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チェコ好きの日記

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お正月読書:夏目漱石『行人』/いいたいこともいえないこんな世の中じゃ

読書 東アジア

あけましておめでとうございます。今年も当ブログをよろしくお願いいたします。

昨年の下半期から、夏目漱石の小説をちょくちょく読んでいました。私は実は、本を1冊だけ読んで、その1冊だけで感想文を書くというのがどうも苦手です。同じ著者の本を何冊か読んでその全体像をつかんでからか、もしくは評論を読んで小説を読まずして全体像をつかむか、どちらかしないと書きにくい。夏目漱石については、昨年からの読み終わった本がたまってきたので、やっとエントリが書けるというわけです。

今回は『行人(こうじん)』を中心に、『こころ』にも言及しながら、2016年最初の読書感想文を書きます。無料で読めるので、お正月に暇している方は下記のリンクからぜひ。

行人

行人

『行人』の長野一郎という男

「死ぬか、気が違うか、そうでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」

「しかし宗教にはどうも這入れそうもない。死ぬのも未練に食いとめられそうだ。なればまあ気違いだな。しかし未来の僕はさておいて、現在の僕は正気なんだろうかな。もうすでにどうかなっているんじゃないかしら。僕は怖くてたまらない」

上記は『行人』の登場人物、長野一郎が友人のHと旅行中にこぼすセリフなんですが、ここを読んで「わ、わかります!」とならない方は『行人』を読んでもあんまり面白くないかもしれません。もしくは、自分にはよくわからないけど知人に長野一郎みたいなことをいい出しそうな奴がいるとか。私は、1人でわけのわからないことを考えて周囲に理解されず孤立するということがわりとよくあるので、前者、自分が長野一郎に共感しちゃうタイプです。

『行人』のあらすじをネタバレしない程度に書くと、長野一郎と二郎っていう兄弟がいます。兄の一郎は結婚していて嫁がいるんですけど、その嫁の気持ちが信じられなくて、弟の二郎は兄から「嫁と一晩過ごして彼女の貞操を試して欲しい」とわけのわからない依頼をされます。二郎はそれをいったんは拒否するんですけど、やっぱりなんやかんやで兄嫁と2人で旅行に行くことになってしまい、嵐の晩を2人で過ごします。何事も起こらないものの、この夜の描写はしっとりとしたエロスが漂う仕上がりになっているので、興味のある方にはとてもおすすめです。

長野一郎という人は学者なんですけど、よくわからないことにこだわって1人で考え込んでしまう性格で、弟の二郎や嫁や家族を「?」という気分にさせてしまいます。一郎が自分の考えていることや不安を話してくれればいいのだけど、彼はそれを上手く言葉にすることができないというか、そもそも言葉にしたところで周囲はそれを理解できないというか。とにかく、一郎はその孤独さに徹底的に追い詰められてしまい、上記のような「死ぬか気違いか宗教か」なんてことをいい出すのです。

兄さんは幸福になりたいと思って、ただ幸福の研究ばかりしたのです。ところがいくら研究を積んでも、幸福は依然として対岸にあったのです。

三角関係にこだわる夏目漱石、POISON

さて、夏目漱石というと当然いちばん有名な作品は教科書にも載っている『こころ』なわけですが、あれを中学生だか高校生で読んでも未熟な私はちょっとよくわからなかったですね。だけど大人になって読むと、「あ、これってこういう話だったのか……」となかなか感慨深いものがあるので、私と同じように昔読んだけどよくわからなかった、という人がいたらぜひ再読して欲しいなあと思います。

『こころ』はご存知のとおり、先生と、親友のK、そして2人の間にいる娘さんの三角関係の物語で、先生はKを出し抜いて娘さんと婚約してしまい、それを知ったKが自殺するという救いようのない話です。夏目漱石は『こころ』以外にも『それから』、『門』などで三角関係を描いており、吉本隆明によると『行人』もこの系譜にあたる小説に属しているらしいです*1。弟の二郎は兄嫁に特別な感情はないものの、兄の一郎は「嫁は実は二郎が好きなのでは?」という疑いをかけるので、彼の目線からすれば三角関係、ということですかね。

漱石の物語に登場する主人公はある共通の傾向を持っているらしくて、それが「いいたいことがいえない」です。先生は、Kに娘さんへの思いを打ち明けられたとき、「実は俺も好きなんだよね〜」ということがいえなかった。『行人』も、一郎は嫁に「俺のこと好きなんだよね?」と聞いてみればいいもののわざわざ弟と旅行に行かせるというまわりくどいことをするし、そもそも一郎の苦悩は男女関係などよりもっと深い部分にあり、彼は「いいたいことがあるんだけどそれを上手く言葉にできなかった(言葉にしても無駄だった)」ということになるのでしょう。そして、いえなかったことによってKは自殺し、先生はその罪を負って精神的に追い詰められ、『行人』の一郎も「死か気違いか宗教か」なんてことをいい出します。まさしく自家中毒

兄さんは眼からぽろぽろ涙を出しました。
「僕は明かに絶対の境地を認めている。しかし僕の世界観が明かになればなるほど、絶対は僕と離れてしまう。要するに僕は図を披いて地理を調査する人だったのだ。それでいて脚絆を着けて山河を跋渉する実地の人と、同じ経験をしようと焦慮り抜いているのだ。僕は迂闊なのだ。僕は矛盾なのだ。しかし迂闊と知り矛盾と知りながら、依然としてもがいている。僕は馬鹿だ。人間としての君は遥に僕よりも偉大だ」

この部分なんかは、おそらく読んでも大半の人は「はああ?」と思ってしまうのではないでしょうか。一郎が追い詰められていることはわかるが、何をいってるのかよくわからない。一郎のほうに言語化の能力がないのか、我々のほうに理解能力がないのか、あるいはその両方か。ちなみに私は、一郎がいわんとすることもおぼろげながらわかるし、「はああ?」となる人の気持ちもわかります。

漱石には、ちょっとパラノイア的というか、妄想的な神経症の傾向があったらしい*2。同じように、漱石の読者も、本質的にはちょっとパラノイア的な部分がないと理解できないのかもしれません。まあ、文学というものは多かれ少なかれそういうものですが。

なぜ『行人』は『行人』なのか

ところで、『行人』とは道を行く人、通行人、旅人、という意味らしいです。漱石は、いったいどの単語のニュアンスで件の小説を『行人』というタイトルにしたんでしょう。

〈道を行く人〉〈通行人〉というニュアンスだった場合、一郎=通行人として考えることができます。こちらで考えた場合、私はこの物語を「どこまでも聡明で高尚な世界観を持ちつつも、それが世に理解されなかった人」の話として読みます。通行人とは、道ですれちがってそれっきりになってしまう存在、忘れ去られてしまう存在だからです。

〈通行人〉の逆、道ですれちがっただけで覚えてもらえる人、いつまでも忘れ去られない人というのは、現代風にいえば「成功者」とか「著名人」です。こういう風に形容される人は、確かにとても聡明だし、ものすごく努力していることが多い。だけど、彼らと一郎とのちがいは、いってみれば時の運でしかないのだと思います。川上量生さんは『ニコニコ哲学 川上量生の胸のうち』のなかで、自分は本来プライドばかり高くてネットに自分の意見を垂れ流しているVIPPERになっていたはずで、今の立場は偶然だなんて話をしていますが、失礼を承知でいえばたぶん本当にそうです。自分のいっていること・やっていることが、たまたま理解された人と、たまたま理解されなかった人。一郎のように、聡明だけど、その聡明さゆえに追い詰められる人っていうのもいるんです。そして彼は、その世界観を理解されることのないまま、1人の凡庸な通行人として忘れ去られていく。

ただし、これは私の超解釈ですが、私は『行人』を〈旅人〉というニュアンスで考えると少し救われます。旅人は、アウトサイダーではあるものの、中途にいる人、これからもその足跡を残していく人です。〈通行人〉という解釈より、忘れ去られていくそれっきりの存在、というニュアンスが弱まります。

少しネタバレになってしまいますが、『行人』のラストは、一郎が死を選ぶでもなく気違いになるでもなく宗教にはまるでもなく、その三つのどの入り口にいるのかがよくわからないまま終わります。『こころ』のラストを考えたり、〈通行人〉のほうの解釈でいくと、一郎はなんか自殺しそうだな〜って思っちゃいますが、〈旅人〉のほうの解釈でいくと、彼はその三つのどれも選ばずになんとかその後も生きていったんじゃないか、と考えることができます。いいたいこともいえないこんな世の中じゃと嘆きつつも、なんとか自分の言葉を探して、訴えて、形に遺して。もちろん、それは平坦な道ではなかったでしょう。だけど私は、一郎は〈通行人〉ではなく〈旅人〉であってほしいし、トンデモ解釈かもしれませんが私はこれをそういう物語として読みます。

この年末年始にもう1冊、橘玲の『「読まなくてもいい本」の読書案内 ――知の最前線を5日間で探検する』って本を読んでいたんですが、橘玲氏によると、歴史に残る偉人が考えてきた思想や哲学というのは現代ではもうその大半を科学が解決しているそうです。ドゥルーズ=ガタリのいう「リゾーム」とは、複雑系のスモールワールドのことであり、ランダムに見える葉脈やカリフラワーのモコモコにも、実は遺伝子から解析できる秩序があるとか。だから、思想や哲学の本は科学が解決しちゃってるからもう読まなくてもいいよ、というのがこの本の主旨です(けっこう無理やりまとめてますが)。

橘玲氏への反論をここから始めるとキリがなくなるのでやめますが、じゃあ読むべき本って何になるのかというと、結局は「文学」なんだと思います。状況が許すなら、人はもう小説以外読まなくていい。なぜ「文学」が読むべき本の最終候補に残るかというと、それを読んで考えることは自分の生き方や人生を考えることだからです。『行人』を〈通行人〉と読むか〈旅人〉と読むか。これは絶対の答えがないものであり、出た答えは自分の人生に反映させるしかありません。


というわけで、私の今年の目標は「小説以外はあんまり読まないこと」です。「あんまり」の具体的な数値は決めていないですが、批評とかビジネス書とかはちょっと減らしていきたいですね。ポール・オースターとかピンチョンとか、そんなのばっかり読んでる年にしたいです。

私もみなさんも、今年がいい一年になりますように。

※参考文献

超恋愛論

超恋愛論