チェコ好きの日記

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極私的西村賢太論、あるいは文学の力について

以前私は『村上春樹の「好き」「嫌い」はどこで分かれるのか? に関する一考察 - (チェコ好き)の日記』というエントリを書いたのですが、そのなかで村上春樹と対比する作家として例に出したのが、西村賢太でした。そこでは、こんなふうに書いています。

でも、私はやっぱり村上春樹の世界の主人公たちは、孤独だなぁと思うんですよ。友人がいない、恋人がいない、お金がない、というのも確かに“孤独”だけれど、それらをすべて手に入れた上でもまだ満たされない心、孤独っていうのが、私はあると思うんです。前者の「もたない孤独」を書いているのが西村賢太で、村上春樹は後者の「もっている上での孤独」を書いているんだと、私は考えています。

実はこのエントリを書いた時点では、まだ西村賢太を1冊も読んだことがなかった私。まわりからの評判やAmazonのレビューなどを参考にしながら、西村賢太の作品を「だいたいこんな作風なんだろう」と想像して書いたわけですが、公開した後「本当にこれで合ってるのか?」と気になり出し止まらなくなってしまったため、これを機に読んでみることにしたのです。とはいってももちろん全作品を読み切ったわけではないのですが、数冊を読んでみた結果としては、「だいたい合ってたな」というところに落ち着きました。いい加減なことをいって西村賢太ファンを憤慨させたらどうしようかと思っていたので、ほっとしています。

前のエントリの書き方が良くなかったせいか、「村上春樹の孤独」と「西村賢太の孤独」は1人の人間のなかでは両立しえない概念で、両者のファン層もまったく異なるものだと読み取ってしまった方もいるようですが、私はそんなことはない、とここで強調しておきます。このエントリは、そんな言葉足らずだった以前のエントリの補足だと思ってください。

西村賢太は面白かったです

まず、今回私が読んでみたのは2冊です。芥川賞の『苦役列車』と、デビュー作『けがれなき酒のへど』を併録した『暗渠の宿』。

苦役列車 (新潮文庫)

苦役列車 (新潮文庫)

暗渠の宿 (新潮文庫)

暗渠の宿 (新潮文庫)

本当は、他にも読んでみたい作品がたくさんあります。なぜかというと、西村賢太ってタイトルのセンスが抜群に良くないですか? 『二度はゆけぬ町の地図』とか、『小銭をかぞえる』とか、『どうで死ぬ身の一踊り』とか。作品の世界観がもう全面にタイトルに出ていて、いい意味でタイトルだけでお腹いっぱい。もし3冊目を読むとしたら、『二度はゆけぬ町の地図』にしようかな、とぼんやり考えています。絶望感とか疾走感がひしひしと伝わってくる、いいタイトルです。


村上春樹西村賢太、どちらか1つ選べ」といわれたら、高校時代から慣れ親しんできたという付き合いもあるので(?)、私は当然ですが村上春樹を選びます。けれど、西村賢太もとても面白い作家だし、よく現代にこんな作家が出てきてくれたよな、と思います。『芥川賞作家、西村賢太の最低すぎてスゴい発言集 - NAVER まとめ』がすごく面白かったのですが、ここまで私小説であること、作中の主人公と自分が重なる存在であることを全面に押し出している作家って、ちょっといないですよね。新米の読者としては、事実の部分もあるだろうけどどこかからはパフォーマンスなんだろうなと思ってしまうのですが、実際はどうなんでしょう。

主人公と自分は近くなくても共感できる

苦役列車』と『暗渠の宿』を読んでみたなかで、私がいちばん面白く感じたのは、『暗渠の宿』に併録されているデビュー作の『けがれなき酒のへど』でした。風俗嬢の“えっちゃん”に入れこんでしまい、90万円をだましとられてしまった主人公の物語です。これも、いいタイトルですよね。


主人公はこの物語のなかで、何度も「恋人が欲しい」と独白します。そして恋人を求めて風俗に行くのですが、そこにいるのは無愛想で不細工で、いかに多く客から金を取るかを考えているような女ばかりです。そんな風俗のなかで、砂漠のオアシスのごとく巡り会ったのが“えっちゃん”という女性で、2人はお店の外でも会うようになり、徐々に親交を深めていきます。しかし、最後はその“えっちゃん”にもだまされて、お金をとられる。何だかもう絶望的な話です。


“えっちゃん”にだまされたことが発覚した後、主人公は友人と2人で酒を飲んで、気を落ち着けようとします。しかし、ちょっとしたことからその友人と口論になり、主人公は友人に暴力をふるってしまいます。その場面の会話が印象的だったので、以下に引用してみます。

怪我までさせたわけじゃないし、見栄っぱりな奴でもあり、最近新しい恋人ができたばかりだそうでその手前からも警察に届けられるようなことはあるまい、と帰ろうとすると、彼は背後から口惜しそうな震え声で言ってきた。
「……おめえはすぐに暴力だしな」
「……」
「だから飲みたくなかったんだよ。本当に最低の奴だよな、おめえは自分で性格破産者破綻者とかぬかしていい気になってるけどよ、そんなの褒められることじゃねえんだよ。てめえで自覚があるんなら人に迷惑かけねえうちに入院するか刑務所に入るかしてくれってんだよ。だから恋愛感情を利用されて金取られるみてえな、男として最悪の騙されかたもするんだ。はっ、おめえみてえな奴は死ぬまで彼女なんかできねえよ、ざまあみろ」

ここを読んで、私は「がーん!」と思ってしまいました。

自分自身のことを話すと、私は恋人だと思っていた人にお金をだましとられたことはないし、酒に酔って友人に暴行を加えたこともありません。でも私は、友人が主人公にいい放ったこの言葉、特に「おめえみてえな奴は死ぬまで彼女なんかできねえよ」っていうところで、「ぐさっ!」と来てしまいました。


経験したことのないことなのに、まるで自分が言われたことのようにショックを受けてしまう。やっぱり、こういうところこそが文学の力なのだと私は思うのです。

村上春樹について語ったエントリで、「もっている者の孤独」と「もたない者の孤独」という話を出したのですが、自分がどちらにより深く共感するかは、自分の今の境遇とはまったく関係ありません。だから逆にいえば、どちらにも共感できる人もいるし、どちらにも共感できないという人もいるでしょう。

「自分は村上春樹のような“もっている”人生とは無縁だから、彼の小説に共感することはできない」っていう人は、村上春樹が好きではない理由は、本当はもっと別のところにあるはずなんですよ。「文体がキモチワルイ」とか、「何かイラっとする」とか。別に「村上を読め!」と強要するつもりはまったくないんですが、私は「好き」とか「嫌い」という感情について深く考えることが好きなので、もし「自分の今の境遇」を理由に村上嫌いを考えている人がいたら、その理由についてもう一度考え直してみたら面白いかもよ、と思ってしまいました。

私は村上春樹のような「もっている」人生とは無縁だけれど「もっている者の孤独」に共感できるし、西村賢太ほど「もっていない」わけではないけれど「もたない者の孤独」に共感できます。文学って、そういうものではないですか。

もちろん、これは“フィクション”への共感なので、本当に西村賢太の小説のような生活を送っている人の気持ちを理解したことには全然ならないんですけどね。それとこれとは別問題です。


西村賢太が今後、どういう作品を世に送り出していくのか楽しみです。この人は文学にたどり着くべき人であったし、文学に支えられてきた人だったんだろうなということを強く感じました。

そして、おせっかいであることも難しいことも十分承知の上で、1人でも多くの人が芸術や文学によって救われて欲しい、と私は今日も思います。生活保護や社会のシステムを整えることも大切だけれど、別の方面からのアプローチとして。

極私的エロス・恋歌1974 [DVD]

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※この映画は本文と関係ありません。ちょっと思いついただけです。