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日本の「インターネット的」はテレクラから?

先日Kindl版が出た出た宮台真司の『世紀末の作法 終ワリナキ日常ヲ生キル知恵』を読み終わりました。本書は宮台真司が主に90年代に雑誌などに書いた文章をまとめたもので、全体から90年代のかおりがムンムンするのですが、2015年の今になって読むとまるで「答え合わせ」をしているような気分になれて楽しかったです。

90年代を私は主に小学生として過ごしたのであまり実感はわかないのですが、なかでも、今のインターネットにつながる感覚を日本は実は「テレクラ」を通して先取りしていた、という話が非常に面白かったです。今回の感想文は、そのあたりを中心に書いていこうかと思います。

糸井重里とテレクラの「インターネット的」

本書によると、日本はインターネットの普及が遅く、一時期は普及率が先進国のなかで最下位に近かったといいます。しかしその先の指摘が面白くて、インターネットをn×n、つまり匿名の人間と匿名の不特定多数の人間とのやり取りとして考えると、日本では他の先進国に先んじてテレクラ、伝言ダイヤル、ツーショットといった「電話風俗」が発達していました。これらの「電話風俗」はまさしくn×nのやり取りであり、インターネットの普及に先駆けて「インターネット的」な価値観が普及していた、と宮台真司はいっているんですね。

同じくインターネット、ではなく「インターネット的」という概念について考えている糸井重里の本を読むと、確かに「電話風俗」は「インターネット的」の先駆けだったのかもしれない、と思います。糸井重里は「インターネット的」という概念を「リンク」「シェア」「フラット」の3要素から説明していますが、そのなかの「リンク」は、まさしく宮台真司がいっている「n×nのやり取り」ってことですよね。女性が電話をかけて、でもそれがだれにつながるかわからない、というのがテレクラです。同じく、たとえばブログを書いたとして、それがだれに読まれるかわからない、というのがインターネットです。糸井重里によれば「リンク」の対になる考えが「ジョイント」、決まった1対1のやり取りですが、電話風俗の世界はこの「ジョイント」とは正反対の、まさしく「リンク」的なやり取りが交わされていたことがわかります。

また、「フラット」も電話風俗を通してみるとわかりやすい話です。「フラット」とは、個人の年齢、性別、社会的立場などの意味が失われるという考えですが、テレクラの世界では(性別は偽れない、というか偽ってもあんまり意味ないですが)年齢、社会的立場について本当のことをいわなくてもいいし、そこで電話のやり取りをしている2者間での「性」にまつわる情報以外に価値はなかった、と考えると、これも確かに「インターネット的」な世界だったんだな、と思います。

「シェア」だけちょっと私のこじつけになりますが、TwitterFacebookなどで情報がシェアされる、その「場」の問題として考えると、テレクラも確かに匿名nと匿名nが出会う「場」、プラットフォームを提供していたんだなと思うと、けっこう納得できます。

上記のような内容を受けて、「インターネット的」のポジティブな面について語っているのが糸井重里で、「インターネット的」のネガティブな面について語っているのが宮台真司である、と考えると、けっこう面白いんじゃないかなと思いました。そして、可能性やポジティブな面については糸井重里の本を読んでもらうとして、私は宮台真司のいう露悪的でネガティブな面と、それへの対処法をちょっと考えてみたいのです。

ハーム・リダクションという考え方

n×nのやり取りが行なわれる世界では、「旅の恥はかき捨て」が起こりやすくなると本書で説明されています。いわく、「ムラ社会」の共同体が重視されてきた日本では、「ムラ」のなかでは相互監視が行なわれとても倫理的に振る舞うけれど、一歩「ムラ」を出るとその監視システムが働かなくなり、抑圧されていた欲望を噴出させる人が多くなるといいます。下世話な話をすると、東南アジアに買春しに行く人なんていうのはこの典型的な例だなと思います。あれは、単に物価が安いからという理由じゃなくて、やはり日本という「ムラ社会」を出る、ということに意味があると思うんですよね。昨今では、SNSが実名の自分と強く結び付けられたり、匿名であってもアカウントに人格が宿る的なこともあるので、必ずしも「旅の恥はかき捨て」とはいえなくなっている気もしますが。

宮台真司はそんな、共同体のなかで維持される倫理観が希薄になる「インターネット的」な世界において、「規制ではなく動機の背景をいじれ」といいます。規制だけだと、人は「なぜそれはダメなのか」を考えなくなるし、禁止されると余計に欲求が高まってしまったりします。なので、動機の背景をいじる。「なぜそれをやるのか」「どれくらいやるのが自分にとって望ましいのか」を考えさせる。それで、本書のなかでこの言葉は使われていないんですが、これって私がここ3ヵ月内くらいに覚えた「ハーム・リダクション」のことだよね、と思ったのです。

本書によると、都会の高校にはクスリ経験者が山ほどいるのに、意外にもジャンキーは少ないといいます。田舎の場合はこれが逆で、クスリ経験者は少ないけど、一度ハマるとジャンキーになる率が高い、らしいです。なぜこういったことが起こるのかというと、都会ではクスリ経験者のロールモデルや情報網が発達しているため、クスリに手を出したとしても上手い付き合い方がわかるというかなんというか、とりあえずジャンキーにはなりにくいというんですね。

クスリが人間にあまり良い影響を及ぼさないというのは間違いないですが、これをガチガチに規制して(「クスリ、ダメ、ゼッタイ。」)その代償に一部のジャンキーを生み出してしまうのがいいのか、ゆるく禁止しながらクスリや売春を合法化して管理し、「手を出しちゃうやつはいるけどジャンキーになって死ぬヤツはいない」というほうがいいのか。ちなみに後者が「ハーム・リダクション」という考え方で、ポルトガルやオランダなんかでは実際に薬物に対してこの施策が行なわれており、効果も出ているそうです。宮台真司は90年代にこの方法を提示しているわけですが、今の世界はどんどんこの後者のやり方に近づいているような気が、私はします。

クスリの例はわかりやすいですが、これは宗教なんかにもいえる話で、ガチガチにハマって地下鉄サリン事件みたいなのを起こす人が出るのは絶対に避けたいところですが、「宗教」までいかず「スピリチュアル」ってことにして、ゆるーくパワースポットを拝んだりヨガをやったり瞑想したりするぶんにはまったく害がない。ガチガチの規制よりハーム・リダクション、という発想は、「インターネット的」な世界においてすごく有効なのかな、と思います。

ただ、ゆるーく規制され管理されている状態、いわば「みんながちょっとずつラリってる世界」が本当に健全で幸福なのかというとこれはまだ少し考えなくてはいけないなと私は思っています。が、とりあえず「今の世界はハーム・リダクション的である」という知見を手に入れた私は、新しいオモチャを手にした小学生のごとくこの言葉をいろいろなところで使いたくて、みんなで考えたくて、ウズウズしています。

みなさんは、「一部の人がジャンキーになり死ぬ世界」と、「みんながちょっとずつラリってる世界」、どちらであるべきだと思いますか?

★★★

糸井重里の『インターネット的』は2001年の本で、宮台真司の『世紀末の作法』は、90年代のテキストがメインです。糸井重里の『インターネット的』は巷で予言の書であるといわれていますが、この宮台真司のテキストもまた予言的である、と私は思いました。

「インターネット的」ーー「リンク」「シェア」「フラット」のポジティブな面とネガティブな面を考える書として、2冊を鏡のように照らし合わせて読んでみると、面白いんじゃないでしょうか。