「村上春樹のファン層と、宮崎駿のファン層って重なる気がするんだよな」
と、いっていたのは、知人だったかだれだったか。前者のファンではあるけれど、後者はどちらかというとアンチに属する私は、思わず「むむむ」と反論したくなったものです。
しかし、先日『物語論で読む村上春樹と宮崎駿——構造しかない日本』という本を読んだことがきっかけで、「やっぱり村上春樹と宮崎駿って似てるのかもしれない」と思い直した私は、この超有名な2人の作者の物語について、考えてみることにしました。
物語論で読む村上春樹と宮崎駿 ――構造しかない日本 (角川oneテーマ21)
- 作者: 大塚英志
- 出版社/メーカー: 角川書店(角川グループパブリッシング)
- 発売日: 2009/07/10
- メディア: 新書
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村上春樹と宮崎駿の物語は、マニュアル化されている!?
「ホッテントリメーカー」っていうサイトがありますよね。ブログの記事を書くときなんかに、「今日は◯◯◯について書く」の◯◯◯のところに好きな言葉を入れると、たくさんアクセスを稼ぎそうな記事(Hot Entry)のタイトルを勝手に生成してくれるという、面白いサイトです。
試しに本日のテーマである「村上春樹と宮崎駿の物語」を◯◯◯のところに入れてみたら、こんなかんじになりました。
■ 日本一村上春樹と宮崎駿の物語が好きな男 23 users(推定)
■ 村上春樹と宮崎駿の物語にまつわる噂を検証してみた 84 users(推定)
■ どこまでも迷走を続ける村上春樹と宮崎駿の物語 10 users(推定)
■ 村上春樹と宮崎駿の物語原理主義者がネットで増殖中 37 users(推定)
■ 「村上春樹と宮崎駿の物語」って言うな! 13 users(推定)
個人的には3番目のやつが好みですが、確かにどれも面白そう!?
このサイトはある意味「ネタ」なわけですが、ネット上でたくさんアクセスを稼ぎそうな記事のタイトルっていうのはある程度定型化されていて、データベースのなかからそれらをテキトーに組み合わせてみるだけでそれっぽいものができるっていうのは、よくよく考えてみると大変な事態だなぁとかも思うわけです。まぁ私も、ブログを書いているなかで「これってコンピューターが考えました?」みたいなタイトルけっこうつけちゃうので、それを嘆く資格なんてないですけど。
話がとびましたが、今回読んだ本の著者である大塚英志氏は、村上春樹と宮崎駿の物語はこの「ホッテントリメーカー」ならぬ「物語メーカー」によって作られている、と指摘しています。もちろん「物語メーカー」っていうサイトがどこかにあって、◯◯◯のところに書きたいテーマを入れて……なんてことをやっているわけじゃないですが、村上春樹と宮崎駿の頭のなかに、この「物語メーカー」があると。
「物語メーカー」には細かく分析するといろいろな種類があるみたいですが、代表的なものとして、大塚氏は「行きて帰りし物語」をあげています。これは確かに、村上春樹と宮崎駿の物語の多くを占める構造だなぁと、私は納得してしまいました。
「行きて帰りし物語」
「行きて帰りし物語」の基本構造は、名前のとおり、「この場所とは異なる向こう側の世界に行って、帰ってくる」というものです。村上春樹の現時点での長編最新作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』なんかは、ずばりこの構造に当てはまります。宮崎駿作品だと『千と千尋の神隠し (通常版) [DVD]』などが、おそらく典型ですね。
『千と千尋』のほうは知っている人も多いと思うのでネタバレしますが、この映画は主人公の少女千尋が、両親と引っ越し先の町に向かう途中で森のなかに迷い込んでしまい、そこで見つけた奇妙なトンネルから異世界に行ってしまう、という物語です。そこで湯婆婆に出会ったり、ハクに出会ったり、カオナシが暴走したりといろいろなことがあるのですが、最後は豚にされてしまった両親をもとにもどし、無事「こちら側」の世界にもどってきます。
「千と千尋の神隠し」予告編 - YouTube
この「行きて帰りし物語」という構造を極限までシンプルにすると、『アンガスとあひる』という、子供向けの絵本と同じ話になるそうです。何でも『アンガスとあひる』の物語は、「小さい子たちにとって、その発達しようとする頭脳や感情の動きに則した、一番受け入れやすい形」なんだとか。「村上春樹や宮崎駿が“小さい子向け”だと!?」とか思っちゃいますが、重要なのは人間にとってもっとも根本的で、わかりやすい物語というところにあるんだと思います。世界各地の神話や民話、おとぎ話にも、この「行きて帰りし物語」の構造をもっているものはたくさんあって、例にあげようとするとキリがありません。
- 作者: マージョリー・フラック,瀬田貞二
- 出版社/メーカー: 福音館書店
- 発売日: 1974/07/15
- メディア: 大型本
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私は先日、宮崎駿作品について「映画『風の谷のナウシカ』は序章にすぎないと聞いたので、原作を読んでみました。 - (チェコ好き)の日記」という歯切れの悪いエントリを書いたばかりなのですが、たぶん私が宮崎駿に対して感じている違和感を、村上春樹に対してもっている人がいるんだろうなというのが何となくわかりました。
私が上記のエントリで書いたことは、一言でいうと「宮崎駿の物語にはテーマ性がなくて(基本構造しかなくて)、細部が作り込まれているだけのように見える」というものです。でもそれは、見る人から見れば村上春樹も同じであると。彼の小説は、「行きて帰りし物語」という基本構造しかなくて、フィッツジェラルドやレイモンド・チャンドラー、ジャズやクラシック、そしてあの独特の文体など、さまざまな“小道具”によって、細部が作り込まれているだけ……
思わず、ふむふむと頷いてしまったのでした。
2つの疑問点
こういった物語の構造化(マニュアル化)、データベース化みたいな話はたぶん広げるとすごく大きな話になりそうなので、このエントリで完結させることなんてとてもできないわけですが、最後に大塚氏の本を読んで私が考えた2つの疑問点をあげて、締めくくろうと思います。
まず1つは、「行きて帰りし物語」では、本当に主人公は成長しないのか? という疑問です。大塚氏はこの「行きて帰りし物語」の問題点として、「無事に帰って来れました、ちゃんちゃん」で終わってしまい、主人公が向こう側に行っても何の成長も遂げないところを指摘しているのですが、少なくとも私には、『色彩を持たない〜』の多崎つくるは、それなりに成長して(ちょびっとだけど)こちら側にもどってきたように読み取れたんですよね。
あと私は、村上春樹の小説は基本構造に沿っている点は確かにあるけれど、やはり一貫したテーマ性も存在すると考えているんですよね。でもそれは、「ファンにしか見えない」のかもしれない。宮崎駿も、私には基本構造しか見えないけど、「ファンにしか見えない」何かがあるのかもしれない。その「ファンにしか見えない」部分は幻想なのか、それとも第三者にも「ね、あるでしょ」といって提示することができるものなのか。その辺りを引き続き考えていきたいなー、なんて思います。
もう1つの疑問は、「行きて帰りし物語」の何が問題なのか? という点です。大塚氏は、暴走する「物語メーカー」に「欠損した私」を委ねてはいけない、といっているのですが、その意味が、私の頭が弱いためかよくわからなかったです。
基本構造がどうとか、テーマ性があるかないかとかなんて、単純に「好き」「嫌い」「興味ない」の話で済むならば、まぁ勝手にやってくれって話じゃないですか。でも大塚氏は、それを9・11後のアメリカの暴走や、オウム真理教の地下鉄サリン事件の問題に絡めていってるんですね。もちろん私も、ゆくゆくはそのあたりに絡むと思うからこそこうして本を読んだり長々と文章を書いたりしているわけですが、「何でそこに話が絡むの?」といわれると、口ごもっちゃいます。絡むのはわかるんだけど、どうして絡むのか論理的に説明できないし、大塚氏の本を読んでもよく意味がわからなかったです。これは大塚氏の本の問題点じゃなくて、私の頭の問題ですが……。
人間、生きていると日々いろいろなことが起こります。でも、出来事はあくまで出来事でしかなくて、それに意味付けをしたり、出来事と出来事を結びつけているのは、人間のなかにある「物語」です。だから、その「物語」にエラーやバグが生じると、けっこう大変なことになっちゃうんですね。もちろん、何がエラーで何がバグか、という定義を作るのもすごく難しい行為で、その定義自体にもエラーやバグがある、なんてこともあります。でも私は、「物語」をちゃんと考えるっていうのは、やはりだれかがやらなきゃいけないことだと思うんですね。とても不毛な行為ですけど。
そんな感じで、物語論っていうのはとても面白いし、村上春樹も宮崎駿も題材として興味深いので、今後も何か見つけたら書こうと思います。今回は、このへんで!