チェコ好きの日記

だいたい木曜日の22時に更新されるブログ※9月までお休みします※

「人」はいない。「状態」があるだけで、それは環境によって変わる。

あくまで私の場合だけど、旅行なんて遊びに行ってるだけなので、そこから得た学びなんてそう多くはない。だけど世界の様々な地を歩き回った中で、確信を持ったことが一つだけある。


それは、「人間は環境の奴隷だ」ということだ。

「人」はいない、「状態」があるだけ。

この考えがちゃんと伝わるかどうかあまり自信がないんだけど、たとえば、あなたが日頃仲良くしている「とっても感じのいい人」を誰か一人思い浮かべてみてほしい。彼/彼女はいつも上機嫌で楽しそう、他人を悪く言ったり無闇に嫉妬したりせず、何かと気が利いて、自分の仕事や夢にいっしょうけんめい。「何だか感じの悪い人」がもしいるとしたら、これをそっくり反対にすればいい。そういう人は、いる。


ただし最近の私が思うのは、「感じのいい人と、感じの悪い人がいる」という言い方は実は適切ではなくて、「感じのいい"状態"を保てている人と、保てていない人がいる」という言い方のほうが、より正しいんじゃないかってこと。なんていうのかな、「感じのいい」はあくまでその人に状態として一時的に宿っているだけで、その人自体が感じいいわけじゃない、みたいなこと。



鹿児島で会社をやっている友人のシモツくんがある日こんなツイートをしていたけど、「物欲」も同じだと思う。物欲のある人とない人がいるのではなくて、物欲がある状態の人と、物欲がない状態の人がいる。私自身の場合でいえば、私は「物欲がない状態が数年間ずっと続いている」。思い返せば、私も大学生くらいのときは今よりももう少し物欲があった。「私は物欲がないです」という言い方は、したがって適切ではない(知人としゃべってるときはこんな言い方をするとめんどくせえので「物欲ないです」で良いと思うが)。


で、じゃあその「状態」を作り出すのは何かというと、これは「環境」としか思えない。シモツくんに物欲が生まれたのは彼が鹿児島に引っ越したからで、彼が渋谷にとどまっていたら、きっとこうは言ってなかったはず。同様に、「感じのいい人」は感じの良さが求められる環境にいるからたまたまそう振る舞っているだけだし、「感じの悪い人」はある種、感じの悪さが有効に働く場にいるのだろう。人間自体には良いも悪いも美しいも汚いもない。みんなだいたい一緒だ。


ちなみになぜ旅行でこのことを悟った(?)のかというと、一昨年訪れた中東の砂漠気候が、私の中で衝撃だったのがある。日本やアジアやヨーロッパにいると「一神教? なんで?」と思ってしまうんだけど、中東の砂漠気候の中に身を置くと、一神教の思想というのは「さもありなん」って気がしてくる。神様は世界にたった一人、アッラーのみだ。当たり前だろそんなん、って気になる*1。人間の思想は環境が作る。人間は動物だから、環境に合わせて生きやすいように自分を変える。人間はすべてカメレオンだ。


note.mu
※詳しくは前にnoteに書きました

他にも、話し出すと長くなるからほどほどにするけど、バリ島付近はウォレス線を境に気候分布が分かれていて、そのラインで宗教が変わっている。本当に面白いよね。

場所が変われば人間は変わる

なんでこんなことを書こうかと思ったのかというと……最近、「黒人」が登場する本を何冊か集中して読んだ。具体的には、トニ・モリスンの『青い眼がほしい』とマーク・トウェインの『ハックルベリ・フィンの冒険』だ。それらの本に今回のようなことが直接書かれていたわけではないので、今回の論は私の中での飛躍がだいぶあるのだけど、とにかくそれらの本を読む中で、改めて今回のようなことを考えた。


池澤夏樹さんの『世界文学を読みほどく』が大好きで、10年前くらいから毎年1回は読み返しているのだけど、この中に非常に興味深い『ハックルベリ・フィンの冒険』論がある。詳しくは割愛するけど、当時のアメリカで、黒人差別を支持していたのは誰だったか。「白人」と一言で片付けてしまうと、本質を見失う。黒人差別を支持していたのは、白人の中でも特に、「プア・ホワイト」と呼ばれる貧しい白人たちだった。

自分たちは白人であるけども、貧しい白人であって、何かと不満の多い苦労の多い生活をしている。だから、白人でないくせに裕福になっている奴が許せない。

これは妬みの基本心理です。人間にとって始末の悪いもので、みんなのこういう妬みが横に連結して一つの制度になると、差別になるわけです。「差別はいけない」とか、「人間は平等だ」とか、「民主主義」「みんなに投票権を」というのは、表の論法、表に出てくる言葉であって、その背後には必ず、気に入らない、許せねえ、足を引っ張りたい、裏で言いたい放題を言いたい、という「2ちゃんねる」的な思いを、人は持っているものなのです。そういう心理はずっと人についてまわるし、それは議論やお説教や制度ではなかなか始末がつけられない。


池澤夏樹世界文学を読みほどく: スタンダールからピンチョンまで【増補新版】 (新潮選書)』p.293


なんとなくだけど、この『ハックルベリ・フィンの冒険』論を読んで、憎むべきは「人」ではなく「環境」なのではないかと思ったのだ。気に入らねえ、許せねえ、足を引っ張りたい。仮に今、あなたがそういう醜い妬みの感情を抱かないでいられるとしたら、それはあなたが素晴らしい人間だからではない。あなたがそういう妬みの感情を持つ場所にいなくて済んでいるからってだけだ。ただの「偶然」だ。このことを前提にいろいろなことを考えないと、あんまり物事は上手く進まないんじゃないかなーと思う。


(※ただ、逆に「今の自分はそういう妬みの感情が強いぞ〜!」という自覚がある人は、「俺のせいじゃない。環境のせい」と思ってしまうと他罰的になって結局また自分の首を絞めるので、もしこのブログをお読みの方でそういう人がいたら、そこは「どうしたら妬みの感情が少ない場所に"移動"できるかな?」と考えるのが有効な気がする。確かにあなたは悪くないが、工夫して環境の"移動"をするための知恵を絞るくらいはしてもいいんじゃないか。しかし、「これは妬みだ」という自覚があるだけで物事はずいぶん良い方向に向かっているように思う。本当に妬んでいる人はおそらく「これは妬みだ」という自覚がない。私は、妬みの感情っぽいものを抱いてしまったときはなるべく自分しか見ない紙の日記に書くようにしている。)


性悪説」とか「性善説」とかって言い方があるけれど、私は「性中庸説」みたいな立場をとりたいと思っている。本来、人間に良いも悪いもないんだ。ただ、環境によって出る面が変わるだけ。ルービックキューブみたいなものだ。「だから何だよ!?」と言われると「べ、べつに……」ってかんじなんだけど、最近の私の人間観は、こんなふうになっている。


青い眼がほしい (ハヤカワepi文庫)

青い眼がほしい (ハヤカワepi文庫)

ハックルベリー・フィンの冒険(上) (光文社古典新訳文庫)

ハックルベリー・フィンの冒険(上) (光文社古典新訳文庫)

ハックルベリー・フィンの冒険(下) (光文社古典新訳文庫)

ハックルベリー・フィンの冒険(下) (光文社古典新訳文庫)

たぶん関連エントリ

aniram-czech.hatenablog.com

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※イタリアの写真がたくさんあるのでサムネイルとして使っていきたい所存

*1:って思うんだけど、この論だとイスラム教やキリスト教の信仰がなぜ全世界に広がっていったのかあまり上手く説明できない。もちろんこれには私なりの仮説があるのでさらに説明を重ねたいんだけど、今回のエントリではそれは本題ではないのでいつかの別の機会に譲る。すべて根拠はなくただの私の与太話です。