チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

「面白い人」論。

「面白い人になりたい」「面白い人に会いたい」。

今日も風に吹かれ、どこからともなくそんな声が聞こえてくる。いや、何を隠そう、私自身がそう思っているところがあるのだけど……。


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しかし、「面白い人になりたい」なんてことをあんまり大声で言ってしまうと、「私自身はたいして面白くない人なんです」と街を宣伝カーでまわりながら言いふらすのと同じである。


よって、今回はできるだけひそひそ声でしゃべるつもり*1なのだけど、ご注意いただきたいのは、以下はあくまで「現時点の私の考察断片」であり、まだ考え途中だということだ。なので小穴も中穴も大穴もあり、ツッコミは大歓迎。「面白い人とつながりたい」じゃなくて、自ら「面白い」をクリエイトするんだよ〜〜! などなど、各人の「面白い人論」を私は今後もたくさん聞いていきたいと思っている。


(※ちなみにこういう話を公の場でするとき、「じゃあお前自身はどうなんだ」という罵声が飛んできそうで怖いのだけど、自分自身のことをいちいち神妙な顔して振り返っていたら話が前に進まないので、以下はすべて自分のことは思いっきり棚に上げて考えております。私は透明人間デス。)

〈目次〉
1.「面白い」と「人間的魅力」は別、論。
2.「面白い」はいかにして獲得できるのか、論。
  ①レアな経験を積んでいる
  ②何かに異常に詳しい
3.レアな経験を積んでも何かに異常に詳しくなってもそれだけじゃ面白くなれない、論。
4.まとめ

1.「面白い」と「人間的魅力」は別、論。

まず前提として、今回の考察における「面白い」とは、その人の発言や発信が仲間内だけでなく、わりと広く、見ず知らずの人にまでウケる(現時点ではそれほどウケていなくても、今後ウケる可能性がある)的な意味で使っている。つまり、その人のことを個人的にはまったく知らなくても、その人の話を「なるほど」と思って聞く人が多いかどうか。松本人志村上春樹の言うことは誰が聞いてもそこそこ面白いけれど、とある中学校の人気者・田中くんが行なう「山田先生のモノマネ」は、山田先生を知らない人が見ても何も面白くない。今回の考察における「面白い人」とは、松本人志村上春樹のことであり、田中くんのことではない。


では、とある中学校の人気者・田中くんの面白さは何なのかというと、今回の考察ではそれを「面白い」ではなく「人間的魅力」と表現することにした。田中くんがクラスのみんなを笑わせることができるのは、田中くんのモノマネの技術の高さというよりはむしろ、彼の普段のコミュニケーション能力や、空気を読む巧さや、意外なところで見せる気遣いや、容姿によるもののほうが大きいはずである。このように、今回の考察では、「面白い」と「人間的魅力」は別のジャンルとして扱う。


表にすると、以下の4種類の人間がいるイメージだ。

面白い 面白くない
人間的魅力がある
人間的魅力がない


①の「面白くて、かつ人間的魅力もある人」は言わずもがな、いちばん人気者でいちばん憧れの存在だ。彼/彼女は言ってることもやってることも面白い上、イケメンだったり美人だったりし、さらに仕事きっちり性格も良い*2。ただレアケースではあると思うけど、こういう人に限ってサイコパスが潜んでいたりすることもなくはないらしい。私はよく「みんなに好かれるようなやつは嫌いだよ……!」とか陰で言っていたりするのだけど、「こいつ好かんわ〜」と思ってた人に実際に会ってみると本当にいい人で前言撤回、うっかり好きになってしまったりする。どうしてそんなに人間ができているの?


②の「面白くはないが、人間的魅力はある人」は、あなたの身近にもけっこういるのではないかと思う。家族や恋人や古い友人などのことを頭に思い浮かべてもらうと、彼/彼女は父母兄弟パートナー友人としては素敵な人だしたくさん笑わせてくれるけど、この人の発言や発信が広く注目を集められるかというとそれは違うかなってケースがあるはず。そういう人がこの区画にいるイメージ。特に芸で身を立てる(?)つもりがないのであれば、正直①より②の人のほうが幸せそうでもある。前述の「とある中学校の人気者・田中くん」はここに入っている。


③は、「面白いけど、人間的魅力はない人」。私には「この人の書いている文章は面白いと思うし好きだけど、個人的には一切関わりを持ちたくない」と思っている書き手が何人かいるのだけど(すべて男性の著述家)、そういう人がここに入るイメージ。敵は多そうだが、とにかく面白いのでなんとかなる。個人的な関わりを持たなければ被害はないので、今後も面白い発信を続けてください(私は何様なんだ)。当然、最初は①だと思って親しくしていた人が、関わりが深くなるうちに③に変わり、絶交に至るみたいなケースもあるだろう。


④の「面白くもないし、人間的魅力もない人」。ここで具体的な人物を思い浮かべてしまうとめちゃくちゃ角が立つので、あえて飛ばしましょう。でももちろん、「人間的魅力」は「面白い」以上に多様だから、本当の意味で人間的魅力がない人なんて誰もいないんですけどね。と、いい人ぶったコメントを付け加えておく。


「面白い人に会いたい」とあなたや私が言うとき、④はとりあえず除外するとして、①〜③のどのカテゴリの人のことを言っているのか? ということは少し立ち止まって考えてみてもいいのではないかと思う。まあだいたいは①を指しているんだろうけど、恋人募集中の女の子が「話が面白い人がいいなあ」とか言ってたりするときは②の人のことを指してるんだろうし、逆に「人柄とかはどうでもいいんだよ、とにかく面白いヤツ!!!」などと言う猛者は③の人に会えるといいですね。


あと、②の人の面白さを見出して①の人にプロデュースする、という道もなくはない。もしくは④の人を③になるようプロデュースするとか(こちらはだいぶしんどそうだ)。あと自分が「面白い人になりたい」というときも、④は除外するとして、①〜③のどれのことを指していて、かつその程度はいかほどなのか、念頭に置くべきだろう。


もちろん、上記の分類はあくまで主観的判断に基づくものなので、私にとっては①である人がある人にとっては②だったり、私にとっては③の人がある人にとっては①だったりもする。そして「私」の中でも、①が③になったり②が④になったり、人はこの4つの区画を常に流動的に動いている。「面白い人」を考えることの難しさは、万人にとって面白い人は存在せず、かつ個人にとっての面白い人も変化や入れ替わりをたえず繰り返している点にあるといえるだろう。

2.「面白い」はいかにして獲得できるのか、論。

さてここまでは前哨戦、本題はここからである。先に説明したように、今回の考察における「面白い」とは、仲間内の人間を笑わせることができるという意味ではなく、仲間はもちろん見ず知らずの人にまで広く自分の発信を届けることができる的な意味を念頭に置いている。発信を広く届けるには、その発信の観点が目新しかったり、独自であったり、あるいは痒いところに手が届くような繊細さを持っていたりしなければならない。


で、問題になるのは、いかにしてその「目新しさ」や「独自性」や「繊細さ」は獲得できるのか、という点である。この問題において、私は以下の2つをとりあえずの方法としてあげておく。自分が「面白い人」になりたい場合も、あるいは誰かを「面白い人」に仕立てあげたい場合も、以下の2つを持っているか、今後できるか、掘り出せるかが、さしあたってのポイントになるだろう。

①レアな経験を積んでいる

これは、もっとも早くわかりやすく「面白い人」になるための材料だ。「世界一周をする」「銀座ホステスNo.1になる」「バンジージャンプをやったことがある」みたいな派手でポジティブなものから、「30年間毎日富士山の写真を撮り続けている」みたいなちょっと地味なもの、「借金1000万円を返済したことがある」みたいなネガティブスタートのもの、いろいろあるけれど、とにかく「多くの人がなかなかしていない経験」を1つでも積んでいると「面白い人」になれそう。あとこれの亜種として、「けん玉がめちゃくちゃ上手い」みたいなレアな特技を持っているのもアリだと思う。

性善説ならぬ「性おもしろ説」をとるならば、誰だって1つくらいはレアな経験をしているはずなので、それを掘り起こせ、ということになる。

②何かに異常に詳しい

ウィスキーに異常に詳しい、マンガに異常に詳しい、歌舞伎町の裏事情に異常に詳しい、などなど何かの事柄に関する膨大な知識がある。もしくは、大学の先生のように、何かに関する専門的な知識を持っている。知識を身に付けるにはどんなに頑張ってもそれなりの年月を要するはずなので、「世界一周に行ってきたよ!」で済む①に比べると少々ハードルが高い場合があるが、一度のぼりつめたらそうそう他の人に追い抜かれないというメリットもある。

誰だって1つくらいはレアな経験を積んでいるものだが、誰だって1つくらいは異常に詳しい分野があるか? というとそんなことはないので、こちらを掘り起こすのはちょっと難しそうだ。ただ楽観的に考えると、「異常に詳しい」まで行かなくても「他の人よりちょっとだけ詳しい」くらいで意外となんとかなるような気もする。

3.レアな経験を積んでも何かに異常に詳しくなってもそれだけじゃ面白くなれない、論。

はい、というわけで、「面白い人」になりたい人は、①レアな経験を積むか、②何かに異常に詳しくなりましょうね。頑張ろう解散〜〜!


という話で終わりにしてもいいのだけど、①や②を盛れば盛るほど「面白い人」になれるのかというと、そういうわけでもないな〜って気がする。ものすごいレアな経験を積んでいるのにありきたりな意見しか言えない人もいるし、そんなに珍しい経験をしているわけじゃないのに洞察がめちゃくちゃ鋭い人もいる。それに、もし「面白い」が①や②だけで作れるものなら、理論的には経験や知識を積み重ねた年長者に面白い人が多くなるはずである。が、周知のように、実際はそうではない。経験や知識を積んでいるにも関わらずあまり面白くない人、そんなに珍しい経験をしているわけじゃないのに面白い人。両者の差はいったいどこにあるのだろうか?


実をいうと、この問いに対する答えは私自身がまだ見つけられていない。だからこんな考察をわざわざ書いている、ともいえる。したがって、以下は「レアな経験をたくさんしているはずなのにあんまり面白くない人」と、「そんなに珍しい経験をしているわけじゃないのにすごく面白い人」の差を作り出しているものの、私なりの【仮説】である。

アウトプット量

たとえば、今日あなたが初めて、自分の部屋に飾る用に、近所の花屋でバラを買ってみたとする。「近所の花屋」に行ったのも初めてだし、そもそも誰かへのプレゼントではなく、自分のために花を買うのも初めてだったとする。しかし、あなたにとっては初めてづくしでも、正直「近所の花屋でバラを買う」のはありふれているし、それ自体は珍しい経験ではまったくない。


でも、「面白い人」は、それでもその体験を、文章なり詩なり音楽なり絵なりにして、アウトプットするのだと思う。「近所の花屋」は「エキュート品川の青◯フラワーマーケット*3」とどこがどのように違っていたか。誰かへのプレゼントとして花を買うのと、自分の部屋に飾る用として花を買うのとでは、自分の気持ちはどのように違う動きをするか。


当然ながら、「近所の花屋で初めてバラを買った話」よりも、「人生で初めてメキシコシティに行ってみた話」とかのほうが人目を引くし、自分としても気持ちの動きが大きいはずだから、言いたいことや書きたいことがたくさん出てくるだろう。だからさっきの話で出した「レアな経験を積む」というのも、もちろん意味がないわけではない。


だけど、「メキシコシティグアテマラに行ってみたけど遊んで写真をちょいちょい撮っただけで他は何もしなかった人」と、「近所の花屋で初めてバラを買った」「初めて映画を1日5本ぶっ続けで観た」みたいな体験を毎日細かく細かくアウトプットしている人とだと、おそらく後者のほうがのちのち「面白い人」になる確率が高いのではないかと私は思う。ただ、珍しくもなく特に変化もない日々の出来事から何かをアウトプットし続けるのは凡人にとって至難の技なので、「レアな経験を積んじゃったほうが手っ取り早い」ということは言えそうだ。近所の花屋でバラを買ったくらいじゃあまり気持ちが動かない人はいるだろうが、さすがにメキシコシティグアテマラに行って心が何も動かないという日本人はあまりいないだろう。

4. まとめ

「月に1度、何か新しいことをする機会を持とう」なんて言う人がたまにいるけれど、これはたぶん本当だ。ルーティンに陥りがちな凡人は、月に1度でも何か新しいことをする機会を意識して持たないと、気持ちが動く回路が死んでしまう。いや、気持ちが動く回路というと語弊があるかもしれないので、「差異を見つける回路」と言い直しましょうか……。先月の自分と今月の自分。昨日の世界と今日の世界。それらを構成しているものの、違いは何か。


「新しいこと」は、あくまで「自分にとって新しいこと」であればよい。まあ、それが「多くの人にとって新しいこと」でもあればより手っ取り早いという事情はあるんだけれど、だから「近所の花屋で初めてバラを買う」とかで全然いいのだ。昨日の自分と違うことをする。それによって動く自分の思考や心を観察してアウトプットする。昨日を構成していた世界と、今日を構成している世界に、線を引く。それを積み重ねた人が、「面白い人」になれるのではないかと思う。


ところで、エッセイストの宮田珠己さんは、「何かあったことを書くのは簡単だけど、何もないことをどう書くかということが必要」と以下のインタビューで語っている。そう、「メキシコシティグアテマラに行った話」は誰であってもけっこう面白く書けると思うんだけど、「新幹線で食べた駅弁の卵焼きが美味しかった話」を面白く書くのはかなり難しい。腕が問われるのは後者だ。


www.marunage.co.jp


なので、「特別なことである必要はない。あなたにとっての"新しいこと"を積み重ねて、それを丁寧にアウトプットし続ければいいんだよ」という一見優しめの結論を今回は出したのだけど、自分の感性にあまり自信がない人は、やっぱりメキシコシティグアテマラに行っちゃったほうが早いよな、とは思う。今回は透明人間に徹している私だけど、最後にちょっとだけ顔を出させてもらうと、私自身はすごく普通だし、自分はたいした感性を持っていないと思う。日々を丁寧に紡ぐ……みたいなのはたぶんどちらかというと苦手なほうだ。だから、新幹線で卵焼き食べるよりはメキシコシティに行ったほうがいいかなと思う。でも、メキシコシティより新幹線で卵焼き食べるほうが「気持ちの動き」が大きいって人もいると思うので、ここはやっぱり人それぞれではある。つまり、

「自分の心は何をすることによってより大きく動くのか?」

ということを把握している必要がある。心が動かないとアウトプットはできないし、できても内容が薄いものになってしまう。ある意味、①レアな経験を積む②何かに異常に詳しくなる、なんてことよりも、自分の心の動きを把握するほうが難易度が高い。しかし、それさえわかっていれば、あとはインプットとアウトプットを繰り返すだけだ。


最後に。前半のほうで少し書いてはいるが、私は、「面白い人」よりも、「人間的魅力のある人」のほうが全体的な幸せ度は高いと思っている。面白い人はそれはそれで気苦労が多いのだ。よって、全員が面白くなる必要はまったくない。今回の考察はあくまで「面白い人に会いたい」「(自分が)面白い人になりたい」と思っている人へ向けた文章であることを、もう一度言い添えて筆を置く。

*1:そのわりには字数が多いけどな

*2:ちなみに、容姿があまりにも優れすぎていて身内に好かれる範疇を飛びこえている、という意味で石原さとみなどの芸能人は①に入る

*3:私がよく利用するので