チェコ好きの日記

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どうしても気になるアレコレ オウム真理教について(後編)

前回書いたエントリ→どうしても気になるアレコレ オウム真理教について(前編) - チェコ好きの日記の後編です。

ドキュメンタリー作家の森達也氏が、オウム真理教の信者の方を取材した『A』という本についての所感です。

「A」―マスコミが報道しなかったオウムの素顔 (角川文庫)

「A」―マスコミが報道しなかったオウムの素顔 (角川文庫)

俗世間からのがれるために

オウムの信者の方々は、なぜオウム真理教という宗教に入信するにいたったのか。
『約束された場所で』という、作家の村上春樹オウム信者の方に取材を行なった本を読んでもわかるのですが、

約束された場所で―underground 2 (文春文庫)

約束された場所で―underground 2 (文春文庫)

彼らがオウムに出会ったきっかけは、ほんの“ちょっとしたこと”だったようです。
大学の先輩に誘われて、ちょっと近くの道場によってみたとか、たまたま本屋に置いてあったパンフレットを手にとったことから興味をもった、とか。
まるで、習い事かサークル活動のようです。

しかし、きっかけはささいなことながら、彼らはオウムの教義や麻原の人格にふれた衝撃に、一気に感化されてしまい、
すべてをすててオウム真理教に入信してしまいます。

“すべて”というのは、人によって仕事であったり、恋人であったり、友達であったり、家族であったりするわけですが、
世間と自分をつないでいる“すべて”です。

彼らはオウムの教義のどこにそこまで惹かれ、“すべて”をすてるにいたったのか。

その衝撃の内容は、『A』を読んでもわかりません。
というか、われわれがオウムの信者にそれを聞いても、きっとかみ合わない会話が延々と続くだけで、その本懐を理解することはできないでしょう。
「信じる」という行為を「信じない」人間に解析はできない、と本書にもあります。
ただ、オウムの広報をつとめるこのドキュメンタリーの主人公、荒木浩さんの一言は、その衝撃をはかり知るヒントにはなりそうです。

一つだけ言えるのは、どんな意地悪な質問にも尊師は逃げないんですよ。きちんと正面から答えていて、ああ、この人は本物かもしれないと思ったんです。(p96)

ずっと真理を探していたんです。真理はここにあると確信したんです(中略)
森さんは真理には興味はないですか?(p107)

荒木さんのいう「真理」がどのようなものなのかはわかりません。
しかし、オウムの信者の方は、「この人は本物だと思った」「ここに真理があると思った」という話を、口々にされます。

そして、入信後は、さきほども書いたように、俗世間の“すべて”をすてます。
たとえば、恋人にたいする情欲。

どんなに愛し合った夫婦でも最後は死に別れます。愛情が深ければ深いほど、いずれ死に別れるときの苦しみは大きい。愛という執着は最終的には苦しみに行き着くだけなんです。ならばその愛を断ち切るほうが苦痛も少ない(p81)

たとえば、家族にたいする愛情。
荒木さんが実家のおばあさんに、荒木さん自身の幼い頃の写真をわたされたあとの、森監督と荒木さんの会話です。

「どうして私にこんな写真、わざわざ出して持ってゆけって言ったんでしょうね」

ファインダーを覗きながら僕は尋ね返す。

「荒木さん、おばあさんのその心情、本当にわかりませんか?」
「……何となく察しがつくような気はしますけど」
「僕にも、何となく察しがつくような気がします」

彼らは、「真理」を見つけたから俗世間をすてたんじゃない。
俗世間をすてるために、「真理」とよべるものを探し出し、それにすがったんじゃないかと、
私は思うわけです。

そして、私たちの社会は、一部の人にではあれ、“すべて”をすてさせてしまうほど、苛酷で生きにくいものである。
そんな「社会」ってどうなのよ、と私は思わざるをえません。

日本人のメンタリティ

本書を読んでいて、何とも気持ち悪かったのは、信者の方の修行の様子でも、教義の内容でもありません。

地下鉄サリン事件という、前代未聞の犯罪を犯してしまった宗教組織。それは確かに事実ではありますが、
「オウム」と聞いただけで不当な逮捕を行なおうとする警察、
自分たちこそ“正義”であり、“悪”の組織「オウム」に人権はないとばかりに、過剰な報道をくり返すマスメディア。

オウムの信者は「真理」の名のもとに、思考停止におちいっていますが、
われわれの社会も、「正義」の名のもとに、思考停止におちいっているのではないか。

『A』を読んでぞっとしてしまうのは、われわれがつくっている、思考停止におちいったこの社会のグロテスクさです。
オウムの組織とわれわれの社会は、鏡に映るように対称的です。

『A』というドキュメンタリーは、もともとはテレビで放映される予定の作品でした。
しかし、「オウムに同情的すぎる」という理由で、テレビでの放映は早々に中止となり、
森氏は何とかプロデューサーを見つけ、自主映画作品として『A』を山形ドキュメンタリー映画祭*1に出品します。

その後、『A』は高い評価をうけ、ベルリン国際映画祭でも上映されます。
が、このときの上映終了後の質疑応答で、

「質問がある。これは本当にドキュメンタリーかい?」
という質問がドイツ人の観客から出ます。もちろんドキュメンタリーですよ、と森氏が返すと、ドイツ人の観客はさらに続けます。

「オウムの信者はもちろん、この作品に登場するメディアも、警察も、一般の市民も皆、リアルな存在にはどうしても見えない。まるであらかじめ台本を手渡されてロールプレイングをやっているとしか私には思えない。これが本当に実在する人たちなら、日本という国はそうとうに奇妙だと思う。要するにフェイクな国だ」(p248)

これに対して、森監督はこう答えます。

「この作品に登場するオウムにも警察にもマスメディアにも、とにかくほとんどの日本人に共通するメンタリティがあります。共同体に帰属することで、思考や他者に対しての想像力を停止してしまうことです。その危険さを僕は描いたつもりです。組織への帰属意識や従属度は日本人に突出して強い傾向だと思うし、傍から見ればもしかしたらフェイクにしか見えないのかもしれないけれど、ドイツ人にはそんなメンタリティはないと本当に言えるのでしょうか?」(p248〜249、強調は(チェコ好き))

森監督が反論しているように、会社であったり、学生時代の仲間であったり、実体のない所謂「世間」だったり――自分が属している“共同体”の思想にどっぷりと浸かってしまい、外部への想像力を停止してしまう、ということは、人間ならば人種も年齢も性別も関係なく誰しもが持つ傾向です。ドイツ人でもアメリカ人でも中国人でも、こういった傾向をもっていないわけではありません。

しかし、これほどグロテスクな思考停止は、日本人特有の現象である、とするドイツ人の意見に、自信を持って反論できる日本人はいるでしょうか。


“共同体”の思想から完全に自由になることは、おそらく誰にとっても不可能です。
しかし、「真理」という思想に、「正義」という思想に洗脳されつつも、
「洗脳されながらどれだけ自分の言葉で考え続けられるか」。

★★★

「自分のアタマで考えないと、これからの社会は生きていけないよ!」
と、たくさんのビジネス書や新書、著名なブロガーや知識人が提唱しています。

もちろん、自分のアタマで考えることが必要なのは、「自分が生きていくため」でもあるのだけど、
「誰かを傷付けないため」でもある。

思考停止は、自分の未来を蝕むだけでなく、誰かの未来を奪ってしまうこともある。

だから私たちは、それがどんなに稚拙であっても、自分のアタマで、自分の言葉で、考えないといけないわけです。いろんなことを。



最後に、『A』のエンディングに流れる朴保(パクポー)の「峠」という曲をはっておきます。



本書の読みどころを、私の2回にわたるエントリで伝えきれたとは到底思えません。
しかし、カルト宗教に興味があるという私のようなアレな感じの人でなくても、
「思考停止」というキーワードや、日本の社会がおちいっている現状に興味がある方は、『A』を読まれることを、
強くおすすめします。まじで。

*1:ドキュメンタリーのみを集めた国際映画祭。学生時代、私の先輩や友達がこの映画祭のボランティアスタッフを多数つとめていました。私もやればよかったなー。