僕がまだ年若く、心に傷を負いやすかったころ、父親がひとつ忠告を与えてくれた。その言葉について僕は、ことあるごとに考えをめぐらせてきた。
「誰かのことを批判したくなったときは、こう考えるようにするんだよ」と父は言った。
「世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件を与えられたわけではないのだと」
一時期、フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』の冒頭は、なぜこの文章なのだろうと疑問に思っていたこともあった。だけど今は、これ以外の書き出しはないだろう、という気がしている。世の中は全然、平等なんかじゃない。そんなことは、早い人であればもう小学生の頃には気が付いている。だけど20代まではどこか、せめて隣の友人くらいは対等な存在で、自分と同じ世界が見えているはずだという幻想にとらわれがちだ。
今これを読んでいるあなたは、自分を「恵まれた」人間だと思っているだろうか、あるいは「恵まれていない」人間だと思っているだろうか。
おそらく多くの人の人生は、そんな言葉で語ることはできず、もっと多層的である。ある局面では、これ以上ないくらい恵まれている。ある局面では、同情を挟めないくらい恵まれていない。
生まれる前に、この世とあの世の境界線で、私たちは「くじ」を引く。くじは1本ではなく、何十本も、あるいは何百本も引く。何十本何百本とあるわけだから、全部が「アタリ」なわけはないし、逆に全部が「ハズレ」なわけもない。もちろん世の中は平等ではないから、アタリの割合が多い人、ハズレの割合が多い人、というのは残念ながら存在する。だけどまあ、一応は、アタリとハズレを両方持った状態で、私たちはこの世界に産み落とされる。
ただこれも、「人生万事塞翁が馬」なんて言葉があるように、アタリに見せたハズレくじとか、ハズレに見せたアタリくじとかも入っているので、実際はもっと複雑だ。時代、偶然、あるいは自分の努力や怠惰によって、アタリはハズレになり、ハズレはアタリになったりもする。
人間は、大きな苦しみを抱えると、たいてい「この苦しみには意味があるはず」と思い込む。宗教はそのために存在しているともいえる。だけど、悪いけど、苦しむことに意味なんてない。あなたのその苦しみは、「ハズレのくじを引いた」だけだ。意味なんてない。
「数年前、復活祭の贈物にもらったひよこが、屑篭の底に敷いた鋸屑の上で死んでるのを見つけたときにも、捨てるのに三日もかかったジニーであった。」
— チェコ好き@ 文フリ東京オ-35〜36 (@aniram_czech) 2018年11月18日
すごく好きな最後の文章なのだけど、意味は全然わからない…
J・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』は大好きな小説だから、ことあるごとに読み返しているのだけど、そういえば『ナイン・ストーリーズ』を読むのは久しぶりだった。私はこの短編集の1話目である『バナナフィッシュにうってつけの日』を、頭のおかしな男が拳銃で自殺する、よくわからない話だと高校生のとき思っていた。
30代になった今、読み返してみると、この小説には第二次世界大戦の影がはっきりと落ちていることがわかる。あの繊細なサリンジャーが、戦争を体験して、隣で死んでいく仲間を見て傷ついていないわけがなかった。社会の欺瞞に怒っていないわけがなかった。この人は、どうやってこの苦悩を乗り越えたのだろうと思う(いや、乗り越えられなかったから、こんな変な小説を書いて森に引きこもったのか……)。
「これからは、孤独な10年の始まりだ」と、『グレート・ギャツビー』の中で30歳の誕生日をむかえたニック・キャラウェイはいう。
30歳から先の孤独とは、隣に誰かがいないことではない。「自分と同じ世界を見ている者はこの世に自分以外、誰一人としていない」ということに気付き、想像なんてしようがない他者の人生を想う。そういう類の、どうやったって解消できない孤独なのだ。