「自分を好きになろう」「自分を肯定しよう」という話は、いろいろな界隈で頻繁に見かけます。私自身としてはこのことに特に異論があるわけではなく、「まあ結局そこよね」と納得はするのですが、それにしたってよく見かけるので、「またその話か」と耳タコ状態であったりもします。
しかし、よく見かけるということは、それだけできない人が多いのでしょう。なかなか悩ましい話です。
そんななかで読んだのが大野左紀子氏の『アート・ヒステリー』だったのですが、本書では日本における「アート」の受容のされ方についての考察がされています。「アート」は「普通でないこと」や、強烈な個性といった特性と、しばしば結びつけられることがあります。
一見まったく関係ないように思える「アート」と「自己受容」ですが、今回はこのテーマで、ちょっと考えてみようかなと思ったのでした。
アート・ヒステリー ---なんでもかんでもアートな国・ニッポン
- 作者: 大野左紀子
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2012/09/26
- メディア: 単行本
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芸術学科の志望者は増えていた
私は大学、大学院と、美術や映画のことを学べる学科に在籍していたのですが、芸術系の学問というのはとにかくメシのタネになりません。というと、「いや経済学部だって同じだよ、学生時代に学んだことなんて社会に出たら何の役にも立たないよ」とフォロー(?)してくれる人がいるのですが、なんかそうじゃなくて、あの世界にいると根本的に世間と価値観がズレていくのです。
……まあその話は今回は割愛しますが、しかしそんなメシのタネにならん芸術学科を志望する高校生が、年々増えている(受験者が増加している)*1という話を教授から聞いたときは、「みんななんだってそんな自殺行為を……」と、自分のことを棚にあげて憐れんだものです。
なぜ芸術学科の志望者は増加していったのか。もちろん私がその話を教授から聞いたのは数年前の話であり、もしかしたら今また状況は変わっているかもしれないですが、仮にあのまま受験者が増加、もしくは高止まりをキープしているとして、この現象の根本にある原因はなんなのでしょう。本書には、そのヒントになるような考えが提示されています。要約して説明すると、「アート」というのは、「個性的な私」をのばしていってくれる、という幻想をあたえてくれるんですね。
「個性的であれ」「自分を好きになろう」というメッセージは、アメリカでは1960年代からいわれ始めたらしく、かたちを変えながら80年代にはナルシシズムの病として、社会のさまざまなところで弊害となって現れ始めたといいます。支払い能力以上の住宅ローンを組んだり、「自分を好きになれ」という自己啓発書が売れたり、子供にキラキラネームをつけたり、ツイッターやフェイスブックで友達の数を競ったり、企業で「褒め方コンサルタント」を雇ったり……住宅ローンの話はともかく、キラキラネームというのは日本だけの現象ではなかったのですね。このあたりの話は、私もまだ未読なのですが、『自己愛過剰社会』という本が詳しいらしいです。先進国というのは、だいたい同じような道をたどるものなんですね。
- 作者: ジーン・M・トウェンギ,W・キース・キャンベル,桃井緑美子
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2011/12/17
- メディア: 単行本
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自己肯定感の低い人に対して「自分を好きになろう」というメッセージが伝えられる一方で、自己愛が過剰になる。一見真逆の現象に思えますが、たぶん根本にある原因は同じなんですよね。自己受容ができず自己肯定感が低いままか、まちがった受けいれ方をして自己愛が過剰になるか。AV監督の二村ヒトシさんは著書『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか (文庫ぎんが堂)』で、「自己肯定とナルシシズムはちがう」という話をしていますが、先進国の人間がこぞってコケているわけですから、このあたりを区別して自分を正しく受けいれる、というのは本当に難しいのでしょう。
そこで、「なりたい自分」と「現実の自分」という「空想と現実の距離」を縮めるべく消費活動を活発に行わせるために、人々のナルシシズムを刺激し続ける必要がある。すべてのナルシシズム市場は、凡人の凡人ゆえのコンプレックスを刺激して成立しています。どこかに自己嫌悪や自信のなさがあるから「自分を好きになれ」「あなたは特別」というメッセージに反応してしまうのです。
『アート・ヒステリー ---なんでもかんでもアートな国・ニッポン』p213 強調は筆者
『アート・ヒステリー』ではここで消費活動の話が出てくるのですが、二村ヒトシさんの著書でも、広告のカタマリである女性誌、ファッション誌に対するツッコミが入っている箇所があります。現代社会は、消費活動によってナルシシズムが助長され、ある人は子供にキラキラネームをつけ、ある人は恋愛がうまくいかなくなり、ある人は芸術学科を目指すようになると。ちょっと強引にまとめすぎでしょうか。
「私のことをわかって」!
私は今みなさんがご覧になっているこちらのブログを、企業から報酬などをもらっているわけでもなく、よくもまあ飽きもせずに更新しているわけですが、そんな所謂「ブロガー」にとって耳の痛い話が、本書には登場します。
目の前にツールがあったから書いた。それは裏返せば、その機会、手段に出合わなかったら、その人々は何も書かなかったかもしれないということです。とすると、その「書く人」たちは、ブログやツイッターというツールに「書かされている人」になるのかもしれません。ただ、たとえ「書かされて」いたとしても、それが誰でももっているささやかな被承認欲を手軽に満たせるツールだったことが大きかったのだと思います。
(中略)
そこで「私のことをわかって」と書くのは極めて当たり前の振る舞いでしょう。まさにそれは自意識のセーフティ・ネットです。
『アート・ヒステリー ---なんでもかんでもアートな国・ニッポン』p219
「特別で個性的な私」を受けいれ肯定するのはある意味簡単なのですが、世の中の98%くらいの人間は、すべからく凡人です。だからブログを書いたり、芸術学科で個性を発揮しようとしてみたり、ツイッターで刺激的なつぶやきをしてみたりするわけですが、「私のことをわかって」という表現が人を動かすのは難しい、という指摘が本書ではされています。ーーその「私」の欲望が、「私」自身の存在基盤を問い返すところまで探求されているのでない限り(p219)。
これは話としてすごく難しいと思うのですが、もし私が、これを読んでいるあなたが、「人を動かしたい」と望むなら。「人を動かす」というのは、恋人を見つけること、繁華街でナンパをすること、自分にとって最高の仕事をすること、たくさんの人に読まれる文章を書くこと、事の大小はありますが、ようするにこの世の中で行われるすべての活動だと思うんですね。そのときに、「私のことをわかって」といくら叫んでもダメだということです。ただし、ささやかな個人的なつぶやき、何気なく書いた個人の日記が大変な人気を博すこともあるので、なんか線引きが難しいなーとかも思うわけですが、そういう表層的な話ではなく、もっと根の深い話として、ですね。
もし「人を動かしたい」と望むなら、私もあなたも、難問に立ち向かわなくてはなりません。「強大な敵と戦うこと、言い換えれば自分の足元をも掘り崩すような大変な難問に挑むことだけが、ナルシシズムから解放される道(p221)」なのです。
難問てなんだ、という話になりそうですが、そこは心配しなくても、生きていれば難問しかないような世の中なので、大丈夫かと思います。問題はあなたがどういった難問を選択するかですが、アレとコレ、ソレとコレ、とテキトーに選んでも、深く掘っていくと同じ根っこにたどりついたりします。不思議ですね。
まあ、難しいことばっかり考えると疲れますから、今日も元気にがんばっていきましょう。人生は難問の連続です。
*1:グラフとかを提示できないのでアレですが