チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

「マイナビ学生の窓口」で冒険(たび)に出たくなる本5選を考えました。

こちらの記事が8月末に公開されています。5冊ともお気に入りの本ばかりなので、よかったらチェックしてみてください。

gakumado.mynavi.jp

以下は、こちらの記事のあとがき的な内容です。

旅ができない時期の冒険(たび)

長期休暇といえば旅だけど、今年は海外に行くのは無理だし、というか風の噂によると奥多摩がめちゃ混んでいるらしい。まあわかる、私も奥多摩に行きたいよ! 


そんな状況で「冒険(たび)に出たくなる本」を選ぶのはなかなか難しかったのだけど、永遠にこの状況が続くわけじゃないし(と信じたい)、旅に出られない今だからこそ読書で冒険(たび)に出る、というコンセプトはむしろアリなのでは? と考えながらこの5冊を選んだ。結果、ニューヨークが舞台のエッセイ、トルコが舞台のノンフィクション、チベットやシリアを旅するエッセイ漫画、パプアニューギニアが舞台の漫画などなど、偏りなしにバラバラな土地の本をチョイスしてしまった。とはいえ、「ここではないどこか」に行くだけが冒険(たび)ではないってことで、ゾンビの本がなぜか入っているのはそういう理由もある。


旅行に行かずして「家」の中のことを考えるのもまあ嫌いではなくて、「家具」と「食」について考える本はAMのほうで紹介している。家具は、本当はFLOSの照明とかが欲しいけど経済力に限界があるので、発酵食品とかに凝って遊んでいます……。


am-our.com


(※これは8月末に出た本なのでAMの中では触れられなかったけど、安定の高野秀行さん。食文化をたどるのは楽しい。「食に凝る」となると料理をするのではなく「食文化の本を読む」という方向に走る私です)



一部有料なのですが、最近コラムや日記的な内容はnoteに書くようになっています。でもAmazonリンクの書影が貼りやすいのでブログにはブログの良さがある。


note.com


2020年ももう残すところ数ヶ月ですが、この残りの数ヶ月で私はアメリカ文学研究(独自)をやろうと思っているので、またブログはお知らせ以外でも更新する予定です。

「あの頃は本当に楽しかった」と語るパタゴニア原住民のこと(後編)

前編はこちら。アルゼンチン・チリのパタゴニア地方について書いている途中である。

aniram-czech.hatenablog.com

「一人ぼっちで闇の中に放り出されたとき、大切なのは焦らずに、まず心に大きな白地図を描くこと。そこに知識をひとつずつ当てはめていく。そして自分の思った方角の闇へ、一気に漕ぎ出す。ありったけのエネルギーをつぎ込んで。絶対にその先に自分の場所がある、と信じてイメージするんだ。もしそのイメージが崩れたら、きっと遭難してしまうだろう。信じること。そこにあることをただまっすぐ、信じるんだ」

プエルト・エデンの先住民であるカワスカル族は、海洋に生きる民だった。今は血を引いている人がどれくらいいるのかわからないけど、「海」を正確に読む力を、彼らは幼い頃から叩き込まれているという。知識なしでは航海できないが、知識だけでも航海できない。もしも真っ暗闇の海へ一人、放り出されてしまうようなことがあったら、そこからいかにして遭難せずに生還するか。カワスカル族の血を引くリンチェという男は、上のように語ったらしい。


勇気が出る言葉でもあるが、これは理にかなってもいる。人間の脳は、パニック状態になって混乱に陥ったとき、もっともエネルギーを消費してしまうのだそうだ。もしも海で遭難してしまったとき、生還に必要なのは行く先をひとつ決めて、後は余計なことは考えないことである。信じて、ただ真っ直ぐに進む。もちろん闇雲に勘を信じるのではなく、持っている知識と知恵を総動員して。それが生還への最短距離だ。


これが人生への何がしかの比喩に感じられるのは、きっと私だけではないと思う。


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話は変わって、プエルト・エデンよりももっと南、フエゴ島にかつて住んでいたセルクナム族について。彼らは「ハイン」と呼ばれる儀式を行なっていたそうなのだけど、そのハインの際に、珍妙なボディペイントを施していたことでよく知られている。赤と白の縞々だったり、ドットだったり。ウルトラマンに登場する怪獣のモデルに、なったとかなってないとかって話もある。


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ハインはセルクナム族の神話をなぞらえていて、例の珍妙なボディペイントはその神話に登場する精霊を模している。いろいろな登場人物(精霊)がいるのだけど、私にとって特に印象的だったのが、サルペンという女の精霊である。


彼女は大食漢で、またものすごい男好き。お腹が空きすぎたとき、あるいは男がセックスに応じなかったときは男の肉を貪り食ってしまうため、不気味な精霊としてとても怖れられていた。だけど彼女の子供である赤ん坊の精霊クネルテンはすごく可愛らしくて、みんなに愛されている。この矛盾が、なんというか、神話っぽいなーと思う。そしてサルペンは、地下世界の住人でもある。怪物のような怖ろしい女が地下世界にいる……ってのは日本の神話とも通じる部分があるけれど、こういうのってやっぱり人類の普遍的な感覚なのだろうか。


ハイン 地の果ての祭典: 南米フエゴ諸島先住民セルクナムの生と死

ハイン 地の果ての祭典: 南米フエゴ諸島先住民セルクナムの生と死


サルペンほど怖ろしくはないが、男好きの精霊は他にもいる。クランは一妻多夫制、たくさんの夫を持つ女の精霊だ。クランはそのへんの男をとっ捕まえて、天に連れていってセックスしてしまう。クランに捕まると為す術がないので、男も、またその妻もただ従うばかり。


……と、セルクナム族の祭典「ハイン」は、なんだか多分に性的なのである。私がヤラシイところを抽出して書いているわけではなく、祭典自体が生々しい。セックスする、食べる、食べられる、殴る、泣き叫ぶ、大笑いする。儀式とはいったけれど、市長さんのお話を聞いてウトウトしているような日本の成人式とはワケが違い、すべての動作がマジなのである。


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※ウシュアイアにある「世界の果て博物館」

「それにしてもなんでみんな私のことをいつも悲しそうだ、と言うのかしら? 私が昔を懐かしんでいろんなことを思い出しているからでしょうね。良いことも悪いことも。悪いことの方が多かったけどね」


両親がセルクナム族だった最後の人々の一人であったビルヒニア・コニンキは、最期の言葉の一部で上のようなことを語っていたという。彼女はパタゴニア本土やブエノスアイレスで女中として働き、最期は先祖の地でその生涯を終えた。


他にも、人類学者が実際のハインに参加したことがあるセルクナム族に取材をすると、「あの頃は本当に楽しかった」と彼らは儀式を懐かしんだらしいのだ。セックスする、食べる、食べられる、殴る、泣き叫ぶ、大笑いすることを、それらを本気でやることを、彼らは楽しんでいたのだ。


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だけど純血のセルクナム族はもうこの世にはおらず、このハインという儀式も今は行われていない。数点の写真と資料が残るのみで、この豊かな神話を持った民族は永久に失われてしまった。ウシュアイアまで行っても、もう彼らのことは博物館にある資料でしか知ることができない。


博物館で彼らの写真を眺めていて不思議だったのは、ユーラシア大陸からベーリング海峡をわたり南米大陸へと移住した彼らの祖先がモンゴロイドだったため、セルクナム族が私たちと同じアジア系の平べったい顔をしていることだ。アルゼンチンは、日本から見るとほぼ地球の裏側である。こんなに遠いところに、私と祖先を同じくする民族が住んでいたんだなあ……と考えると、自分がとても大きな歴史の渦の中にいる、という感覚に陥る。彼らの豊かな神話が失われてしまったように、いつか私自身も、私の記憶も思想も、私のことを知っている人たちも、永久にこの地上から去るときが来るのだろう。それはとても悲しいことだ。だけど同時に、私に深い安堵をもたらすものでもある。


旅行記としてブログに書くのはここでいったん区切りなのだけど、今後も思い出したらなんかいろいろ書くかもしれないです。


愛が暴走するカトリック系テーマパーク「ティエラ・サンタ」in ブエノスアイレス

4月にアルゼンチンとチリに行っていたことはすでに書いているけれど、今回はその中でも、ブエノスアイレスにあるカトリック系テーマパーク(という名称はたぶん存在しないが、そうとしか呼びようがないので)「ティエラ・サンタ」について個人的メモを兼ねて記録。ちなみに「ティエラ」はスペイン語で「地」、「サンタ」は「聖なる」なので、聖なる地……つまり英語でいうと「Holy land」です。Googleマップで見ると「Holy land」で出てくることがある。最初地図で見たとき「Holy landて!!!」と思ってしまいました。


こういうノリで、日本人的感覚からするとちょっとfunnyなテーマパークではあるのですが、かなり真面目に作られてもおり、決して現地の人は冗談でやってるわけじゃないというのはわかった。実際、テーマパーク内には各展示の側にかなりしっかりとした説明書きが並んでいました(全部スペイン語でまったく読めなかったが)。


日本に帰ってきてから敷地内でもらった英語パンフレットを読み直したのだけど、ここは、愛が溢れすぎるあまりちょっとfunnyになってしまっているが、キリスト教カトリックについて考える上でとてもinterestingな場所であるとも再認識しました*1


場所はここ。ブエノスアイレスの中心部からはちょっと外れている。バスで近くまで行き、あとはもうどれにどう乗ったらいいのかわかんなかったので、流しのタクシーをつかまえて行きました。ブエノスアイレスのバスは難しいんだよ……!



外国人観光客向けにはあまり作っておらず、あくまで現地の人用のテーマパークであるという印象(もしくはアルゼンチン以外のラテンアメリカの人用)。現地の人って具体的には誰が行くのかというと、幼稚園〜中学生くらいの集団を何組も見たので、おそらく社会見学的な何かに使われている施設と見た*2*3。ちなみにアルゼンチンは国民の74%がカトリック信者、その他はプロテスタントユダヤ教イスラム教など。


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(※入り口で見かけたブエノスアイレスのキッズたちと引率の先生。こういう集団を何組も見ました)

園内の地図(パンフレットより)


すみません小さくてわかりづらいですよね。別に大きくしてもわかりやすくはないんですが、ざっくりいうと、上の図でいう左側が入り口で、入るとすぐにあるのが旧約聖書の世界です。神が「光あれ」というところから始まり、アダムとイブが蛇にそそのかされてリンゴを食べちゃったり。そこから受胎告知のシーンがあり、このコーナーの最後にベツレヘムイエス・キリストが誕生します。そこから、門をくぐって本格的に新約聖書の世界に入る。


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(※動物の作りが細部までしっかりしているので、ガチ度が伝わる)

新約聖書コーナー

新約聖書コーナーも聖書の記述にたぶんわりと忠実に展示が進むのだけど、私は聖書については名場面しか知らないので、これが何のシーンなのかとかはあまりわからず。下の写真は、「イエスエルサレムに来た!」みたいな感じ???


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これはまじで何のシーンなのかわからず。スペイン語が読めれば……!

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あと、写真撮り忘れたのですがイスラム教のモスクとかもあった。他は、ユダヤ教徒にとっての聖地「嘆きの壁」など。このテーマパーク全体で、約2000年前のエルサレムの街並みを再現していたということだったらしい。実際にエルサレムにも行ったことがある身として、ちょっとニヤニヤしてしまいました。園内のレストランも、普通のピザ屋とかもあるんだけど、中東料理屋みたいなのもちゃんとあって「ヘェ〜」と思いました。

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これは私がエルサレムに行ったときに撮った本物の嘆きの壁。本物とはやはり大きさは全然ちがうけど……。

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そしてクライマックスへ。十字架を背負ってヴィア・ドロローサを歩くイエス・キリスト

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ゴルゴダの丘で磔にされてしまう。エリ・エリ・レマ・サバクタニ……

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(※ゴルゴダの丘は映画のセットみたいで本気でかっこいい作りでした)

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(※ちなみに現代のエルサレムには、ゴルゴダの丘には聖墳墓教会が建っています)


そして、ハーレルヤ〜の音楽とともに丘からニョキニョキ生えつつ復活!!!*4 ちなみに復活時間はパンフレットで詳細をチェック。だいたい1時間に1回復活しています。ここそもそも金土日と祝日しか営業してないんだけど、金曜日だけは午前から復活しています。土日祝日は午後のみ。復活は、見やすい場所にベンチとかもあるので、お弁当やお菓子を片手にもぐもぐしながら見るのもよいですね。

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まとめ

ここをそもそも私は何で知ったのかというと、TRANSITに載っていたのでした。あと今、検索してて思い出したけど、奇怪遺産にもあったな。

奇界遺産

奇界遺産

そういうわけで、日本人的感覚からすると「???」となるところが少なくないこのティエラ・サンタなのですが、改めて、カトリック圏の人々にとって宗教やキリスト教がどういった存在なのかを考える良い機会になったと思います。子供たちが多く訪れていたことを振り返ると、私たちが考えるよりもずっと、アルゼンチンの人々にとってキリスト教は生活に密着した、魂に刷り込まれたものなんだろうなあと。キリスト教という枠組みを越えて何かを思考することは困難なのではないかと思うほどに。


逆にいうと、非カトリック圏で生まれ育った日本人の私には、こういった枠組みの中で何かを思考することこそが困難なのではないかと痛感してしまいました。いくら聖書を読んでも、神学書を読んでも、私は本当の意味ではキリスト教を理解できないのではないかと。「1時間に1回復活するイエス様、不謹慎なのでは!?」と私たちは思うかもしれないけど、信仰心さえあれば神様はたぶんそんな細けぇことは気にしないし、「生活に密着した」ってそういうことだと私は思います。素朴な感じっていうの? まあただ、このラテンアメリカのノリを西洋圏のカトリックの人がどう思うのかは、ちょっと気になるところではあるな!


世界に様々な宗教がある中で、私にとってもっともinterestingなのはやっぱりキリスト教です。仏教でも神道でもイスラム教でもない、キリスト教の何が私をそんなに惹きつけるのかは自分でも未だにわかりません。教会建築が好きだからとか、西洋美術が好きだからとか、教会音楽が好きだからとか、それらしい理由は見つけられるんだけど。


気になった人はぜひ行ってみてね! といえるほど気軽には行けない場所ですが(南米は遠いからな!!!!)何かの機会でブエノスアイレスに行くことになった人は、ふらっと訪れてみて損する場所ではないことを私が保証します。

*1:現地にいるときも、同行の小池みきさんが聖書についての知識を持っており、かつ私がイスラエルエルサレムに行ったことがあったので、お互いの知識を交換しながらわりと真面目な話をしていた(『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」を、日本人である我々が本当の意味で腹の底から理解することはかなり難しいのでは?などなど)

*2:金曜日に行ったので、平日だったからかもしれません

*3:ちなみになんですが、入場料はアルゼンチンのインフレの煽りを受けてか、かなり値上がりしています。2019年4月時点で370ペソ

*4:上のTwitter埋め込みから動画も見てね。

世界の果てには何があると思う?

Netflixでやっている『ビハインド・ザ・カーブ』を、見よう見ようと思っているうちに出発の日となってしまい、結局この番組を、旅行中にちまちまと見ている。『ビハインド・ザ・カーブ』は、「地球は実は球体ではなく、平面なのではないか?」と考える人たちのコミュニティを追った、ドキュメンタリー番組だ。

 

ビハインド・ザ・カーブ -地球平面説- | Netflix (ネットフリックス)

 

地球平面説──個人的にはなかなか面白い説だと思うけど、もしもこの地球が本当に球体ではなく平面だったとしたら、世界の端の端まで行くと、「ごつん」と何かにぶつかったりするんだろうか?

 

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平面である地球も球体である地球も、私はきちんと見たことがない。また、天体を見て計算とかもできないので、とりあえず今は、私は学校で教わった「地球は球体である」とする従来の説を信じることにしている。しかしだとすると、「世界の果て」などというものは、実質的には存在しないことになる。なんといっても地球は球体なのだから、すべての場所は世界の中心であり、同時に世界の果てなのだ。

 


だけど、神に始まり、人間は「実質的には存在しないもの」を頭の中に作り出すことを得意とする生き物である。だから、たとえ地球が球体であっても、「世界の果て」はちゃんと存在させられている。

 


アルゼンチンにある世界最南端の都市、ウシュアイア。人々が普通に暮らす都市としては世界でもっとも南にあるらしいこの町は、南極ツアーの拠点になっていたりもする。まあ、町を上げて「世界の果て」をアピールしているわりには、実際にはビミョーに、より南に、人々が普通に暮らしている場所があるんだけど。ちなみにそれは、チリにあるプエルト・ウィリアムズである。人口的な意味で、「都市」として最南端なのはウシュアイアなのだけど、「町」という単位まで含めて最南端を考えると、プエルト・ウィリアムズになるらしい。まあ、「世界の果て」って、アピールしたもん勝ち、言ったもん勝ちだもんね。ゲンキンだなあ。

 

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fin del mundo、スペイン語で「世界の果て、世界の終わり」。ウシュアイアからプエルト・ウィリアムズに行くツアーもあります。まあ、目と鼻の先ではある。

 

さて、とはいえ「世界の果て」とは、なんだかロマンチックな響きを持つではないか。人々が普通に暮らしている場所としての、最果て。そこには何があって、何がないのか? 「世界の果て」を見てみたいという思いに駆られてこの場所を訪れる私のような旅行者は、だから後を絶たないわけだ。

 


ウシュアイアという都市に、私は3泊ほど滞在した。あるときはバックパックを担いで歩き回り、あるときはタクシーに乗り、あるときは傘を差してやっぱり歩き回った。そうして、世界の果ての風景を、頭の中に刻み込んだ。

 


世界の果てには何があったか? レストランがあり、ホテルがあり、本屋があり、観光案内所があり、スーパーマーケットがあり、博物館があり、カフェではWi-Fiが飛んでいた。つまり、それは来る前からわかっていたことだけど、単純に、人々が普通に暮らしているただの一地方都市だった。村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』みたいに、町が壁に囲まれていて、一角獣がいて、自分の影とお別れしなくてはいけない……なんてことはなかった。まあ、当たり前である。

 

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ウシュアイアが位置するフエゴ島は、ティエラ・デル・フエゴと呼ばれる島々の中のひとつだ。この島を発見したのはかのフェルディナンド・マゼランで、先住民があちこちで焚き火をしていたのを、大地から火が噴き出ていると勘違いした。だから、ティエラ・デル・フエゴ──火の大地、と名付けられたのだという。

 


吹きすさぶ強風と、年中雪に覆われた荒廃した大地。焚き火をしていた先住民は歴史の知る通り、西洋人が持ち込んだ病原菌に感染してもういなくなってしまったけれど、真っ白な大地の中でいくつも燃え上がる炎は、さぞかし怖ろしくて、美しかっただろう。マゼランの見た光景を想像する。

 


透き通るような海が美しいリゾートも、南国の風も、輝くような陽射しも、笑顔を振りまく人々も、私は決して嫌いなわけではないのだ。ただ、私はこの最果ての荒廃した景色のほうに、なぜだかより親しみを感じる。悲しい歴史と、宿命と、身も凍るような寒さと、真っ白な雪の中に灯るオレンジ色の明かり。日の出は遅く、日の入りは早い。太陽の光に恵まれないこの地に、私はなんとも言えない懐かしさを覚える。

 


ウシュアイアはそういうわけで、ただの一地方都市だ。だけど、船で少し海を進むと、この町には灯台がある。世界の果てであることをしめし、人間の住む場所としての終わりを告げるような灯台が。ウォン・カーウァイの映画『ブエノスアイレス』にも登場するこのエクレルール灯台は、ウシュアイアの象徴的な存在でもある。そして、灯台の先にあるのは南極だ。

 

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灯台を見て、私は少し絶望する。こんなに大変な思いをして(って、飛行機とバスに乗ってただけだが)地の果てまで来たというのに、世界にはまだ続きがあるらしい。はるばるウシュアイアまで来ても、その先には南極が続いていて、この世はまだ終わってくれないのだ。どんなにつらいことがあっても、まだ続きがある、明日がある。それはやっぱり、希望というよりは絶望だろう。だけど、厳然たる事実でもある。

 


世界の果ての向こうにあるらしい南極にも、いつか行くことがあるだろうか。行かずに死ぬことになるだろうか。それはまだわからない。果てまで来てもまだ終わらないこの世界に絶望して、私はまた東京にもどり、今日の続きを見なければならない。

【感想】『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』

これは前々から思っていたことだけど、実は「カルチャーショック」よりも、「逆カルチャーショック」のほうが、3倍くらいショッキングだったりしませんか? 自分が他の文化圏を旅して異なる文化に触れたそのときよりも、異なる文化に数週間浸かってみて自国に帰ってきたとき、「なぜ私は今までこのシステムに何の疑問も抱かなかったのか?」と驚く瞬間のほうが、私にとってはやっぱり3倍くらいショックである。


ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと

ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと


『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』を書いた人類学者の奥野勝巳さんは、学生時代にメキシコの先住民テペワノのもとをたずね、日本に帰国したときのことをこう綴っている。

テペワノの日々が楽しく思い出されるとともに、自分自身がおこなっていること、日本でおこなわれていることが、何もかも虚しく感じられるようになったのである。本を読んでも、誰かと話をしても、何をやっても上の空だった。テレビを見ていても、言葉や音が私の中に入って来なかった。電車に乗って、ふと見ると、乗客に顔がないことがあった。どうしてしまったのか、まるでわからなかった。
(p.7)


私にも、似たような経験がないわけではない。中東に1ヵ月ほど行って帰ってきたあとは、日本や欧米の音楽がノイズにしか聞こえなくなってしまい、中東イスラム圏の民族音楽みたいなのをずっと聴いていた。誰かと話しているより、録音されたアザーンの音声を聴いているほうがよっぽど落ち着いた。今はそんな妙な熱病状態も冷め、やっぱりこちらの文化圏の音楽や人と話すほうが好きになっているんだけど、体が帰ってきても、頭と心も同時に帰ってこられるわけではないのである。他の旅でも、帰国したすぐあとはだいたいいつも、心身がバラバラの状態で、よく変な夢を見る。


そんな奥野勝巳さんは2006年から1年間、熱帯のボルネオ島で、プナンという狩猟採集民と生活をともにする。ボルネオ島は、マレーシア、インドネシアブルネイからなる東南アジアの島で、多様な生態系を育む自然豊かな場所らしい。『ありがとうもごめんなさいもいらない〜』は、奥野さんがプナンと暮らしながら考えたことが綴ってあるエッセイである。

反省しない

プナンと生活している中で奥野さんが気付いたことは、どうも彼らには、「反省する」という態度・習慣がないらしい。本のタイトルにあるとおり、「ごめんなさい」に相当する言葉が、プナンにはどうも見つからないのだという。プナンの人々は、過失に対して謝罪もしなければ、反省もしない。他人のバイクを盗んでぶっ壊したとしても、決して謝ったりなんかしない。


もちろん、これは現代日本に生きてる私たちからすると、だいぶ居心地が悪い。仕事でも私生活でも、過失があったならば謝罪と反省をすること。これは人として生きる上での基本中の基本であると、私たちは幼少時代から教え込まれてきた。


ではプナンは、共同体の中で何かトラブルが起きたとき、それをどのように解決するというのだろうか。本によると、失敗や不首尾をプナンは「個人」の責任とせず、場所や時間や道具、「共同体」や「集団」の方向付けの問題として扱う。1人が起こした過失はみんなの責任だから、みんなで解決策を考えるのである。このあたりは、「自己責任」という言葉が大嫌いな私はとても共感する一方で、そんなハイパーな社会が築けるわけないだろバカ、という思いもあって、読んでいてけっこう戸惑った。


なぜプナンの人々は反省しないのか、個人の過失という概念を持たないのか、奥野さんはこんなふうに分析している。


ひとつは、プナンが徹底した「状況主義」であること。反省なんてしてもしなくても、万事、上手くいくこともあれば上手くいかないこともある。彼らはそんな状況判断的な価値観の中で生きている。


もうひとつは、直線軸的な時間の観念を持っていないこと。よりよき未来を目指して向上するために、常に反省やフィードバックを重ね、自己と社会を改善し高めていく。そういった観念を、プナンの人々は持っていないというのである。よりよき未来のためではなく、彼らは常に「今」を生きている。

よい心がけ

「ごめんなさい」に相当する言葉がないのと同時に、プナンの人々は「ありがとう」に相当する言葉も持たない。これもまた、周囲の人への感謝を忘れずに生きなさいと日々諭されている私たちにとっては、なかなか受け入れがたい世界観である。


ただし、「ありがとう」という言葉の代わりに、何か自分へ物を与えてくれた人に対して、「jian kenep(よい心がけだね)」ということはあるらしい。私たちの感覚からするとずいぶん上から目線の言葉だなという気がするし、日本でこんなこと言われたらイラっとしちゃうが、彼らはそもそも「所有」に関する観念が私たちとは異なるみたいである。「貸す/借りる」という言葉もまた、プナンにはない。他人の持ち物が欲しくなったとき、プナンの人々は「ちょうだい」というし、持ち主もそう言われた際には快く持ち物を差し出さねばならない。

〈彼〉/〈彼女〉はつねに〈私〉の持ちものをねだりにやって来て、〈私〉から持ちものを奪い去っていく。〈私〉にとっての〈彼〉/〈彼女〉である他者は、何も持たない者であるからこそ、〈私〉を脅かしつづける。〈私〉はつねに物欲を抱えているからである。そのうちに、物欲とともに、〈私〉はこの仕組みの渦に呑み込まれる。〈私〉は、やがて持たないことの強みに気づくようになり、最後には、持たないことの快楽に酔い痴れるようになる。
(p.72)


プナンの人々はまた、「親しき人々」も共同で所有するらしい。子育てをする際、子には実の親と育ての親という二種の親が存在し、男女の恋愛も結婚も、排他的な権利を個人に帰属させない。あらゆるものをみんなでシェアする。反省しない、感謝しない、精神病理がない、水と川の区別がない、方位・方角に当たる言葉がない。感謝や負債という概念を、プナンの人々は持たない。

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最後に、これはごくごく私的な感想である。


もちろん、この本にあるような事実を知って、プナンの人々の社会は純粋だとか、学ぶべきところがあるとか、私たちの社会もそうなるべきだとか、そんなことはとても言えない。奥野さんも書いているが、私たちにできるのはただ、目の前にあるこの現実が、「絶対ではない」と知ることだけだ。


「絶対ではない」「絶対なんか存在しない」と知ることは、恐怖でもある。私が今必死で守っているもの、置かれている立場、生きている意味、全てを失う可能性があるからである。だけど、私はやっぱり「絶対なんか存在しない」を日々確認するために、こういう本を読んじゃうし、懲りずに旅行に行ってしまう。自ら、守るものや生きる意味を、失いに行っているともいえる。


だけど奥野さんも紹介していたニーチェの考え方に、「『無意味だからどうでもいい』と考えるのではなく、『無意味だからこそ、自由に、やりたいように、力強く生きるのだ』」とあるらしいのを知って、なんとなく、なぜ私がこういう生き方をしているのか、我ながら腑に落ちた。


「徹底した厭世観虚無主義で絶望しきることによって、逆に力強く生きる」ってのもまた、けっこう悪くないのですよ。まあそんな生き方は、なかなか他人に勧められるもんじゃないんだけど。