チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

人に優しくすること

1.

最近になって、自分の書いたものを「優しい」と評価されることが増えた。バカだのアホだのサイコパスだの言われていた頃に比べると、す、すごい進歩だ。


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ただ、では私はバカでアホでサイコパスな人間から、人に優しくできる素晴らしい人間に成長を遂げたのか? と問われると、まったくそんなことはない。せいぜい、炎上したくないから言葉遣いに気を付けるようになったくらいだ。内実は、相変わらずのバカでアホなサイコパスである。あと煽り体質なのも直ってない。プライベートで仲が良い・悪いに関係なくTwitterですぐに喧嘩を売りたくなるし、相手が顔を真っ赤にして喧嘩を買ってくれると嬉しくなってしまう(人間関係に支障をきたすし不毛なので極力やらないけど)。


私は人と会話するのが苦手なんだけど、それは雑談したり場の空気を読んでノリを合わせたり共感したりするのが苦手なのであって、議論は大好きだ。お酒を飲んでまったりするよりは、コーヒーを飲みながら覚めた頭で血で血を洗う本気の議論がしたい。だけどそういう人間は社会ではノーウェルカムなので、私は仕方なく、こうやってブログにブツブツ独り言を書いているのだ。まあそれがきっかけでいろいろな楽しい仕事に関わらせてもらえたり、友達ができたりするんだから、神様インターネット様ありがとう。これからも、このルサンチマンをガソリンに仕事と友達を作る。

2.

「人に優しく」とか、「傷に寄り添う」といった表現に、長く窮屈な思いをしていた。特に女性の書き手には、そういう側面が強く求められている気がして、私は女なのにどうしてそういうものが書けないんだろう……と、悩み迷走していた時期が長かった。というか厳密にいうと、今もなお迷走の最中にいる。


だけど最近、そもそも「優しさ」とは何か、と考えるようになった。もちろん、一般的な意味での「人に優しく」「傷に寄り添う」書き手も、変わらず必要だし、求められ続けると思う。ただそれはもう、私の中では「not my job」かもしれないと、最近思ってきている。

3.

私にとって「優しさ」とは何か。それは、やっと言語化できたんだけど、「フェアであること」だ。


logmi.jp


上の記事では「正義」を「フェアネス」と(佐々木俊尚さんが)言い換えているけれど、私にとっては、「優しさ」が「フェアネス」だ。もちろん異論は認めるけど、それが今のところいちばんしっくりくる、私にとっての「人に優しく」なんだ。


トゲのある言い方をあえてしてしまうけど、「誰かの傷に寄り添う」ことは、一方で「寄り添わない誰かがいる」ということでもある*1

同じ物語を共有しなきゃいけないという話になっちゃうんだけど、それもやりすぎると僕はすごくネガティブな影響が大きいなと思っていて。例えば「アフリカの飢えた子どもがいます。助けなきゃいけない」。これは共感しますよね。「今目の前で死んでいく子どもを助けなきゃいけない」というふうになると、その子どもだけが助かるけど、ほかに苦労している人はみんないなくなってしまう。


例えばテロリズムの文脈で言うと、しばらく前にパリでテロがありました。爆発して人がたくさん死んで、「あんな素敵な美しい都のパリの人が死ぬなんて大変だ!」ということで、世界中で「想いはパリと一緒に」というようなことを言って、フランス人に対してみんなが共感するわけです。でも、その同じ時期にシリアとかで何万人も死んでいたりするわけでしょ。それはいいのかっていう。


共感を中心にしすぎてしまうと、共感されない人が置いていかれる問題というのが必ず起きるわけです。だから、共感だけで物語を語っちゃいけないっていうね。数字とか統計とか、あるいはさっき言ったように嫌いなものでも我慢するというような、そういう別の軸をちゃんと持つことのほうが実は大事であると。


(上の記事から引用。強調はワタシ)


繰り返すけど、一般的な意味の「人に優しく」「傷に寄り添う」書き手も、変わらず必要だし、求められ続けると思う。そういう一般的な意味の優しさは欺瞞だとか、間違ってるとかって言いたいわけじゃない。ただ、私の中では「not my job」であり、そういうことは他の人に任せていいんじゃないかと思った。ハンバーガー屋をやるとしたら、パテを焼く人も、レジを打つ人も、両方必要だ。私は「誰かに寄り添う」と、そこに「寄り添えなかった誰かがいる」ことが、すごく気になってしまう。


togetter.com
(※抽象的な話になっているかもしれないので具体例をあげると、たとえば「トイレで暴行を受けた6歳の女児が子宮全摘になった」という話が本当だったとしてもデマだったとしても、女児が一人でトイレに行くことに危険が伴うこと、また両親(特にたぶん母親)がそのことをすごく心配して不安に思っていることには寄り添わないといけないと思う。だけど、こういった本当かデマかわからない話が行き過ぎた場合、そういう犯罪を犯しそうな、たとえば昼間に一人で公園やスーパーをふらふらしている中高年の男性を排除・攻撃することに繋がらないだろうか。過剰な不安や「寄り添い」は攻撃に転じることがある……ということを私はすごく懸念するタイプの人間なのだ。)


なかなか言語化できずに迷走していたけど、こういう思想が根本にあったから、私は今まで誰の傷にも「寄り添う」ことができなかったんだなと自分で納得した。


私は、人に優しくしようと思う。でもそれは、「傷に寄り添う」というよりは、フェアな人間で居続けられるよう努力することだ。それはもしかしたら、私の書く言葉から温度を奪うし、また冷たくも見えると思う。ある角度から見たら私はやっぱり昔のままのサイコパスだろう。実際、私の人間性はひとつも変わっていない。


ただ、私事ですが、最近「優しいね」と言われることがホント〜〜に増えたんです。なんでかな、別に何も変わっちゃいないんだけど*2。言葉遣いに気を付けるようになったからかな……。「バカが金持ったって使い方知らねーからダメだね」とかそういうことはもう言いません!


もちろん課題はある。フェアネスとは何か。もしくは、フェアであることによる弊害は何か。人に優しくするために、私はそういうことをずっと考え続けなければならない。別にまわりの人に「優しいね」と言われたいわけじゃないから、私のことはこれからもバカでアホなサイコパス扱いでかまわない。


ただ、この世界がフェアであることを、私は強く望んでいる。


aniram-czech.hatenablog.com

*1:誰にも寄り添わないってことは、結局誰にも優しくできないってことでは? という反論もありそうなんだけど、それはちがう。詳しい説明は今回はしないけど、その辺が気になる人はリンク先の対談記事を読んで欲しい。まああと、「政治・思想的態度」とプライベートの人間関係での優しさがあると思うんだけど、私がここで話題にしているのは前者です

*2:私の理論はときに「強者の理論」になりがちで、そこが欠点であることは自覚している。実際、私の根本思想はめちゃくちゃマッチョだ。ただ、フェアな人間でありたいと思うようになってから、欠点を自覚した上で論理展開をするようになった。もしも私に「変わった」「成長した」ところがあるとすれば、この部分かもしれない。

階級社会とスノッブ:『バーニング』と『納屋を焼く』

イ・チャンドン村上春樹の『納屋を焼く』を映画化した『バーニング』を観てきたので、感想メモ。


ちなみにアップリンク吉祥寺で観たのですが、「伊良コーラ」なるクラフトコーラも美味しかったし、「ミニシアター・コンプレックス」というコンセプトも、ミニシアターとシネコンのいいとこどりで好きだなと思いました。


以下、ネタバレをちょっと含みます。

階級社会とスノッブ

まず、イ・チャンドンの『バーニング』と村上春樹の『納屋を焼く』では、細かな設定が少しちがう。『納屋を焼く』では、主人公は30歳の男で既婚。そしてヒロインは知り合いのパーティーで出会った20歳の女の子である。ハタチはこえているのでまあ犯罪じゃないしいいけど、既婚の男が10歳年下の都合のいいガールフレンドを見つけるという点においては、極めて村上春樹的な設定だ。


対照的に、『バーニング』の主人公とヒロインは幼なじみで、年齢はほぼ同い年である。どちらも未婚。そして、村上春樹の原作では彼らの出身地については特に描写がなかったが、『バーニング』の主人公であるジョンスとヒロインのヘミは、対南放送が聴こえてくるくらい軍事境界線が近い農村地の出身である。


『バーニング』でも『納屋を焼く』でも、そんな主人公とヒロインのもとに、ある不思議な男が現れる。原作では「貿易関係の仕事をしている」といい、映画では「遊んでいます。仕事と遊びの境界線がない感じかな」などといっている、何で稼いでいるのかよくわからない、豪華なマンションに住みながら高級車を乗り回すジェイ・ギャツビーみたいな男だ。


原作では、3人はだいたい同じ「クラス」に属す人間たちである。3人とも都会的で、軽薄で、ふわっとしている。だけど映画では、このギャツビーみたいな男・ベンと主人公たち2人は、何というか、属している「クラス」がちがうのだ。カンナム(よくわかんないけど、日本でいうと港区みたいな感じ?)の高級住宅街に住む男と、軍事境界線スレスレの農村地を出身とし今もそこを拠点とするジョンスとヘミ。原作にはない設定だが、私は、イ・チャンドンのこの視点はすごくいいなあと思った。村上春樹は小説においていわゆる「社会的弱者(経済的弱者)」を描かないので、こういった設定が盛り込まれていることがとても新鮮だった。


ハウスメイド (字幕版)

ハウスメイド (字幕版)


特に韓国映画に詳しいわけではないのだけど、少ない私の知識からいうと、韓国映画は「階級社会」を痛感させる作品が多い(多くない?)。私がめっちゃ好きな韓国映画に上の『ハウスメイド』があるのだけど、これも、お金持ちの上流階級の家に田舎出身の貧困層の女がメイドとして雇われるという話である。地方出身者の、経済的に豊かでない者たちの、上流階級への嫉妬、恨み、悔しさ、不条理な思い。映画『バーニング』では、村上春樹の作品では絶対に描かれることがないその視点が、イ・チャンドンによって盛り込まれている。


(ちょっとネタバレになるけれど、そういえば『ハウスメイド』でも、「燃焼」は物語の結末において重要な意味を持つ。虐げられた者たちの怒り、悲しみ、復讐心。『ハウスメイド』でも『バーニング』でも、それが「燃焼」によって描かれている……と考えると、『バーニング』は村上春樹の短編小説を原作としながらも、やっぱりとても韓国映画的だ。)

どっちが好き?

同じ都会生活を送る3人の、ちょっとスノッブで、しかし人生への諦念や虚無感や切なさが描かれている(と思う)『納屋を焼く』。経済的に豊かではない階級の2人と、ギャツビーのように暮らす上流階級の男、両者の間にある越えられない壁とその憎悪と嫉妬と怒りを描いた(と思う)『バーニング』。どっちが好きかと考えると私はどちらもかなり好きで、甲乙つけがたい。そして、「納屋(ビニースハウス)を焼く」というテーマに、そのどちらもがぴったりとハマっている点がとても面白い。焼かれて燃え上がるのは、虚無感の炎と、憎悪の炎だ。


ただ、文筆家(志望)である主人公の好きな作家がウィリアム・フォークナーであるという設定は、『納屋を焼く』よりもむしろ『バーニング』で生きている気がした。アメリカ南部を舞台に、黒人差別や暴力について描いてきたフォークナーを、主人公のジョンスが好んで読んでいるのはものすごくしっくりくる。


韓国映画が描く階級社会ってなんだろう。そんな疑問を残しつつ、個人的には超好みの作品だったので、気になる人は公開が終わる前にぜひ!

螢・納屋を焼く・その他の短編 (新潮文庫)

螢・納屋を焼く・その他の短編 (新潮文庫)

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open.spotify.com

(音楽もとてもよかった)


(そして、私の「ベスト・オブ・放火」が更新されたのであった。火災・放火、あと焼身自殺も好き)

「tayorini」に寄稿しました/雑誌を久しぶりに大量に読んだけど

「tayorini」に寄稿しました

介護等に関するウェブメディア「tayorini」に、認知症についてのコラムを寄稿しました。私と「介護」「認知症」はなかなか結びつきにくいと思いますが、昨年ちょっとだけ、認知症についてブログに書いたことがあった。
kaigo.homes.co.jp
aniram-czech.hatenablog.com

もちろん、いささか精神論的な部分が多いコラムだとは思う。だけど私の主張は以前からあまり変わってなくて、「人に迷惑をかけるな」という思想はあまり良いものを生まないと思っている。

am-our.com

でも今回の旅行、変な言い方ですけど、たくさんの人に迷惑をかけるのがちょっと気持ち良かったんですよね。「助けて」って言ったら意外とみんな、普通に助けてくれます。「困ったことがあってもけっこう何とかなるもんだ」と思いました。イタリアは発展途上国ではないし、このくらいは当たり前でしょうか? まあ考えようによってはそうだけど、「いざとなったら誰かが助けてくれる」という世界観に確信を持つことによって、私の自己肯定感は爆上がりしてしまいました。

大切なのは「人に迷惑をかけない」ことではなくて、「いざというとき人に迷惑をかけてもいいよう普段から徳を積む」こと。もちろん人間関係はgive&takeなので、徳がないと、いざというときでも助けてもらえません。そこは甘くない。異論は認めるけど、私の思想はそんな感じです。

雑誌を久しぶりに大量に読んだけど

以下は日記。


美容院にいるときしか雑誌を読まない星人になってからもう5年くらい経つけど、久しぶりに大量に(10冊くらい)KindleUnlimitedの中に入っているやつを読んでみたらけっこう面白かった。最近こういう情報の浴び方を本当にしなくなったよな、と思った。


「こういう情報の浴び方」というのは、ようは、自分の好き嫌いやアンテナに関係なく向こうから勝手に情報が送られてくるみたいな状態のこと。欲しくない情報の8割は「ゴミ」だけど、2割はやっぱり予想外の良い出会いがあって、ここの2割を失ってしまうとけっこう人間的に貧しくなってしまうんだろうなと思った。私は「ゴミ」が嫌いで、いらないものをすぐに捨てるか売り払う冷酷さがあり(人間関係においても)、部屋が散らからないのはいいことだが、自分のこういうところをけっこう危惧してもいる。本屋大好き勢が多い中でめっちゃ肩身がせまいんだけど、Amazonで買う率が圧倒的に高くて本屋もあまり行かないんだよね。



コルビュジェの建築は(詳しい人に怒られそうだが)なんか学校ぽい・病院ぽい・無機質すぎる気がしてあんまり私の好みではないんだけど、それはそれとして、建築って面白いな。今まで旅先であまり見にいかなかったけど、お目当の建物があれば建築を見よう、と思った。


Pen(ペン) 2018年 4/1 号[一度は訪れたい! 奇跡の建築。]

Pen(ペン) 2018年 4/1 号[一度は訪れたい! 奇跡の建築。]

「わたしのネット」に寄稿しました/コミティア御礼

「わたしのネット」に寄稿しました

「わたしのネット」さんに寄稿した記事が公開になりました。いただいたお題が「インターネット」だったので、最近のSNSで、モヤモヤ〜っとしていたことを書いた。


flets.hikakunet.jp


ちなみに冒頭で取り上げた小説は、ウィリアム・フォークナーの『サンクチュアリ』。私が昨年読んで感銘を受けた小説のひとつである。もっとも、フォークナーは『サンクチュアリ』を「金のために書いた」などと公言しているっぽいのだけど、話の筋がそんなに複雑じゃないので『アブサロム、アブサロム!』とかより読みやすかった。フォークナーは、今年も引き続き何冊か読みたい。


サンクチュアリ (新潮文庫)

サンクチュアリ (新潮文庫)


意地悪なマジョリティと、善良で可哀想なマイノリティ。そんな単純な構造で物事を考えられるわけがなくて、マジョリティが抱える孤立や解消できない不満にも目を向けなくてはならないし、被害者ぶったマイノリティが言葉の暴力を振るっているシーンだって私は見かけたことがある。最近のいろいろな問題が複雑なのは、誰もが強者の一面と弱者の一面をあわせ持っているからだろう。どちらか一方だけ、なんて人はいない。弱者の声は、広くいろいろな人に届かなければいけない。一方で、自分の加害者性に無自覚な人が多すぎるんじゃないか。上のコラムでは、そういうことを書いたつもりだ。

コミティア御礼

そして、2月17日は東京ビッグサイトにて開催されていたコミティアに出展していたのだけど、告知が直前だったにも関わらず、来てくれた方々本当にありがとうございました。差し入れは美味しくいただきました……。


終わったあとは近隣のお店で打ち上げ(といいたいところだが、みんな朝早かった上に腹が減っていたので、酒飲みも酒はそんなに飲まず、がっつり米を食べていた)をしたのだけど、そこで次回作品の構想の話に。私は「火が燃える描写が好きなので、放火のシーンが書きたい!!! ラストで放火するための物語を書いている」と熱弁した。オサナイさんに「チェコさんは、死にたくないとか、エロとか暴力とか、火が燃えるとか、原始的な欲求が強いですね……」と言われ、あ、そうかも、と思った。東京のIT企業で働いたりしてすっかり現代人のフリをしているけれど、私の感性はすごく原始人的なところがある。原始人だから、法もないし、ルールもないし、倫理もないし、孤独もそんなにない。放火は現代の感覚でいうともちろんダメなことなんだけど、たぶん私の物語の中の人物は、そういう「現代の感覚」をとびこえて、ただ自分の美的感覚のためだけに、公共物に火をつけて燃やしてしまうのだ。


上にあげた『サンクチュアリ』も、コラムの冒頭に書いた通り、冤罪で投獄された白人男性を火あぶりにしてリンチするとても残虐なシーンがある。だけど、誤解を恐れずにいえば、私はこのシーンがけっこう「好き」なのだ。燃えてるから。炎は美しい。金閣寺を燃やすのも好きだし、あとは『月と六ペンス』でストリックランドの絵画に火が放たれるシーンなんかは私の「ベスト・オブ・放火」である。タルコフスキーの『ノスタルジア』にある焼身自殺のシーンも好きだし、ていうか焼身自殺の描写がある映画たいてい好きだね。もう一度いうが、炎は美しいのだ。


月と六ペンス (新潮文庫)

月と六ペンス (新潮文庫)

ノスタルジア [DVD]

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しかし、ここで「じゃあキャンプ行く? キャンプファイヤーやる?」とか誘われるとテキトーな理由をつけてたぶん断る私でもある。ちがう、ちがうんだ。そんなのは炎とは言わない! 本来の火とは、人間にコントロールできないものだ。おそろしいものだ。そういう炎が私は好きなんだ〜〜〜!!!


というわけで、この「放火が書きたくて作った物語」も、いつかお見せできる日が来ると思われる。昔、生前の若松孝二が「俺は警官が嫌いだ。映画の中でなら、警官をいくらでも殺せる。俺は警官を殺したいから映画監督になった」と言っていたが、私も放火がしたいがマジに放火すると捕まるので、仕方なく小説を書くのである。


「創作メルティングポッド」は現在、イベント出展以外にも活動を検討しているので、また何かお知らせすることがあると思います。我々の小さなサークルを今後も暖かい目で見守ってください……マジの放火はしないので……

2/17(日)コミティア【て50b】で出展します。テーマは「百合」!

もうちょっと前に告知すればよかったかな……? と後悔しつつ、今週末ですがコミティアで出展します。メンバーは、昨年文学フリマに出た「創作メルティングポッド」の5人。私以外は、立花実咲さん、あとーすさん、ミキオサナイさん、御旅屋琥珀さんです。



そう、テーマは「百合」……! 百合ってなに? という人はたぶんいないと思いますが、詳しい説明はnoteに(オサナイさんが)書きました。私は、嫉妬と憎悪が入り混じったエロい百合を書いてみたよ! ずっとこういうことが書きたかったんだよね〜〜


note.mu


たぶんだけど、私が書く小説は、暴力やエロの描写が今後もっと増えていくんじゃないかと思う。それはもちろん、私自身が誰かをリンチしたい欲望があるとか、エロいとか、そういうこととはあまり関係ないのだけど、なんだろう、もっと原始的な人間の欲望に興味があるのかもしれない。お金が欲しいとか、彼氏が欲しいとか、結婚したいとか、インフルエンサーになりたいとか、そういう欲望だってたいして綺麗じゃないけど、そんなレベルじゃない、もっと深いレベルの人間の汚さに興味があって、でもそれはブログやコラムでは書きにくいから、小説で書いていこうかなと思っている。まああと、誤解を招く発言だが、映画でも小説でも、単純に過激な描写がけっこう好きなんですよね。学生時代に渋谷の名画座でピンク映画を1日3本くらい観ていたので、だいぶ感覚が麻痺しているのかもしれない(いいことではないです)。




今年もまたこうして創作活動を行えることになって、今はまだ「趣味です」の範疇を出ないけど、改めて小説書くの楽しいなと思ってます。お近くの方は、ぜひ遊びに来てくださいね!



aniram-czech.hatenablog.com