チェコ好きの日記

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欲望にひた走った中村うさぎが逆に禁欲的であるという聖書のはなし/あるいは『フラニーとズーイ』。

怪しげなカルト宗教にハマってしまったわけではなくただの趣味ですが、最近聖書に関する本をたくさん読むようにしています。今回読んで面白かったのは、クリスチャンでカルヴァン派の作家・佐藤優さんと、同じくクリスチャンでバプテスト派のエッセイスト・中村うさぎさんの対談本。Kindl版もあるよ。

聖書を語る

聖書を語る

私はこれを読むまで中村うさぎさんがクリスチャンであるということを知らなかったのですが、本書の冒頭で語られる、佐藤さんが中村さんに興味を持った理由がすごく面白かった。中村うさぎさんといえば、買い物依存症、美容整形、ホストクラブ通い、デリヘル嬢体験などなど、欲望に忠実にやりたいことをやりたいだけやってきた女性という印象があったのですが、佐藤さんはそんな彼女のことをピューリタン的、禁欲的だと評しているんです。

人間はどこまで「堕落」に耐えられるのか

中村さん自身も、自分が「禁欲的」だという評価には疑問を抱いていて、「ピューリタンとは真逆じゃないの?」という質問を佐藤さんに投げかけています。自分は、洗礼を受けながら神を裏切り続けてきた人間であると。中村さんが行なってきたブランド狂いも、美容整形も、ホストクラブ通いも、デリヘル体験も、すべてピューリタリニズムでは禁止されていることばかりです。

なぜこれらのことが禁止されているのかというと、人間は弱いので、浪費や飲酒、セックスにハマるとそこから抜け出せなくなり、人間としての存在基盤が根本から崩れてしまうからだそうです。だから、キリスト教はこれらの誘惑から人間を遠ざけ、守ろうとしてきたんですね。だけど、中村うさぎさんはこういうことを思いっきり、やりたいだけやってしまいます。

普通だったら、こんな欲望にまみれた堕落した生活を送ると人間は壊れてしまうのだけど、佐藤さんいわく、中村さんはそれでもなお自分を保っているし、ちっとも壊れていない。欲望にひた走る中村うさぎさんを見て佐藤さんは、「人間とは何だろうという、その境界線を明らかにする仕事をしている」といいます。

これはなんだかわからないようでわかる話で、キリスト教徒でなくても、人はだれしもがみな堕落から遠ざかるように生きています。もちろんなかには誘惑に負けてしまう人もいるのだけど、身を滅ぼすような浪費や飲酒、性の欲望は忌避され、表に出ることは滅多にありません。だけど考えてみれば、誘惑から身を守るように生きている人間と、誘惑の波に溺れてもなお岸にたどりつける人間と、どちらが強いといえるんでしょうか。

私自身はというと、自分のなかの旅行欲と好奇心にはけっこう忠実に生きていると思うのですが、浪費や飲酒や性の欲望はそもそも欲望自体があまりないのでどうなのかなーと思います。ただ本人の「欲望があまりないんだよね」ほど信用ならないものはなくて、本当はベールの下に醜い願望をたくさん持っているのかもしれません。ただ、それを掘り起こして解放したほうがいいのか、掘り起こさずにそっとしておいたほうがいいのか、それはなかなか簡単にはしかねる判断です。

いずれにせよ、聖書って誘惑とその誘惑に負ける/打ち勝つ人間みたいなものをめっちゃしつこく書いてるよなと思いました。堕落した世界から正しい行ないをしてきた者のみを救済しようとするノアの方舟もそうだし、道徳の退廃が進み風紀が乱れまくった町・ソドムとゴモラもそうだし、新約聖書のほうでもイエスは悪魔にいろんな誘惑をされます。あとはイエスを裏切った弟子たちが改心したりとか。〈正しい行ないをしてきた〉として神に救済された一族が次の場面であっさり誘惑に負けていたり、欲望のまま放蕩生活を続けてきた人間が祝福されたり、「は? そこどういう解釈なの?」みたいな疑問が尽きないんですが、この中村うさぎさんの話を読んでますますわからなくなったような、いやわかったような、欲望と禁欲というテーマはなかなか難しいです。

しかしこれを読んで、中村うさぎさんを「聖なる一派」とした私の予測は手前味噌ながらけっこう的を得ていた、と思いました。というわけでお時間のある方はSOLOの連載記事をご覧ください。
sololife.jp

そして、自分がどうありたいかとかとはまた別の話で、私は根本的なところで「欲にまみれた人間」というのが好きだし、そういう人間を描いた映画や小説も好きなのです。私が俗っぽいからでしょうか。

サリンジャーの『フラニーとズーイ

こちらの対談本で次の章に登場するのが村上春樹の『1Q84』、そしてサリンジャーの『フラニーとズーイ』でした。『1Q84』には聖書のモチーフがけっこうたくさん登場するとのことで、話題にのぼったようです。

フラニーとズーイ (新潮文庫)

フラニーとズーイ (新潮文庫)

フラニーとズーイ』は第一部の「フラニー」と第二部の「ズーイ」の章から成る二部構成の小説なんですが、ここで語られているのも「聖/俗」の話です。フラニーは聖なるものと俗なるものを分けて、自分は聖なるもののほうに属していたいと願うんですけど、兄のズーイによって最終的に語られるのは「聖と俗を区別するな」ということでした。上のコラムでも私は、聖なる一派と俗なる一派を分けて対立させているように見えて、本当にいいたかったのは「清濁併せ呑む」ということの必要性です。自分のなかでも、自分対相手の関係においても、聖と俗は対立させないほうがうまくいく、と思っています。対立させる必要性がない。

……まあそれはいいとして、この『フラニーとズーイ』がキリスト教的世界観で語られつつも禅の価値観が入っているという話も面白かったし、『新世紀エヴァンゲリオン』の話が出てきたのも面白かったです。人類補完計画と、『フラニーとズーイ』のラストがつながるという話とか。

そこで私がふと思い出したのは、脳科学者のジル・ボルト・テイラーという人がTEDで語っていたことです。この人は脳卒中で倒れてしまったあとに生還するんですが、左脳の機能が完全に停止してしまって右脳だけが働いている状態になったとき、自分と外界の区別がつかなくなってしまったそうなんです。自分の体と、身の回りにある机とか、ペンとか、ペットの犬とかは異なるもの・切断されているものであると普段は認識しているけれど、左脳の機能が停止してしまったとき、それらがすべてつながってしまい、その感覚はとても幸福だった、みたいなことを語っています。


ジル・ボルト・テイラー「脳卒中体験を語る」1/2 - YouTube

生まれたばかりの赤ちゃんは自分とお母さんの区別がつかないみたいな話はたまに聞きますが、なんというかこう、自己/他者とか、聖/俗を区別しない、区別する以前の世界って観念のなかだけじゃなくて本当にあるんだ、っていうのが私のなかで衝撃でした(左脳停止しないといけないけど)。だけど、いくらその「すべてがつながった世界」が幸福でも、そっちを志向しようとするとそれこそカルト宗教みたいになりそうだし、難しいですね。すべてを接続させるために教祖と信者とで乱交しようぜみたいな方向にいきそう。

私にわかるのは、人間は「個」であることの苦悩から逃れることはできない、ということです。キリスト教ってそのあたりのことをずっとしつこく考えてる宗教なのかなと思ったのですが、その解決策って仏教的な世界観のなかにありそうだなとか、そんなことを書きながらお茶を濁しつつ今回は終わりにしようと思います。私はやっぱり宗教の話が好きみたいです。

私という病 (新潮文庫)

私という病 (新潮文庫)

中村うさぎさんの本はこちらも面白かったです