チェコ好きの日記

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カルト宗教とか、亡命とか 村上春樹『雑文集』の感想

村上春樹の『雑文集』を読みました。良くも悪くも有名なエルサレム賞受賞のあいさつ『壁と卵』も収録されている、往年の村上春樹のスピーチ原稿や雑誌のエッセイなどを集めた、その名のとおり「雑文」集です。

村上春樹 雑文集

村上春樹 雑文集


村上春樹エルサレム賞を受けたことの是非や、『壁と卵』の内容については、今回は触れません。

私がいろいろ考えてしまったのは、賞は賞でもエルサレム賞ではなくて「フランツ・カフカ国際文学賞」のほう。カフカはご存知のとおりチェコプラハ出身の作家で、村上春樹はこの賞を2006年に受賞しています。このフランツ・カフカ国際文学賞を受けた際に、村上春樹チェコの新聞のインタビューに答えているのですが、その原稿が『雑文集』に掲載されていたというわけです。そして、この新聞インタビューがとても面白かった。

以下、その一部を紹介してみようかと思います。

村上春樹と宗教

—『海辺のカフカ』において星野青年はカーネル・サンダースと討議します。彼が誰であり、いかなるものであるかということについて。その討議には魂(スピリット)や神や仏陀も含まれてきます。あなたはオウム真理教の信者たちとお話をされたと聞きました。あなたは宗教や霊性(スピリチュアリティー)についてどのような立場を取られますか?


(中略)宗教家は彼らなりの物語性のシステムを人々に提示し、そこに人々の精神のありかを定めていきます。ただし、宗教は小説に比べると、より強い規範とコミットメントを人々に求めます。そしてその宗教がカルト的な色彩を帯びてくるとき、そこには危険な流れが生じる場合もあります。そのような不自然な流れが作り出されることをできるだけ阻止していく、というのも小説に与えられた責務のひとつではないかと、オウム真理教の信者と話し合ったあとで、僕は考えるようになりました。

村上春樹は、オウム真理教について、2冊の本を書いています。1つが、地下鉄サリン事件の被害者にインタビューを行った『アンダーグラウンド (講談社文庫)』、もう1つがオウムの信者(元信者含む)にインタビューを行った『約束された場所で―underground 2 (文春文庫)』ですね。

私はどちらも読んだのですが、個人的な関心からより興味深いものを選ぶとしたら、後者の、信者にインタビューを行ったほうを選択します。なぜかというと、私はいくら考えても宗教というものが、とくにカルト宗教というものが、よくわからないからです。

『約束された場所で』では、1人1人の信者に「どんな家庭環境で育ったのか」とか、「思春期はどんなことで悩んだのか」とか、「なぜオウムに入信したのか」「入信したことを後悔しているか」などの質問を、村上春樹がしていきます。で、当たり前といえば当たり前かもしれないんですけど、みんな見事に理由がバラバラなんですね。失礼ながら「あー、この人は確かに宗教とかにハマっちゃうタイプかも」と思ってしまう人もいたし、逆に明るくて友達も彼氏もいる女性で、「なぜあなたが?」という感じの人もいました。そしてさらにういうと、「宗教以外の何がこの人を救えたのだろう?」っていう、現代社会ではどうしようもできないんじゃないかって感じの人もいました。

最終的な結論としては、「オウムに入信した人は、幼い頃の家庭環境に何かしらの問題があった人が多い」あたりに着地させようと思えば着地させられそうではあるのですが、私の実感として、それはちょっとムリヤリだよなぁ、って気もするんですよね。だって、幼い頃の家庭環境に問題があった人でも、全員が全員カルト宗教にハマるわけではないじゃないですか。それに、人間がつくるものですから大なり小なり家庭というのは問題を抱えていて、「家庭環境にまったく問題がなかった」なんて言い切れる人がはたして何人いるだろうか? って私は思うのです。「幼い頃の家庭環境」なんて、その後の子供の人生の結果を見てから考えただけの「後だしジャンケン」じゃないかと。


「家庭環境」じゃなければ、じゃあ何が問題だったのかというと、私は「一人っきりでいても淋しくない場所」に、その人が出会えなかったのが原因なんじゃないかと、最近は考えるようになりました。「一人っきりでいても淋しくない場所」っていうのはAV監督の二村ヒトシさんの言葉で、詳細は以前書いています。
二村ヒトシ『すべてはモテるためである』を読んでみた感想 - (チェコ好き)の日記

「一人っきりでいても淋しくない場所」に思春期から青年期にかけて出会えるかどうか。
これは正直なところ運でしかないと私は思うんですが、村上春樹は小説に、そして私は映画や美術に出会えたから、カルト宗教に向かわずにすんだのかなって、最近はそう思います。そして村上春樹は、残念ながら今のところあまり成功しているとは思えないけど、やっぱり「宗教よりパワーのある物語をつくる(小説を書く)ことで、そういった流れを止める」ということを自分の使命だと感じているのでしょう。『1Q84』では、その意思がひしひしと伝わってきました。

もちろん、新興宗教が必ずしも悪いものだというわけではないんですけどね。

ストレンジャーであること

ーこの百年ばかりのあいだ、優れた作品の多くは亡命者や、事情があって国を離れた人々の手によって書かれてきました。ジョイスやベケットナボコフなどです。この状況はチェコ文学にあってとくに顕著です。あなたもまた長く祖国を離れ、日本の文壇とは無縁のところで仕事をしてこられました。そのように異国に出て行くということがーあるいはまた故国のメインストリームに与しないということがー現代文学における必要な作業になっているとお考えになりますか? またそれはどのような意味合いにおいて有効なのでしょうか?


僕は社会組織というものがもともと国家体制から、学校や会社から、作家の集団にいたるまで、団体というものに馴染めないのです。そういう意味合いにおいては、外国に出て、異人(ストレンジャー)として暮らしている方が、僕にとっては精神的に気楽だったかもしれません。規則や規範に束縛されることなく、自由に小説を書くことができました。

「事情があって国を離れた人の文学(あるいは映画)』は、私の懐かしの修論のテーマでもあったので、こちらも個人的に関心の高い話題です。

チェコに限っていうならば、「事情があって国を離れた作家(亡命した作家)で真っ先に思い浮かぶのは、やっはりミラン・クンデラです。そしてクンデラと同時代に生きたたくさんの映画監督が、表現の自由を求めて、同じように共産主義の国であった当時のチェコから脱出しています。

ちなみに、私が好きな映画監督であるヤン・シュヴァンクマイエルやイジー・メンツルは、国外脱出をしませんでした。シュヴァンクマイエルのほうは一時期オーストリアへ逃げていたそうですが、所詮お隣の国ですから、いつでも帰ってこれるようにとの一時避難だったのでしょう。どちらにしても、他の監督が亡命しているなかで当局に目を付けられながら国に残ることは、とても居心地の悪いものだっただろうと想像はつきます。

亡命をしたクンデラ、亡命せずに残ったシュヴァンクマイエルとメンツル、そして日本の文壇を離れた村上春樹

私が最終的にいつも心を惹かれるのは、こういった、「居場所がない人たち」の作品なんですよね。社会の枠をはみ出してしまったり、すでにある体制に従えなかった人。そして、実際に亡命をするとか祖国を離れるとかをしなくても、やっぱり芸術は社会の外側から、体制の外側から、壁と卵なら卵のほうから、何かを訴えるものでなければ意味がないと私は考えています。

2006年になってもチェコに生きる人々は、あの共産主義の時代のことがずっと頭のなかにあるんだなと、このインタビューを見て思いました。

★★★

という感じで、いろいろと考えることの多かった『雑文集』ですが、やっぱり一番読み応えがあるのは有名な『壁と卵』のスピーチかもしれません。あとはカズオ・イシグロについての文章も面白かったし、安西水丸さんについて書いた文章も味わいがあります。

これを読んでまた『カルト宗教について考えたい』欲が高まってきたので、Amazonで関連書籍をあさってみようと思います。

関連エントリ
『約束された場所で underground2』 村上春樹と考えるオウム真理教。(前編) - (チェコ好き)の日記

『約束された場所で underground2』 村上春樹と考えるオウム真理教。(後編) - (チェコ好き)の日記