォネガット・ジュニア

イタリア旅行中に読んでいた本。ヴォネガット自身が体験した第二次世界大戦でのドレスデン無差別爆撃が物語の中心にあり、半自伝的作品だといわれている。ヴォネガットは、自らの体験をもとにノンフィクション的に書くのではなく、トラルファマドール星人の登場する「SF」として物語を作る。なぜならドレスデンでの体験は、自らが語れるもの、意味付けできるものの範疇をゆうにこえてしまっていたから。ストレートに書くよりも、少しずらして書くほうが、真実味と重みが増す。不思議だけど、世の中にはそんなこともあるのだ。

ビリー・ピルグリムが変えることのできないもののなかには、過去と、現在と、そして未来がある」。

過去は変えられない。でも、現在と未来は変えることができる──誰かが言ったそんな楽観的な時間世界を、時間旅行者であるビリーは否定する。人間は無力で、大きくうねる歴史や国家を前にしたら、未来だって変えられない。「そういうものだ」、という言葉がこの小説では何度も繰り返される。

本書を貫いている深い深い「諦念」みたいなもの、もっと上手く言えたらいいなと思うので、そのうちちゃんと感想を書きたい。

2位 『V.』トマス・ピンチョン

めちゃ面白かったけど、謎が多すぎて「ん?」と思っているところ多々。物語の舞台は2つあって、1つはベニー・プロフェインが徘徊する1950年代半ばのニューヨーク。もう1つは、探偵のハーバート・ステンシルが駆け回る第二次世界大戦頃のヨーロッパ。「V.」というイニシャルだけが中心にあって、それらが複雑に絡み合って集約されていく……かと思いきや、なんだかすごく唐突に物語は終わる。

「なんだこりゃ?」という感じなのだけど、それはつまらない作品に抱く「なんだこりゃ?」ではなくて、2回目3回目が読みたくなる「なんだこりゃ?」なのである。

1位 『ソラリススタニスワフ・レム

思い出を愛しているの? - チェコ好きの日記

上半期読んでよかったベスト1位はレムの『ソラリス』。タルコフスキーの映画版『ソラリス』ですでに話は知っていたけど、改めて読んでみると小説のほうがもっと好きかも。

この本をきっかけに認知症に興味が出て、今『「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書)』という本を読み始めたのだけど、これはすごく興味深い。私たちは、私たちの「世界」が正しくて、認知症のお年寄りの「世界」は歪んでいると考えてしまう。だけど、認知症のお年寄りが見ている「世界」もまた私たちと同質の「世界」であり、どちらの「世界」が正しいとか、間違っているとかはない──みたいなことが書いてある(たぶん)のだけど、まだ途中なので、読み終わったらまとめます。

以上

夏は冷房の効いた部屋でアイス食べながら読書するのがいちばんだ。そんな夏ごもりの参考になれば幸いである。

昨年上半期
aniram-czech.hatenablog.com

昨年年間
aniram-czech.hatenablog.com

新海誠化していくこの世界

今年の一月、新海誠監督の『君の名は。』が地上波で放映されたことは記憶に新しい。


私は映画館で観た派だったのだけど、「文句つけてやらあ! 文句文句!」と喧嘩腰で臨んだところ、普通に感動しホロホロと泣いてしまった。「東京」をあんなにも美しく描いた映画は、他になかなかない気がする。今ハヤリ(ちょっと死語気味?)の言葉でいえば、きっと「エモい」のだろう。エモい東京、エモい日本、君の名は、新海誠



この手の話をするときはいつも「私一人にそう見えるだけなのか」「私がよく観測している界隈でそういう事例が多発しているだけなのか」「ある程度全体的な傾向といえるのか」の狭間で悩むのだけど……その区別をつけるために具体的なデータや数値を引っ張り出してくることは、また別の機会に譲るとして。なんだか最近、主にSNSで、「新海誠的な世界観」を打ち出している写真を多く見かけるな、と思うことがある。


もちろん、これは撮影者自身は「新海誠によせてる」という意識はたぶんまったくなくて、自然と似ちゃってるというか、私にとって似て見えちゃってるというか。「新海誠のパクリ」では全然なくて、あくまで「かなり近いところに世界観を置いている」というのが正しい。


君の名は。


ところで、「新海誠的な世界観」とはなんだろうか。


あえて言語化してみると、まず一つは「日常的な光景であること」。新海誠的な世界観では、特別な舞台は必要ない。駅、階段、道端に咲く花、歩道橋、傘、教室、オフィスビル街、部屋に差し込んでくる暖かな日射し。そういうもので構成されている。ニューヨークとか、大麻とか、ストリップとか、グラフィティアートとか、フリーメーソンとか、月刊ムーとか、そういうものはいらないのである(すいません、これらは私の好きな世界観でした)。


次に、「季節感があること」。桜は舞い散り、初夏に心が踊り、水滴には紫陽花の色彩が美しく映える。ラムネにかき氷、浴衣に花火、風鈴。散ったイチョウが足元を埋め、音もなく静かに雪が積もる。吐く息は白く、甘いココアが湯気を立てている。


最後に、「色彩豊かであること」。間違ってもモノクロームではなく、しかし蜷川実花のような極彩色というわけでもない。タクシーの窓を打つ雨の水滴が街のネオンで色を変える感じ、とでも表現しようか……でもそれはちょっと大人っぽすぎるな。ま、これを書いている今が梅雨だからこの表現がいちばんしっくり来るのだろうけど、やっぱ「紫陽花っぽい感じ」かな。カラフルなんではなくて、青や紫や青みがかったピンクが、少しずつ少しずつ色を変化させていく感じだ。
異論はあるかもしれないが、私が想定している「新海誠的な世界観」とは、こういう感じである。


「私一人にそう見えているだけ」だったら元も子もないのだけど、あくまで「SNS上で新海誠的な世界観とかなり近いところにある写真が増えている」という前提のもと話を進めていくと、なぜこういう現象が増えているのかというと、まずは「素人による写真技術の向上」があるのだろう。


今は、iPhoneと加工アプリさえあればかなり綺麗な写真が撮れる。スマートフォンは日常的に持ち歩いているものだから、わざわざ気合いを入れて大きなカメラを鞄に入れる必要はない。そのことが、「日常的な」「季節感のある」写真を撮影することのハードルをぐんと下げている。高級コンデジやミラーレス一眼で撮ってる人だって少なくないが、やっぱり全体的に、「素人でもかなり綺麗な写真を撮ることができるようになった」というのは言えると思う*1。日常的に持ち歩いているもので、日常的なものを撮る。それも、とても美しく。写真が特別なものだった時代は特別なものを撮影していたが、写真が日常になった時代では日常を撮影するのだ。


もう一つの理由として、今の30代以下の人たちには「外ではなく内を求めている」とか、「自分を外へ連れ出してくれるものより、日常的なものを見つめ直したい」とか、そういう心理的傾向がある気がするけど、これは実証できるものがないので単なる私の思いつきである。いやちがうな、「外ではなく内を求めているものがシェアされやすい」「自分を外へ連れ出してくれるものより、日常的なものを見つめ直すもののほうがシェアされやすい」がより正しい。外を求める気持ちも、自分を外へ連れ出してくれるものに惹かれる気持ちも依然としてあり失われてはいないが、それらは〈シェアされにくい〉。

まとめ

さて、私はこの傾向を批判するつもりは一切ない(仮に本当にあるのだとして)。私も「新海誠的な世界観」に涙した人間の一人だし、そういうものに惹かれる気持ちはものすごくわかるのだ。しいていうなら「ナショナリズムと結びつきそうで危なっかしい」ってのはあるけど、それは杞憂というかイチャモンのような気がする。『君の名は。』の主題歌を手がけているRADWIMPSの『HINOMARU』騒動を見てそう思っただけかもしれないし。少なくとも、ニューヨークとか、大麻とか、ストリップとか、グラフィティアートとか、フリーメーソンとか、月刊ムーに夢中になっている人が増えている世の中よりは、だいぶマシだろう。


ただ、「新海誠的な世界観」はどこへ向かってどこへたどり着くのだろう、というのは少し気になっている。どこへ向かっているわけでもなく、したがってどこへもたどり着かないのかもしれないが。


日常にあるふとした瞬間を見つめ直し、見つめ直し、見つめ直し、見つめ直し続けた先には、いったい何があるのだろうか。答えはまだ、出ていない。

*1:そんな時代においてもなお、私は写真がド下手くそなのですが!

『万引き家族』の謎と(私の)解釈

是枝裕和監督の『万引き家族』を観てきた。第一印象として適切かどうかはわからないが、「なんだか〈謎〉の多い作品だなあ」と、まずは思った。もちろんこの〈謎〉は、是枝監督が意図的に残したものだろうと思う。


しかし、これを書く前にすでにいろいろな人の感想や評を読んだのだけど、私が抱いた〈謎〉に言及しているものがなかった……。ので、もしかしたら私が変な部分に固執しているだけかもしれない。


(※以下は『万引き家族』のネタバレを含む感想なので「もう観た!」という人や「ネタバレ気にしない!」という人以外は注意して読んでほしい)



【公式】『万引き家族』大ヒット上映中!/本予告

祥太の行動の謎

「謎だ!」と思った点はいくつかあるのだけど、今回の感想ではそのうちの一つを取り上げてみたいと思う。


樹木希林リリー・フランキー安藤サクラ松岡茉優、城桧吏と佐々木みゆが演じる6人は、「家族」として、狭い長屋に一緒に住んでいる。冒頭のスーパーでの万引きシーン、カップラーメンを6人ですすっているところ、長屋が細々としたモノであふれているところなどから、彼らがかなり貧しい状況にある家族だということはわかる。しかし物語が進むにつれ、彼らは貧しいだけではなく、そもそも血の繋がりがない家族であるということが明らかになってくる。


ラストに近いシーンで、そんな「家族」の一人である祥太(城桧吏)が、スーパーで、あえて見つかるような派手な万引きをする。その結果、家で亡くなった樹木希林を年金をもらい続けるために無断で庭に埋めていたり、もともとの両親に虐待されていたじゅり(佐々木みゆ)を誘拐していたことなどが明るみに出てしまい、安藤サクラが演じる信代は逮捕され、他の家族もバラバラになってしまう。万引きや誘拐や死体遺棄などの犯罪によって繋がっていた家族は公的な場に引きずり出され、次々に警察や世間の「正論」をぶつけられる。


私が「?」と思ったのは、祥太はなぜ、「あえて見つかるような」派手な万引きをしたのかなー、ということだ。もちろんこれについては、何か一つの正解があるわけではないと思うので、以下はあくまで私の解釈だけど……。


まず、物語内の解釈。祥太という一人の男の子が、なぜ「あえて見つかるような」万引きをしたのかについて。これは普通に考えれば想像に難くないと思うのだけど、彼は幼心に「これ以上進むとヤバイな」ということを感じ取っていたのだろう。


じゅりが行方不明になったことはすでに報道されているし、樹木希林が演じるおばあちゃんを庭に埋めるのも怪しい。そして何より、今まで「お店で売っているものはまだ誰のものでもないから」という謎理論のもと万引きを繰り返していたリリー・フランキーが、ついに車上荒らしに手を出すようになってしまった。謎理論は確かに謎理論ではあるが、「万引きはOK、人のものを盗むのはダメ」というのは一応、筋は通っている。その筋を通さなくなった血の繋がらない父に対し、祥太はたぶん「これ以上進むとヤバイな」と判断したのだろうと思う。


次に、物語外のメタレベルの解釈。映画として、ラストは「犯罪によって繋がる(世間的には)間違った家族」と「正論を振りかざす世間」が対立しなければならないので、家族の犯罪が明るみに出て安藤サクラ演じる信代がその罪を被る展開になるのはわかる。だけど、なぜそれが「祥太の手によって」行われなければならなかったのかなー、というのが私としてはちょっと謎だった。


信代の職場の人がじゅりのことを周囲に言いふらすとかして、外部の人間によって家族が解体される展開もありえたはず。それなのに、なぜ家族の解体は、「祥太」によって、内部の人間によって行われなければならなかったのか。これについては私もまだ考え中なので、ぜひいろいろな人のアイディアを聞きたいのだけど……。


ちなみに私としては、是枝監督に文句をいうわけじゃないが、内部による解体より外部による解体のほうが物語としてスッキリいきません!? とかもちょっと思う。内部による解体だと、「彼らは持続可能性のない間違った家族であった」という面を強調してしまう気がするんだよね。でも外部による解体だと、「彼らは持続可能性のない間違った家族ではあったが、しかし彼らは彼らなりに幸せだった」って話にできると思うんだよな〜〜。ブツブツ。私が細かいところにこだわりすぎなのか!?

まとめ 内部解体vs外部解体

ということで、上の文章まで書いて15分ほど時間を置きシンキングタイムを挟んだのですが、結論、「わからねえ」。オチがなくてすみません。え、これ外部解体のほうがよくない? 内部解体の展開にしたの間違ってない? というのが私の解釈ですかね(解釈してねえ)。


ああ、でもそうか。一つ答えとしては、これはあくまで「家族」の物語なのだ。たとえ血は繋がっていなくても、世間的に間違っていたとしても。


「家族」はいつかバラバラになる。それは、『万引き家族』のような血の繋がらない家族も、戸籍によって守られている一般的な家族でも同じだ。そして、家族の解体はいつも子供たちによって行われる。一般的な家族であれば多くの場合、それは子供たちが結婚や独立によって、家を出ていくことによって起こる。子供はいつか必ず、親を乗り越えていくものなのだ。


万引き家族』では、その解体は祥太によって行われる。祥太は父の行動に疑問を持ち、家族の犯罪を明るみに出す。しかしその解体行為によって、祥太は父を乗り越えたのだ。ちょっと皮肉めいているが、この祥太による解体行為こそが、この家族を本当の意味で家族たらしめたということなのかもしれない。


万引き家族』は家族の物語だが、その中でも特別に、「父と息子の物語」でもあるのだろう。そうすると、リリー・フランキーが祥太の性の目覚めに言及するシーンも、ラストシーンも、納得がいく。祥太は、大人になって、一人の男として、父を越えていく。


アレ、じゃあやっぱり内部解体でいいのかな!? いい気がしてきた。みなさん、どう思います??

万引き家族【映画小説化作品】

万引き家族【映画小説化作品】

思い出を愛しているの?

1. 「誰」を愛しているの?

数年前、恋人と一緒に見たとあるテレビ番組のことを、よく覚えている。


番組の特集は「認知症」で、画面に映っていた高齢のご夫婦は、旦那さんのほうがほぼ寝たきりで、おまけに認知症を患っていた。奥さんは、その介護をしているとのことだった。老老介護というやつである。


旦那さんは、どうやら奥さんのことを忘れてしまっているらしい。いつも世話をしてくれている女性は、自分の妻ではなく、お手伝いさんだと思っているとのこと。「この人は何にも覚えてない」と奥さんは笑っていたが、何十年も一緒に暮らした記憶がなかったことになっているのだから、つらくないはずはなく、その笑みの奥には何かしらを押し殺した感情があるように見えた。


ある日、奥さんが旦那さんのベッドの脇で泣いている映像が映し出される。何があったのかと話を聞くと、「プロポーズされた」とのこと。旦那さんの中で、「奥さん」という存在は曖昧になっている。だから、旦那さんの中では、もちろん自分の妻ではなく、「いつも優しくしてくれるお手伝いさん」に、結婚を申し込んだのだ。自分の大切な夫が自分を忘れてしまっていること、でも妻ではない「お手伝いさん」としての自分を、もう一度好きになってくれたこと。それは悲しいことなのか、嬉しいことなのか、つらいことなのか、幸せなことなのか。


……私がテレビを見てガチ泣きしていたら「辛気くせえ〜〜! 俺はこういう湿っぽいのは嫌いなんだよ〜〜〜!」と言われ恋人に途中でチャンネルを変えられてしまったが(ひどい)、この手の〈記憶〉にまつわる話って私はけっこう好きで、何年か経ったあとでもこうして覚えているわけである。


この場合、旦那さんが好きになったのは、「妻」なのか「お手伝いさん」なのか、あるいはそのどちらでもないのか。私はそもそも認知症のことをよく知らないし、脳のこともよくわからない。ただ、人が誰かを愛するとき、本当は何のことを、いつのことを、愛していると言っているのかな。そういうことを、私はよく考え込んでしまう。

2.「思い出」を愛しているの?

さて、なぜ今さらそんな数年前のテレビの話をしたのかというと、最近スタニスワフ・レムの『ソラリス』を読んだからである。



主人公は、クリス・ケルヴィンという心理学者。このクリスが、惑星ソラリスの観測ステーションに到着するところから物語は始まる。ところがこの観測ステーション、どうも様子がおかしい。クリスの前に、ステーションにはすでにスナウト、サルトリウス、ギバリャンの三人が到着しているはずだったのだが、ギバリャンはステーション内で自殺してしまったと、スナウトから告げられる。


惑星ソラリスに広がる「海」は、訪れる人間の抑圧された願望を、実体化して作り出す。


ある日を境に、クリスはハリーという女性をステーションの中で見かけるようになる。ハリーはクリスの恋人だったのだが、何年か前、大喧嘩をしてクリスが家を出ていったあと、家にあった薬物を自身に注射して自殺してしまった。もちろん、ステーションにいるのは恋人だった本物のハリーではなく、「海」が作り出したハリボテだ。同様に、スナウトはスナウトの望むものを、サルトリウスはサルトリウスの望むものを、実体化させてしまっている。「海」は抑圧されたトラウマや願望を実体化し、ステーションには、本来いるはずのない者たちがさまよっている。


本来いるはずのない者──「幽体F」は、ステーションにいる人間の抑圧された願望を実体化したもの。クリスは学者としてそれを理解しながらも、いつしかハリボテのハリーを愛するようになってしまう。そして、高度な知能を持つハリボテのハリーは、クリスが愛しているのは自分ではなく、自分にとてもよく似た、彼の自殺した恋人なのだと徐々に知るようになる。

「ねえ……」と、彼女は言った。「もう一つ聞きたいことがあるの。わたし……そのひとに……とてもよく似ているの?」
「前は似ていた」と、私が言った。「でもいまはもう、わからない」
「どういうこと……?」
彼女は床から立ち上がり、大きな目で私を見つめた。
「きみにさえぎられて、もう彼女の姿が見えなくなってしまった」
「それで、あなたは自信を持って言えるの、そのひとじゃなくて、わたしを、わたしだけを……?」
「そう、きみだけだよ。いや、よくわからない。でも、もしきみが実際に彼女だったら、きみを愛することはできないんじゃないかと思う」
「どうして?」
「ひどいことをしてしまったから」


ハリボテのハリーは、自殺してしまったかつての恋人ではなく、今ここにいる自分自身を愛してほしいと望む。そしてクリスも、自分が愛しているのは自殺した本物のハリーではなく、今ここにいる「幽体F」であると思うようになる。「海」が作り出したハリーは、あくまでクリスの抑圧された願望を実体化させたものだから、生前のハリーとまったく同じというわけにはいかない。クリスは自殺した恋人のハリーと、今目の前にいる「幽体F」を、だんだん分けて考えるようになる。


しかし、幽体Fとしてのハリー……〈新しい恋人〉と新しい生活を始めようとするクリスを、同僚のスナウトは止める。ステーションを出てしまえば、「海」が実体化させた存在に過ぎない幽体Fは、消滅してしまうからだ。

「ぼくは……彼女を愛しているんだ」
「誰を? 自分の思い出をじゃないのか」


このあと物語がどうなるかは書かないでおくが、『ソラリス』はそんなわけで、めちゃくちゃ多様な解釈が可能な小説である。まず、「海」とは何なのか? というSFであり、同時にクリスとハリーの恋愛物語でもある。ただもちろん、一筋縄ではいかない恋愛だ。クリスが愛しているのは、「誰」なのか。


思考実験としては面白いけど、所詮はSFでしょ──と思った人は、冒頭でした、認知症の夫を老老介護している奥さんの話を思い出してほしい。私は「誰」を愛しているのか? 私のことを愛していると言っているこの人は、私に何を見ているのか? これは、幻想を押し付けてる! とか、この人は私を愛していない! とか、そんな表面的な話ではなくて、人の記憶とは何なのか、人の存在とは何なのかという、かなり多義的な問いだ。

3.「いつ」を生きている?


最後にもう一つ、認知症の話をしよう。今年の2月に読んだ記事でとても印象に残っているものがあるんだけど、これ、私の2018年ベストウェブ記事の可能性があるな……!


toyokeizai.net


詳しくはリンク先から読んでもらうとして、要約すると、認知症になった自分の母が、毎日16時に徘徊をするので困りはてていたと息子さんが介護の体験談を語っている。ただ伯父に話を聞くと、なぜ母が毎日16時に徘徊に出るのか、その理由がわかる。母は、幼い自分が幼稚園のバスに乗って帰ってくるのを、毎日16時に迎えに行っていたのである。


これもまた、私は認知症のことも脳のことも詳しくないので何とも言えない部分があるのだけど、認知症になった人が固執する過去にはどんな意味があるのだろう。自分の人生において、いちばん幸せだった時期を再現しているのか。あるいは、やり残したこと、心残りなことがあった時期に戻ろうとするのか。人間の中で、〈記憶〉ってどうなっているんだろう。


しかし現実的な話をすると、記事にあるように「介護のために親の人生を理解する必要がある」とはいえ、自分の親の元カレ・元カノの話なんか聞きたくねえなと私は思ってしまうんだけど……親側としても、自分の元カレ・元カノの話なんか子供にしたくねえよと思うのではないだろうか。まあしかし、それはそれ、これはこれだ。


私たちは、「今」を生きている。自信満々な人ほど、そう言う。


いやいや私だってね、過去の話しか出てこない同窓会なんかに興味はないし、今のところ人生で後悔していることって、「大学のときもうちょい頑張って英語勉強すればよかったな〜」とかそのくらいだ。私は、「今」を生きている。自信満々だ。


でも「今」というのはたくさんの「過去」から成り立っているわけで、過去のたくさんの出来事や経験なしに今は語れない。過去から完全に独立した今なんてない。過去から独立した今なんて、それこそ、「海」が作り出すハリボテになってしまう。


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なるべく避けたい事態ではあるけれど、いつか自分が、自分の大切な人が、認知症か何かで、「今」のことを忘れてしまったら。


私は、あなたは、いつのことを思い出すんだろう。いつのことを忘れ、いつに戻りたいと願うのだろう。こればっかりは、蓋を開けてみないとわからないよね。私は「今」を生きているつもりバリバリなんだけど、これは、ちょっとわからないわ。


いつか思い出すときの「もっとも幸せな時期」が、「今」だったらいいな……なんて私はよく思うのだけど、その「今」はこの一瞬にだって刻々と移り変わっていってしまうんだから、やっぱりどうしたって矛盾しているよね。


(※小説版『ソラリス』はボリュームがあってなかなか骨が折れるので、もっとお手軽にストーリーのポイントをつかみた〜い! という人はこちらをドウゾ)
惑星ソラリス [DVD]

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タルコフスキーによる映画版『惑星ソラリス』。この映画もめちゃくちゃ好きなんだけど、タルコフスキーは恋愛の話をクローズアップしすぎたので、原作者のレム、ブチ切れ。レム的には『ソラリス』は多様な解釈を孕んだ、あくまでSF小説なんだな)


aniram-czech.hatenablog.com
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