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チェコ好きの日記

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『クラブカルチャー!』/「意味」から「強度」へ、音韻から音圧へ

私は昔から音楽の話をするのが苦手で、理由の1つはたぶん、歴史がわからないからです。文学史は高校の世界史とか日本史でやるし、映画史は本を数冊読めば事足りるし、美術史もどっかから出てる「西洋美術史」と「日本美術史」ってタイトルがついている2冊を読めばだいたいはわかる気がします。でも音楽って、ジャンルが細かすぎて全体像が把握できないんですよね。というか全体像を把握する必要なんてないのかもしれないけど、私はなんか、おっきい枠が見えないと「え? これ合ってる?」みたいなかんじで不安になります。

あとは、〈言語による解釈〉ができないからなんだと思います。小説や評論はそのまま書いてあることを解釈すればいいから、私にとってはいちばん簡単。次点は、セリフがあって、一時停止ボタンを押せば情景描写ができる映画です。写真やマンガもここに入りますね。次が美術で、これも今目に見えているものを描写すればいいから、なんかできる気がします。でも音楽は難しくて、だって一時停止できないでしょう。一時停止したら音が消えちゃうから、本を読むときに付箋をはっておいたり、映画の1コマ1コマを一時停止ボタンを押しながらショット分析したりしてきた私にとっては、音楽って〈どうすればいいのかわからない〉っていう分野なんですよね。そもそもあんまり読んだことがないのでアレですが、音楽批評とかの人はどうやってやってるんだろうなー、と不思議に思います。なんか、より自分の感覚的な部分に踏み込んでいかないといけないというか、私はそういうの恥ずかしいって思っちゃうんですよね。写真を見て、「画面右端にリンゴがあります」っていうのは別にただの事実だから恥ずかしくないけど、何もないところに「ここにリンゴがある気がします」っていうのは恥ずかしくないですか? そんなのは私だけですか?

とりあえず、一時停止すると消えてしまう、っていうのは、音楽を音楽たらしめる要素というか、他の芸術と一線を画する点なんだと思います。流れる芸術というか、時間の芸術というか、連続のなかにしか存在しない芸術というか。

そんなかたちで、前置きがけっこう長くなりましたが、湯山玲子氏の『クラブカルチャー!』という本を読んだので、感想を書きます。タイトルのとおり、クラブミュージック、クラブカルチャーについて書かれた本です。

クラブカルチャー!

クラブカルチャー!

「意味」から「強度」へ、音韻から音圧へ

本書では、イビサシンガポール、韓国や中国などなど世界中のクラブについての言及があってそこらへんも面白かったのですが、いちばん興味深かったのが、世紀末を境に音楽が変わった、という記述でした。いわく、20世紀型の音楽は「メロディーとコードによって起承転結という物語性をつくり上げるもの*1」だったのだけれど、21世紀の音楽は「音質と音圧」を重視しており、さらにそこに〈踊る〉という身体性が加わったと。これはつまり、物語という「意味」をもったものから、意味をもたない「強度」重視の型へ音楽が変化した、ということです。

私が一時期、詳しくなろうと勉強したけど結局途中で挫折したクラシックなんかは、まさしく「意味」の音楽であるといえると思います。物語性もすっごくある。だから、結局飽きちゃいましたけど、「西洋音楽史」っていうクラシックの本は何冊か見つかったし、勉強するっていう意味ではやりやすかったんですよね。だけど、クラブミュージックは基本的にドンドンしてるだけなので、まさに「音質と音圧」の音楽なんだろうなと思います。正直、なんか文章書こうと思ったら私はクラシックのほうが書きやすいですね。

もっとわかりやすいのは身体性の話で、クラシックを聴くお客さんっていうのは基本的にお行儀よく座ってると思うんですけど、クラブに来るお客さんっていうのはみんな踊ってますね。まあクラシックとクラブミュージックを対比させていいのかどうかよくわかんないんですけど、前者が20世紀的であり後者が21世紀的であるという考え方は私にとってはわかりやすいです。あとは20世紀の音楽ってどうしても地域性が強いというか、たとえばクラシックは西欧の文脈と切り離せないわけですけど、クラブミュージックっていうのはなんかグローバルな気はしますね。「意味」がないから、歴史や文脈がわからなくっても踊れるから、それでみんな仲良くなれるっていう音楽なんだと思います。

また本書で面白かったのは、インターネットとクラブミュージックの関係について書いてあったところでした。なぜ座って聴く音楽(クラシック)から自ら踊る音楽(クラブミュージック)へ移行したのかというと、買い物でも友人関係でも、なんでもかんでもバーチャルで済ませられるようになったインターネットへの反動ではないかと。

ただし本書に載っていた菊地成孔のインタビューがまた面白くて、バーチャルへの反動から身体性を追求するっていうのはまあいいのだけども、〈身体的快楽の悪用〉というのもありうる、と。

東大繋がりって訳じゃないけど、オウムのヨガから特に変わってないんですよ。だから、あんまり簡単に、一番良いものだとも、無条件に素晴らしいことだとも思わないようにね、って生徒にも言ってます。踊って気持ちいいのは、もちろんいいことなんだけど、オウムがなんであんなに儲けたかって、説教だけじゃなくてドラッグとヨガだし、音楽もあったし、踊りもあったでしょって。そこに修行や啓発も加わって。
クラブカルチャー!』p174

このあたりは、奇しくも前回のエントリ「日本の「インターネット的」はテレクラから? - チェコ好きの日記」で触れたハーム・リダクションという考え方につながってくるような気が私にはするんですけど、カルト宗教にハマるくらいだったらクラバーになったほうがそりゃいいですよね。クラシックのお客さんはラリってないけど、クラブに来るお客さんってやっぱり(比喩的な意味で)ラリってる気がするので、私はクラブミュージックっていうのはハーム・リダクション的だな、と思いました。

コーヒーハウスにはなれないクラブ

一箇所気になったのが、クラブはドラッグや犯罪の温床になる可能性があり、「お上から嫌われる」、「社会へのアンチテーゼ」の場所である*2、という記述です。おそらくそんなに重要な箇所ではないのですが、これらの言葉から私が連想したのが、コーヒーハウスでした。

aniram-czech.hatenablog.com

今あるいわゆる「カフェ」からはあまりそういったイメージはわきませんが、1650年代にロンドンにコーヒーハウスが出来た頃なんていうのは、この場所はすごくお上から嫌われたそうです。理由は、「人が集まる場所」として、議論や情報交換がされるから。そこで謀反の計画なんて立てられたらたまらないので、出来始めたばかりの頃、コーヒーハウスは政府からめちゃくちゃ弾圧を受けたんだそうです。

同じくクラブも「人が集まる場所」ではありますが、コーヒーハウスで提供されるコーヒーとは異なり、クラブでみんなが飲んでいるのは主にお酒です。コーヒーハウスが覚醒の場所であるとしたら、クラブは酩酊の場所です。だから、前者は「社会へのアンチテーゼ」から革命が生まれることもあるかもしれないけど、クラブではみんな酔ってるからアンチテーゼなんてないんじゃないの、と私は思ったのでした。確かにドラッグや犯罪を抑制するために取り締まることはあるかもしれないけど、みんな適当にそこでガス抜きしてくれればいいやと思って、私が政府関係者なら有事であってもクラブを容認、というか保護しますね。

最近は(というか、昔を知らないのでアレですが)どこもかしこもクラブ的である、あるいは(コーヒーハウスではなく)カフェ的である、ということはいえるのかもしれません。みんな酔ってる、酩酊してる。私たちは、どこへ行ったら覚醒できるのか。あるいは、酩酊の場所にいながら覚醒することはできるのか。それとも、覚醒なんてする必要はもはやないのかーー

『クラブカルチャー!』を読みながら、私はそんなことを考えたのでした。音楽の話をしているのに具体的な曲とかアーティストが全然出てこなかったのは、私が音オンチだからです。