「現代アート」とよばれる、美術のジャンルがあります。
こういうやつですね。これは、マルセル・デュシャンの『泉』。
男性用小便器を上向きにおいてみたという、ただそれだけの作品です。
デュシャン以外にも、
アンリ・マティス、
パブロ・ピカソ、
ルネ・マグリット、
マーク・ロスコ……
こういった作家たちが、このジャンルを代表するアーティストです。
ときどき、彼らの作品を前にして、「わからない」とおっしゃる人がいます。
しかし、私は生まれてこのかた、自分が覚えている限りにおいて、アートを見て「わからない」と思ったことは、一度もありません。
今はごく普通の会社員ですが、芸術系大学院を出ている私。
腐っても鯛、とはよくいったもので、そこにはやはり、アートを見る感性や、才能のようなものがあるのでしょうか。
★★★
いや、自慢話をしたいわけではもちろんありません。
というか、「アートを見る感性」なんて、仮にもっていたとしても1円の価値も生み出さないので、何の自慢にもなりません……
うーん。
「わからない」という体験をしたことのない私にとっては、「わからない」という人が、いったい何をどう「わからない」のかが、逆にわかりません。
ただ、「わからない」とおっしゃる人を見ていて思うのは、アートを高尚なものだと考えすぎているのでは? ということ。ようは、「マジメに見すぎ」。
そのへんに転がってる石ころだと思って、てきとーに見ときゃいーんです。
とはいっても、「てきとーに」っていうのも抽象的でなかなか難しいと思うので、今回は、現代アートがわからないとおっしゃる方のために、「現代アートがわかるようになる3つのポイント」を考えてみました。
★★★
1 「わからない」じゃなくて、「感じない」と思うこと
アートが「わからない」。そもそも、この「わからない」という言葉が、話をややこしくしているように思います。
「わからない」の反対は、「わかる」。つまり、数学の問題を解くように、そこには唯一絶対の“解”があるように思えてしまいます。
でも、アートにはもちろん“解”なんてものは存在しません。
あなたが、作品を前にして「感じたこと」。
それを言葉にできたらベストですが、言葉にできなくてもかまいません。ふわふわとしたまま、ぼわ〜っとしたままでOKです。
“解”が存在しないかわりに、それが一番、だいじなものになります。専門家がいってる小難しいことは、どうでもいいのです。あなたの「感じたこと」のほうが、だいじです。
「何も感じない」?
それはそれでOKです。それはおそらく、あなたと作品の相性がよくなかっただけです。もちろん、未来永劫相性が合わない、というわけではありません。「今」のあなたと相性がよくなかっただけで、3年後、5年後、10年後のあなたは、その作品から何かを感じ取るかもしれません。
現代アートの作品を見て、いまいちピンとこなかったら、それは「わからない」のではなくて、「感じない」のです。
私にも、ピンとこない作品、何も感じない作品はあります。でもそれを、「わからない」といったりはしません。
2 「感じない」のは、どんどんスルーする
「アート=高尚なもの」だと考えている方は、すべての作品において、何かを理解しようとか、吸収しようとか、マジメに考えすぎです。唯一絶対の解がない以上、「わからない」「何も感じない」ものに、いくら時間をかけても無駄です。
なので、「これはよくわからん」「何も感じない」と思った作品は、どんどんスルーしましょう。
美術館も、1つ1つの作品をじっくり見る必要はありません。展覧会のメインになっている有名な作品の前に人だかりができていても、それが自分に対して何も訴えてこないならば、さっさと通り過ぎてください。
結果、1つの作品もじっくり見なかった、美術館代損した! みたいなこともあるかもしれません。そういった場合は、しかたありません。そういうこともあると、あきらめましょう。
でも、いくつかの展覧会を訪れるうちに、あるいは、いくつかの画集や写真集をながめているうちに、
「ん? なんじゃこれは?」
と思う作品が、必ず見つかります。
そういう作品が見つかったら、すぐさま制作したアーティストの名前を調べ、そのアーティストのほかの作品を見てみたり、同時代のアーティストの作品を探してみたりしましょう。
余裕があれば、関連書籍も読んでみてください。
広く浅く、体系的な知識を身に付ける必要はありません。
興味があるやつだけ、徹底的に深堀りするんです。
3 過激な作品を見てみる
とはいったものの、その
「ん? なんじゃこれは?」
と思える作品を探すまでがめんどう……という人には、一撃必殺の荒療治があります。
それは、過激な作品を見ちゃうこと。
このブログに何回も登場しているChim↑Pomやヤン・シュヴァンクマイエルでもいいですし、
こんなのもあります。アンドレ・セラーノ。
タイトルは『ピス・クライスト』。
一見、何の変哲もない(?)キリスト像ですが、「ピス」とは、「小便」のこと。そう、この黄金に輝く液体は、なんと、作者であるセラーノのOSHIKKOなのです!
当然ながら、この作品は発表されるやいなや、「神への冒涜」「作者の神経を疑う」と、欧米で大騒動になりました。
しかし、制作者のセラーノは、敬虔なキリスト教徒であるとのこと。軽い「ノリ」でこんな作品を作れるはずはありません。彼は、この作品で何を訴えたかったのでしょう?
過激な作品、それは政治的なものであったり、強い不快感を呼び起こすものであったりします。
そうした作品を前に、「何も感じない」と思える人は、おそらく少数派です。
セラーノの作品を見て、「へぇ〜、おもしろい」と思うもよし、「げっ! きもちわるい!」と思うもよし。
アートを見て、何かを「感じる」という感覚。
なかなか「感じる」作品に出会えない方は、かなり荒療治ですが、過激な作品を見ることで、この何かを「感じる」という感覚を、つかんでみてください。
荒療治がすんだあとは、おそらく以前よりは、「頭」より「感覚」が先に動くようになっているはずです。
★★★
と、3つのポイントを書き連ねてみましたが、「現代アートがわかる」ようになっても、給料があがるわけでも、仲間がふえるわけでも、時間の使い方が上手くなるわけでもありません。
私も、自分でこのエントリを書きながら、「誰が読むんだ、これ」と思っています。
でもですね、アートはおもしろいのです。お金のかからない娯楽です。
おもしろいアートに出会うと、自分の根っこにある、ふだんは隠れた場所で行儀よくしている何かが、
突然暴れ出したり、失態を演じたりします。
それはブラックホールをのぞくような、ちょっと怖い体験でもあるのですが、たまに「何か」を思う存分、“外”で暴れさせてあげないと、いざというとき、そいつは“内”で悪さをします。
だから、みんなもっとアートに親しんだほうがいいと思う!!
というのは暴論でしょうか?
★★★
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便器にはじまり小におわった今日のエントリ、何だか上手く下ネタでまとめられました。