チェコ好きの日記

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ショッピングモールは嫌われ者?

批評系の人たちの間では、ショッピングモールという存在はひどく嫌われています。かくいう私もこの施設に対して、今まではあまり良い印象を持っていませんでした。便利だし、実際はなんだかんだいって利用しているんですけどね。

ショッピングモールが一部の人たちに嫌われてしまう理由は何かというと、いちばんはやはりその画一性ではないかと思います。その土地独自の色がまったくなく、全国どこでも、あるいは世界のどこでも、ほとんど同じ建物のなかに似たような商品が並ぶ。とある研究者はショッピングモールのことを「グローバル資本による植民地化*1といったそうですが、なるほど、これはすごい嫌われようです。

そんなかんじでなにかと悪者扱いされてしまうショッピングモールですが、そういえばこの施設についてちゃんと考えたことはなかったなーと思い、最近になって関連する本を2冊ほど読んでみました。というわけで今回は、これらの本からヒントを得たショッピングモールについての個人的なメモです。

ショッピングモールにいるのはマイルドヤンキーではない

まずショッピングモールというと、関連する言葉として浮かぶのが「ファスト風土」であったり「マイルドヤンキー」であったりするんじゃないかと思います。地方都市にある商業施設、というイメージですね。しかし以下の本では、海外のショッピングモールとの比較などからそれが否定されています。

アジアや中東では、ショッピングモールはむしろ都心にあるものであり、マイルドヤンキーどころかアッパーミドル層の消費の象徴らしいです。そして著者は、六本木ヒルズ東京ミッドタウン汐留シオサイトも、ショッピングモールの一種であるといっているんですね。「街を模した多機能な複合商業施設」であるという点に加え、汐留シオサイトの設計を手掛けたのはショッピングモール設計の最大手、ザ・ジャーディ・パートナーシップ。つまり、地方都市にあるショッピングモールも、都心にある商業施設も、成り立ちにそんなにちがいはない、ということらしいです。異なるのは入っているテナントの色と、横に幅をとっているか縦に幅をとっているか、でしょうか。地方都市のショッピングモールは平べったい構造をしていますが、都心だとそんなに横幅はとれないですね。私自身は筆者のこの定義にはちょっと疑問を抱いてしまうのですが、確かに、「何をもってショッピングモールとするか」というのはなかなか白黒つけられない問題ではあります。

私が一度行ってみたいなーと思っているのがタイのバンコクにある「ターミナル21」というショッピングモールで、ここはショッピングモールが1つのテーマパークになっているらしいんですよね。日本だとお台場のヴィーナスフォートがおそらく似たようなことをやっていて、モール全体がヨーロッパの街を模して作られています。「ターミナル21」はフロアごとに異なるコンセプトから構成されていて、1階はローマ、2階はパリ、3階は東京……みたいになっているらしい。「ターミナル21」のつくりは(聞いたところによると)ヴィーナスフォートに負けず劣らずキッチュなかんじのようですが、もうそのキッチュさが一周まわって面白い気がしてきます。ここはいつかぜひ行ってみたい。

ショッピングモールを日本だけの文脈でとらえて、「マイルドヤンキーが集まるファスト風土の風景」として考えてしまうと、その本質がわからなくなってしまいます。海外の施設と比較しながら、あの場所がいったいどのような思想をもっているのか、何をもって設計されているのか、考えていく必要がありそうです。

内と外ーーショッピングモールは『ユートピア』なのか

トマス・モアの著作で『ユートピア (岩波文庫 赤202-1)』というやつがありますが、ショッピングモールってその『ユートピア』っぽいよね、という話がされていた以下の本も面白かったです。

私が『ユートピア』を読んだのはもう随分前なので細かいところは記憶にないのですが、どういったところが『ユートピア』っぽいのかというと、まずはその構造です。本のなかに出てくる「ユートピア島」は、もともと大陸の一部だったところを切り離して、そのなかに浮島を作っている。つまり、外の世界から隔てられた環境に作っているということだと思うんですが、この構造がショッピングモールやディズニーランド、シーと一致しているといいます。ショッピングモールって、ヴィーナスフォートなんかはその典型といえるかもしれませんが、内装は凝ってるけど外観が味気ないものが多いですよね。そしてディズニーランドやシーは、一度なかに入ると外の世界がまったく見えない構造になっています。あのかんじは、トマス・モアが描いた世界に似ていると。時をこえて現代にあらわる『ユートピア』、不思議な話ですね。

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1516年初版の『ユートピア』の挿絵

そういえばジャ・ジャンクーの映画に『世界』という作品がありますが、これは北京にある「世界公園」というテーマパークが舞台になっています。「世界公園」は、ピラミッドにエッフェル塔、マンハッタンの摩天楼などなどが1/10のサイズになって並んでいる楽しいところなんですが、そこで働く主人公たちにとっては、外の世界に出ることができない息苦しい場所として描かれます。彼らはテーマパークの外に出ることができなくて、本物の「世界」に旅立つための飛行機に乗ることができない。

内と外、というのはショッピングモールやテーマパークを考える上で面白い切り口になるかもしれません。


The World (Shijie) Dir. Jia Zhangke, 2004 - YouTube

また『ショッピングモールから考える: ユートピア・バックヤード・未来都市 (ゲンロン叢書)』のなかで面白かったのは、「バックヤード問題」。千葉県在住の方には大変失礼な話ですが、この本では千葉県は実質的に東京のバックヤードになっている、ということが語られています。東京でビルを建てるときに、房総半島からコンクリートをつくるための石や砂が運び出される。そして古いビルを壊した後の産業廃棄物の処理場もまた、千葉県であると。今回紹介している2冊の本では「ショッピングモーライゼーション」、都市のショッピングモール化という考え方が提示されているんですが、東京が一種のショッピングモールのようになっていて、近郊都市がそれのバックヤードになっている。

この話でふと思い出したのはフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』なんですが、あの小説って、主人公たちが住むロングアイランドと、主人公たちが遊びに出かけるマンハッタンの間に、「灰の谷」っていうのがあるんですよ。ロングアイランドからマンハッタンに行くためには、必ずここを通過しなくてはいけないんです。マンハッタンで出る産業廃棄物的なものがここで処理されてたりするんですけど、この「灰の谷」って場所が、この小説ではすごく重要なんですよね。これってつまり、キラキラした場所には必ず裏がある、表と裏は切っても切り離せない関係なのだーーっていうことの暗示なのかと私は思っていたんですが、「灰の谷」をショッピングモーライゼーション、バックヤード問題として考えてみてもいいのかもしれません。

まとめ

2冊のショッピングモール本は、「ショッピングモール=ファスト風土」という固定観念を変えようという話題と、世界がショッピングモール化していくのはどのみち避けられないから良いか悪いかではなく「どうしようもない」という話題と、そのなかでなおショッピングモールの肯定的な部分を見つけ出していこう、という話題が展開されていたと思うのですが、問題があちこちに飛びすぎていて私もまだちょっと頭が追いついていないです。今の日本はまだまだ東京・大阪の2極集中でそれ以外の都市はバックヤード状態、というのが実情かと思うんですが、最近は地方都市のローカルな魅力を再発見して広めているような人たちもいます。このまま都市のショッピングモール化が進むのか、それともなにか別の都市のあり方が見出されるのか。どちらのほうがより幸せなのか。

消費、都市、ショッピングモール、このあたりの話題について私はもう少し追ってみようかと思っています。