チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

「おとぎ話」の作者はだれなのか?

おとぎ話……西洋ふうにいえばメルヘン、またはフェアリーテール(妖精物語)といったりもします。

今回、その「おとぎ話」をテーマにエントリを書くにあたって、「メルヘン」をウィキペディアで調べてみました。いわく、主人公がもともとその世界の住人であるものが「メルヘン」で、主人公が異世界とこちらの世界を行き来するものは「メルヘン」ではなく「ファンタジー」に分類するそうです。へぇー。
メルヘン - Wikipedia

そんなメルヘン、もといおとぎ話ですが、代表的な物語として思い付くのはやはりグリム童話にあるような「ヘンゼルとグレーテル」とか、「灰かぶり(シンデレラ)」とか、「白雪姫」でしょうか。日本の物語でいうと、「桃太郎」とか「一寸法師」とか「舌切り雀」あたりですかね。どの物語にも、魔女とか妖精とか鬼とか、現実社会では想定しづらいモノ・コトが登場します。しかし、物語のなかの主人公たちはそれに特に驚くでもなく、不思議な生き物や出来事をすんなりと受け入れています。「桃太郎」で川に流れてきた桃をおばあさんが疑いもせずに家に持って帰るのは、おばあさん自身が異世界の住人だからです*1。これがもし「ファンタジー」だったら、桃から子供が出てきたらそれにどうにか根拠や理由をつけて、おばあさんやおじいさんががその異常な現象を受け入れるところから話が始まるわけです。(と、いうことですよねウィキぺディア先生?)

荒唐無稽な子供向けの物語であると考えられることが多いメルヘン、おとぎ話ですが、何かと不思議な要素が多いのも事実です。今回は最近読んだ(というか、学生時代に読んだものを再読した)ある本が興味深かったので、本をヒントに、おとぎ話にまつわる謎について書いてみようと思います。

シュルレアリスムとは何か (ちくま学芸文庫)

シュルレアリスムとは何か (ちくま学芸文庫)

※なぜシュルレアリスムの本からメルヘンが出てくるんだ?という話はまたの機会に。

年代・人物が特定できない

まず最初に断っておくと、このエントリのタイトルにあるような「作者」は、おとぎ話において存在しません。個人である「作者」という概念自体が、中世以前にはなかったもので……とかいう話は今回はおいておきますが、では「作者」がいないとすると、おとぎ話はどこでどうやって誕生したのでしょうか。

考えられる話としては、かつて世界中のどこかで、人間が夜な夜な火のまわりに集まって、何かを報告し合ったり作り話を披露し合ったりしていた。そんななかで、だれかとだれかの話が混ざり合ったり、話に枝葉がついたりと、いろいろな物語のエピソードがどんどん積み重なっていった。そんなふうにして、自然発生的に生まれた物語である、ということです。その「はじまりのはじまり」がいつだったのかは、今となってはもう特定する術がありません。人間が「ことば」を使ってお互いの意思疎通をはかることができるようになってすぐとか、農耕が始まった頃?とか、いやいや中世だとか、とりあえず「だいぶ前」だろう、ということくらいしか、わからないわけです。

しかし、だとすると不思議なのが、似たようなおとぎ話が遠く離れた別の場所にも点在している、という事実です。日本の昔話と同じプロットの物語がアフリカにもあるとか、中南米にもあるとかって、よく聞く話ですよね。

このことを説明する考え方には2種類あって、1つはある場所で発生した物語が、長い時間をかけて別の場所へ伝播した、というものです。あくまでたとえですけど、もともとは中国で誕生した「シンデレラ」の原型が、長い時間を経てヨーロッパまでたどりつき、そこで西洋らしい新たなエピソードが加わって、今私たちが知っている「シンデレラ」になったんじゃないかとか、そういう考え方ですね。

もう1つの考え方が、ある時期の人類が世界中で同じような精神的危機に直面し、その危機を乗り越えるために世界中のあちこちから同時発生的にある種のおとぎ話が生まれた、というものです。ざっくりいうと、ユング集合的無意識っぽいかんじですね。われわれは深い深い無意識の底でつながっていると。私は心理学とか精神分析のことはよくわからないのですが、ユングの考え方って医学としてはともかく芸術学としてはけっこう使えるみたいな話を聞いたことはありまして、ユングって好きなんですよね。ちょっとオカルトっぽいけど。

そんなふうにして生まれた物語なので、「年代」が特定できないことは、いってみれば当然なわけです。桃太郎は明治以降の話ではないというのは雰囲気からして何となく推測できますが、それが江戸時代の話なのか、室町時代の話なのか、平安時代の話なのか、全部当てはまるような気がしてわかりません。桃太郎という物語の成立については諸説あるようですが、きっとどこからともなく自然発生的に生まれた「もともとあった話」に、いろいろな要素を付け加えて「桃太郎」として確立させたんだろうな、と個人的には考えています。

また、シュルレアリストとして有名なアンドレ・ブルトンは、「昔むかしあるところに……」で始まるおとぎ話の冒頭を「いずれ、いずれ……(Il y aura une fois……)」と未来形に書き換えてみるということをやったそうなんですが、これはすごく面白いですよね。「遠い遠い未来のあるところに、おじいさんとおばあさんがいました。おばあさんは川へ洗濯に……」と語られても、あまり違和感を感じないのは私だけではないはずです。とにかく、おとぎ話というのは「今、ここ」の物語ではなく、「今じゃない、どこか」の物語であれば、何だっていいのです。

また、おとぎ話に登場する人々はその「人物」が特定できない、というのも興味深い話です。長い時間を経て、人の手から人の手に伝えられてきたという経緯を考えてみれば当然のことかもしれませんが、「桃から生まれた桃太郎」であって、「桃から生まれた田中正造」とかじゃダメなんですね。私たちがよく知っている「シンデレラ」も、フランス語の「サンドリヨン(灰まみれの少女)」を英語読みしたもので、だれか特定の人物を表す固有名詞ではないのです。

“継母”が多いのはなぜ?

グリム童話―子どもに聞かせてよいか? (ちくま学芸文庫)

グリム童話―子どもに聞かせてよいか? (ちくま学芸文庫)

上記とは別のものですが、もう1つおとぎ話を考えるときに非常に面白かった本として、野村ヒロシさんの『グリム童話ー子どもに聞かせてよいか?』をあげておこうかと思います。この本で興味深かったのは、「おとぎ話にはなぜ“継母”が多いのか?」という指摘でした。

たとえば、「シンデレラ」は主人公が継母や義理の姉に虐げられる物語です。継母と結婚したはずの肝心のお父さんは、物語に登場しません。「白雪姫」も継母にいじめらる物語だし、「ヘンゼルとグレーテル」にも継母が登場します。

これは、近代以降におとぎ話が語られるようになってから、「残酷だから」という理由で“実の母”が“継母”に書き換えられたという事情があるようですが、いずれにしろ西洋のおとぎ話って「お父さん」がほとんど登場しません。それが実の母であれ、継母であれ、「女と子ども」の物語になっている。これって考えてみればすごく不思議なことで、本気で研究したらすごく面白いしフェミニズムとかも絡んできそうだなとか思うんですけど、本のなかではあくまで「指摘」として終わっているところがあり、解決まではいたっていませんでした。指摘だけでもすごい面白かったので、いいんですけど。

一方、日本のおとぎ話に目を向けてみると、今度は「おじいさん」と「おばあさん」の登場率の高さに驚かされることになります。おじいさんとおばあさんとはつまり、「子宝に恵まれない(もしくは、そういう時期をもう過ぎてしまった)夫婦」を表しているのだと思うのですが、なぜそういう夫婦を引っ張ってくる必要があったのかなー、とか考えちゃいますよね。新婚の若夫婦の旦那が山へ柴刈りに、奥様が川へ洗濯に行くのじゃダメだったんでしょうか。

ちょっとムリヤリなまとめですが、西洋のおとぎ話にしろ、日本のおとぎ話にしろ、「主人公を取り囲む家族のかたちがイビツである」ということはいえそうな気がするんですよね。中世以前は今でいう「お父さんと、お母さんと、子ども」みたいな家族のほうが稀だったということでしょうか? このあたりは、もう少しいろいろ考えてみたいところです。

「子供向けの物語」にしてよいのか?

話がさまざまな方向へとんでしまいましたが、私がおとぎ話について一番いっておきたいのは、それを「子ども向けの物語」にしてしまっていいのかという問題と、「物語の力」について考えてみようよ、ということです。

西洋のおとぎ話にしろ、日本のおとぎ話にしろ、現代の私たちが知っている物語にはさまざまな改変が加えられて、安全無害な「メルヘン」になっています。この傾向は、今後ますます強くなっていくような気もします。

確かに、子どもに聞かせる上で残酷な描写やエロい描写を省きたい、という心情が理解できないわけではないです。でも、そんな物語がはたして子どもの心に響くだろうか? というのが、私の疑問なんですよね。表面上は省いてもいいけど、せめて雰囲気だけでも、「この物語には、本当は何かもっとあるんじゃないか?」という妖しいオーラは残しておくべきだと思うんです。ディズニーランドの白雪姫のアトラクションが“怖く”作ってあるのは、私はすごくいいことだと思うんですよね。あれを変にハッピーでキレイなアトラクションに作り替えるみたいな話がもし出たら、私は今度こそ本気でディズニーが嫌いになります。

物語というのは、ときに娯楽でありエンターテイメントであるわけですけど、根本的な役割として、「人々にある種のトラウマを前もって経験させ、現実に備えさせる」みたいなものがあると私は考えています。だから、本当に優れた物語はトラウマになります。ずっと胃に残って消化不良になります。でも、それくらいの物語でないと、物語としての機能は本質的には果たせてないんじゃないかと思うわけです。

だから私は、おとぎ話の残酷描写は、全部とはいわないけどある程度は残しておくべきだと考えています。「この話、何かヘン」と子ども心に思わせるものであってほしい。人類が長い歴史のなかで作り上げてきた物語なのだから、その力を信じずにどうするよ、と。


ちょっとキレがいまいちですが、今回はこのへんです。おとぎ話って個人的にすごく好きなテーマなので、また面白い本を見つけたら何か書こうと思います。

*1:「桃太郎」はもともと、川から流れてきた桃を食べて若返ったおじいさんとおばあさんから生まれたみたいな“回春型”のストーリーが主流だったようで、これをムリヤリ改変したので変な話になっているようです。