最近思うところあって、佐久間裕美子さんの『ヒップな生活革命』という本を読みました。佐久間さんはアメリカ在住のライターで、様々な雑誌に寄稿したり、自分たちでインディペンデントのメディアを作り上げたりしている方だそうです。
- 作者: 佐久間裕美子
- 出版社/メーカー: 朝日出版社
- 発売日: 2014/07/11
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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本書は、中国などのアジアで大量生産された洋服に身を包み、マクドナルドのハンバーガーを食べてぶくぶくに太り、自分の財力で払える以上の価格のマイホームを購入してサブプライム金融危機を引き起こしたアメリカ人たちの「衣・食・住」に関する意識が、ここ数年で、ブルックリンやポートランドなどの最先端の都市を中心に変わってきているよーという様子をまとめたものです。おそらく同じようなことは、ここ日本でも東京などの大都市を中心に起きており、けっこう身近な話題として楽しみました。
「新しいアメリカ人」のスペック
アメリカ人たちはどのように「衣・食・住」に関する意識が変わったのか? また、「意識が変わった人たち」ってどういう人たちなんだ? ということで、本書の第1章にあった“「新しいアメリカ人」のスペック”なるものを、以下に引用してみます。
こういう人たちは、インディペンデントな(つまり大手のチェーン系ではない)コーヒーショップなどで見つけることができます。それもバリスタがいて、一杯一杯のコーヒーを手で淹れて、内装にはヴィンテージの家具や再利用された資材が使われていて、メニューはチョークで手書き、といったタイプの店です。(中略)
服装も、大量生産された商品でなく、古着や個人経営のブランドの商品を好みます。この層に好まれがちなものといえば、ネルシャツ、ヴィンテージ風味のべっ甲縁のメガネ、タトゥ—、コンバースまたはバンズのスニーカー。(中略)
電話はiPhone、コンピュータは必ずMacで、テクノロジーの恩恵は享受しながらも、アウトドアやガーデニングが好きで、週末になると郊外のセカンドハウスやキャンプに出かけて、あえて原始的な環境に自分を置いたりするタイプ。外で音楽を聴くときもiPhoneで、家にはターンテーブルがある確率が高く、ハリウッド映画よりインディーズ映画を好みます。
一読しただけで、「そうね、こういう人いそうね」と何となく想像がつきます。わざわざインディペンデントなコーヒーショップに探しにいくまでもありません。主流の価値観をはなれて独自の価値体系を作り上げているという点では、パンクやヒッピーといったかつてのカウンターカルチャー*1と共通するところがありますが、主流と共存しながら自分の商売や表現を通じて自己の価値観を主張しているという点が、パンクやヒッピーの文化とは大きく異なっていると佐久間さんはいいます。そしてこういった「文化の嗜好において先鋭的なセンスを持っている」人たちのことを、「ヒップな人たち」、と本書では呼んでいます。
この「新しいアメリカ人」ほどどっぷりでなくても、大手のチェーン店よりも個人経営の小規模なお店を好んだり、一目でそれとわかるようなブランド品を避けたり、食品に含まれる添加物を気にしたりとかは、私個人のなかでも起きていることだし、このブログを読んでいるみなさんにも思い当たる節があるのではないかと思います。私自身が「文化の嗜好において先鋭的なセンスを持っている」かどうかは置いておくとしても、おそらくこういった流れは世界中で起きていることであり、特に珍しいことだとは思いません。ブルックリンやポートランドが、その流れの“最先端”をいっている、ということなのでしょう。
コーヒーを一杯一杯丁寧に淹れてその香りを楽しみ、地元で採れた野菜を食卓に並べ、インターネットやテクノロジーを駆使しながら自己の価値観を主張していく。私自身もその流れのなかにいるし、まことにけっこうなことだと思います。
「ヒップな生活革命」の先にあるもの
この『ヒップな生活革命』という本は、共感する部分も多かったし、全体的にとても面白く読みました。でも、皮肉屋な私としては、これらの「ヒップな生活革命」が、一時的な“ファッション”であることをどう乗り越えていくのか、また、乗り越えていけるのか、なんてことを考えてしまいました。それがブルックリンやポートランドの域を出ないうちは、それが“最先端”であるうちは、本当の「生活革命」とはいえません。
少し話が飛躍するかもしれませんが、桐野夏生の『東京島 (新潮文庫)』という小説があります。数名の男女(というか、数名の男と女1人)が無人島で遭難する話なんですが、私のなかでこの小説で最も印象に残っているのって、食べ物に関する描写なんですよね。
無人島で生活する彼らは、魚や貝を採って食べたりとか、本当に原始的な食生活を送りながらやむなく救援を待っているわけですが、そこで1人が、「有名チェーン店のフライドチキン*2が食べたい」みたいなことを島で唯一の貴重な日記帳(紙がないので貴重なのです)に書きなぐるシーンがあった気がするんですよ。お母さんが作ったお味噌汁でもなく、新鮮な野菜でもなく、有名チェーン店のフライドチキン。私はそれがスゴいなと思って、ああいうチェーン店が作る味っていうのは、私たちが本能的に欲する味を極限まで濃縮しまくったものなんだろうな、と考えたのです。
無人島で遭難したときに欲してしまうような、本能に働きかける味に、「生活革命」が作る味は勝てるのかな、勝てなかったらきっと「革命」は成功しないのだろうな、なんて考えてしまいました。
私のなかでは、大量生産・大量消費、そんな“20世紀的なるもの”の象徴は、アンディ・ウォーホルのアートです。今ではネガティブな文脈で用いられることが多いこの「大量生産・大量消費」という言葉も、20世紀の真っ只中は、それは確かにある“幸福のイメージ”だったのだと、ウォーホルのアートを見ていると感じます。
ちょっとうまくまとまらない部分も多いのですが、『ヒップな生活革命』に書いてあるような現象は、おそらくウォーホルの20世紀に対して、“21世紀的なるもの”の主流になっていく予感がします。そして、それが先鋭であるうちは、確かに“幸福のイメージ”に違いないし、「生活革命」は未来への希望です。
でも、それがどこかで何かの弊害を生み出していないか、何か見落としている部分はないか、そんなことも同時に考えながら、私はこの流れと上手く付き合っていきたいな、なんて考えるのでした。
やっぱりうまくまとまらないですが、この問題に関しては、引き続き考えていきたいところです。今回はこのへんで。