チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

ブログであそぼう:「対話」のはなし

特にブログのネタに困っているわけではないのですが、「ネタ切れを感じたら過去記事カードガチャで「らくごのご」 - 太陽がまぶしかったから」を読んで、これはやってみたい! と思っていたので、今回は過去記事ガチャによる「らくごのご」をやります。私はこれまでに書いてきたエントリが300くらいあるのですが、そのなかからブログパーツガチャでランダムに選出した3つを組み合わせ、テキトーに話をします。こういうふうにして書くの初めてなので楽しいです。「悪魔合体」という単語にひきつけられる心が若い私です。

世界を何によって処理するか

さて、この文章を書いている私、そして読んでいるあなたは、おそらく「言語によって世界を処理することに長けている人」なのではないかと思います。自分で「長けている」とかいっちゃうのは少々アレな気もしますが、私は2年半もの間、1エントリ平均して3000 字以上の文章を300記事くらい書いてきたわけで、これって合計すると90万字とかになるんですね。言語によって世界を処理することに長けていることがその人の価値を高めることになるとは私は思いませんが、とりあえずこんなことをぐだぐだ書いている私、そしてここまで読んでいるあなたは、言語によって世界を処理する能力がそこそこある、ってことにしておいてOKなのではないかと思います。

一方で、言語によって世界を処理することがあまり得意でない人というのもなかにはいます。もちろん、それはその人の価値を下げることにはまったくなりませんが、事実としてそういう人はいます。

私が「言語によって世界を処理する能力に長けている/いない」人がそれぞれいる、ということに気がついたのは、恥ずかしながらここ1年くらいのことだったりします。ちなみに、「文章を書くのがうまい人」と「言語によって世界を処理する能力に長けている人」は必ずしも一致するわけではなく、「文章を書くのはうまいけど言語によって世界を処理する能力はあまりない」みたいな人も、その逆の人もたまにいます。

で、この言語による処理能力が「ない人同士」で議論をするとき、または「ある人同士」で議論をするときは、あまり困りません。問題はやっぱり「ある人」と「ない人」で話を進めなければならないときで、「ある人」はとことん「言語による説明」を求めてしまうんですね、そうじゃないと自分が理解できないから。しかし、「ない人」は自分のいいたいことを言語化できないので、途中でめんどくさくなって議論を放棄してしまうことがあります。そんなときに出てくるのが、「○○じゃないあなたにはわからない!」という言葉だと思うんですけど、みなさんここでやっと1つめの過去記事の登場ですよ。

「○○じゃないあなたにはわからない!」という卑怯な必殺技 - (チェコ好き)の日記

私はやはり言語優位な人なので、自分がはずみでこれをいってしまったときはかなり「まずった」と思いますし、相手にこれをいわれるとすごく腹が立ちます。だから上記のエントリでは、「私も絶対いわないからあなたも絶対いわないでね」ということを書いたんですけど、今思うと、これってお互いが言語優位な人だったらいいんですが、もし対話の相手が「言語による処理能力に長けていない人」だった場合、「私にわかりやすい方法であなたの世界を説明して」と要求しているわけですから、ちょっと横暴なんじゃないのかなぁと考え直しました。言語優位な私たちは、世界のありとあらゆる事象の説明を言語によって求めてしまうけど、この「言語による処理」が必ずしも正しいとは限りません。が、私ももう20代後半なので、今から「言語以外による世界の処理能力」をトレーニングするのもだるいしなぁ、どうしようかなぁ、と思ってしまいます。

継続的な対話

あなたと私が「世界を何によって処理しているか」、それが同じだった場合は仲良くなりやすいし、何かと話がスムーズです。でも、もし世界の処理方法が異なる場合、「どちらか一方の処理方法にどちらか一方が歩み寄る」っていうのは難しいし、やめたほうがいいのかなと思います。私はあくまで日本語で話をしようとするし、相手もあくまでドイツ語で話をしようとする、それしかないし、それでいいのではないでしょうか。ただし、お互い時間がかかることは覚悟しておかねばなりません。

ここで2つめの過去記事の登場なのですが、以前、「ブログに書いたことを誤読されるのを避けるためにはどのようにすればよいのか」というエントリを書きました。

著者と読者の関係は、フラットになりつつある。 - (チェコ好き)の日記

ブログにコメントをいただくとき、「あれ、そんなことは書いてないんだけどなー」という受け取られ方をしてしまうことがあるんですけど、これ、継続的に私のブログを読んでくれている方にはあまり起こらなくて、誤読をされる方って多くの場合、おそらく「私のブログを初めて読みに来てくれた人」なんですよね。継続的に読んでくれている方というのは、複数のエントリを読むなかで、1つのエントリには書ききれなかった「見えない文脈」のようなものを無意識に頭に入れておいてくれるので、1つ1つの言葉の意味をより正確に捉えて下さいます。だから誤読を避けるために書き手である私にできることは、1人でも多くの人に、「継続的な読者」になってもらうこと、これしかありません。

ここで、さきほどの「言語優位な人とそうでない人の対話」の話につながるのですが、「本当に対話をしようとすると、けっこう時間がかかる」というのが、私のなかでの結論です。

もちろん、気の合わない人とか、考え方が根本的に相容れない人と継続的な対話をしていくとなるとなかなか苦痛ですが、もうちょっとゆるく、「話ってのはそう簡単に通じるもんじゃない」くらいにかまえておくと、世の中うまくまわるのかなぁなんて思います。世代間で、価値観を共有できない相手と話を進めなければならないときも同様ですね。

親より先に死にたい? 後に死にたい? - (チェコ好き)の日記

上記のエントリでは、社会学者の上野千鶴子氏と古市憲寿氏の対談本『上野先生、勝手に死なれちゃ困ります 僕らの介護不安に答えてください』の感想を書いたのですが、この2人がまったく価値観が共有できていないにも関わらずきちんと「対話」できているのは、お互いが言語優位の人間であり、また教師と教え子という立場で、この本の外でもたくさん対話を重ねてきたからだと思います。

ヤン・シュヴァンクマイエルの短編映画で『対話の可能性』という作品があるのですが、これはまったく噛み合わない対話をしている2人のコミュニケーションをグロテスクに描いたとても面白い映画です。対話というものは本質的にこういうものなんだろうな、と思わせられます。

ブログであそぼう!

というかんじで「らくごのご」をやってみたのですが、最後の1つがだいぶ苦しいかんじになってしまいました。難しかったけどなかなか面白かったので、このあそび月に1〜2回くらいやろうかなと考えました。そのための新カテゴリも作ったのですが、ある日突然消えていたら「あ、飽きたんだな」と思ってください。

ブログってもっともっと面白いあそびができるものです。私は、まだまだあそぶつもりですよ。