チェコ好きの日記

だいたい木曜日の22時に更新されるブログ※9月までお休みします※

自分で「気付く」ために必要なこと

「ねえ、今すれ違った人、すごく美人だったね」。


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街を歩いているとき、一緒にいた知人にこんなことを話しかけられたとする。こういうとき、私はだいたい「えっ、そう? 見てなかった」と返す。「一緒にいた知人」というのが恋人で、ヤキモチを妬いているとかではない。女性と歩いているときでも、男友達や職場の人と歩いているときでも、だいたいこんな感じだ。ようは、街行く人なんか、私は全然見ちゃいないのである。


そんな私とは逆のタイプ、「そんな細かいとこよく見てましたね〜!?」っていう人もいる。いるだろう。ぜひ、あなたも身近な人のことを思い浮かべてみてほしい。あの場所に何があったとか、あのときあの人は体調が悪そうだったとか、もうホント、よく気付くなと思う。気付く人というのはだいたいすべてのことをよく見ていて、実は私とは目の総数がちがうんじゃないだろうか、なんて考える。私には目が二個しかついてないんだが、実はこういうタイプの人は目が六個くらいあるのかもしれない。しかし、本当にそうだったら諦めもつくんだけど、残念ながらどうもそういうわけではないらしい。


ただし、意識を向けることはできる。何も言われずにいつも通り街を歩かされたらそのままだが、「交差点を右に曲がったときポストの前にいる人に注目して」とか、「信号をわたった先にあるお店の屋根の色を見ておいて」とか、注文を入れてもらえれば反応はできる。こういうやつのことを、「焦点的意識」と言うらしい。多くの学校教育は、この「焦点的意識」を教えている。ここに注目すれば問題が解ける、ここを観察していると変化が見える、などなど。


「焦点的意識」を教えることは、もちろん意味がないことではない。ただし、学校教育であればそれでいいかもしれないが、たとえば私のような大人に「街をよく観察すること」を焦点的意識によって教え込もうとしても、キリがないし、そう上手くはいかないだろう。「これこれをちゃんと見ておきなさい」と言われたって、街の景色も自分も常に動いているから、「これこれ」のどこに着目していいのかよくわからなかったりする。

新しい視点をあたえられても世界は変わらない


1冊の本を読んで、あるいは印象に残る文章を読んで、まるで世界が変わってしまったかのような感覚に陥ることがある。「そういうふうに考えていいんだ!」という新しい視点は、世界を変えてくれる……と、私たちは思いがちだ。しかし、厳密にいうとこれはちょっと違っているらしく、ある視点をあたえられることによって一歩上の段階に行けるときというのは、すでに「学習」の段階にあるときのみに限定されるらしい。


何を言っているのかわからねーと思うので、順を追って説明すると、物事を習得する際には「発達」が必要な段階と、「学習」が必要な段階ってのがあるらしいのだ。


たとえば、あなたが唐突に、「チェコ語ができるようになりたい!」と思ったとする。なんとか教えてくれる先生を見つけて、週に一度、マンツーマンの授業を受けさせてほしいと頼み込む。すると、たぶん先生に最初にたずねられるのは、「あなた、ロシア語できる?」だ。チェコ語は文法がクソ難しく、日本語話者が習得する言語としては最難関レベルだと言われている。ただし、同じスラブ語圏の言語であるロシア語の素養があると、話がめちゃくちゃ早いのだ。私は結局「いや、ロシア語はできないっす……」と答えて当時の先生にため息を吐かせてしまったのだけど、ようは、「スラブ語圏の言語がまったくできない→1つだけでもスラブ語圏の言語を習得する」のが「発達」の段階で、「ロシア語はすでに習得している→チェコ語を習得する」というのが「学習」の段階だ。0を1にするのが「発達」で、1を2や3に増やすのが「学習」、と考えればいいのかもしれない*1


下記の本の著者である河本英夫さんによると、巷によくあるノウハウ本は「学習」の段階について書かれているものばかりらしい。確かに、ある技術について、本を読んだときは「おお、なるほど!」と思っても、いざ実践となると何も変化を起こせず、そのまま「おお、なるほど!」と思ったことすらも忘れて本は埃をかぶる……という体験をしたことのある人は多いはずだ。一方、この『哲学、脳を揺さぶる』という本は、そんな「学習」ではなく、「発達」の段階にある人を鍛えようという主旨で書かれている。


哲学、脳を揺さぶる オートポイエーシスの練習問題

哲学、脳を揺さぶる オートポイエーシスの練習問題


と、これが本当なら夢のような話だけど、読んでみたところまあそんな簡単ではない。言っていることはわかるんだけど、そして実際にいくつか練習問題を解いてみるのだけど、「こんなんでホントに大丈夫なのか!?」という感じである。ただ、他の人のレビューを読むと「できた、変わった、すごかった」と言っている人もいるので、私の頭が悪いだけかもしれない……。ちなみに、どういう練習問題(エクササイズ)があるのかというと、「限界まで息を吸う・限界まで息を吐くを繰り返す」とか、「俳句をつくる」とか、「スケッチをする」とか、である。


一つ「へぇー!」と思ったのは、「わかった」と思ったときに働くのは大脳皮質であり、「できた」という体験を通したときに働くのは脳幹から小脳、側頭連合野、頭頂連合野にわたる脳の広範囲だという話だ。つまり、何かを習得しようと思った際には、大脳皮質に働きかけるだけではいけない。脳幹から続く、脳の広範囲に働きかけるような何かをしなければいけない。そして、脳の広範囲に働きかける何か(体験)とは、「身体的なイメージ」のことである。そのため、この「身体的なイメージ」を拡張し、これまでの経験をリセットする、というのが本書の狙いであるわけだが、ま、難しいよね。私はそんなに上手にできませんでした。

三鷹天命反転住宅 ヘレン・ケラーのために―荒川修作+マドリン・ギンズの死に抗する建築
面白いなと思ったのは、この本で触れられている荒川修作の建築「天命反転住宅」である。「天命反転住宅」では、上下が逆転している。床が頭の上にあり、天井が足元にある。キッチンや水道も上からぶら下がっており、そもそも床と壁と天井の区別がない球体の部屋とかがある。ここでしばらく過ごすと、何やらめちゃくちゃに疲れて筋肉痛になるらしい。確かに、聞いてるだけで頭が痛くなる。「水道とは自分のちょうど腕のあたりにあるもの」という経験を強制的にリセットされ、身体イメージの変化を迫られるからだろう。


子供の頃は、「経験」がないから、言ってみればこういうことの連続なんだと思う。初めてスマホの画面を触ってそれが動くとき、初めて自転車に乗るとき、初めてプールに入るとき。だけど、知識として知らないことはまだまだあっても、さすがに身体的イメージのほうは一通り経験してしまった大人にとっては、新たな身体的イメージを加えることはかなり意識的にやらないと難しい。最近は、暗室の中に入ったり自分もシールを貼ったりする参加型の現代アートをよく見かける気がするんだけど、これはたぶん、私たちの身体的イメージをどうにか更新させようと、アーティストが頑張って考えているのだろう。上手くいっているかいっていないかは別として。


最初の話にもどって、では私のような"お鈍チン"が街をよーく観察できる人になるためには何が必要なのかというと、身体的イメージに改変を加えろ、ということになる。そんなこと言われても……という気がしないでもないが、真面目な話、目が六個あると思えばいいのかもしれない。本書にも、「目の位置を変えろ」というエクササイズがある。自分は役者で街は劇場、そこに客席にいる観客の目線を足せるようになれば、確かに何かは変わるのかもしれない。


aniram-czech.hatenablog.com

*1:たぶん