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チェコ好きの日記

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退屈は人を殺す『グレート・ギャツビー』と『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』

自分のなかで、この夏はフィッツジェラルドサリンジャーキャンペーンをやっておりまして、積ん読本がどんどん増えていきます。

フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』は、数年前に村上春樹の訳で読んだのですが、あまりピンとこなくて、そのまま放置していました。自他ともに認めるハルキストの私ですが、村上の翻訳は合わないのか、『ティファニーで朝食を (新潮文庫)』とかもあまり良さがわからないまま放置して本棚に眠っています。なので今回読んだ『グレート・ギャツビー』は、光文社文庫の小川高義訳。

グレート・ギャッツビー (光文社古典新訳文庫)

グレート・ギャッツビー (光文社古典新訳文庫)

訳者を変えたのが良かったのか、それとも年齢とかタイミングの問題なのかは定かではありませんが、こちらはきちんと腑に落ちる形で読み終わりました。

もしくは、事前にこちらの本を読んで、フィッツジェラルドに対する理解を深めておいたのが効いたのかもしれません。

ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック (中公文庫)

ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック (中公文庫)

というわけで今回は、『グレート・ギャツビー』と『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』の感想です。

ゼルダフィッツジェラルド

グレート・ギャツビー*1』は、「もう一度、ゼルダ」という印象的なメッセージから始まるわけですが、ゼルダというのはフィッツジェラルドの奥さんで、『グレート・ギャツビー』のヒロインであるデイジーのモデルがゼルダだということは、広く知られている話です。

数年前は、ゼルダというのがフィッツジェラルドの奥さんであるという情報以上のものを持ち合わせずに読んでいったため、このことに特に感慨を覚えなかったのですが、村上春樹の『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』には「ゼルダ・フィツジェラルドの短い伝記」という、ゼルダについて丸々1章が割かれた文章がありまして、これを読んだら相当面白かったんですね。

ゼルダは、「アラバマジョージア二州にわたって並ぶものなき美女」と謳われた、大変魅力的な女性だったようで、フィッツジェラルドは彼女に一目惚れし、ゼルダと結婚するために、1920年の夏、『楽園のこちら側』という小説を書き上げます。『楽園のこちら側』は私は未読なんですが、当時まだ無名の作家だったフィッツジェラルドが書き上げたこの小説は全米でベストセラーになり、彼は名声とともに莫大な収入を手に入れます。ゼルダのほうも、無名作家と結婚するよりはベストセラー作家と結婚したかったようで、スコット・フィッツジェラルドは「愛情の達成と文学的成功と莫大な収入とが、きちんと区別されないままに*2」、一度にいろいろなものを手に入れて“成功”してしまうんですね。

フィッツジェラルドの成功と合わせて、戦争が終わった当時のアメリカも大変景気が良くて、フィッツジェラルド夫婦はそんなアメリカの最先端のライフスタイルを表すシンボルとして君臨します。ニューヨークを舞台に、華やかな都会生活を送る2人の様子が村上春樹の本には書かれていますが、この時代の生活が『グレート・ギャツビー』でギャツビーがお城で繰り広げる豪華すぎるパーティーに反映されているのは、間違いないでしょう。事実がどうだかは知りませんが、映画版の『華麗なるギャツビー』を観ると、当時の2人の生活を想像することができます。


映画『華麗なるギャツビー』予告編1【HD】 2013年6月14日公開 - YouTube

「きみにとって理想的ないちにちとはどんなもの?」
彼女は答えた。「朝食は桃ね……そしてゴルフ。つぎに水泳。それからゴロゴロするの。ものを食べたり本を読んだりもせず、静かに、気持ちのよい音を聞いているの。まあつまり、からっぽになるっていうかんじかな。夜? 盛大で景気の良いパーティーよ、そりゃ」
1923年「ボルティモア・サン」紙 『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』p148より

退屈は人を殺す

1920年代前半を、フィッツジェラルド夫婦はニューヨークでの浪費とばか騒ぎに明け暮れて過ごすわけですが、金銭的理由という意味ではなくたぶん精神的な理由で、そんな破綻した生活に耐えられなくなった2人は、生まれたばかりの娘とともにパリに渡ります。『グレート・ギャツビー』のデイジーにも娘がいますが、ほとんど登場しないのにきちんと「娘」がいるという設定になっているのは、やっぱり現実のフィッツジェラルド夫婦が反映されているからではないでしょうか。

南仏のプロヴァンス海岸に邸宅を借りて、フィッツジェラルドはやっと腰を据えて小説に取り組むようになります。が、一方で、パーティーも一緒に騒ぐ仲間もニューヨークに置いてきてしまったゼルダは、その退屈さ故になのか、フランス人士官と不倫。関係がフィッツジェラルドにばれて口論になり、ゼルダは自殺未遂まで起こします。富と名声と、夫と子供と、女性が欲しがる全てを持っていたはずのゼルダが、自殺未遂をしたとか精神分裂症になったみたいな話を聞くと、つくづく人間っていうのは一筋縄ではいかないもんだな、と思います。

ゼルダが自動車の前で横になって「ねえ、スコット、私を轢いてよ」と言い、フィッツジェラルドはそのゼルダを前に車のエンジンをかけた──なんてエピソードを読むと、彼らがどんなにイカれていたのか、彼らがどんなに破綻した生活を送っていたのかを想像してしまい、鳥肌が立ちます。

伝記のなかのゼルダや『グレート・ギャツビー』のデイジーを見ていると、「退屈は人を殺す」という言葉がふと頭をよぎります。

「灰の谷」とは?

ゼルダとデイジーの話からいきなり飛ぶんですが、フィッツジェラルドは『グレート・ギャツビー』のタイトルをけっこう苦心して考えたようで、他に『灰の山と大金持ちの間で』というタイトル案もあったそうです。「灰の山」──小説内では「灰の谷」と訳されていますが、重要なのは山なのか谷なのかということではなくて、とにかくこの場所の解釈によって、『グレート・ギャツビー』はすごく面白く読めるんだろうな、ということです。結局採用はされなかったものの、一度はタイトル候補として名前が出たわけなので、この「灰の谷」は小説のなかでけっこう大きな役割を持っているはずです。

光文社文庫の訳者あとがきによると、「灰の谷」はモデルとなった場所が実在していて、石炭の燃えがらなど都会が吐き出す廃棄物を捨てる「コロナ・ダンプ」という土地から着想を得ているそうです。ギャツビーや語り手である主人公・ニックの住むウエストエッグ、そしてデイジーとトムが住むイーストエッグからマンハッタンに出るためには、必ずこの場所を通過しなければならず、物語の最後でもこの「灰の谷」で重要な事件が起こります。

映画版『華麗なるギャツビー』に出てくる「灰の谷」の描写も私はすごく好きなんですが、華やかなマンハッタンに出るためにこの廃棄物の捨て場を通らなければならない、という設定はなかなかの皮肉だし、すごく象徴的です。そしてそこに、「エクルバーグ博士の目」、ごまかせない神の目があるんですよね。

自分のなかで「これだ!」と思う解釈がまだ見つからないんですが、「灰の谷」とは何なのか、引き続き考えてみたいと思ってます。

今私のなかでアメリカ文学ブームが来ているので、フィッツジェラルドサリンジャーキャンペーンに飽きたら、ポール・オースターカポーティキャンペーンに移行する予定です。

興味のある作品をその都度つまみ食いするのも楽しいんですけど、「これ!」と決めた作家の作品を集中的に深堀りするのが私は大好きなので、みなさんもお試しあれ。

*1:光文社文庫では「ギャッツビー」となってますが、「ギャツビー」のほうが言いやすい。

*2:『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』p142