チェコ好きの日記

旅 読書 アート いいものいっぱい 毎日楽しい

霊感と大学

今回のエントリは、タイトルに「新社会人の方々へ」みたいな一言を足そうかどうか迷ったのですけど、その一言があるせいで変な期待や誤読をされたり、間違った人が読みにきてしまうといけないと思ったので、外しました。だけど内容としては、「学校と職場はどうちがうのか」みたいなことを書こうとしています。

私は学生時代、某大学の芸術学科というところに通っていたのですけど、そこでは毎年、他のところと同じように、卒業式の後に謝恩会をやるわけですね。で、先輩方の話を聞いて知っていたのですけど、その謝恩会の場である教授が毎年毎年、卒業生に同じメッセージを送っているらしいのです。それで、実際に出てみたら私の代の謝恩会でもやっぱり事前に聞いていたのと同じことを言ったので、それを知っていた私は「本当に毎年同じなんだな……」と苦笑いをしました。

それはどんなメッセージかというと、「君たちは4年間、芸術というものの崇高さや重要性をひたすら勉強してきたわけだけども、社会に出たら芸術なんてものは存在しないも同然だからね。無視されるからね。外は殺伐とした世界だからね、まあ頑張ってね」という類のもので、何も謝恩会の場で、そんな地獄の入り口みたいなメッセージを送らなくても……とか思ったのですが、とにかく毎年同じことを言っているらしい。そして、これは何か含蓄のある深いメッセージというわけでもなく、その教授の性格を顧みるに、単に考えるのが面倒くさいから毎年同じこと言ってたんだろうな、と思うんですけどね。


それで、実際に大学(と、大学院)という場を卒業してみてどうだったか。社会では芸術を”存在しないも同然”として扱っていたか。いや、別にそんなことはなかったですね。最近では「アートで町おこしをしよう」みたいな動きも流行っているし、美術館は毎週混み混みだし、映画や文学に昔と変わらぬ情熱を注いでいる人だってたくさんいます。だから、ここ数年は「んな大げさな、嘘じゃん」と思っていたわけです。ここ数年は。

だけど、最近はたまに「やっぱりあのメッセージは本当だったのかもしれない」と思う瞬間があって、私はそういうときたまらない孤独を感じるのですけど、先生のいう”芸術”というのは、単に美術とか、映画とか、文学のことをいっているわけではなくて、その「在り方」を指してたんじゃないかな、なんて深読みをするのです。でも先に述べたように、先生はたぶん面倒くさいから毎年同じことを言っているだけで、これは完全に本当にただの私の深読みなんですけどね。

「在り方」というのはどういうことかというと、内田樹の『最終講義』のなかでわかりやすい例え話が出てくるので、それを使って説明しますね。

最終講義?生き延びるための六講 (生きる技術!叢書)

最終講義?生き延びるための六講 (生きる技術!叢書)

以前、関西の某大学が、大阪の高槻あたりの駅前に30階建てのキャンパスビルを建てるという話が出ていたそうなんです。結局地域住民の反対にあってビル自体は低くなったらしいのですけど、そこに幼稚園から大学院まで、一通りの教育機関をエスカレーター式に突っ込もうという構想だったらしいです。幼稚園、小学校、中学校、と階が上に行くにつれて成長していくわけですね、非常にわかりやすい。関東の大学でも、校舎がビルみたい(ていうかビル)になっている大学っていっぱいありますよね。

で、内田樹はそのビルみたいな校舎を、特にその「幼稚園から大学院まで一通りの教育機関をエスカレーター式に突っ込もうとした」校舎を、「頭が狂ってる」と痛烈に批判しているのです。私はちょっと「頭が狂ってる」とまでは思わないですけど、確かにそういう校舎ではあんまり勉強したくないなあ、他の人はどうだか知らないけど、とはかんじます。そういえば振り返ってみると、「ビルみたいな校舎の大学を卒業した人とは話をするのがちょっと大変(気が合わないというわけではないしその人が嫌いなわけじゃないけど、お互いの前提条件がちょっとズレてる)」みたいなのが私の経験則としてあったので*1、「んなバカな」と青ざめたんですよね。だって校舎ですよ、校舎。たかが校舎。

では内田樹は大学の校舎とはどうあるべきと考えているかというと、彼が教鞭をとっていた神戸女学院大学の校舎を設計したウィリアム・メレル・ヴォーリズという人の建築を例に出しています。ヴォーリズの建築というのは私も目にしたことがあるんですけど、この人は「校舎が人を作る」というふうな考えを持っていて、教育機関として理想的な建築とは何かというのを、よーく考えた設計をしていたようです。

このヴォーリズという人は校舎としてどういう建物を作ったのかというと、まあまずビルみたいなのは建てないですよね。この人は、「隠し部屋」とか「隠し屋上」とか「隠しトイレ」とか、そういう「隠しナントカ」みたいなのを校舎にいっぱい作ったそうです。ちょっと意味わかんないですよね。何のために? っていう。

しかしこれは、「学ぶ」ということがどういうことであるべきかを建築として体現しており、そのまま「学び」の比喩になっているのだとかで。

★★★

そう、それでそもそもこのエントリは「学校と職場はどうちがうのか」みたいなことを書こうとして始まったわけですけども、いってみれば学校というのはヴォーリズ建築であり、職場というのはビルなのです。もちろん人によっては、「いや学校もビルだったよ(実際的な意味でも比喩的な意味でも)」という方もいるのでしょうが、私の場合は間違いなく、学校はヴォーリズ建築(ビルっぽくない建物)であり、職場がビルです(実際的な意味でも比喩的な意味でも)。

もう少し具体的にいうと、学校という場所はとにかく一覧性のない場所で、無数の隠し扉がある場所でした。それで、社会人になってからの職場というのは、「見える化」なんて言葉もありますけど、とにかくできる限りのことを明るみに出そうとするところです。当たり前ですね、ビジネスですからね。暗がりを残しておくなんてしたら失敗するリスクが高まりますからね。

謝恩会で某教授がいっていた”社会に出たら芸術なんてものは存在しないも同然”という言葉を深読みすると、おそらくこの”芸術”というのは、「隠しナントカ」や「暗がり」のことだったんだろうな、なんて私は思うのです。わからないことがある。意味のないことがある。気付かないで通り過ぎてしまうものがある。だけど、社会に出ると、そういうものは存在しないも同然だと扱われてしまう、みんなはとにかく全てを明るみに出そうとしている。なるほど、そういう話なら確かにそうかもしれません。ちなみにこういう行為を私は批判しているわけじゃないですよ、むしろこれは仕事をする上で重要なことです。

だけど私はこの「ビルっぽい思考」をするのが本当に苦手で、それでずいぶん苦労しているし損もしているんですけど、それでもまあなんとか社会人はやっていけるよ、というのが本日のメッセージですかね。

それで、タイトルにある「霊感」というのは何かというと、これはもちろん幽霊が見えるという意味ではなくて(私は幽霊を見たことはありません)、幼稚園から大学院までをエスカレーター式に30階建てのビルのなかに突っ込むという、その発想を「頭が狂ってる」と思えるかどうか、これに気付ける人、危険性を体で察知できる人、これは「霊感」のある人だなと私は思うのです。内田樹には遠く及ばないですが、私は手前味噌ながら、自分にはこの「霊感」がちょっとだけある、と思っています。

もしこれを読んで「自分にも霊感があるかも」と思う方がいたら、その蕾を長い社会人生活で潰さないように、できるだけ構って守ってあげたほうがよいでしょう。いや、人によってはかえって足枷になる可能性もあるので、蕾を踏んづけてとっとと潰したほうがいい場合もあるかもしれません。どちらが良い悪いという話ではないので、そのあたりの判断はお好みで。

嘘ではないのでエイプリルフールには書きませんでした。

*1:ちなみにその大学出身の人を弁護しておくと、「話をするのがちょっと大変」というのは向こうが悪かったわけではなく双方の問題なので、向こうのコミュニケーションの仕方が劣っている、というわけではありません。そしてサンプル数激少ないので全く参考にならない経験則です。