チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

「人の心を揺さぶる文章」の身も蓋もない話


最近、Twitterをひらくと、いつもタイムラインで誰かが怒っているな、と思う。そのこと自体に文句があるわけではない──というか、文句など言う資格がない。怒っている人が嫌ならフォローを外せばいいんだし、そもそもTwitterなんてひらかなきゃいい。そういうタイムラインにしているのは私だし、見ているのも私である。全部、自分でやっていることだ。


ただ、漠然と、以前よりなんだか怒っている人が多いな、と思う。


これが、本当に数として怒っている人が増えているのか、それとも私が今たまたま、怒っている人に目が留まりやすい心理状態になっているだけなのかはよくわからない。ただ、怒っている人を見ると、ちょっと気分が沈む。


f:id:aniram-czech:20180606010806j:plain
(※これはシチリアパレルモで見つけたグラフィティアート)


しかし、対外的にどう思われているかはわからないが、私はどちらかといえば今まで「怒るべきところでちゃんと怒らないのはダメだ!」系の主張をずっとしてきた人間のはずだ。もちろん、今でもナウそう考えている。だから、なぜこの期に及んで気分が沈むとかいっているのか、自分でも不思議なのである。特に、汚い言葉で誰かを罵っている文章を読むとそれが正当でかつ自分に全然関係のないことでも落ち込むのだけど、私もまあまあ口が悪いほうなので、これもおかしな話だ。もう私、めっちゃ「クソ◯◯」っていうからね、お育ちが悪いのね。


「きちんと議論をしたいなら、感情的になったり汚い言葉を使ったりせずに、まずは落ち着いて」なーんて思っているのかもしれないが、これはトーンポリシングっていうんだって。最近覚えた言葉だ。



しかし、「怒り」とは独特のパワーを持つ感情ではあるよな、と思う。


数年前、文章の書き方についての相談をメールで受け付けていたことがあるのだけど、その中で「人の心を揺さぶる文章ってどうしたら書けるんですかね?」という質問を数回受けた。私の文章が人の心を揺さぶっているかどうかはともかくとして、私はいつもその質問に、こう答えていた。


人の心を揺さぶる文章を書く方法──それは、自分の「怒り」をベースに文章を書くことだ。


今でも、この回答が間違っているとは思わない。ただし、いくつかの注釈が必要な考えではある。「この世のすべての苦痛から逃れる方法──それは死んでこの世とオサラバすることだね」みたいな回答になってしまっている。まあ、そりゃそうなんだけど、それをやるにはあまりにもリスクが大きすぎるでしょ、みたいな(例えが超悪いけどね)。


人には喜怒哀楽、ほか様々なグラデーションからなるいろいろな感情があるわけだけど、私は、「怒り」は良くも悪くもいちばん自分に嘘が付けない感情なのではないかと思っている。嬉しいこと、楽しいこと、悲しかったこと、それらが嘘まみれだっていうわけじゃないのだけど、「怒り」がいちばん、その人の内面に直結している気がする。「あなたは何に怒るの?」という質問が、いちばんその人の本質に迫れる気がする。


「怒り」をベースに文章を書くとき、(良くも悪くも)人は絶対に感情的になる。感情的になって書いた文章が、(良くも悪くも)人の心を揺さぶらないわけがない。「怒り」は、(良くも悪くも)人に影響をあたえやすい。だから、上の考えは今でも変わってないのだけど、「それをいったところで……」的な話ではあるし、当時私に質問してくれた人にもそのことは伝えていた。「怒り」はすごくパワーの強い感情だから、使い方を間違えると自分も相手もボロボロになってしまう。ただ、諸刃の剣であることを承知の上で使うのはナシよりのアリ、絶対にナシではないかなと私は思っているんだけど。


ていうか、「喜怒哀楽の中でいちばんパワーがある感情は『怒り』」って私は長年何の疑いもなくずっと思い込んできたのだけど、他の人はちがうのかもしれない。私が、良くも悪くも人の「怒り」に感応しやすい人間なだけかもしれない。だとしたらちょっと歪んでいる。私も嬉しい楽しい大好きで生きられる人間になりたかったよ、チッ。


とりあえず、なんで最近みんなそんなに怒ってんのかな、と思う。いや、「なんで」なんて愚問だ、なんで怒っているのかは十分すぎるくらいわかっている。


私の中で、2018年下半期に考えたいテーマは「怨恨」と「罪悪感」だ。どうにもこうにも暗くて恐縮だが、「怒り」という感情と、下半期はじっくり向き合ってみたいなと思っている。