チェコ好きの日記

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『MEDIA MAKERS』僕は映画が見れない|メディアの未来と、映画祭と

もうすぐ2012年も終わりですが、今年みなさんは、何本くらい映画を見ましたか? 
(映画館とDVDなどを合わせて)


きちんとどこかで統計をとったわけではないので感覚値ですが、年間で映画を見る量は、
少ない人で0~1本、ふつうの人で2~9本、10本以上だと「多いね!」っていうかんじになるのではないかと思います。
世間一般的には。


ちなみに、現在の私の映画鑑賞量は2~9本の範囲内なので、「ふつうの人」です。


ただ、今思うと信じられないですが、学生のときは、
月に30本くらい映画を見ていました。
年間じゃないですよ、月です。
つまり、年間にすると、300本くらい映画を見ていました。
暇人……(笑)


社会人になってから映画の鑑賞量が激減した理由は、もちろん「時間がないから」です。
映画は一般的に、見るのにだいたい2時間程度の時間を要します。
現在の私は、2時間あったら、映画を見るより寝ていたいです。


でも、実はそれ以外にも、私が「映画を見られなくなった」理由があるのです。


その理由は、映画に興味関心がない人にとっても、
なかなか示唆に富むものなのではないかと思うので、
考えるキッカケになった本とともに、ここに紹介します。

MEDIA MAKERS―社会が動く「影響力」の正体

MEDIA MAKERS―社会が動く「影響力」の正体

★★★

さて先日、以前このブログでも紹介した、東京フィルメックスという映画祭に行ってきました。

東京フィルメックス映画祭! 人が映画を見る、たった1つの理由 - (チェコ好き)の日記

「5本見る」とかいっておいて、結局見れたのは4人の監督のオムニバス作品である『ギマランイス歴史地区』のみでした。ま、いいです、予想していたことなので……


東京フィルメックスに来る映画というのは、芸術性の高い作品ばかりです。
映画祭なので、上映後には、主催者と監督によるQ&Aのコーナーが設定されていたりします。


私が見た『ギマランイス歴史地区』の上映後は、2番目の作品『命の嘆き』を監督した、ペドロ・コスタがQ&Aに登場。

ギマランイスとは、ユネスコ世界遺産にも認定されているポルトガル北西部に位置する古都で、2012年には、EUが提唱する「欧州文化首都」に指定されました。

この『ギマランイス歴史地区』も、そういった流れの一環として、古都としてのギマランイスを盛り上げるために製作されたものでした。


しかし、映画監督というのは基本的に、非常にあまのじゃくでわがままなので、
ペドロ・コスタは「ただの観光プロモーションになってしまうことを、4人とも巧妙に避けることができた」と、Q&Aで誇らしげに語り、観客の感心を集めていました。

実際、ペドロ・コスタの『命の嘆き』はギマランイスの風景を映すことを一切せず(!)、
終始、病院のエレベーターのなかで、静止した2人の人物の“頭のなかの声”による対話がくり広げられるという、不可思議な作品です。

もっと簡単にいってしまえば、現代アートを評するときにもよく使う、「よくわからない」作品です……。


★★★

さて、「映画館で映画を見る」というのは、実はけっこう、肉体的な苦痛を伴います。

映画というのは基本的に、約2時間、ずっと同じ席に、極力体勢を変えずに、座り続けながら見るものです。

飲食がOKな映画館もありますが、上映中は暗くなるので、食べられるといっても「軽食」程度です。

東京フィルメックスが開催されていた有楽町朝日ホールの館内では飲食がNGだったので、約2時間、ずっと目の前の画面に集中していなければなりませんでした。

これは、映画鑑賞量が減って「映画筋肉」がおとろえた私には、正直なかなかしんどい作業だったのです。



田端信太郎さんの著書『MEDIA MAKERS』のなかで、映画は「リニアなコンテンツ」の最も典型的な例として、とりあげられています。


リニアなコンテンツというのは、映画や長編小説など、「始めから終わりまで一直線に連続した形で見てもらえることを想定したコンテンツ」のこと。映画は約2時間、始めから終わりまで連続して、ほかのことは一切せずに鑑賞するものです。


逆に、ノンリニアなコンテンツとして典型的なのは、twitterでの発信です。
twitterは140字という制限のなかで、きまぐれに、細切れに、何かを発信していきます。
どこから見てもOKだし、というか読み飛ばしても全然問題ないし、
時間のコントロールもこちらですることができます。
ずっとやっていてもいいし、途中でやめてOKです。


そして、田端さんは、未来のメディアは、
リニアなコンテンツよりノンリニアなコンテンツのほうが引力をもつようになるだろう、といっています。


映画を2時間連続で1本見るより、毎日15分、朝の連続ドラマを2週間見る方がラク。


これは田端さんが『MEDIA MAKERS』のなかであげていた例ですが、
感覚として、思わず頷いてしまうものがあります。


よく考えてみれば、日常生活で、「ほかのことは一切せずに1つのことに長時間集中する」なんてこと、寝るとき以外、最近はあまりないのではないでしょうか?


電車に乗りながらスマホをいじったり、
テレビを見ながらご飯を食べたり、
お風呂に入りながら本を読んだり、
ランニングをしながら英語を聴いたり音楽を聴いたり、
電話をしながらメールをしたり……


動作は常に細切れで、2つ以上の作業を、同時進行でやることだってあります。


「効率がいい」ということで、
それらの行動が、賞賛される向きすらあったりします。



私が映画を見られなくなった理由は、
「時間がない」という物理的な理由が、もちろんあります。


しかし、スマホをいじって、効率がいい行動を重視して、
毎日毎日、細切れの作業をくり返していくうちに、


「長時間1つのことに集中する」という作業が、
脳にとって負担に感じるようになってしまったのかな? と思ったのです。



twitterは脳が劣化するぞ! 的な、
トンデモ科学をいい出したいわけではもちろんないのですが、


感情論として、「細切れの作業しかできない」人間なんて嫌だなぁ、
と思いませんか?


私が、twitterをやりつつも実はあのメディアを嫌っている理由、
ブログを楽しみつつもインターネットを嫌っている理由、
facebookをやりたくない理由、
ビジネス書を読みつつも「効率化」なんてクソくらえと思っている理由。



『MEDIA MAKERS』を読んで、私がメディアに対して感じている不信感を、
やっと文章化することができました。


とはいいつつも時代の流れに逆らうことはできないし、したくないのですが、

この「不信感」はいつまでも、大事にもっておこうと思うのです。


ギマランイス歴史地区』では、
3番目の作品であるビクトル・エリセの『割れたガラス』で、

閉鎖された工場で働いていた元従業員が、
インターネットへの憎しみを、大声で叫ぶシーンがあります。


そーだよ、それそれ!


私はメディアに不信感を抱きつつ、しかしメディアに向かっていくという、
矛盾をかかえた行動を、今後もとっていくことになるでしょう。


「僕は映画が見れない」なんて、いいたくないわけです。

ぼくは勉強ができない (新潮文庫)

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★★★


「見れない」じゃ「ら抜き言葉」だよ、「見られない」だよ、という指摘はご容赦ください。
何か「見れない」のほうが語感がいいんですもん。