チェコ好きの日記

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もう一度読む、村上春樹『風の歌を聴け』感想文

もはやパロディになってしまっている感のある村上春樹の小説の様々な言い回しですが、デビュー作の、それも最初の1行が、まるで彼の作品を象徴するような一節になってしまっているということは、良くも悪くもそれだけこの最初の1行が読者にあたえたインパクトは大きかったのだろうなぁと思います。

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」

これはご存知のとおり、村上春樹のデビュー作、『風の歌を聴け』の最初の1行にあたる部分。

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)

思えば私がこの小説を初めて読んだのはもう10年くらい前で、高校生のときでした。私は村上春樹の長編小説は全部読んでいるというハルキストではあるのですが、そのほとんどは高校生のときに読んで以来読み返していないので、大好きな作品『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻 (新潮文庫 む 5-4)』や『国境の南、太陽の西 (講談社文庫)』をのぞくと、実はけっこう頭のなかから抜け落ちているものも多いです。あと、これをいうとハルキストガチ勢に怒られそうですが、私は春樹のエッセイが好きなんですよね。小説とエッセイ本当はどっちが好きなのっていわれたらけっこう悩みます。

今回は11/16(日)の読書会に向けて、『風の歌を聴け』を10年以上ぶりに読み返すことになりましたが、こういう機会がなければまともに読み返すことはなかったかもしれません。そういう意味で、何しろ村上春樹のデビュー作ですから、自分のハルキストとしての原点を振り返ることができて良かったです。

第4回Skype読書会「徹底解読『風の歌を聴け』(村上春樹1979年)」は2014年11月16日 19時より開催します - 太陽がまぶしかったから

そんなわけで今回は、『風の歌を聴け』の私なりの感想・解読文を書きました。そんなに豪快ではないですが、ネタバレありなのでご注意ください。

風の歌を聴け』の謎を解ける日は来るのか

まず最初に、初めてこの小説を読んだ高校生のとき、私は『風の歌を聴け』を「なんかよくわからん、つまらない小説」と思ってしまっていた、というのは正直に告白しておこうかと思います。もちろん大好きな村上春樹の小説のなかでの「つまらない」なので、他の作家の作品と比べたら何かしら心に引っかかるものはあったのですが、それは『世界の終わり〜』や『国境の南〜』の比ではないというか、村上春樹の作品のなかであまり重要な作品とは見なしていなかった、ということです。

で、10年以上ぶりに読み返してみた今、「つまらない」という部分は完全に払拭された(つまり、「面白い」と思った)のですが、「なんかよくわからん」という部分は相変わらず残っていて、ちょっと今の私にこれは読みこなせないなー、というのが正直な感想です。とりあえず、高校生のときには「なんかキザなことがテキトーにならべてある」くらいしか思えなかった『風の歌を聴け』が、今は「テキトーにならべてある」わけじゃなくて、緻密な構成のもとに配置されているっぽい、ということはわかったのですが、その配置にどんな意味があるのか、そこまで読み解く自信がちょっとないな、という感じです。

初めて読んだのが15歳か16歳のときで、今が27歳なので、するとあれですね、36〜37歳くらいになったらもう一度読み返してみればいいのかもしれない。その次が47歳。本論とは脱線しますが、10年おきくらいに定期的に読み返す小説みたいなものを自分のなかに作っておくと、「読解度の定点観測」のようなことができて面白いかもしれません。私のなかで『風の歌を聴け』はそういう位置付けの小説にしようかな、と思いました。

風の歌を聴け』におけるデレク・ハートフィールドとは?

風の歌を聴け』には、時系列を整理するとか、「僕」のついた嘘とは何かとか、ラジオ番組の意味はとか、いくつかの「読み解きポイント」みたいなものがあると思うのですが、全部はちょっと手に負えなさそうなので、私は今回、この小説に登場する架空の作家、デレク・ハートフィールドについて考えてみようかと思います。

主人公はこのデレク・ハートフィールドという作家について、「僕は文章についての多くをデレク・ハートフィールドに学んだ」と語っており、どうやら多大な影響を受けた作家のようです。しかし、その作家は「文章は読み辛く、ストーリーは出鱈目であり、テーマは稚拙だった」。同時代の作家としては、ヘミングウェイフィッツジェラルドなどがいるらしく、1920年代に活躍したアメリカの作家という設定になっているようです。そして1938年6月のある晴れた日曜の朝、「右手にヒットラーの肖像画を抱え、左手に傘をさしたままエンパイア・ステート・ビルの屋上から飛び降りた」。彼の墓碑には、「昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか。」というニーチェの言葉の引用が刻まれているらしいです。

架空の作家、という点でピンときたのは、出典も記憶も曖昧なんですけど、たしか『少年カフカ』か『「これだけは、村上さんに言っておこう」と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶっつける330の質問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか?』あたりの読者からの質問に村上春樹が回答するという類の本で、「趣味が読書なんですけど、好きな作家としてだれをあげると会話がスムーズにいくかわからない」みたいな質問があったんですね。それに対して村上春樹は「明治から大正にかけてのナントカ派の作家を中心に読んでいます、今いちばん熱心に読んでいるのは前原百間(※架空の作家)で、彼の作品の重要な点は……みたいに、それ以上突っ込まれないような架空の作家と設定を用意しておくといいですよハハハ」みたいな回答をしていて、私は「そりゃあいい!」と感動したものの未だに架空の作家もその詳細な設定も作れずにいるのですが、何となくその回答のことを思い出しました。

まぁあんまり関係ないかもしれないですが、私は村上春樹のこういう性格の悪さとユーモアを兼ねそえているところが大好きです。で、デレク・ハートフィールドでも前原百間でもいいんですけど、自分の読書体験について語るときに架空の作家を持ち出すというのはとても不誠実な態度で、はっきりいうとマトモな対話を拒否しているんですよね。もう少しいうのならば、対話の相手としてふさわしいかどうかスクリーニングをしているというか、「いやいや村上さん、前原百間なんていないでしょ、そんなテキトーなこといわないでちゃんと教えてくださいよ」って返せるか、あるいは「奇遇ですね、私もちょうどその時期の作家が好きで、私はナントカ派というより反自然主義のほうが好きなんですけど、ところであれは読んだことありますか?」みたくひねりを加えられるか、相手を試しているというか。

なぜそんな性格悪くてめんどくさいことをするのかというと、それが「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」という最初の1行にかかってくるのだと思います。完璧な文章などといったものは存在しない、つまり、何かしらの伝えたいメッセージがあるとしても、それをだれにでも自分の意思どおりに伝えることなんて不可能なのだと。ではどうすればいいのかというと、相手を選ぶしかないんです。いや、相手を選ぶというとちょっと言葉が悪いかもしれないので、「伝えたいメッセージは、伝えるべき相手でないと届かない」とでも言い換えましょうか。だれにでも伝わる言葉なんてない、そこに一種の絶望と諦念を抱えながらも、たとえ少数だとしても、不完全だとしても、伝えるべきメッセージがあり伝えるべき相手がいるならば、それがどんなに稚拙なものであっても伝えなければいけない。デレク・ハートフィールドという架空の作家はその「不完全な文章、メッセージ、言葉」の象徴で、10年ぶりに読み返した『風の歌を聴け』は、なんかそういう小説なんじゃないかと私は解釈しました。

ちなみに、無学だった高校生時代の私は(今も無学だけど)、このデレク・ハートフィールドという作家、まんまと実在の作家だとその後しばらく思い込んでおりました。そういう意味では、15歳の私は村上春樹に対話を拒否されちゃったんですね。というか、当時の私は村上春樹のメッセージを受け取るべき相手、もしくはそのメッセージを必要としている相手ではなかった、ということかもしれません。それが幸福なことだったのか、不幸なことだったのかはわかりませんが。

今もまだ、私はこの『風の歌を聴け』を、自分のモノにした! という感覚がいまいちつかめないでいます。10年後にまた読み返したとき、ここで展開される物語が「わかる」ようになっているか、あるいはますます「わからない」ようになっているか、どっちかなーと楽しみにしておこうと思います。人生のどのタイミングでどの作家に出会い、どの作品にどのような影響を受けるかというのは、自分でコントロールすることなんて不可能です。でもだからこそ、文学というものに存在理由(レーゾン・デートゥル)があって、今日もいちにち楽しく過ごせるのでしょう。

今日のところはこんな感じですが、読書会までもう少し日数があるので、もうちょっといろいろ読んでおこうかと思います。参加される方はATNDに登録するとよいみたいですよ!

第4回Skype読書会『風の歌を聴け』 : ATND