チェコ好きの日記

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消費じゃない「上質な暮らし」と、解釈じゃない批評

先日読んだこちらの記事が話題になっているようだったので、少しばかり私見をメモしておこうかと思います。cakes.mu

記事内では、昨今注目を集めている「サードウェーブ」、「ブルーボトルコーヒー」という言葉と、その周辺の状況について語られています。内容をざっくりいってしまうと、「こういうのにハマってる人っていうのは本質を見ていないんじゃないの、反資本主義のようで新たな消費を作り出しているだけなんじゃないの、そういうのってちょっと笑えるよね」といったもの。以下は、記事からの引用ですが。

「サードウェーブ系男子」の価値観って、アーバンよりアウトドアで、フォーマルよりカジュアルで、大量生産品よりクラフトマンシップで、クルマより自転車でみたいなことだよね。書き出してみてわかったけど、自分とすべて逆だ。で、彼らの根本には消費社会はもう古いといった主張、哲学があるわけでしょ。

★★★

この記事に対して、私が観測したところ、インターネット上の反応は大きく分けて2種類あったように思います。

1つは記事内容に同調し、「そうそう、そうなんだよね」といっているもの。もう1つは、「そうしてまたナナメから物事を見て人をバカにして!」といっているもの。ちなみに私自身の立場を明らかにしておくと、自分はどちらかというと前者の反応をしていました。しかし、後者の反応をした人のいっていることもわかるし、いわれてみればちょっと意地悪な書き方をしているところもあるよねー、と思いました。だけど、語り口や書き方の問題は別として、この”反資本主義のようで新たな消費を作り出しているだけ”という観点は、どちらの反応をした人も、よく検討すべき点なのではないかと私は思います。これってなかなか難しい問題です。

私もまだちょっと整理できていない部分があるのですが、論点として、「そもそも”サードウェーブ”はカウンターカルチャーなのか?」といったところから話を始めないといけない気がします。

こちらの記事内で言及されている佐久間裕美子さんの『ヒップな生活革命 ideaink 〈アイデアインク〉』という本は私も以前読んだのですが、佐久間さんは現在のこの「サードウェーブ」的流れを、パンクやヒッピーといったかつてのカウンターカルチャーとは異なるもの、として紹介しています。具体的にどこがちがうのかというと、「主流と共存しながら自分の商売や表現を通じて自己の価値観を主張している」という点であるとしており、つまり消費社会全否定、体制全否定ではなく、ある程度は共存しながら、自分にとってより気持ちのいいものを追求していく、というのが「サードウェーブ」のようです。aniram-czech.hatenablog.com

確かに(全盛期をリアルタイムで知らないのでよくわからない部分もありますが)パンクやヒッピーよりも、「サードウェーブ」はだいぶマイルドな印象はあります。そこに過激な主張があるようには思えません。だけど、佐久間さんのおっしゃるように「”サードウェーブ”はカウンターカルチャーではない」といい切ることはまだできないんじゃないかと私は思っていて、それはこの「サードウェーブ」という流れがまだ始まったばかりで、どこに着地しようとしているのかがよく見えないからです。文化って、後から振り返ることはできても、リアルタイムで考えるのはすごく難しいです。

そうではない可能性もあるという前提は共有した上で、もしこれが仮にカウンターカルチャー”だとしたら”、私はやっぱりちょっと身構えといたほうがいいんじゃないかなーと思ってしまいます。かつてのカウンターカルチャー、パンクやヒッピーが結局新たな消費文化に回収されてしまったように、サードウェーブもまた同じような運命をたどる可能性が残されているからです。

「消費文化」は、通りすぎてしまうとむなしい

さて、専門ではないので感情論にはなってしまうのですが、ゆくゆくは「新たな消費文化」となってしまう可能性が高いカウンターカルチャーがなぜよろしくないのかというと、「通りすぎてしまうとむなしいから」かな、と私は考えます。もちろん現代社会で生きている限り、消費者であることから完全に逃れられる人なんていないですが、それが「ライフスタイル」や「生き方」にまで浸透してしまうと、それが去ったときに失うものはちょっと無視できないくらいには大きいのではないでしょうか。心に風がヒューっとふくかんじというか。私はミーハーなとこあるので流されやすいのを自覚しておりますが、体験談として、「心にヒュー」というやつは、けっこうキツイです。

自分が今選びとっているライフスタイルが〈消費〉なのか、それとも〈消費していない〉のか、それをリアルタイムで見極めることは非常に困難です。「本当に好き」なのか、「流行っているから好き」なのかは、3年か5年くらい経ってみないとわからないものだと私は思います。

ただちょっとややこしい話として、ブームが去った後、「自分が本当はそれをあんまり好きじゃなかった」ということが判明したとしても、それで「むなしく」ならなければ、それは〈消費〉ではなかった、と私はいえると思うんですよね。「昔そんなのあったよね、懐かしいね楽しかったね」とウキウキ振り返ることができれば。

ちょっと整理してみましょうか。

本当に好き 本当は好きじゃなかった
むなしい ノスタルジア*1 〈消費〉
むなしくない 〈消費していない〉 〈消費〉のようで実は〈消費していない〉


上の表の右上部分の要素を、100%とはいかなくても極力排除していく方向で、個々人が努力していくべきなのではと私は思うんですね。サードウェーブ系男子になること、ブルーボトルコーヒーの行列に並ぶこと、それ自体が悪いわけでは決してありません。ただ、「これって後になってスキマ風ふかないかしら?」という自己点検は、常に怠らないほうがいいと思うのです。サードウェーブ自体が悪いのではなく、それが自分にとって有益であるか、有害であるか、そこの判断は他でもない自分自身がしなければなりません。

消費じゃない「上質な暮らし」は、解釈じゃない批評にちょっと似ている

しかし繰り返すように、自己点検といっても限度があります。何事においてもそうですが、「リアルタイムの判断」ほど難しいものはないからです。ではどうすればいいのかというと、私もまだちょっと考え中なのですが、そのヒントがスーザン・ソンタグの『反解釈』に書かれているような気がしました。

反解釈 (ちくま学芸文庫)

反解釈 (ちくま学芸文庫)

本書でされているのは映画や絵画などの芸術の批評の話で、サードウェーブともカウンターカルチャーともまったく関係ないんですけど、この本は一言でいうと、タイトルのとおり「芸術作品を解釈すんな」と主張しているんですね。解釈というのは、私はよくやってしまうんですけど、「この作品がいいたいことってこういうことでしょ!」と内容をまとめちゃうことです。でもそれは、目の前の芸術作品を貧困化、単純化するだけであると。

では真の批評というのはどういう地平で行われるべきなのかというと、ソンタグは「芸術の形式に注目しろ」とか「外形を真に正確に、鋭く、共感をこめて描写しろ」とかいっているんですけど、これはちょっとわかりにくい。それならば逆、真の批評とはどういう地平で行われるべきではないか、こっちから読むともう少しわかります。「芸術」を「思想」に吸収せしめること、「芸術」を「文化」に吸収せしめること、これはやらないほうがいいと彼女はいっているんですね。

いま重要なのはわれわれの感覚を取り戻すことだ。われわれはもっと多くを見、もっと多くを聞き、もっと多くを感じるようにならなければならない。
(中略)
批評の機能は、作品がいかにしてそのものであるかを、いや作品がまさにそのものであることを、明らかにすることであって、作品が何を意味しているかを示すことではない。

これを私流にサードウェーブ系の話とつなげると、「ブルーボトルコーヒーは美味しい」→「だから行列に並ぶ」、これはどんなにネタ化されようと、後になって心にヒューっと風がふく可能性は低いので大丈夫そうです。ただまたややこしい話として、「本当に美味しいのか」「美味しいと思わされてるだけなのか」って考えていくとドツボにはまってしまいそうですが。

つまり、問題は「ブルーボトルコーヒー」が味覚の問題ではなく思想や文化の問題になってしまうこと、「コーヒーそのもの」ではなく「コーヒーが意味しているもの」に回収されてしまうことにあります。本当の意味での「上質な暮らし」を追求するならば、自分の視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚、それらをビンビンに研ぎ澄まななければならないということです。そして、その難しさを肝に命じておくことです。自分の五感を信頼するって相当な鍛錬が必要だし、一朝一夕ではいかないものだと私は思います。コーヒーの味という、本当にそのもの自体を堪能しようと思うとものすごい情報量になるものを、思想や文化で捉えてしまうこと、それはコーヒーの味を貧困化、単純化してしまうことにつながります。

まあそうやって、なんでもかんでも疑ってかかると疲れちゃうし、たまにはそういうこと何も考えずにワーっとやりたいっていうときもありますが、消費じゃない「上質な暮らし」と解釈じゃない批評って少し似てるなと思ったまでです。

サードウェーブが新たな消費文化ではなく、我々の生活に本当の意味で根付いていってくれることを、遠くからではありますが私は応援しています。ただしそのためには、この流れの作り手も、受け手も、その中間にいる人たちも、常に警戒と反省をし、舟の舵をとることを怠るべきではないと思うのです。

反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか

反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか

※こちらの本はまだ読み途中ですが、すごい面白いです

*1:これはこれでなかなか処理しづらい問題ではある