チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

私が好きな女の子

日記

「年齢による体の変化」みたいなものを、幸か不幸かあまり感じていない。腰痛気味なのだけど肩こりは小学生のときからあったし、肌の調子は曲がり角どころか今が人生でいちばんいい。食べる量も食べ物の好みも変化なし。高カロリーなものは昔からずっと苦手だったし、少食なので「給食でのお残し禁止」だった90年代の学校文化には恨みさえ抱いている。だからなんとなくこの感じのまま歳をとり続けるのだろうと錯覚しているところがあるが、もちろんそんなわけにはいかないのだろう。


ソースを完全に忘れたので引用はできないのだけど、多くの人は「ポックリ」死ぬことを望んでいるらしい。そりゃ、気持ちはわかる。誰も、弱っていく自分、体の自由が利かなくなる自分、寝たきりになってしまう自分なんて見たくないだろう。亡くなる前日までハキハキ動いて意識もしっかり、そしてある日突然ポックリ逝く。だけど現実は理想のとおりになんていくはずはなく、ガタがきている体を修復し修復し、徐々に徐々に悪くなっていくのを体感しながら死ぬのだろうな。なんとなく今週はずっとそんなことを考えていたのだけれど、別に気分がふさぎこんでいるわけではなく、これが私の通常運転だ。

今週読んだ本

杳子・妻隠(つまごみ) (新潮文庫)

杳子・妻隠(つまごみ) (新潮文庫)

古井由吉は実は初めて読んだ。

虞美人草

虞美人草

そして夏目漱石の『虞美人草』は何回目かの再読である。私は夏目漱石の中ではこれがいちばん好き。というか海外文学ばかり読む人間なので、素直に心の底から「好き」と言える日本の小説はこれが唯一かもしれない(村上春樹などは好きだけどいろいろ複雑な感情を孕んでいるので……)。『虞美人草』はまず文章が極限まで洗練されていてとても美しいのだけど、なんといっても、この小説のヒロインである藤尾という女性が魅力的なのだ。


3月に少人数で行なったイベントで、それぞれが「魅力的だと思う女の子」について話したのだけど、私はそこで山崎ナオコーラの『人のセックスを笑うな』に登場した「ユリ」をあげた。映画だと松山ケンイチと不倫する永作博美である。あともう一人、語らせてもらえればよかったなあと読んでいて思い出したのが、この『虞美人草』の藤尾である。


人のセックスを笑うな

人のセックスを笑うな



主人公の小野さんは、恩師の娘でもある小夜子という許嫁がいる。だけど真面目で地味な小夜子よりも、インテリで頭の回転が早く会話も面白い・おまけに美人である藤尾にどうしようもなく惹かれ……というのが『虞美人草』のすごい大まかなあらすじなのだけど、夏目漱石の筆が凄まじいので、藤尾の匂い立つような色気と魅力が行間から溢れ出ている。


「ユリ」と「藤尾」の共通点を無理やりあげると、まずは2人とも、決して若くはない。ユリは39歳だし、藤尾は24歳だけど明治時代で考えると「いきおくれ」に該当する年齢である。ユリも藤尾も周囲の男を翻弄するのでまあモテるのだけど、いわゆる(?)女子力やゆるふわ力でモテているのではなく、知性や自立心に裏付けられた芯の強さでモテている。そして、型にとらわれず自由だ。まあ、遠回りな言い方になったけど、ようは2人とも私の憧れの女性なのである。私はこんないい女にはなれないけどな……! 『虞美人草』についても、どこかでちゃんと書く機会があればいいのだけど。


ところで、来月上旬の読書イベントでお話しする予定の本はもう決まっています。まだ申し込み受付中のはずなので、お時間のある方はぜひ遊びにきてください。

aniram-czech.hatenablog.com

7月6日(土)東京読書サミット#4 でゲストとしてお話します。

タイトルのとおりですが、久々にイベントのお知らせです。7月6日(土)、私の好きな本について、思う存分お話させてもらう予定です。

Facebookページ
www.facebook.com

Peatixページ
tokyo-book-summit.peatix.com


会場はスマートニュース2Fのイベントスペースなので、スマートニュースの楽しい本棚を見るためにもぜひ遊びに来てみてください。お話する予定の本は、もう決まっている! 私、片瀬チヲルさん、小池みきさん、全員が系統バラバラの本を紹介するので、飽きないのではないかと思います。


q.smartnews.com

日記

最近ブログを書く時間があまりないのですが、これはどうしたんだろうな……怠慢か。怠慢ですね。思いついたり考えたりすることはたくさんあるのだけど、それを人にお見せできる形にまで、文章化する体力がないみたいな感じ。途中で「あれ、何が言いたかったんだっけ?」となってしまう。特に最近は、オープンな場で迂闊なことを書くと怒られてしまうというのもあり。まあ、私自身がとても思想的に偏っているし、迂闊な人間であるということなんですが……。

今週読んだ本

ヘイト・スピーチとは何か (岩波新書)

ヘイト・スピーチとは何か (岩波新書)

ストーカーとの七〇〇日戦争

ストーカーとの七〇〇日戦争

ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実 (講談社現代新書)

ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実 (講談社現代新書)

『きりこについて』は女性の容姿に関する小説で、ルッキズムについて気になっているので読む。『ヘイトスピーチとは何か』は、仕事の都合で読む。『ストーカーとの七百日戦争』は、内澤旬子さんのTwitterを見ていたら面白そうだったので。『ふたつの日本』は、ブエノスアイレスを旅してから、タンゴと関連して「移民」について気になっているので読んでみた。まとまった文章としては、おそらく外部のメディアで書くことになるとおもいます。

経験が邪魔をする

今週分は軽い日記。

2019.6.7 現代アメリカ政治とメディア

現代アメリカ政治とメディア

現代アメリカ政治とメディア

先月から読んでいる『現代アメリカ政治とメディア』をまだ読んでいる。なぜ2016年の大統領選挙でトランプが勝利したのか、断片的にはいろいろな記事を読んで知っていたことだけど、改めてデータとしてまとまっていると面白い。アメリカのメディアの状況が細かくわかり、日本と比べたりできるので興味深い1冊だと思う。


あちこちでちょこちょこ小出しに書いているが、私は一時期「夜のお仕事」をやっていた。そこで、普段ならまず会うことはない「ネトウヨ」のおじさんと出会ったことが、わりと良い(良い?)体験というか、印象的な出来事として記憶されている。彼はトランプの支持者でもあり、私に「メディアを信じるな」と言った。私はライター以外にメディアに関わる仕事をしているので、信頼に足るメディアとは何か、彼らがなぜ中立的な情報を「フェイク」と思うのか、どのような鬱憤が溜まっているのか、韓国を批判することで何を得ているのか、生身の「ネトウヨ」に会ったことでものすごく考えるようになった。このことは、いつかまとまった文章として書く機会を作りたい。そうしたら、夜のお仕事とメディアのお仕事とライター業がコラボレーションできる(!)。

2019.6.8 ゾディアック

デヴィッド・フィンチャーの『ゾディアック』を観る。『ゾディアック』は殺人シーンがなかなか残虐であり、手足を縛られた状態でナイフで滅多刺しにされるシーンで「あーあーあー痛い痛い痛い!!!」と思って3時間くらいトラウマになった。滅多刺しにされて泣き叫ぶ恋人を、同じく手足が縛られた状態で男は黙って見ているのである。


が、私のトラウマ映画といえば岩井俊二の『ヴァンパイア』だ。死体愛好家の殺人犯が殺した女とセックスするシーンがあるのだけど、これを上回る作品にはいまだに出会えていない。いや、出会わなくていいんだけど。


2019.6.9 経験が邪魔をする

今、また小説を書いている。秋の文フリで出す予定のものだ。文フリについては、今年2月のコミティア同様「創作メルティングポッド」で1冊本を作る予定なのだけど、近くなったらまたお知らせしようと思う。特に編集者が待っているわけでもない文章を書くのはすごく孤独な作業なので、小説を書き続けていられるのはこのサークルのメンバーのおかげだ。


ところで、コミティアの短編のテーマが「百合」だったので、私はノンケの女性同士でありながら惹かれあってしまう奇妙な女友達の関係を書いた。一方、今回は男女の恋愛を書きたいと思っていたのだけど、これがどうも筆が進まない。そこで、設定の一部を変更し、またも「女同士」を描くことにしたら、自分でも驚くくらい物語がすらすらと進んでしまった。


この現象がなんなのか上手く説明できない。たぶんだけど、男女の恋愛を書くときは、経験が逆に邪魔をしているというか、「こんなセリフ気持ち悪いんじゃないか」などという自己検閲が無意識に働いている気がする。あと単純に、女性は服装についてもメイクについても描写がしやすいのかもしれない。「この子はきっとイブ・サンローランのリップを使っている」「この子はきっとSUQQUのアイシャドウを使っている」とか、そういうディティールを決めると人物がくっきり浮かび上がってくるので、物語が動かしやすくなる。男性についても、これを決めるとキャラが立つ、みたいな何かが見つかるといいのかもしれない。女性はメイクを決めるとキャラが決まる。

2019.6.10 歯医者と整骨院

この日は休みだったので、歯医者と整骨院に行った。整骨院では体のどこが歪んでいるのかを詳しく教えてもらい、結果「筋トレをしろ」と言われた。筋トレと英語学習は私が何度もちゃんとやろうと思い何度も継続に失敗している二大巨頭である。「明日から頑張る」をまじで2年間くらいずっと思っている気がする。

2019.6.11 またも吉本ばなな

写真家さんにインタビューをする。この原稿は全体公開はされないので多くの人にはお見せできないが、インタビューは「口下手な私が根掘り葉掘り聞くことを許される時間」という感じでわりと好きだ。


インタビューの詳細はどうせお見せできないので書かないが、途中でまた吉本ばななの話をしてしまった(私が)。宗教なのか、スピリチュアルなのか、フロイトユング的な無意識の何かなのか、恋愛なのか、そういう微妙なバランスの上で成り立っていたところが吉本ばななの魅力だったのに、ある時期から吉本ばななは一気に"スピ"に移行してしまった。そして私はそのことにものすごい反発を覚えた。何が彼女をそうさせたのか、それによって彼女の文学から何が損なわれたのか、私はいろんな人と繰り返しこのことを話している。おしゃべりしていると燃えるテーマなのである。


そういえば、三宅香帆さんも寄稿している「ユリイカ」の吉本ばなな特集をまだ読んでいないことを思い出し、この日、ポチった。

2019.6.12 流言のメディア史

流言のメディア史 (岩波新書)

流言のメディア史 (岩波新書)

『流言のメディア史』を読み終わる。「フェイクニュース」はSNS時代の専売特許のようだが、昔からデマや誤報はあったよーというのが主な内容だ。関東大震災朝鮮人虐殺事件とかがそれである。だけど、「真実みたいな嘘」と「嘘みたいな真実」がますますわかりにくくなっているのが現代であるように思う。


小説を書いているときに「嘘だから真実が書けるんだよ」という言葉を思い出す。対して、エッセイやコラムを書いているときに思い出すのは「真実だから嘘が混ざるんだよ」という言葉だ。これはまあメディアの話のようでメディアの話ではないんだけど、嘘と真実は白黒はっきり分けられるものではない。善と悪も白黒はっきり分けられるものではない。「あちら」と「こちら」も、境界線は曖昧だ。生と死だって曖昧だ。私はどちらかに振り切りたくなるのをぐっとこらえて、この灰色の世界を生きていきたいと思う。

「SUUMOタウン」「スマQ」などに寄稿しています/"人間味がない"コンプレックス

4〜5月に書いていた記事が公開になりました。

SUUMOタウン

suumo.jp


気が付いたのだけど、私は自分が「非人」なのではないか……ということへのコンプレックスがものすごいあるみたいだ。お酒は飲まないし、食に興味がないし、SUUMOタウンに書いたように住んだ街に愛着を持つこともない。コンプレックスがひどいので、部屋がわりと片付いていることも、無駄な持ち物を持っていないことも、衝動買いをしないことも、そういった一般的には美点とされるはずのことでも、「人間味がないってことなんじゃないか?」と悩んでいたりする。だけど、「人間味がない」ことで悩む私はとても人間味があるじゃないか! ということで、最近は自分の中でお茶を濁している。


お酒を飲んでグデングデンに酔っ払った勢いで思い切ったことをしてみたり、美味しいものを食べにいろんなところに出かけたり、住んだ街に愛着を持っていろんなお店を紹介できたり、衝動買いでわけのわからない置物を買ってみたり、クローゼットがパンパンになるくらいに服を買ってしまったり。もしかしたら、そういう人間になってみたかったのかもしれない。でもしょうがないから、今世では、トマス・ピンチョンの小説を読んだり、いきなり南米に行ったり、申し訳程度に部屋に花を飾ったり、そういう人間として生きている。暗っ!!! まあいいか。


note.mu


ちなみに、「衝動買いができない仲間」として、友人ライターの小池みきさんがいる。2人でブエノスアイレスの蚤の市を練り歩いているとき、「心のときめきに従ってその場でモノを買うことがどうしてもできない」という悩みを告白しあった。そういう人は私だけじゃなかった……というわけで少し安堵。衝動買いができない同士で衝動買い以外の手段を封じられたブエノスアイレスの蚤の市を歩くという体験、なかなか思い出深いものになった気がする。


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スマQ

q.smartnews.com


もう1つ公開になったのがSmartNewsのオウンドメディア「スマQ」でのインタビューしたもの。オウンドメディアは厳しいと今けっこう逆風が吹いているけれど、「スマQ」には今後も関わっていく予定である。


SmartNewsの本棚はいつ見てもわくわくするし、世界の広さと深さを思う。本棚の前に立つと「私、生きてる!」と感じることができるので、人間味を読書に賭けていくしかない……!

「あの頃は本当に楽しかった」と語るパタゴニア原住民のこと(後編)

前編はこちら。アルゼンチン・チリのパタゴニア地方について書いている途中である。

aniram-czech.hatenablog.com

「一人ぼっちで闇の中に放り出されたとき、大切なのは焦らずに、まず心に大きな白地図を描くこと。そこに知識をひとつずつ当てはめていく。そして自分の思った方角の闇へ、一気に漕ぎ出す。ありったけのエネルギーをつぎ込んで。絶対にその先に自分の場所がある、と信じてイメージするんだ。もしそのイメージが崩れたら、きっと遭難してしまうだろう。信じること。そこにあることをただまっすぐ、信じるんだ」

プエルト・エデンの先住民であるカワスカル族は、海洋に生きる民だった。今は血を引いている人がどれくらいいるのかわからないけど、「海」を正確に読む力を、彼らは幼い頃から叩き込まれているという。知識なしでは航海できないが、知識だけでも航海できない。もしも真っ暗闇の海へ一人、放り出されてしまうようなことがあったら、そこからいかにして遭難せずに生還するか。カワスカル族の血を引くリンチェという男は、上のように語ったらしい。


勇気が出る言葉でもあるが、これは理にかなってもいる。人間の脳は、パニック状態になって混乱に陥ったとき、もっともエネルギーを消費してしまうのだそうだ。もしも海で遭難してしまったとき、生還に必要なのは行く先をひとつ決めて、後は余計なことは考えないことである。信じて、ただ真っ直ぐに進む。もちろん闇雲に勘を信じるのではなく、持っている知識と知恵を総動員して。それが生還への最短距離だ。


これが人生への何がしかの比喩に感じられるのは、きっと私だけではないと思う。


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話は変わって、プエルト・エデンよりももっと南、フエゴ島にかつて住んでいたセルクナム族について。彼らは「ハイン」と呼ばれる儀式を行なっていたそうなのだけど、そのハインの際に、珍妙なボディペイントを施していたことでよく知られている。赤と白の縞々だったり、ドットだったり。ウルトラマンに登場する怪獣のモデルに、なったとかなってないとかって話もある。


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ハインはセルクナム族の神話をなぞらえていて、例の珍妙なボディペイントはその神話に登場する精霊を模している。いろいろな登場人物(精霊)がいるのだけど、私にとって特に印象的だったのが、サルペンという女の精霊である。


彼女は大食漢で、またものすごい男好き。お腹が空きすぎたとき、あるいは男がセックスに応じなかったときは男の肉を貪り食ってしまうため、不気味な精霊としてとても怖れられていた。だけど彼女の子供である赤ん坊の精霊クネルテンはすごく可愛らしくて、みんなに愛されている。この矛盾が、なんというか、神話っぽいなーと思う。そしてサルペンは、地下世界の住人でもある。怪物のような怖ろしい女が地下世界にいる……ってのは日本の神話とも通じる部分があるけれど、こういうのってやっぱり人類の普遍的な感覚なのだろうか。


ハイン 地の果ての祭典: 南米フエゴ諸島先住民セルクナムの生と死

ハイン 地の果ての祭典: 南米フエゴ諸島先住民セルクナムの生と死


サルペンほど怖ろしくはないが、男好きの精霊は他にもいる。クランは一妻多夫制、たくさんの夫を持つ女の精霊だ。クランはそのへんの男をとっ捕まえて、天に連れていってセックスしてしまう。クランに捕まると為す術がないので、男も、またその妻もただ従うばかり。


……と、セルクナム族の祭典「ハイン」は、なんだか多分に性的なのである。私がヤラシイところを抽出して書いているわけではなく、祭典自体が生々しい。セックスする、食べる、食べられる、殴る、泣き叫ぶ、大笑いする。儀式とはいったけれど、市長さんのお話を聞いてウトウトしているような日本の成人式とはワケが違い、すべての動作がマジなのである。


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※ウシュアイアにある「世界の果て博物館」

「それにしてもなんでみんな私のことをいつも悲しそうだ、と言うのかしら? 私が昔を懐かしんでいろんなことを思い出しているからでしょうね。良いことも悪いことも。悪いことの方が多かったけどね」


両親がセルクナム族だった最後の人々の一人であったビルヒニア・コニンキは、最期の言葉の一部で上のようなことを語っていたという。彼女はパタゴニア本土やブエノスアイレスで女中として働き、最期は先祖の地でその生涯を終えた。


他にも、人類学者が実際のハインに参加したことがあるセルクナム族に取材をすると、「あの頃は本当に楽しかった」と彼らは儀式を懐かしんだらしいのだ。セックスする、食べる、食べられる、殴る、泣き叫ぶ、大笑いすることを、それらを本気でやることを、彼らは楽しんでいたのだ。


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だけど純血のセルクナム族はもうこの世にはおらず、このハインという儀式も今は行われていない。数点の写真と資料が残るのみで、この豊かな神話を持った民族は永久に失われてしまった。ウシュアイアまで行っても、もう彼らのことは博物館にある資料でしか知ることができない。


博物館で彼らの写真を眺めていて不思議だったのは、ユーラシア大陸からベーリング海峡をわたり南米大陸へと移住した彼らの祖先がモンゴロイドだったため、セルクナム族が私たちと同じアジア系の平べったい顔をしていることだ。アルゼンチンは、日本から見るとほぼ地球の裏側である。こんなに遠いところに、私と祖先を同じくする民族が住んでいたんだなあ……と考えると、自分がとても大きな歴史の渦の中にいる、という感覚に陥る。彼らの豊かな神話が失われてしまったように、いつか私自身も、私の記憶も思想も、私のことを知っている人たちも、永久にこの地上から去るときが来るのだろう。それはとても悲しいことだ。だけど同時に、私に深い安堵をもたらすものでもある。


旅行記としてブログに書くのはここでいったん区切りなのだけど、今後も思い出したらなんかいろいろ書くかもしれないです。