チェコ好きの日記

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狂わせ、狂う能力はあるか 橋下治『恋愛論』感想文

1年以上前に、二村ヒトシさん著『すべてはモテるためである』を読んだのですが、その二村さんが影響を受けた本であるという話を聞き、橋下治の『恋愛論』を手に取ってみました。『すべモテ』のほうの感想文はこちら。

上記のエントリでも書いているのですが、私は「モテ」とか「恋愛」というのは、哲学や芸術のことを考える上でとても重要な概念だと思っています。しかし私自身の弱点を1つ上げると、自分はこれまでの人生で実社会における「モテ」や「恋愛」にあまり力を入れてこなかった人間なので、話がどうしても観念的になりがちな傾向はあります。が、とにかくいってみましょう『恋愛論』。

恋愛に必要なものは”陶酔能力”

まずこちらの本はですね、1985年に行われた講演をもとにして書かれているのですが、講演がもとなので全文「しゃべり口調」なんですね。章立てなども特にされていないので、難しいことが書いてあるわけじゃないのですが、そういった意味では意外に読みにくいかもしれない。「恋愛」というものがそもそもそういうものなので、かえってこういう体裁は相性がいいんじゃないかとも思うわけですが、ぼやーっと、がーっとまくし立てられる話題のなかから「これだ!」と思う箇所を見つけて、自分の頭のなかでつなげたり再構成したりしないといけなかったですね。なので、人によって全然ちがった読み方をするのではないかと思いました。

ちなみに、私のなかで引っかかったのは、以下の”陶酔能力”という言葉。

恋愛に必要なものっていうのは、実は”陶酔能力”なんですね。
人間ていうのは存外、普段でも自分ていうのをガードして生きてる。ガードしてってことは、他人から守るってことだから、人間ていうのは、普段他人をはねのけて生きてるってことになりますよね。
(中略)
そういう普段のガードが「もう限界だ」「ああ、いやだ!」ってことになった時、人間ていうのは恋に落ちたり、恋愛を待望したりするもんなんですからね。

恋愛論 完全版 (文庫ぎんが堂) p25〜26

別の部分では、この”陶酔能力”のある人間のことを、「ドラマの分かる人」ともいい換えています。

まあ思い返してみれば、恋愛中の人間というのは、普通の精神状態ではないわけです。「トランス状態」といってもいいかもしれない。上記の引用にあるように、普段の社会生活を営む上で身にまとわざるをえないガードがとれちゃった状態、というのは非常にわかりやすいですね。私たちは「狂気」という言葉を聞いたとき、ものすごくクレイジーで精神病院まっしぐら的な何かをつい連想してしまいますが、いってみれば恋愛中の人間は、この狂気の状態にあるのです。正常な人間として普通の生活を送っているようで、「恋愛」というものを経験したことのある人間は、実は狂気と正気の間を行ったり来たりしていたわけです。

では、いったいどういった人間がこの”陶酔能力”を持っているのか。橋下治は、以下のように述べています。

陶酔能力っていうのはやっぱり、それを一人で持ちこたえられるかどうかっていうところがすごく大きいと思うのね。前に「恋愛するっていうことは、実は感性的な成熟ってものが必要なんだ」ってことは言ったけど、感性が成熟したればこそ、感動とか陶酔とかっていう、言ってみれば社会的には自分をあやうくしちゃうものを自分の内部で持ちこたえることが出来るんだよね。そういうことが分かんない人間ていうのは恋愛なんてものをしない方がいいし、破局の数だけコレクションしてればいいんだと思うの。
恋愛論 完全版 (文庫ぎんが堂) p34

恋愛するには”陶酔能力”が必要で、さらにそのためには、感性的な成熟=自分の内部で持ちこたえる力が必要だと。

思えば、中学とか高校とか大学のときはけっこうみんな気軽に恋愛していた気がするんですが、大人になるといろいろ大変というか、ただでさえ狂ったことがたくさんあるので、感性的に成熟していくどころか、逆に自分のガードが厚くなってしまうのかもしれません。あとは「自分1人の足でしっかり立っていなければ」という意識があるので、なかなか「狂ってみようぜ」ってことにはなりにくいという面もあるでしょうね。

人間に恋愛は必要なのか

しかし厄介なのは、この「狂気と正気の間の反復横とび」は筋肉のようなもので、鍛えないとなまってしまうんですね。狂気の側にずっといるとだるーんとしてしまうし、正気の側にずっといるとガチガチに凝ってしまいます。私たち大人に必要なのは、適度な運動と適切な食生活、そして精神的反復横とびです。

ただ、その精神的反復横とびをくり返すことで、いったい我々にどんなメリットがあるのか、ボディービルダーじゃないんだからムキムキになってもしょうがない、という話はあります。はたして人間に「恋愛」は必要なのか、「狂う」ことに意味はあるのか。

これに関しては私もはっきりしたことはまだいえなくて、とりあえず正気の側にいればガチガチだろうと何だろうと普通の社会生活は送れるのだし、無理して精神的マッチョを目指さなくてもいいのではないか、なんて思ったりもします。「狂気と正気の間の反復横とび」はとても難しくて、一歩踏み外すと終わり、みたいな危険な一面もあります。

ただ、私はAsk.fmでいただいた質問で、以下のように回答しています。

チェコ好きなりの審美眼の鍛え方を教えてください。
ーブログにも書きましたが*1、必ずしも美術史などに精通する必要はないと思います。それよりは、自分のまわりの人やモノをよーく観察したり、楽しいことをいっぱいしたり、美味しいものを食べたりするほうがいいと思います。そして時にふと訪れる、自分のなかの「闇」と「狂気」の声を、しっかりと聞き取ってください。この世界に正常な人間はいません。

普段はガードしているようでも、心のなかに「狂気」を抱えていない人間はいないと、私は考えています。おそらくその「狂気」を内に秘めたまま、穏やかに一生を終える人もたくさんいると思うのですが、世の中にはそれだけじゃ満足できないという変質者もいて、その人はもう、これは運命だと思って反復横とびを頑張るしかないですね。自分がどちら側の人間なのかは、胸に手を当ててよーく考えてみるしかないです。

そして、残念ながら「ああ、自分は”変質者”のほうだーー」と思う方も、悲観する必要は全然ありません。なんというか、世の中には「狂気」が必要で、それを定期的に目に見える状態に差し出す役割の人がいないと、社会全体がバランスを失って崩れてしまうのです。だから”変質者”は、社会に必要な存在なのです。もう「そういう担当」だと思って、頑張りましょう。


『恋愛論』で語られる内容は多岐にわたっていて、膨大です。それぞれの心の琴線に触れる箇所が、きっとあるでしょう。私はそれが”陶酔能力”の箇所だったわけですが、はたして、あなたに狂う能力は、人を狂わす能力は、あるでしょうか。

もしあったとしたら、たぶんそれはとても素敵なことなので、ぜひぜひ頑張ってください。応援しています。