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バルテュス、ろくでなし子…「芸術」と「わいせつ物」の闘争はまだまだ続く!

突然ですが、2014年8月号の芸術新潮はなかなか素敵な切り口で特集を組んでおり、ぶっとんでておすすめです。店頭で見かけたら、ぜひ手にとって覗いてみてください。

芸術新潮 2014年 08月号 [雑誌]

芸術新潮 2014年 08月号 [雑誌]

なかにはけっこうどぎつい絵があったりしますが、そういうのもたくさん観て、脳みそぐるんぐるんされるかんじがとても楽しいです。

★★★

しかし、上の芸術新潮の特集を観ていると、やはり考えてしまうのが、「芸術」と「わいせつ物」の関係です。最近逮捕された「ろくでなし子」さんの件が記憶に新しいですが、一応下記のページを読んでみたものの、やっぱり何がOKで、何がNGなのか、その基準がよくわかりません。

わいせつ物頒布等の罪 - Wikipedia

ろくでなし子さんの件も、1つは従来のように「芸術」と「わいせつ物」の関係を考える一例として、そして1つは、私たちの間でまだなじみ深いものとはなっていない“3Dデータ”をどう扱っていくのかについて、今後も長く語り継がれていくことになるかもしれません。こういった問題は国や宗教や時代によって正解がコロコロ変わるので、今後も議論はなくならないでしょう。芸術と法って「裏」と「表」みたいな関係にあると思うので、根本的な解決策ってなくて、その都度最適なものをみんなで考えていくしかありません。

キワモノアートとの付き合い方

ろくでなし子さんの事件に関連して、海外の過激なアートとしてネット上で話題になったのが、ルクセンブルクの女性芸術家デボラ・デロバティスさんのパフォーマンスです。パリのオルセー美術館にあるギュスターブ・クールベの『世界の起源』という作品の前で、局部を露出したのだとか……。クールベの『世界の起源』は検索すれば出てくると思いますが、世界の起源すなわち人類の起源である「あそこ」を大胆に切り取った絵画として知られています。ちなみに、クールベの絵画でいちばん有名なのは『画家のアトリエ』かと思われます。
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画家のアトリエ 1854-55 オルセー美術館


私はアートのなかでもわりと「キワモノ」が好きなので、こういった事例はけっこう楽しんで眺めてしまうところがあるんですが、それと同時に残念なのが、「やっぱり芸術ってわけわかんないものなんだ」「芸術っていっとけば何でもアリなんだ」という歪んだ認識が広まってしまうことです。

芸術作品は、アーティストの他の作品や経歴、思想、時代背景などなどきちんと文脈をたどっていけば、専門的な知識があろうとなかろうと、「わけわかんない」ものには決してなりません。もちろんそれなりの労力は要することになるし、めんどくさいことこの上ないんですが、何かの作品に対して拒否反応を示したり、批判をしたくなったら、一言で「わかんない」とばさっと切り捨てるのではなく、それがどのような思想のもとに行なわれているのか、文脈をきちんとたどってみて下さい。その上で批判をすると、それはより一層深いものになると思います。

私自身はろくでなし子さんの作品も、デボラさんの作品も、きちんと観たことも文献を読んだこともないので、その作品の評価に関しては「ノーコメント」が適切かな、と現状では思っています。

ろくでなし子さんが“自称”芸術家として報道されたことも話題になりましたが、確かに「芸術」って、それを1人でも「これは芸術です」という人がいれば成り立ってしまいます。だからこそ面白いし、難しいんですが。

「自由」になれない者が描くから「自由」を表現できる

最後にまとめとして、岡本太郎が(たぶん)いっていたんですが、“「自由」になれない者が描くから「自由」を表現できる”みたいな考え方をここで紹介しておこうと思います。正確な引用ではない上、引用元もはっきりしないので若干もどかしいんですが……。

たとえば、ピエト・モンドリアンという人が、『ブロードウェイ・ブギウギ』とか『赤・青・黄のコンポジション』みたいな作品を作っています。これらの作品を私は実際に観たこともあるんですけど、デッサン力が優れているわけでも色彩がすごいわけでもなくて、正直「私でも描ける」とか思うわけですよ。「定規で線書いて色塗ればいいんでしょ」みたいな。

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ブロードウェイ・ブギウギ 1942-43

でも、私がこの『ブロードウェイ・ブギウギ』のパクリを忠実に作ったとしても、それはやっぱりモンドリアンの『ブロードウェイ・ブギウギ』には到底かなわないんです。それはなぜかというと、「まったく“型”を知らない者が作る創作物と、一度“型”を身につけたものがそれを捨てて作った創作物」は、全然異なるものだからです。

岡本太郎が(たぶん)いっていたことは、小さい子供が描く絵はとても自由で素晴らしいんだけど、それは芸術作品としてはやっぱり「優れている」とはいえないんです。なぜかというと、小さい子供はまだ縛られるものが何もなくて、本当の意味で「自由」だからです。でも、大人になるにつれ、「自由」はどんどんなくなっていき、私たちは様々な“型”や“枠”にはまっていきます。しかしだからこそ、それらを捨てて「自由」を表現できる作家やその作品が、「優れている」ものになる得るんです。

キワモノアートも同じで、ただ奇を衒えばいいってもんじゃないし、「何でもアリ」では決してありません。アーティストが何から自由でないのか、何から自由になりたいのか。素人も玄人も関係なく、私たちはそこをじっくり観ていくべきだよなーと思います。


いちばん上のリンクに貼った芸術新潮の2014年8月号は本当に面白いしおすすめなんですが、ヌードとか春画みたいなキワモノアートの受容のしかたは一方で本当に難しい。「何でもアリだけど、何でもアリじゃなくて、でもやっぱり何でもアリなんだよ」。議論はまだまだ続くでしょうが、ぜひとも健全なキワモノアートとの付き合い方を考えていきたいものです。

いろんな方面に話がとんでしまいちょっとまとまりがなくなりましたが、本日はそんなところです。

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