チェコ好きの日記

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なぜ松浦弥太郎さんは『オン・ザ・ロード』が好きなんだろう?

「なぜ松浦弥太郎さんは『オン・ザ・ロード』が好きなんだろう?」というタイトルを付けてしまったのですが、結論からいうと、個人の好みがすべてその人の作っているものや仕事に反映されているとは限らないし、この問いについて考えることに意味があるとは私はあんまり思っていません。だから、タイトルはただの話の枕くらいに考えてください。ちなみに松浦弥太郎さんは以下の本で、ケルアックの『路上(オン・ザ・ロード)』と、ヘンリー・ミラーの『北回帰線』が好きだという話をしています。

日々の100 (集英社文庫)

日々の100 (集英社文庫)

今回はケルアックの『路上』についてのみ触れますが、『北回帰線』も私はそのうち読みたいです。『北回帰線』はミラーの自伝的小説らしいですが、性描写が過激すぎたらしく、当初は発禁処分になってしまったそうです。

※今回参照するのはこちらの本の訳です

幸福とは、安定した暮らしのこと

まず『路上』を書いたジャック・ケルアックですが、この人は「ヒッピーの父」と呼ばれていて、ヒッピーの前身のような存在「ビート・ジェネレーション」という言葉を作った人でもあります。余談ですが、Wikipediaの「ヒッピー」の項目を読んでもなんだかよくわからん! という人がもしいたら、以下の文章を読むとちょっとだけわかりやすくなるかもしれないよ〜と手前味噌ながら思います。

【日記/41】ヒッピーとバックパッカー|チェコ好き|note
【日記/42】ヒッピー文化、わかりました|チェコ好き|note

そんな『路上』のあらすじはというと、サルとディーンという2人の青年が、ニューヨークを起点にアメリカを何往復も横断するというものです。なぜそんなにたくさん横断するハメになったのかといっても、どうやらそこにあまり意味はない。どこか目的地があって、そこに到達するために移動していたのではなくて、移動自体が目的の移動だった、というのが『路上』における移動です。

この小説が発表されたのは、一九五七年のアメリカ。物語のなかでとにかく「移動」をしまくる『路上』に反して、当時のアメリカの人々は、安定した暮らしや定住生活こそが幸福である、と考えている人が大半だったらしいです*1。いちばん身近なメディアはテレビで、お茶の間で家族みんなでテレビを見ているのが幸せ。だけど『路上』は、当時アメリカで幸福と思われていたそれらの要素をすべて否定して、安定を放棄し、定住ではなく移動を求め、そこに幸福(というか快楽)を見出します。そしてその価値観が新しかったので、当時の若い人たちからの圧倒的な支持を受けたわけです。

「結婚したいんだよ」ぼくは言った。「ゆったりと心を落ち着かせてその子と暮らし、なかよくじいさんばあさんになりたい。こういうことはいつまでもつづけられないだろ──こういうムチャクチャをしてあちこちを飛び回るのは。どこかに辿り着いて、なにかを見つけなきゃいけないよな」
「ああ、そうかねえ」ディーンは言った。「何年も聞かされてきたよ、家庭とか結婚とか、心が落ち着くすばらしい暮らしとか。好きだよ、お前のそういう話」悲しい夜だった。また、楽しい夜でもあった。フィラデルフィアで入った食堂では、なんとか食費をひねりだしてハンバーガーを食べた。(p162)

上の引用にある「ぼく」とは主人公のサル・パラダイスのことで、彼は「こういう飛び回る生活もいいけど、最終的には何かを見つけて、結婚して落ち着いて暮らしたい」といいます。今でもこういうことをいう若い人はいますね。そして、それを半端に聞き流す相棒のディーン。だけど、彼らは結局そこで止まることなく、その後も車での移動を繰り返し、行く先々で女の子と仲良くなったり、マリファナをやったり、トラブルを起こしたりします。そして最終的にはもといた場所、ニューヨークへもどってくる。

「定住か移動か」という問いは、当時は新しかったかもしれないけど、現代にそれを考えることにあんまり意味はないと思います。なぜなら、どちらかで満足できない人は両方やればよくて、それが十分実現可能な世の中になったからです。ずっと一箇所に腰を落ち着けて安定した暮らしを送りたい人はそうすればいいし、世界中を飛び回りながら仕事をしたい人はそうすればいい。両方やりたい人はそれらを交互に繰り返しながら、両方やればいい。ちなみに、自分は両方やりたい人です。もっと世界のいろんなところを旅行したいと思うけど、私は本を読むのが好きなので、読書は一箇所でじっと腰を据えながらやるほうが向いてるなと思うんですよね。

だけどそれは「選べる人」の話で

で、現代日本に生きる人の大半は「両方できる人」「どちらでも選択できる人」です。両方なんてできないと思っている人もいるかもしれないけど、それは本人の心がけの問題です。だけど、そういう心がけとかのレベルじゃなくて、絶対にどちらかしか選べない、という人もいます。選べないというか、異なる選択肢があることを知らない人です。たとえば、アマゾン川の源流域で暮らす原住民、イゾラドと呼ばれる人たち。あの方々たちは、今後どうなるかわからないけど、基本的にはあのブラジルとペルーの国境でしか生きられません。文明社会と未だ接触していない彼らは、自分たちが暮らしているのは南米大陸というところで、海を渡ると他の大陸があって、そこには自分たちと異なる顔付き、異なる言語、異なる文化を持った人間たちが暮らしている……なんてことは知らないはずです。だから、現状イゾラドはイゾラドの世界以外で暮らす選択肢を持ちません。知らないからです。
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『路上』のなかにも、こんな場面があるんです。

藁葺き小屋の前の庭で、三歳の小さなインディオの女の子が指をくわえて大きな茶色い目でぼくらをじっと見ていた。「きっと、生まれてこのかた、ここに車が停まるのなんて見たことないんだろう!」ディーンはささやくように言った。「ハロー、お嬢ちゃん、お元気? おれたちのこと、好きかい?」
(中略)
「いいか、おい、この子は岩棚に生まれてここで生きる──この岩棚が人生のすべてになるんだよ。たぶんおやじがロープで絶壁を下りて洞穴からパイナップルを取ってきたり、はるか下まで行って八〇度の斜面から木を切ってきたりするんだろう。この子はずっとここから出られない、外の世界について知ることもない。」
(中略)
ディーンは苦しそうに顔をしかめて指さした。「おれたちがかく汗とはちがう。べとっとしていていつもそこにある。一年中いつも暑いんだから、汗をかいていない状態を知らないんだよ。汗といっしょに生まれて汗といっしょに死ぬ」小さなおでこの上の汗は重たそうでどろっとしていて、流れていなかった。止まったまま、上質のオリーブオイルのように光っている。「こういうふうだと魂はどういうふうになるんだよ! 悩みも、価値観も、したいことも、おれらのとはまるでちがうぞ!」(p414-415)

移動を繰り返すサルとディーンは、道中で小さなインディオの女の子に出会って、「定住か移動か」を選べる自分たちと、「定住一択」の女の子とを比べてみて、そのちがいに愕然とします。私は実は、この場面が『路上』のなかでいちばん好きです。

選択肢が多いことが必ずしも幸福につながるとは限らない──という考え方には多くの人が納得してくれるだろうと思いますが、イゾラドやインディオの女の子はその最たるものです。彼らは選択肢が極限にまでない人生を送っているけれど、彼らはそのことによって不幸なわけではない。ただ、我々とは〈ちがう〉。悩みも、価値観も、したいことも。こういうふうだと魂はどういうふうになるんだよ! と私はディーンとまったく同じことを思います。私自身の経験でいえば、自分はカンボジアを旅行していて、赤ちゃんを抱えた真っ黒なストリートチルドレンに物乞いされたとき、これを強くかんじました。

「定住か移動か」なんてのはたぶん些細なことでしかなくて、もっと根源的な問題は「選択肢があることと、ないことは何がちがうのか」みたいなことなんだろう、と私は思います。

というわけで、松浦弥太郎さんは本気で話の枕に登場してもらっただけで、やっぱりあまり関係ありませんでした。しかし最後に無理やりまとめると、「暮らしの手帖」前編集長でずっと「よりよい定住」を考えてきたはずの松浦さんの好きな小説が、「アンチ定住」「移動」をテーマにしているって、話としてなかなか興味深いと思いませんか? 「無い物ねだり」っていってしまうといろいろなことが矮小化されてしまいますが、定住する者は移動に憧れ、移動する者は定住に憧れる。これはおそらく、「選択肢がある者」の宿命です。

では、選択肢がない者は……つまり、自分が選ばなかったどちらかへの憧れを持たないということです。だけど現代日本に生まれてしまった私はそんな人生を知らないから、彼らの魂がどういうふうなのか、上手く想像できません。そして、「選択肢のない人生」を選択できなかったという意味で、私もやはり彼らと同様に不自由なのではないか、などと考えたりもします。

選択肢がある者もない者も、同様に不自由で同様に不幸である(あるいは同様に自由で同様に幸福である)──『路上』はそういう小説だ、と思うと私のなかではけっこうしっくりくるんですが、どうでしょう。

北回帰線 (新潮文庫)

北回帰線 (新潮文庫)

※これもそのうち読む

*1:池澤夏樹「ものすごく非生産的な人生」