旅行記続いています。
前回はロングアイランド、ブルックリンでの思い出を書いたんですが、そのブルックリンのブルーボトルコーヒーでぼ〜っとコーヒーを飲んでいたとき、ふと「“灰の谷”ってどこにあるんだろう?」と思ったんです。
“灰の谷”とは、スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』で、ロングアイランドからマンハッタンに行く途中にギャツビーたちが通る、廃棄物の捨て場のことです。マンハッタンから出たごみを処理する不毛の土地で、なぜかそこに「神の目」が存在するという謎の設定もあり、物語のなかでもとても重要な役割を持っています。
フィッツジェラルドは「モデルがないと書けない」というタイプの小説家で、この“灰の谷”にも当然モデルがあり、それが「コロナ・ダンプ」と呼ばれていた場所であるーーというところまでは知っていたんですが、「その“コロナ・ダンプ”ってどこよ?」と思い、コーヒーを飲みながらiPhoneでいろいろ調べてみたのです。
そうするといくつか「コロナ・ダンプ」のことを書いたページが見つかり、現在その場所は「フラッシング・メドウズ・コロナ・パーク」という公園として、名前を変えていたことがわかりました。
というわけで、『グレート・ギャツビー』の世界へ
ところで、マンハッタンとロングアイランドをむすぶ橋の1つに「クイーンズボロ橋」というのがありまして、下の写真のこの橋、『グレート・ギャツビー』のなかでもある種の象徴として、物語のなかに登場します。
この橋を東(右手)に進むと、「ロングアイランド」と書いてある黒いやつが見えます。右手がロングアイランド、左手がマンハッタンです。
このクイーンズボロ橋をわたるとき、『グレート・ギャツビー』の語り手であるニック・キャラウェイの心象風景として、ニューヨークという都市がこんなふうに描写されているんです。
大きな橋を渡る。橋梁を突き抜ける日射しが、行きかう車をちらちら光らせ、川の向こうには大都会が、白く、うずたかく、角砂糖のように立ち上がる。うさんくさい金をうさんくさいとも思わず、金で願いごとをかなえた街——。クイーンズボロ橋から見る都会は、いつ見ても初めて見るようだ。世界中の謎と美を、いま初めて差し出してくれるように見える。
(中略)
「この橋を抜けてしまえば、もう何があってもおかしくない」と私は思った。「何だってあり得る……」
グレート・ギャッツビー (光文社古典新訳文庫) p111〜112
私は、太字で強調した「金で願いごとをかなえた街」って部分がもう大好きなんですよね。だって、中身からっぽでしょ。虚しいでしょ悲しいでしょ。だけど、最高にクールでしょ……! 人々の欲望が渦巻く、嘘で塗り固められた幻想の都市、ニューヨーク。そこに行ってしまえば、世界のすべてがあり、どんなことだって起こり得る。すてきだ。
ちなみに、このクイーンズボロ橋、私も帰りにタクシーで渡ってみたんですが、車中からの撮影はまぁ当然のごとく失敗しました。
“灰の谷”へ
コーヒーを飲み終わった後、本当はブルックリンのギャラリーやセレクトショップをまわってみる予定だったんですが、私はもう絶対絶対“灰の谷”に行きたいと思ってしまったので、急遽予定を変更し、ブルックリンから北のクイーンズを目指しました。
「コロナ・ダンプ」の跡地であるという「フラッシング・メドウズ・コロナ・パーク」はブルックリンのウィリアムズバーグからちょっと遠くて、乗換も含めて電車で40分くらいかかりました。クイーンズというところもきちんと見たらたぶんすごく面白い場所で、ギリシア、イタリア、インド、タイ、韓国、中国などなど、アメリカ国外出身者が多く住む区のようです。
で、着いた。MetsWilletsPointという駅で降りたのですが、なんか野球場とかもあるみたいです。
正直、何もないです。ただの公園です。
フィッツジェラルドが『グレート・ギャツビー』を世に出したのは、1925年。その頃「コロナ・ダンプ」だったこの場所は、1939年にニューヨーク万国博覧会の会場を設営するため、積もっていた灰を周辺の高速道路の基礎に混ぜ処分し、公園として生まれ変わりました。
そのため、今は「コロナ・ダンプ」の影は跡形もなく消えていますが、想像力のたくましい私は、かつてこの場所にスコットとゼルダのフィッツジェラルド夫妻が立っていたかもしれないこと、そして『グレート・ギャツビー』のラストに近いシーンで、デイジーとギャツビーが乗る車の前に、マートルがとび出してくるところ……などなどを思い、大興奮&大感動&大興奮&大感動。1人でボロボロ泣きながら公園内を徘徊しましたが、そんな頭おかしい行動をとっても、だれにも咎められないのが一人旅のいいところ。
くり返しますが、本当にただの公園なので、『グレート・ギャツビー』という小説に思い入れがなかったら、何も面白くありません。しかし、たとえまったく跡形がないような場所でも、思い入れがあると、何か“ある”ような気がしちゃうんですよね。
この「フラッシング・メドウズ・コロナ・パーク」をさらに東に行くと、ギャツビー邸のあるウエスト・エッグのモデルとなったグレートネック、そしてブキャナン邸のあるイースト・エッグのモデルとなったサンズポイントがあるようなのですが、時間切れになってしまったのと、どうやら私有地でまわりをぐるぐる見るしかできないらしいので、ここで断念しました。もし先端まで行けたら、ジェイ・ギャツビーになったつもりで、グリーン・ライトがそこにあると妄想しながら、ブキャナン邸のあるイースト・エッグを眺めてみたかったんですけどね。
※Google mapより
旅で出会う「文学」
私はカズオ・イシグロの『日の名残り』という小説が大好きなんですけど、それは小説自体がすばらしくて私の感性にハマったという以外に、昨年ロンドンやその近郊を旅行した直後にこの小説を読んだため、情景が“現実のものとして”、頭に浮かぶようになっていたからという理由があると思っています。
今回私はニューヨークを旅行すると決め、その下準備として『グレート・ギャツビー』を8月上旬に読んだのですけど、たぶん「ニューヨークに行く」という前提がなかったら、この小説にここまでハマることはなかったんじゃないかと思います。映画や美術もそうなんですけど、文学と都市というのは密接に結びついていて、そこで生まれた作品は、その土地の空気をふんだんに吸いまくっています。何でそんなことが起こるのか不思議なんですが、実際にその土地に行ってみると、やっぱり本当に何か“ある”んですよ。妄想かもしれないけど。だから、その濃縮された空気を吸うことで、私は初めて「文学」に出会えたのだ、という気がします。
そんなかんじで、あともう少し旅行記は続きます。