チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

名は体を表す不思議な話

「あなたのMarinaって名前は、本名? 日本人なのに、イタリア人みたいな名前ねえ!」


旅先のイタリアの宿で女主人に微笑まれ、私は苦笑いをして視線をそらす。


名前のことをヨーロッパで突っ込まれるのはすでに何回か経験しているが(アテネでは「ギリシャ人みたいな名前ねえ!」といわれた)、いつもなんて返したらいいかわからない。最初は「西洋にかぶれた意気がった東洋人だと思われてるのか!? 遠回しにウチの親がバカにされてるのか!?」と被害妄想でいっぱいになったが、向こうはいつもニコニコしているので、きっと悪気はないのだろう。


南イタリアを旅行中、Marina,Marina,Marinaと街中で何度も呼ばれ、そのたびにびっくりして振り返る。もちろん自分が呼ばれたと思ったのは私の勘違いで、彼らは私の背後にいる、別の「Marina」を呼んでいる。でも、そんな勘違いのたびに不思議な気分になって、私は前を向き直す。



大学4年生のとき、チェコ映画卒業論文のテーマにしようと思って、ヴェラ・ヒティロヴァの『ひなぎく』を観た。岡崎京子的なるものの代表(?)として今日もガールズムービーの金字塔として名高いこの作品、2人の女の子主人公の名前はともに「Marie」である。



ひなぎく


当時習い始めたチェコ語のレッスンで、何冊もチェコの絵本を読む羽目になったが、チェコでも「Marina」という名前は女性にとっても多い。遠い国の絵本に、自分と同じ名前の人物が登場しているのはやっぱり不思議な気持ちだ。私がチェコ映画を研究しようと思ったのはヤン・シュヴァンクマイエルという最近になって引退表明をしたおじいちゃん映画監督がきっかけで、ただの偶然である。でも、Marina,Marieという名前をたくさん目にしていると、これは何かの運命に引き寄せられた結果なんじゃないかと、おかしな思い込みにハマりかけてしまう。


私がチェコ映画を研究して、後年ほんの思いつきで「チェコ好き」というハンドルネームを名乗って文章を書く仕事を始めることになったのは、すべて運命だったのではないのかと。

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自分でも気になって、Marinaがどのあたりに分布している名前なのか、調べてみたことがある。すると、やっぱり東欧・南欧の女性に多い名前らしい。西欧にもいるっぽいが、あまりメジャーではないと見た。私は大学院時代に仏文ゼミに出入りしていた関係で西欧文化も好きなのだけど、あのシュッとしたオシャな感じよりも、ドロドロと仄暗くて、美しさと醜さと愛と憎しみとが入り乱れている東欧・南欧文化に、よりシンパシーを感じている。



まあでも、いちばん好きな作家はスコット・フィッツジェラルドだし、最近はアメリカ文学にご執心だから、やっぱり運命とかじゃなく偶然かな。しかし、私は旅と読書が好きだけれど、国内旅行には疎くて四国と九州にはまだ足を踏み入れたことがない(北海道は高校の修学旅行で行った)。国文学もほとんど読んでいない。いや、読んでるは読んでるが、なんか「私ね! これが好きで!!!」と熱く語りたくなるものがない。夏目漱石の『虞美人草』は例外的にめっちゃ好きなんだけど。ちなみに村上春樹は海外文学としてカウントしている。あれは国文学ではない(※異論は認める)。


すべてを名前に関連付けるのはいささか強引だけど、名前って、もしかしたら思った以上にその人の人生を左右しているのかもしれない。「主格決定論」といって、名前が性格や職業に大きく影響する可能生についてはすでにいくつかの研究結果があるらしい*1


東欧・南欧の旅で名前を突っ込まれるたびに、映画や小説で自分と同じ名前を見つけるたびに、私はきっとこの地方に縁があるように生まれついたのだ、と思うのだった。


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