『ドラえもん』のアニメのなかには、のび太やジャイアンやスネ夫が集う「空き地」が出てきます。「空き地」には土管がおいてあって、ジャイアンに追われたのび太が土管のなかに隠れたりします。
が、こんな光景はもう、少なくとも首都圏ではほとんど見られないものになってきています。「土管がおいてある空き地」なんてものはもう、マンガのなかにしか出てこないといっても過言ではないです。
……とすると、ちょっと疑問なのは、今まさに『ドラえもん』を現役世代として楽しんでいる子供たちが、この作品を同時代の物語としてとらえているのか、それとも過去の物語としてとらえているのか、ということです。ちなみに私自身も、「土管がおいてある空き地」なんてものをリアルに知らない世代です。とすると、自分はどうだったのかというと、やはりある程度は『ドラえもん』を過去の物語としてとらえていた部分があったと思います。でも一方で、「のび太の部屋」には、私の世代はまだそこまで違和感を感じないのではないかと思います。机があって、マンガばっかりの本棚があって、ドラえもんのベッドがある押し入れがあって、畳で…。
しかし、この「のび太の部屋」にも、違和感を持ち始める子供たちが出てくるのは時間の問題でしょう。部屋にパソコンがおいてないなんて変だ、押し入れって何? ああそっかこのマンガは「過去の物語」なんだ、というふうに私たちの世代よりもより強く解釈する子供たちが出てきたとき、はたして国民的アイドルであるドラえもんはどのような意味をもつキャラクターとなるのか。
なんてことを考えてしまったのは、この本を読んだからです。
- 作者: 赤瀬川原平,南伸坊,藤森照信
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1993/12
- メディア: 文庫
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私が大学時代、院生時代と6年もかけて勉強していたのは、この本に書いてあるようなことでした。
「この本に書いてあるようなことを勉強していた」というのは、実際的な意味でも、観念的な意味でもです。実際的には、たとえば「超芸術トマソンを探してこい」なんてレポート課題が、うちの大学では出されていました。「超芸術トマソン」というのは、「様々な事情により街のなかに意図せず出現してしまった変なもの」です。たとえば、「純粋な昇降運動を強制し、それ以外何の見返りも期待できない純粋階段」とか。ようするに、上にあがるためではなく途中で途切れてしまう階段、階段の意味がない階段ということですが、こういう「くだらないことを超マジメに学問的に定義してみる」っていうのは、私の愛してやまないスタンスだったりします。デジカメをもって街にトマソンを探しにいくのは、本当にわくわくする作業でした。
観念的な意味では、私は芸術学科といっても映画やマンガ、現代芸術など「傍流」を専門として勉強していたので、この本のいわんとすることがすごくよくわかるのです。同じ芸術学科でも、「バッハが専門です」「ルネサンス美術を研究していました」という人にこの感覚はわからないでしょう。我々の専門分野というのは、つまり社会において「どうでもいいもの」なのです。経営や金融や投資のように金になるわけでもないし、法や政治や機械工学のように使えるもんでもない、「一流」とされている文学や音楽や美術のように教養を高めてくれるわけでもない。「トマソン」なんて普通に生活していたらそこにトマソンがあるなんて絶対気が付かないし、気が付いても何にもならないわけです。
『ドラえもん』のなかにあるような「土管がある空き地」がもうすでにこの世から(少なくとも現代日本から)消えようとしているように、この愛すべき「超芸術トマソン」も、徐々に街から消えていく気がします。世間様は、とにかく無駄をなくすことに躍起になっている。はやりの「断捨理」なんて考え方はまさに家から無駄なものを排除する作業だし、時間やお金も効率化、効率化、と叫ばれている。街からだって、「土管がある空き地」なんて無駄なわけで、そんなスペースがあるならぜひ「有効活用」してスカイツリーでも作るべきだ、という人が多そうです。
かくいう私も「断捨理」好きなので、家で無駄なものはガンガン処分してます。本当に必要で、しかもお気に入りのモノだけそろうシンプルな部屋に住みたいとか思ってます。
世の中はどんどん効率化、シンプル化している。もうトマソンのような「愛すべき無駄」はなくなってしまいます。
……といいたいところですが、私はこの点に関しては楽観的に考えています。本にも「どこかで消えればまた生まれる、というのもトマソンのような気がする」と書いてあります。その通り、人間が「無駄を完璧に排除する」なんてことはできっこありません。トマソン自体は街から消えるかもしれないが、姿を変え、形を変え、必ずいつの時代にもどこかにある。
他にも、街の風景が変わっていく様子や、昔の風景が身体感覚としてわからなくなるかんじに、時代を感じてぞくぞくしました。今の子供たちに、「鉄条網って知ってる?」って聞いたら「知らなーい」って言われそう。じゃあ、鉄条網がわからなくなった子供たちは赤塚不二夫や手塚治虫をどう読むのか。あと、何でそもそもドラえもんの空き地に「土管」がおいてあるのか、とかも本を読んでわかりました。何となくあのアニメから、空き地には土管がおいてあるもんだ、と実際にはそんなの見たこともないくせに思っていましたが、なるほど土管がおいてあったのはそういう事情があったからなんですね。
話がいろんな方向にとんじゃいましたが、最後に本の引用で終わりにします。
おそらく、博物学が持つ根源的な魔力の本質は、こうした極端な事例に、はしなくも露呈するのだろう。狩猟でも農耕でもかまわないが、たとえ自身の生命維持にかかわる重要な作業を行なっているさなかにさえ、ふと注意を脇道にそれさせる力。問題になるのは、そうした呪縛力が実在するということなのである。
2016.9.5 追記
赤瀬川原平らが書いた『路上観察学入門』は、ここに書いたように「超芸術トマソン」を見つける・考察するという珍妙なエッセイである。「超芸術トマソン」とは、上記の書き方ではわかりにくいのだけど、説明しようとするとやはり「街中に意図せずして生まれてしまったおかしなもの」だ。赤瀬川原平らはそれを現代美術などよりも一段上であるかのように、純粋芸術と呼ぶ。たとえばTwitter上では「#植物のふりした妖怪」というハッシュタグがあるけれど、これもいってみれば「超芸術トマソン」の一種と考えていいだろう。塀を食うように膨らんだこの植物は、人間が意図してこのような形に変形させたわけではない。自然に、気が付いたら、こうなったのだ。そしてそれが面白く、道行く人をしばしば感動させる。
#植物のふりした妖怪 塀喰らい pic.twitter.com/Hk8IVa9yYh
— ふじたま (@fujitama3) 2016年8月14日
これを書いた当時の私は、そんな「意図せずして生まれてしまったもの」、無駄なものを、世の中が愛せなくなってきているのではないかとどうやら心配しているようだ。もちろんそれは杞憂といったもので、昭和の時代みたいに純粋階段が無造作に街中で放っておかれる機会は減るかもしれないが、「意図せずして生まれてしまったもの」を愛する心を人はちゃんと持っている。
「#植物のふりした妖怪」タグやこの『路上観察学入門』を眺めていると、なんだかカメラを持って街中に出たくなってくる。見慣れた街が、視点を変えると純粋芸術の街になる。そうやって、世界が変容してしまうことが、私は今も昔もとても面白いと思っているようだ。