チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

あなたの知らない顔

直近1週間の日記です。

2018.7.27 やっぱり書くことがない2.0

書くことがない。しかし、正確にいうとこれは「ブログに書くことがない」という意味である。つまり、ブログ以外なら書くことはある。noteならある。AMの連載*1ならある。あと、小説は6〜7月の2ヶ月間で10万字書いた。これについてはもう少しで何かしらの発表ができるかもしれない。


小説は全然上手く書けないし、正直、今後また書くかどうかもわからないのだけど、とりあえず今年、挑戦してみて本当に良かったなあと思っている。私には、実は言いたいことがいっぱいある。書きたいこともいっぱいある。でも、もうそれらは「私の意見」「私の体験」として伝えるのは限界みたいだ。具体画を描くのに限界を感じて、抽象画を描き始めたというわけである。が、抽象画難しすぎて全然無理……と、なっているのが今。


小説は何がいいかって、嘘をついてもいいところ。ブログに「私は幼少時代カルト宗教の尊師と公園で一騎打ちしたことがあって……」とか書いたら虚言癖野郎になってしまうが、小説の中でならどんな嘘をついたっていい。なるほど、だから人は小説を書くんだなあ〜と感心している。カート・ヴォネガットは、自身の戦争体験を『スローターハウス5』という小説にした。それはやっぱり、エッセイではだめだったのだと思う。トラルファマドール星人とかいうわけのわからない存在を介在させないと、表現しきれなかったのだと思う。お前とヴォネガットを同じ地平で語るなよという話だけど。


どんな真実より真実らしい嘘をつけたら、最高なのにな。

2018.7.28 住めば都体質

東京の人は生きるスピードが早い。どんどん決断して、どんどん環境を変え、先に進んでいってしまう。一方の私はあまり何も変わらず、置いてきぼり感が……と、いうわけでもなく、確かに私はとてもゆっくりしているのだが、そこにあまり焦燥感はないのだった。なぜこんなに肝が据わっているのか。茶柱野郎だからか。


そういえば私、前の職場は5年勤めた。よっぽど居心地がよかったのかというと、全然そんなことはなく、今思うとわりと最悪な職場だったのだけど、勤めている最中は「いいところだなあ」と思っていた。何かをすごく我慢して、嫌な気持ちを押さえつけていたのかというとそうでもなく、わりと本気で「いいところだなあ」と思っていた。出てみて初めて、「別にいいところというほどでもなかった」と気付いた。


おそらく、私は悪い意味でどこにでも馴染んでしまうというか、「住めば都体質」が過ぎるのではないか。たぶんだけど、私、アフリカとかフィリピンのスラム街とか住めると思うんだよね。もちろん最初は不潔だ寝れない怖いと言って泣いてるだろうけど、二ヶ月くらい経ったらケロっとした顔で現地に馴染んでそう。それで、「いいところだなあ」って思ってそう。住めばどこでも都にしてしまう能力……いらねえええ。

2018.7.29 男と女、どっちが好き?

なんとなく、人を見ていて、「あ、この人は『男』が好きなんだなあ」とか、「『女』が好きなんだなあ」とかって思う瞬間がある。LGBTQの話をしているのではない。ヘテロセクシャルの男でも「この人は『男』が好きなんだなあ」って思う人はいるし、同様にヘテロセクシャルの女でも「この人は『女』が好きなんだなあ」って思う人はいる。


お、あなた今、「このアホはいったい何の話をしてやがるんだ」って思ってるね? いや、もうちょっと続けさせてくれ。


かつて、私はとある人の岡崎京子評にいたく感動したことがある。氏いわく、岡崎京子のマンガに出てくる女たちというのは、ヘテロセクシャルではあっても、「女」が好きなのだ。「男と恋愛する」ことよりも、「男と恋愛した話を女同士でする」のが好きなのだ。女同士でする話のネタのために、男と恋愛するのである*2


同じような世界観をベースにしている作品はいくつかあって、代表的なのは『Sex and the City』などではないかと思われる。岡崎京子とSATC全然ちがうだろ! といわれるとまあそうなのだけど、なんか彼女たち、男の隣にいるよりも、女同士でいるほうが楽しそうなんだよね。もちろん、これは自己肯定感とかコンプレックスとはまったく関係ない。恋愛が上手くいかないから、モテないから女同士でつるんでるわけじゃなくて、恋愛なんて全然できるの、なんならめっちゃモテてるの、でも女同士でいるほうが楽しいの。そういう世界観なのである。


同様に、「ホモソーシャル」という単語はネガティブな意味で使われることが多いけれど、男同士が好きなんだろうなあっていう男もやっぱりいて、ただし私の知っているそれは必ずしもムキムキマッチョの体育会系ではない。むしろ、文系インテリ紳士系だったりする。なんとなくだけど、彼らはただ純粋に、無邪気にワイワイやりたいんだろうなと思う。女がいると気を遣うし、酔った勢いでポリコレ問題発言とかしちゃったら申し訳なくて凹んじゃうし、色恋沙汰になるとめんどくさいし……みたいな。作品でいうと、ちょっとこっちはすぐに思いつかないんだけど。


まあ、「だから何?」といわれると特にオチはないんだけど、男好きの男、女好きの女っているよな〜って、最近思ったのでした。

2018.7.30 あなたの知らない顔

もちろん一概にはいえないけど、「男といるときの女の顔」と「女といるときの女の顔」はどちらが美しくて可愛いらしいか? って考えたとき、もしかしたら後者なんじゃないかなと思う瞬間が私にはある。


最初にそう思ったのは某キャバクラの待機席*3なんだけど、無警戒で女同士でしゃべっているときの女の子ってのは、本当に子供みたいだ。男の前に出るとその子供らしさはどこかへ吹っ飛んでしまって、お金やら色恋やらいろいろなものの駆け引きが始まってしまうんだけど、私がキャバクラの女の子を可愛いなと思ったのは、男の前で接客しているときではなくて、待機席でくだらないスマホゲームの話をして女の子同士で笑っているときだった。


女の子同士で笑っているときの顔というのは、彼氏といるときの顔とも、たぶん少しちがう。だから、男はどうひっくり返ってもこの子たちのこの可愛い姿は見られないのだ。そう考えると、ちょっとだけ得した気分になる。


しかし、世の中は平等である。たぶん、ホモソーシャルな空間でしか見られない男の顔というのもあるのだろう。この人は男同士だとこんなふうに笑うんだって顔が、きっと。そして私は、それを見ることは叶わないのだ、一生。


なんだか下手なBLか百合を書いている気分になってきたので、この話はこのへんにしておくか……

2018.7.31 みんな怒っている

なんか最近、みんな怒ってない?」という話をブログでもリアルでもしたところ、それなりに賛同を得られることが多く、どうやら完全なる思い過ごしというわけでもなかったらしい。


すごく複雑な話なのだけど、私は、「いつも何かに怒ってる人」と「いつも全然なんにも怒らない人」と、二極化しているような気がして、それは私にとってあまり心地いい環境ではない。ただ、怒りたい人に「怒らないで」というのも変だし、怒っていない人に「もっと怒ってよ!」と頼むわけにもいかない。なので、困っている。ただ個人的に困っている。それによって生じる可能性のある問題を懸念しているとかじゃなく、単純に私が、途方に暮れている。

2018.8.1 陰謀とパラノイア

今日から8月。


詳しくは触れられないが、まったく関係のないAという事柄と、Bという事柄を勝手に関連づけて、「これは陰謀ではないか? 何か裏があるのではないか?」と疑っている人をTwitterで見つけてしまった。たまたまだけど、私はAとBは本当にまったく関係ないと知っている。


だけど、その人にリプライで「それはまったくの誤解ですよ。そんな事実はありませんよ」なんて伝えるわけにもいかないので、おそらくその人は今後もずっと、AとBによる陰謀があるとしてこの世界を生きていくのだろう。ある場所でそれをいえば、賛同者だって得られるかもしれない。それは「真実より真実らしい嘘」として出回り、いつか本当に真実を超えてしまうかもしれない。


この世界には小さな疑念がたくさんある。どうして私だけがこんな目に合うのか。誰かが何かを操作して、自分を不利にしているのではないか。どこかに不正があるのではないか。


統合失調症の人の世界が味わえるVR動画みたいなのをネットで見たことがあるのだけど、統合失調症の患者の中には、自分が国家に命を狙われている、監視されている、と思っている人がいる。もちろん、そんな事実はない。でも、そう思えてしまう。「そんな事実はない」と言っている人は、嘘をついている。自分を騙そうとしている。


私もあなたも、きっとそんなパラノイアと無縁ではない。この世界全体が、統合失調症にかかっている。冗談抜きで、トマス・ピンチョンの小説みたい、と思った。


f:id:aniram-czech:20180801235603j:plain
(※これは春にパレルモで撮った噴水です)

*1:そういえばブログではまったく触れていなかったけど、SOLOの連載はAMに移行したよ! チェコ好きさんの記事一覧|AM

*2:これは『ヘルタースケルター』などの作品には多分当てはまらないので、『チワワちゃん』とかの作品を連想するとわかりやすい

*3:体験入店したときね

世界のルールを知らないままで/最近読んだ宗教に関するコミックエッセイのまとめ

最近というかここ半年くらいで、宗教に関するコミックエッセイを何冊か読んだのがたまったので現時点でのまとめ。この手のエッセイはまだまだあると思うのでまだまだ読むと思う。


今回扱うものは「宗教二世」の方のものばかりのだけど、手記ではなくコミックエッセイという形が多いのは、Twitterでバズって出版へみたいな流れが多いからなんだろうか……。

『カルト村で育ちました』『さよなら、カルト村』高田かや

カルト村で生まれました。

カルト村で生まれました。

さよなら、カルト村。 思春期から村を出るまで

さよなら、カルト村。 思春期から村を出るまで

両親ともに「ヤマギシ会」の信者で、幼少時代から「カルト村」……コミューンのような場所で集団生活を送っていた著者・高田かやさんのエッセイ。小学生時代の話がメインの『カルト村で育ちました』と、中高生以降そして脱会までを描いた『さよなら、カルト村』が上下巻のようになっている。どちらもとても興味深いのだけど、私は中高生以降の話のほうが好きだった。


なぜかというと、これはすべての子供がそうだと思うんだけど、小学生以下の子供は「世界のルール」がまだわからない。「世界のルール」は、言語化しにくいのだけど、理不尽なことが身に降りかかってきたときの、メンタル面・スキル面での対処の仕方みたいなものだ。自分自身の小学生時代を思い出してみてもそうだったな〜と思うのだけど、小学生以下のときって「世界のルール」がわからないから、起きた出来事をまるっと受け入れてしまう。スルーできない。だから、上巻は読んでいてキツく感じることも多くて、反対に下巻は1つ1つのエピソードが重くなく、救いがあった。高田さんが指導係のいうことを上手い具合にかわし、スルーしているから。


それからちょっとズレた感想になるのだけど、この『カルト村』の上下を読んでいるとき、なぜかノスタルジーを刺激された。私は宗教コミューンのような場に足を踏み入れたことはないのだけど、なんとなく、自分にも昔、こういうことがあったような気がしてならない。子供のときの辛さと大人になってからの辛さって別ジャンルだなと思う。子供のときの辛さは、「世界のルールを知らないキツさ」だ。大人になってからも辛いことはあるけど、子供のときの辛さに比べたら、私は全然マシ。これは個人差があると思うけど。


小学生のとき、生きるの辛かったな……と思った。宗教関係ないが。

『よく宗教勧誘に来る人の家に生まれた子の話』いしいさや

母親が「エホバの証人」の信者だったいしいさやさんのエッセイ。こちらは小学生から大学生までの話が1冊にまとまっているのだけど、やっぱり年齢が幼い頃のエピソードのほうがキツイ。


『カルト村』にもこの『よく宗教勧誘に来る〜』にも、中高生以降に自分の宗教への批判本や告発本を筆者が手にする場面がある。適切な表現かはわからないが、そのときの「やっぱり自分の違和感はまちがってなかった!」となるときの感じ、世界をおおっていたモヤが1つ晴れる感じ、何かに似ているなと思ったら『わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)』だった。この小説の「世界のルールがわからない感」すごい。

『カルト宗教信じてました。 「エホバの証人2世」の私が25年間の信仰を捨てた理由』たもさん

カルト宗教信じてました。 「エホバの証人2世」の私が25年間の信仰を捨てた理由

カルト宗教信じてました。 「エホバの証人2世」の私が25年間の信仰を捨てた理由

こちらも、母親が「エホバの証人」の信者だったという方のエッセイ。前出のいしいさんと少し異なるのは、母がどのようにして「エホバ」の信者になったのかが、軽くではあるが描かれていること。田舎からたった1人で嫁いできたお母さんは、子育ての相談をできる人もだれもいなくて、きっと孤独で寂しかったのだ。


今だったらどうか……なんてことをつい考えてしまう。今はインターネットがある。SNSで旧友と近況報告しあったりメッセージのやりとりもできるし、そもそもTwitterで新しい趣味の友達も無限に探せる。この「上京してから心を許せる人がだれもまわりにおらず宗教へ」パターンの人、ある時代までは相当数いたんじゃないかなと推測している*1んだけど、今はこういう人は減っているんじゃないだろうか。


その代わり、新しいタイプの孤独を抱えている人が宗教を必要としている気もするけれど。

『愛と呪い』ふみふみこ

愛と呪い 1 (BUNCH COMICS)

愛と呪い 1 (BUNCH COMICS)

最後に、これはエッセイではなくフィクションだけど、「半自伝的」とのことなので一応加えておく。第1話はネットで読める。両親がとある宗教の信者で、さらにそこに性的虐待を受けていた日常が重なる。舞台は「90年代」だ。

kuragebunch.com


私の90年代といえば、小学生だったので、時代の空気みたいなものの記憶があまりない。ただ、あとになって読んだこういったマンガやサブカル批評などのせいで、めちゃめちゃ陰鬱で暗い時代だった……というイメージがどうしても付きまとっている。しかし当時20代前半くらいだった人に話を聞くと、必ずしもそんなことはなくて、むしろ崩壊したとはいえバブルの名残が強く、時代がどんどんよくなっていく空気と、あっけらかんとした明るさがあったのだそうだ(これ、90年代前半の話なんだろうか。地下鉄サリン事件以降はまた別なのかも)。


タイトルの意味がまだよくわからないけれど、1巻なのでこれから徐々に明らかになっていくのかもしれない。続きを早く読みたいな〜と思う。「愛」は、「呪い」と紙一重だ。


とりあえず、今日はそんなところで……

*1:創価学会などがそういう人を勧誘していたという話をどこかで読んだのだけど、ソース忘れました

「安牌」な女

直近1週間の日記です。

2018.7.13 「裏切り」という行為

私の人生31年、今のところ、誰かに対して「裏切られた」と思ったことが一度もない。


だから、「裏切ったり、裏切られたり」の話をしている人に出会うと、いつも「何の話をしてるんだ?」と思ってしまう。裏切るという言葉が、具体的にどういう行為を指しているのか、よくわからない。借金の保証人になってやったのに逃げられて、家にウシジマくんみたいなのが来るようになっちゃったとか? 


でもどうやら、「裏切ったり、裏切られたり」の話をしている人は、そこまでのことはいってないっぽい。そりゃ、そんなにしょっちゅうウシジマくんが家に来てたら大変だ。友達だと思ってた人に裏で悪口いわれてたとか、そういうことかな。しかしそれでいうと、私、「友達だと思ってた人に裏で悪口いわれてた」も、一度も記憶にないな。


こんなふうに、「辞書的な意味は知ってるけど、体験したことがないので、実際のところどういう意味なのかよくわかってない」みたいな言葉が、私には複数ある。みんなは、そういうの、ないんだろうか?


間が悪い私はいつもタイミングを逃してしまうので、今度「裏切ったり、裏切られたり」の話をしている人がいたら、聞いてみようと思う。

2018.7.14 余計な告げ口

「裏切られた」経験がまったくないのは、もともと、私の他人に対する期待値が尋常じゃなく低いからだろう。というか、人の話を聞くと、「え、みんなそんなこと考えてるの? 私なにも考えてねー、やべえじゃん」と冷や汗ダラダラになる。


それはそれとして、「友達だと思ってた人に裏で悪口いわれてた」が一度もないの、なんでだろうと考えていた。もちろん私の人柄がいいわけではない。でも、この手の話でよくある(?)「そもそも誰のことも友達だと思ってない」も、たぶんちょっとちがう。なんていうか、いわゆる「余計な告げ口」ってやつを、そもそもされたことがないんだよね。「あの人と仲良くしないほうがいいよ」とか、そういうのも一度もいわれたことないな。


特になんの取り柄もない私だけど、たった一つの長所として、「人に嫉妬心を抱かせない」というのがある気がしている。


特に、女性からは昔からあまり嫉妬されない。男性からの嫉妬はたまに買う(恋愛的な意味の嫉妬ではなく、このクソ野郎ブッ殺すぞ的な意味での嫉妬)。「友達だと思ってた人に裏で悪口いわれてた」ことは一度も記憶にないと書いたけど、それは、そんなことをわざわざ私に伝えて落ち込ませる必要がないくらい、私が相手にとって無害な人物だからじゃないかと自己分析している。余計なことをわざわざ伝えてくる人って、やっぱり嫉妬心があると思う。出鼻をくじいてやりたい的な。

2018.7.15 「安牌」な女

ミーハー野郎なので、『バチェラージャパン』はシーズン1も2も観ている。先日、その話を友人にしたらちょっと驚かれた。いやいや、私なんてむっつりスケベ、というかむっつりミーハーの代表格ではないですか?


ところで私、バチェラーに参加することになったら、きっと、他の女の子から「安牌」として扱われるようになると思うんだよね。それで、自分でいうけど、私のすごいところは、「安牌」だと思われても、別になんにも悔しくならないところだ。まあ、バチェラーを「リアル」と受け取るのはいろいろと弊害がある気がするけれど、あれを観ていると、女の子は、他の女の子から「安牌」だと思われるのがすごく嫌なんだな、私全然嫌じゃないけど……と新鮮な気持ちになる。


そういえば世に聞く「マウンティング」も、私は一度も女性にされたことがない。出会った人たちが全員、いい人でオトナだったってのもあるんだろうけど、昨日も書いたように、やっぱり私が、女性の嫉妬心をあまり掻き立てない存在なのだと思う。「私は無害です」というオーラを纏うことにかけては、けっこう自信がある。


……なんて自信満々に書いてみたものの、意外と裏で女性からの嫉妬を買っていたら、面目丸つぶれだ。こういうのは自分ではわからないからなあ。


でも、一応それらを裏付ける証拠もある。少し前に、小学生のときからの親友から、「学生時代、女子はみんな裏で何かと悪口をいい合っていたけど、そういえばあなたの悪口だけは誰もいってなかったね」と教えてもらった。バチェラーに出たら、私やっぱり、女性陣のなかでけっこう上手く立ち回れるのでは? バチェラーを射止められるかどうかは全然別として。


なんだろ、直接的な意味ではなく、象徴的な意味合いにおいて、「こいつは私の男をとらんやろ」と思われるのが上手いのかな。実際、とらないが。


『バチェラージャパン』を観ていると、そんな自分の「安牌性」に思いを馳せてしまう。「無害な安牌」でいるの、ラクだし、得する面も多いで私は好きなんだけど、あまり魅力的な振る舞い方ではないので、人にはすすめない。


2018.7.16 大きなパーティーと小さなパーティー

グレート・ギャツビー』のなかで、登場人物のジョーダン・ベイカーが「私は大きなパーティーが好き。プライバシーが守られるから。小さなパーティーは何かと目立つでしょ?」みたいなことを言うシーンがある。ジョーダン・ベイカーのこの台詞は、なんだか頭に残っている。


大きなパーティーと小さなパーティー、大半の人は小さなパーティーのほうが好きだと答えそうだ。というか、私も好き嫌いでいったら完全に小さなパーティーのほうが好きだけど、「どちらのほうが上手く立ち回れるか」という得意不得意の観点から考えると、大きなパーティーでの振る舞い方のほうが得意かもしれない。大きなパーティーってのは、とにかく目立たなければいいのだ。それは自分の主張を押し殺せということじゃなくて、「必要のないことをわざわざいわない」だけでいい。大切なことほどこっそり隠し持っておくのが、大きなパーティーでの上手なやり方だ。


ただまあ、大きなパーティーに出る機会というのは大人になるにつれ減る一方なので、小さなパーティーでの身の振り方をそろそろちゃんと考えないといけない。

2018.7.17 ホストクラブで男に負ける

これはちょっとした思考実験なんだけど、たとえばある日突然、「私たち、身体が、入れ替わってる〜〜!?」的な事態が私やあなたに起きてしまい、男性は女性に、女性は男性になってしまったとして。その状態で夜のお店で働いたりしたら、はたしてどうなるんだろう的なことを考えていた。


たとえば私は女性なので、「私たち、身体が(略)」的な事態を迎えると男になるわけだけど、その状態でホストクラブで働くことになっても(つまり、ヘテロセクシャルの女の人向けの商売をすることになっても)、あまり売れっ子になれる自信がない。女性だから、女心はわかっているはずなのに、余裕でそのへんの男に負ける自信がある。ようは、「おもてなし」が下手くそなのだ、私は。


「私たち、身体が(略)」を自由自在に起こせる魔法の箱があったら、たくさんの人を中に突っ込んで性別を入れ替えて、夜のお店で働かせたい。あの子はホストで、あの人はキャバクラで、さあさあ売れっ子になれるかしら? そんな妄想を一日していた。

2018.7.18 もっとも過酷な拷問

身体的な「痛み」がとにかくダメだ。痛いのだけは無理。たまに「ぶくぶくする感じが苦手で……麻酔なしで歯の治療したよ」などという人に出会うけど、まじで、信じられん。私は痛いのだけは無理なので、歯を治療する際は何も考えずに「麻酔で」「あ、麻酔で」「麻酔でお願いしまーす」といっている。


しかし、怖いからこそなのだろうか、中学生のとき、近所の図書館で「世界拷問史」「魔女狩りの歴史」みたいなタイトルの本を夢中で読んでいたな。石があったらひっくり返したくなっちゃうタイプなのだ。石の裏がどうなっているのか、やっぱりものすごく気になるんだもん。


ところで、『マインド・コントロール 増補改訂版 (文春新書)』という本を読んでいる。これまで、拷問といえば肉体的な痛みにのみ注目していて、マインドコントロール的な、内側からじわじわ蝕んでいく系の拷問はそういえばあまり触れてこなかった。肉体的な痛みは問答無用で嫌だが、内側からじわじわ蝕んでいく系もやっぱりヤダ。


かつてソ連で行われていた拷問(という言葉は使われていなくて「監禁」らしいのだけど、これ絶対に拷問だって)は、たった一人で独房に閉じ込めて、外界との接触を一切遮断する。窓のない部屋で、昼夜問わずに電気を付けっ放しにして、時間の感覚を奪う。食事やルーティンワークの時間もバラバラにする。そして、部屋を寒くする。あと、なぜ自分がこの独房に入れられているのか、何をしたら出られるのか、絶対に教えない。そういう「監禁」をすると、人間はだいたい混乱して幻覚を見るようになるという。


肉体的な拷問と、マインドコントロール系の拷問、どっちが嫌かな……なんてことを考えるのに一日の大半を費やしていたら、気が滅入ってしまった。石をひっくり返すのもほどほどにしようと思う。でも、絶対にまたやっちゃうな。


石、ひっくり返したくない?



f:id:aniram-czech:20180717230508j:plain

わたしは痴呆老人になってもべつに平気

なんとなくだけど、おそらく多くの人が痴呆──いわゆる「ボケる」ことを嫌がっていて、だからこそ一時期「脳トレ」とかが流行ったのだろう。なぜ「ボケる」ことに恐れおののいているのかというと、家族や他人に迷惑がかかるのが嫌なんだろう。


だけど最近の私は、自分に痴呆の症状が出ることをあまり嫌だと感じない。もちろん積極的に出てほしいとは思わないが、まあなったらなったでしょうがないので、あとはヨロシク、という感じである。ただ、介護士さんとか世話してくれる人に、暴力を振るったりしないおばあちゃんだといいと願うばかりだ。

認知症」が増えているのはなぜ

「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書)

「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書)

上の本によると、認知症の患者数は、アメリカにおいてこの四半世紀のうちに10倍に増えているという。しかし、これをもって「現代人の脳がおかしい!?」と考えるのは早計だ。正確にいうと、痴呆症状が出る老人は太古の昔も今と同じように、普通にいた。ただ、その老人たちに「認知症」という病名をあたえていなかっただけだ。認知症になる老人が増えているのではなく、認知症という病名によって認識される老人が増えている、が正しい言い方である。


問題は、なぜ「認知症」という病名があたえられるようになったのか、だ。


沖縄県のとある村では、かなりの数の老人にはっきりとした痴呆の症状が見られていたのに、村の人たちは彼らを「認知症」だと思って接していなかったという。「認知症」は、痴呆症状が出ている老人の世界と、痴呆症状のない若い人との世界のつながりが断たれてしまい、その間で双方に苦痛が生じている状態を指す。つまり、老人に痴呆の症状が出ていても、彼らの世界とつながり、双方に苦痛が生じていなければ、それは目が悪いとか耳が遠いとかいった症状と同じ単なる機能低下であり、「認知症」ではない。

情報ではなく情動でコミュニケーションする

toyokeizai.net


以前書いた「思い出を愛しているの? - チェコ好きの日記」でも引用した記事だけど、上の記事に出てくる老年の母親は、毎日16時になると徘徊に出てしまう。息子はそのことにとても困っており、徘徊をやめさせようとするが、母親は激しく抵抗して暴力を振るう。この状態だと母親も息子も苦しいので、「認知症」という病名で母親の状態を言い表す。


しかし、16時に母親が徘徊に出る理由は実は、幼い息子が幼稚園のバスに乗って帰ってくるのを迎えに行っていたのである。ベテランの介護士がそれに気が付いてからは、「今日は、息子さんは幼稚園のお泊まり会で、帰ってきませんよ。バスも今日は来ませんよ」と伝えるだけで、母親は徘徊をやめた。痴呆症状が出ている老人の世界と、こちら側の世界は、こういった言葉のやりとりによって、「つながる」。双方に苦痛がなければ、痴呆症状は病気ではなく単なる機能低下である。


認知症のケアにあたる人たちの間では、「偽会話」というコミュニケーション形態が知られている。

「主人なんてやっかいなものです。でもいないと困るし……」
「そうそう、うちの息子が公認会計士になりましたんで忙しくてね」
「あら、いいじゃないとっても。浴衣を着ればステキに見えるよ」
「◯◯さん辛かったろうに。いつも△△さんって言ってましたよ」


たとえば、上の会話は支離滅裂である。互いが互いの言葉に応えていないし、何一つ身のある情報がやりとりされていない。でも、この会話のやりとりをしている痴呆老人同士は、「一緒に会話をして楽しい」という気分を共有している。それによってつながり、互いの不安を軽減している。だから、これは一見めちゃくちゃでも、きちんとした「コミュニケーション」なのだ*1

痴呆によって時間や空間が正しく認識できなくなると、老人は不安になる。だけど、その不安を取り除き、状況を理解し、痴呆老人の世界とまたつながることができれば、痴呆症状は出ていても「認知症」にはならない──というのがこの本に書かれているおおよその内容だ。

世界の構築と解体

ところで前回、私は「認知症になった老人が再現する過去とは〈いつ〉なのだろう?」と疑問を抱いていたんだけど、これは当初私が想定していた答えとあまりズレていなかった。認知症の老人が再現する過去とは、「自分がいちばん、世界とのつながりを感じていられた時代」らしい。まあ、すごく平べったくいうとやっぱり「いちばん幸せだった時代」ってことだろう。


いちばん幸せなのは〈今〉でしょ! って私はいつも思っているんだけど、痴呆症状が出て再現した過去が〈今〉じゃなくて〈あのとき〉だったらどうしようって思うし、こりゃ本当にヒヤヒヤものだ。そういうのも含めて老後が楽しみ……なんていったら不謹慎だろうか。ちょっとしたブラックジョークなんだけど。


終末期の痴呆老人をケアしていると、彼らが「この世」と「あの世」が浸透しあった「あわい」の世界にいる印象を受けることがあるという。


人間は生まれると、名前があたえられて、いろいろな言葉やこの世界のルールを覚えて、世界を構築していく。反対に、終末が近づくと、言葉を忘れ、ルールを忘れ、周囲の人との関係を忘れ、自分のことも忘れていく。詩的な表現だけど、著者はこの過程を「土に還っていく」自然なプロセスと書いていて、ああそうかもしれないと思った。


日本だといまいちピンと来ないが、アマゾンの原住民の間では、産み落とされたばかりの赤ん坊は人間ではなく「精霊」だ。母親が抱き上げて、初めて彼/彼女は人間になる。逆の発想で、構築した世界が少しずつ紐解かれて解体に向かっていく──「あわい」の存在になっていくと考えれば、私は痴呆症状をそれほど怖いと思わなくなった。(周囲の人に暴力を振るったりすると嫌だけど)自分の世界がほどけていくことは別に構わない。


まあ、だから、脳トレをやっている人はDSをつんつんするその手を止めて、一度この本を読んでみるといいんじゃないか。DSの脳トレゲームしている人、このブログ読んでないと思うけどさ。

*1:痴呆老人に限らず、こういう「偽会話」みたいなコミュニケーションは女性が本当に得意だなと思う。「中身のないコミュニケーション」をバカにしてはいけない。ちなみに私はこういう会話は苦手で、それがむしろコンプレックスである。

2018年上半期に読んで面白かった本ベスト10

恒例のやつです。今年の1月から6月末までに私が読んだ本の中で、面白かった本10冊のまとめ。SF小説が増えました。

10位 『旅のモザイク』澁澤龍彦

3月末〜4月にかけて南イタリアに行っていたのだけど、旅先の観光スポットはこちらのエッセイを参考にまわっていた。パレルモ郊外の「パラゴニア荘」は本当に行ってよかった。昔のパレルモはかなり治安が悪かったらしい。今はそんなに怖くない(野犬以外は)。


9位 『サピエンス全史』ユヴァル・ノア・ハラリ

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

【感想】『サピエンス全史』×『銃・病原菌・鉄』 - チェコ好きの日記

詳しい感想は前に書いたので割愛。文明の発達により、人類の生活はどんどん豊かに快適になっているのかと思いきや、実はそうとも限らないかもしれないという衝撃。マンモス狩ってた頃と今、私たちが幸せなのはどっちだ。

8位 『生活の発見』ローマン・クルツナリック

生活の発見 場所と時代をめぐる驚くべき歴史の旅

生活の発見 場所と時代をめぐる驚くべき歴史の旅

この本は感想を書きそびれているけれど、かなり面白かったのでおすすめ。「愛」「家族」「感情移入」「仕事」「時間」「金銭」「感覚」「旅」「自然」「信念」「創造性」「死生観」からなる12章で構成されていて、それぞれが時代を経る中でどのように受容され、またその受容が変化していったかを考察している。

たとえば「家族」。私たちは一家団欒といえば、3〜4人の家族でひとつの食卓を囲んで和気藹々と会話を楽しみながら食事している様子を想像する。だけど、その昔イタリアでは、食事中の会話はご法度であったらしい。口数が多いことは利己的であり、信頼できない人というイメージを持たれやすかった。沈黙の時代であった中世を経て、食事の席で会話が楽しまれるようになったのは、18世紀、ロンドンでのコーヒーハウス文化の興隆がきっかけだという。

私たちが「正しい」と思っていることは、実はまったく正しくなんかはなく、歴史もたいして古くない。いろいろな思い込みメガネを外させてくれる良書なので、12章の中に気になるキーワードがあった人には、ぜひ読んでみてほしい。

7位 『地底旅行ジュール・ヴェルヌ

地底旅行 (光文社古典新訳文庫)

地底旅行 (光文社古典新訳文庫)

私はドラえもんの映画の中で『のび太の創世日記』がいちばん好きなのだけど、『地底旅行』はドラえもんにちょっと似ている。『のび太の創世日記』は南極に空いたどでかい穴を降りて洞窟探検に向かうけど、『地底旅行』も、アイスランドレイキャビクから地下世界に降りて行くからだ。

どちらの作品にも共通しているのは「地球の中心は空洞になっている」というかつて信じられていた(?)科学的仮説である。もちろん今はそんなものを信じている人はいないけど、地球の中心に空洞があって、その空洞には地上とは別の世界が広がっている……ってかなり夢があると思う。

6位 『辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦』高野秀行 清水克行

辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦

辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦

彼らは、「選べなかった」のではなく「選ばなかった」 - チェコ好きの日記

ハードボイルドとタイトルに掲げているだけあって、高野さんと清水さんが選ぶ本はどれもアナーキーである。『ゾミア 脱国家の世界史』なんて、読む人が読んだら発狂ものの大変な危険書だ。

5位 『世界最悪の旅─スコット南極探検隊』アプスレイ チェリー・ガラード

世界最悪の旅―スコット南極探検隊 (中公文庫BIBLIO)

世界最悪の旅―スコット南極探検隊 (中公文庫BIBLIO)

STUDIO VOICE vol.412 で「旅にかんするノンフィクション」を紹介しました - チェコ好きの日記

この本は、実は書評を載せていただいたSTUDIO VOICEで紹介している一冊である。イギリスのスコット南極探検隊は、世界初の南極点到達を目指すも、アムンセン率いるノルウェー人たちに見事に破れ、帰途で遭難し隊が全滅。まさしく「世界最悪の旅」だ。

本書は生き絶える直前に書かれた隊員の日記などが載っていて、かなり辛くて泣いてしまった。壊死していく手足、動かなくなった仲間を見捨てて前進を続けるところ(そうしないと自分も死ぬから)、本当に辛い。南極、一度行ってみたいのだけど、想像を絶する世界だ……。

4位 『すばらしい新世界オルダス・ハクスリー

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)

ディストピアな未来を描いたSF小説。作者のハクスリーは生前、仏教やヒンドゥー教の関係者と交流し、自らLSDやメスカリンなどの幻覚剤を服用して実験を行なっていた「ちょっとヤバイ人」である。まあそれはそれとして、『すばらしい新世界』はシェイクスピアの引用があったり、韻を踏んだ言葉がブラックジョークを吐いていたりして、世界観がかなり私好みであった。


3位 『スローターハウス5カート・ヴォネガット・ジュニア

イタリア旅行中に読んでいた本。ヴォネガット自身が体験した第二次世界大戦でのドレスデン無差別爆撃が物語の中心にあり、半自伝的作品だといわれている。ヴォネガットは、自らの体験をもとにノンフィクション的に書くのではなく、トラルファマドール星人の登場する「SF」として物語を作る。なぜならドレスデンでの体験は、自らが語れるもの、意味付けできるものの範疇をゆうにこえてしまっていたから。ストレートに書くよりも、少しずらして書くほうが、真実味と重みが増す。不思議だけど、世の中にはそんなこともあるのだ。

ビリー・ピルグリムが変えることのできないもののなかには、過去と、現在と、そして未来がある」。

過去は変えられない。でも、現在と未来は変えることができる──誰かが言ったそんな楽観的な時間世界を、時間旅行者であるビリーは否定する。人間は無力で、大きくうねる歴史や国家を前にしたら、未来だって変えられない。「そういうものだ」、という言葉がこの小説では何度も繰り返される。

本書を貫いている深い深い「諦念」みたいなもの、もっと上手く言えたらいいなと思うので、そのうちちゃんと感想を書きたい。

2位 『V.』トマス・ピンチョン

めちゃ面白かったけど、謎が多すぎて「ん?」と思っているところ多々。物語の舞台は2つあって、1つはベニー・プロフェインが徘徊する1950年代半ばのニューヨーク。もう1つは、探偵のハーバート・ステンシルが駆け回る第二次世界大戦頃のヨーロッパ。「V.」というイニシャルだけが中心にあって、それらが複雑に絡み合って集約されていく……かと思いきや、なんだかすごく唐突に物語は終わる。

「なんだこりゃ?」という感じなのだけど、それはつまらない作品に抱く「なんだこりゃ?」ではなくて、2回目3回目が読みたくなる「なんだこりゃ?」なのである。

1位 『ソラリススタニスワフ・レム

思い出を愛しているの? - チェコ好きの日記

上半期読んでよかったベスト1位はレムの『ソラリス』。タルコフスキーの映画版『ソラリス』ですでに話は知っていたけど、改めて読んでみると小説のほうがもっと好きかも。

この本をきっかけに認知症に興味が出て、今『「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書)』という本を読み始めたのだけど、これはすごく興味深い。私たちは、私たちの「世界」が正しくて、認知症のお年寄りの「世界」は歪んでいると考えてしまう。だけど、認知症のお年寄りが見ている「世界」もまた私たちと同質の「世界」であり、どちらの「世界」が正しいとか、間違っているとかはない──みたいなことが書いてある(たぶん)のだけど、まだ途中なので、読み終わったらまとめます。

以上

夏は冷房の効いた部屋でアイス食べながら読書するのがいちばんだ。そんな夏ごもりの参考になれば幸いである。

昨年上半期
aniram-czech.hatenablog.com

昨年年間
aniram-czech.hatenablog.com