チェコ好きの日記

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私が今年いちばん感動した本について。:国分拓『ヤノマミ』

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シンガポールを発った飛行機がバリ島のングラライ空港に向かっているとき、私は席で目元にウェットティッシュを当て、赤く腫れた目をごまかすのに必死であった。そしてその不自然な様子を、隣の席(正確には隣の隣の席。真ん中の席が空席だった)に座っていた白人のおばさんに、ちょっと心配されながら見られていたように思う。

それから数時間が経ち、夜がすっかり明け、飛行機がもう間もなく着陸するというときだ。

さきほどの白人のおばさんは、機体がだんだんと近付いていくバリ島の海岸線を小窓の外に見つめながら、「Very Beautiful……」とうっとり呟いた。

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どれどれと思い覗いてみると、確かになかなか悪くない光景ではあるが、空は微妙に曇っているし、海は青というよりはグレーである。BeautifulにVeryをつけるほどでもない。

と、色気のないことを考えていたら、おばさんは振り向いて自分に同意を求めてきた。しょうがないので、「はぁ……Beautifulですね……」と私はオドオドしながら答え、そんなやりとりをしているうちに飛行機は着陸してしまった。

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私が赤く腫れた目をウェットティッシュでおさえていたのは、失恋とか、親しい人との別れとか、何か色っぽい事情があったわけではない。ただ単に、飛行機の中で読んでいた本に感動して、泣いていたのである。それがこれ、国分拓さんの『ヤノマミ』だ。今回は、先月のバリ島旅行と絡めて、この本の感想文を書いていこうと思う。

ヤノマミ (新潮文庫)

ヤノマミ (新潮文庫)

緑の悪魔

著者の国分拓さんは、NHKのディレクターだ。つい最近、『NHKスペシャル大アマゾン 最後のイゾラド』というドキュメンタリーが話題になったので、記憶している人もいるかもしれない。私もこの『最後のイゾラド』を見て、『ヤノマミ』を手にとった一人だ。

文明と接触したことのない原住民「イゾラド」を初めて撮影したNスペがすごいことになっている! 国分拓ディレクター・独占インタビュー | クーリエ・ジャポン

「ヤノマミ」は、ブラジルとベネズエラの国境近くに住む先住民族である。森の奥地に住む彼らは、なんと20世紀になるまで、文明社会と接触したことがなかったという。最近ドキュメンタリーになっていた「イゾラド」とは、ヤノマミ民族の中の集落の1つみたいだ。

国分さんとカメラマンの菅井さんは、そんなヤノマミ民族の集落で、150日間寝食をともにする。もちろん、電気も水道もガスも持たない先住民族との生活はとてつもなくハードで、国分さんたちは途中でしょっちゅう体調を崩して保健所に駆け込んでいるし、一時は食べるものがなく塩と胡椒を入れたお湯を飲んで飢えをしのいでいる。蛾、蠍、コオロギ、蛇、コウモリ、蛙、ムカデ、ときに毒を持ったそれらの生き物は容赦なく人間を襲ってくる。

圧倒的な森だった。僕は平衡感覚がなくなり、息苦しくなった。何よりも、怖かった。肺からせり上がってくるのは、吐き気ではなく、恐怖感だった。
(p.23)

国分さんはヤノマミの住む森を「緑の悪魔」と呼んでいるが、この本を読んでいると、自然は本来美しいものでもなければ癒しでもなく、人間にとってはただただ脅威であり、避けるべき怖ろしいものであったことを思い知る。

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(※これはバリ島にいたコウモリ。雨宿りしている)

いちばんゾッとするのは森の夜の描写で、当然ながら電気のない集落では、太陽が沈むとあたりはまったくの闇に包まれる。深い森の中までは、月光もわずかしか届かない。闇の中で視力を奪われたら、頼れるのは触覚と聴覚と嗅覚しかない。そんな中で国分さんたちは、ヤノマミの、アハフー、アハフー、という不思議な笑い声をただじっと聞いている。虫や蛇やムカデががさがさと蠢いている音も聞こえてくる。そしてそれらが、必ずしも自分を歓迎しているわけではないこともよくわかっている。私は未だこんな恐怖を味わったことはないし、今後も味わう機会がないかもしれない、などと思う。

シャーマンと幻覚剤

ヤノマミ民族の中で、重要な役割を担っているのがシャーマンだ。シャーマンは「エクワナ」という真っ黒な幻覚剤を吸って、夜な夜な精霊と交信するらしい。病人や怪我人がいれば祈祷を行ない、呪術の力で治してしまう。ヤノマミのシャーマンになるためにはかなり厳しい修行が必要で、一ヶ月間何も食べず、幻覚剤を吸い続け、自分の精霊を天から探し出さなければならない。この過程がきついので、途中で諦めてしまう者もいるらしい。

シャーマンが一言「殺せ」といえば、集団はヒステリー状態になる。国分さんも菅井さんも、そうなったら命の保証はない。実際、シャーマンの怒りを買い、殺された人類学者も過去にいる。

「聞いているか! 聞こえているのか! 私の声が聞こえているのか!
お前らは敵か? 災いを持つ者なのか?
敵でないとすれば味方か? 味方なら何かいい報せを持ってきたのか?
本当は何なのだ! 味方か? 敵か?
〈ナプ〉なら殺すべきなのか? この〈ナプ〉をどうするか?」
(p.50)

国分さんたちはこんなことを言われながら、シャーマンに周囲をぐるぐると歩かれる。これもまた、尋常でない恐怖だ。〈ナプ〉とはヤノマミの言葉で、「ヤノマミ以外の人間」を指す蔑称だという。『家畜人ヤプー〈第1巻〉 (幻冬舎アウトロー文庫)』の「ヤプー」とか「ジャップ」とかっていう言葉があるけれど、蔑称、差別用語というのは言われているほうはすぐに自分のことだとわかる。だから国分さんたちは、ヤノマミの他の言葉がわからなくても、この〈ナプ〉という単語だけは、いつでも聞き分けることができたという。

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(※これはウブドケチャダンス)

だけど、そんなヤノマミ集落にも徐々に外の世界の文明が入り込み、中には街に出てポルトガル語を覚えたり、テレビやサッカーボールを持ち込む若者が出てきたりする。すると、高齢のシャーマンの祈祷なんかよりも、街に出て薬をもらったり病院で手術をしてもらったほうが、ずっとずっと早く病気や怪我が治ることを、彼らは知識として知るようになる。

これまで助からなかった病気が、現代の医療によって治療できるようになる。それは喜ばしいことに違いはないが、本の後半、ヤノマミの若者と長老とで病人の治療について意見の対立のようなものがあり、彼らの間には深い溝ができてしまう。

同じくアマゾンの先住民であったグアラニーという部族は、ヤノマミよりも早く文明化が進んだが、のちの彼らは80%が物乞いか、あるいは売春で生計を立てるようになったという。グアラニーマリファナを頻繁に吸うようになり、自殺者が急増した。先住民が「文明化」をすると、だいたいはこのような道筋を辿るらしい。原初の暮らしこそがユートピアで、先住民は永遠にそのままであるべきだといいたいわけではないが、一度文明化された民族は、きっともう元へ戻ることはできない。シャーマンの記憶、精霊の記憶、夜の幻覚剤の記憶。そういったものが忘れ去られ、すべての人の記憶から消えてしまうのはおそらく時間の問題だろう。そのことの善悪や是非は、ここでは論じない。ただ、あるコミュニティが受け継いできた記憶が永久に消えてしまうことは、とても悲しいことだと私は思った(それで飛行機の中で泣いた)。

白蟻の巣の中の嬰児

『ヤノマミ』のなかでいちばん衝撃的なのは、やはり女性たちが森で出産する様子が書かれているところかもしれない。ヤノマミ民族の間では、母親の胎内から出てきたばかりの赤ん坊は、まだ「人間」ではなく「精霊」だとされている。そして、母親がその手で赤ん坊を抱き上げたとき、彼/彼女は初めて「人間」になるのだ。

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出産を終えたばかりの女性は、産み落とした赤ん坊を「人間」として迎え入れるか、それとも「精霊」のまま天に返すかを決断する。その決断に、男性や他の女性の意見はまったく取り入れらることはない。赤ん坊の母親だけが決定権を持っている。そして母親が下した決断に、他の者は一切口を出す権利はない。「人間」として迎えるにしろ、「精霊」として返すにしろ、母親からその理由が語られることもない。

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(※これはバリ島にあったガジュマルの木)

四十五時間後に無事出産した時、不覚にも涙が出そうになった。おめでとう、と声をかけたくもなった。だが、そうしようと思った矢先、少女は僕たちの目の前で嬰児を天に送った。自分の手と足を使って、表情を変えずに子供を殺めた。動けなかった。心臓がバクバクした。それは思いもよらないことだったから、身体が硬直し、思考が停止した。
 その翌日、子どもの亡骸は白蟻の巣に納められた。そして、白蟻がその全てを食い尽くした後、巣とともに燃やされた。
(p.207-208)

「精霊」のまま天に返す──とはつまりどういうことなのかというと、上に引用したように、母親がその手で産まれたばかりの子どもを殺め、遺体を白蟻の巣に入れ、亡骸を食べさせることだ。文明社会に生きる者からすると、なんて残酷なことをするんだろう、と思う。実際、ヤノマミ保護のために働いている保健所の職員でさえ、ヤノマミの女性のこの行為について語るときはいつも、表情を曇らせるという。保健所で働く彼らは、カトリックの信者なのだ。

女性たちはなぜ、産まれたばかりのわが子を殺め、白蟻の巣に納めるのか。経済的に(狩猟生活なので食料には上限がある)難しい、夫の子どもではない不義の子だから、人口調整のため、我々でも理解できるような理由は外側から見ていてもけっこう思いつく。だけど、その決断を母親一人(しかも国分さんが出産現場を目撃したその母親は、わずか十四歳の少女だった)に背負わせるのは、重すぎはしないか。

理不尽だと思う理由はいくらでも上げられるのだけど、とはいえ彼らは、この生活をもうずっとずっと古い時代から絶えず続けてきている。そしておそらくだけど、我々もかつては同じようなことをしていたのではないかと思う。歴史が始まる前、金属を持つ前、土器を持つ前。人間がまだ森の中で、狩猟と採集によって生活していた頃に。こちらも、そのことの善悪や是非は論じるつもりはない。確かなことは、ヤノマミである彼らにとってこれはとても自然な行ないなのだ、ということだけだ。

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(※バリ島は雨季だったので、ときおり霧が出ていた)

150日間にもわたる取材を終え東京に戻った著者の国分さんは、しばらく食欲がなく、食べてもすぐに吐いてしまったという。おまけに、夜尿症にまでなったとか。同行した菅井カメラマンは、子どもに手をかける夢を何度も見たらしい。そしてそのときに考えたことを、こう書いている。ちょっと長いけど、すごく好きな部分なので引用したい。

ヤノマミの世界には、「生も死」も、「聖も俗」も、「暴も愛」も、何もかもが同居していた。剥き出しのまま、ともに同居していた。
 だが、僕たちの社会はその姿を巧妙に隠す。虚構がまかり通り、剥き出しのものがない。僕たちはそんな「常識」に慣れ切った人間だ。自分は「何者」でもないのに万能のように錯覚してしまうことや、さも「善人」のように振舞うことや、人間の本質が「善」であるかのように思い込むことに慣れ切った人間だ。
 ヤノマミは違う。レヴィ=ストロースが言ったように、彼らは暴力性と無垢性とが矛盾なく同居する人間だ。善悪や規範ではなく、ただ真理だけがある社会に生きる人間だ。そんな人間に直に触れた体験が僕の心をざわつかせ、何かを破壊したのだ。
(p.349)

繰り返しになるけれど、『ヤノマミ』は、文明は悪だとか、いや文明は善だとか、そんな瑣末なことを考えさせる本ではない。私もまだ上手く言えないのだけど、少なくとも、善悪を超越した何か、聖俗を超越した何かについて語っている。バリ島に行く飛行機という、非日常の中で読めたのもよかったのかもしれない。

けっこう前に自分でnoteで書いたのだけど、この本が問いかけてくるのもやはり、「あなたは誰?」だ。

異なる文化や異なる社会と接触することは、単にこちら側の好奇心を満たすためのものではない。
異なる文化、文明、社会は、常にこちら側に問いかけてくる。「あなたは誰?」と。イゾラドも、NHK取材班に聞いていた。
「あなたは誰?」と問われると、言葉に詰まる。なぜ今私は、「これ」を正しいと思っているのか。なぜ今私は、「これ」を信じているのか。
【日記/46】NHKスペシャル 大アマゾン『最後のイゾラド』|チェコ好き|note

たくさん本を読んだり、いろんなところに旅行に行ったりすると、自分がいったい誰なのかわからなくなる。だけど、まさにその瞬間こそを、私は求めているようにも感じる。