私のハンドルネームは「チェコ好き」というんですが、今更ですがこのハンドルネームの由来を説明すると、大学と大学院時代にチェコ映画を研究していたことが元になっています。具体的にいうと、卒業論文はヤン・シュヴァンクマイエルという監督について、修士論文はイジー・メンツルという監督について書きました。
この2人の共通点は、チェコ人であるということ、同世代であるということ以外に、「プラハの春」が起きたときにチェコ国外に亡命をしなかった、という点をあげることができます。他の映画監督や作家たちは、自由な作品作りのためにアメリカやフランスへばんばん亡命してしまったんですね。だけど、この2人はチェコに残りました。
私は、最初からその共通点に目をつけていたわけではありません。たまたま好きな映画監督が、シュヴァンクマイエルとメンツルだった。「そういえばこの人たち、2人とも亡命してないな?」と気が付いたのは、修士論文が終わらなくて泣きそうだった5年前の12月です。
なぜシュヴァンクマイエルとメンツルは亡命しなかったんだろう? 私は結局その明確な答えを見出せないまま修論を提出し「退院」したのですが、今もまだ同じ疑問を持ち続けています。彼らにはきっと、チェコでしか作れないものがあったのでしょう。もしくは、チェコで作らなければ意味がないものがあったのでしょう。だけど、それが何だったのかは、今もわかりません。なぜ、亡命ではなく残留を選んだのか。これは、たぶんこの先もまだ10年、20年という単位で付き合っていかなければならないであろう私の宿題です。
セファルディとマラーノ
話は変わりますが、1492年、イベリア半島で何百年と続いたキリスト教国の再征服運動、レコンキスタが終わりを迎えます。この年に、グラナダのアルハンブラ宮殿は陥落、イスラム王朝であったナスル朝は滅亡します。
これにてイスラム王朝とキリスト教国の争いは一段落……というところだったのかもしれませんが、このレコンキスタの終焉によって、流謫の旅を始めなければならなくなったのが、スペイン系ユダヤ人の「セファルディ」です。そして、流謫の旅を選ばずにキリスト教に改宗し、現地に留まる道を選んだスペイン系ユダヤ人は、「マラーノ(豚)」と呼ばれ蔑まれるようになります。スペインを追われた「セファルディ」は、劣悪な環境の難民船に乗ってジブラルタル海峡をわたり、北アフリカの地・モロッコを目指したといいます。
故郷を離れた「セファルディ」と、故郷に留まった「マラーノ」。前者は旅の途中での病気や餓死というリスクを背負い、後者はいつ拷問や火炙りの刑にかけられるかもわからない恐怖を抱きながら、現地での生活を続けました。
日本人である私たちにとってはあまりピンと来ませんが、何らかの歴史的な事件によってその場所にいられなくなる、というケースがどうやら人類にはあるようです。そういうとき、「亡命/流謫」の道を選ぶ人と、「残留」を選ぶ人がいる。前者がセファルディであり、またチェコから亡命したミラン・クンデラやミロシュ・フォアマンです。そして後者が、マラーノであり、シュヴァンクマイエルやメンツルです。
私自身のことを考えると、自分は「セファルディ」タイプだな〜と思うんです。あんまり故郷に思い入れもないし、きっと何かの事情でこの場所を離れたほうがいいような事態になったら、荷物をまとめてホイホイ出ていくでしょう。行く先がアフリカでも、ヨーロッパでも、南北アメリカ大陸でも、どこだって構いません。まあ現実的に考えると、劣悪な環境の難民船に乗るのはちょっと(だいぶ)嫌ですが、なんとなく自分の気質としてはそういう性格だなあと思います。
だけど、私が5年前に気になったのは残留側だったシュヴァンクマイエルとメンツルだし、今もセファルディより「マラーノ」です。なぜ逃げなかったのか。なぜ故郷を捨てなかったのか。もちろん1960年代のチェコと1492年のスペインではだいぶ話がちがってくるんですが、それでも今回、また残留側が気になってしまった……ということで、5年越しの不思議な思いに私は捉われているわけです。
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ただ、1960年代のチェコと1492年のスペインの環境で大きく異なる点は、「自らの出自を隠さなければならなかった」というところ。シュヴァンクマイエルやメンツルはチェコで、自らがチェコ人であることを隠す必要はありませんでしたが、マラーノと呼ばれたスペイン系ユダヤ人は、ユダヤ教徒であったことを隠しながら、キリスト教社会という他の共同体への帰属を選択したのです。
故郷を捨てること(チェコのクンデラやロシアのタルコフスキー)、故郷を捨てずに留まること(チェコのシュヴァンクマイエルやメンツル)、故郷に留まり、自らの出自を隠し、生き延びるために他の共同体へ帰属すること(マラーノ)。すべては文学や芸術が語ってきたことであり、その構造を当てはめることができる作家や作品は他にもたくさんあると思います。探してみてください。
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「ドナドナ」はユダヤ人の歌?
読んだ本(『離散するユダヤ人―イスラエルへの旅から (岩波新書)』)の話をほとんどしないまま終わりそうな今回なのですが、この本は結局なんだったのかというと、レコンキスタの終焉により故郷を追われることになったスペイン系ユダヤ人・セファルディの足跡を追って、モロッコ、カイロ、エルサレム、サフェド、ヤッフォを旅した著者が、その思想史、文化史の隠れた系譜を浮かび上がらせる……という内容のものでした。
我々の身近な話題としては、民謡? の「ドナドナ」の話が出てきます。著者は「ドナドナ」の「ドナ」は「わが主(アドナイ)」のことなのでは? という予測のもとイスラエルへと赴くのですが、現地のユダヤ人に聞いてみると、「あれは水のことだ!」「ただの囃子でしょ」といわれたりして、著者のこの自説はことごとく否定されてしまいます。
でも、著者が旅を終えて日本に戻ってくると、ユダヤ人の詩人が書いたある書籍のなかに「ドナドナとはわが主(アドナイ)のことだよ」みたいな記述があって、「なんなんだよ……」みたいなかんじで本が終わります。
「ドナドナ」はまあいいとして、著者がセファルディの足跡をたどって訪ねた地モロッコ・マラケシュにて、ユダヤ人の共同墓地に足を踏み入れる場面があります。自身がセファルディである思想家のエリアス・カネッティはこの墓地を「月面風景」と評したそうですが、そこには花はなく、碑文もなく、朽ち果てた墓石があっただけだったといいます。故郷を追われ、苦難を乗り越えたどり着いた新天地でも、彼らが見た光景は幸福とはいい難いものだったでしょう。
「故郷」とは「過去」みたいなものだと私は思っています。過去を捨てる者、過去に留まる者、過去に留まりつつその過去を隠す者。『ノスタルジア [Blu-ray]』もそうだし、『グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)』もそうなのですが、私はやっぱりずっと「故郷(過去)をどう扱うか?」という問題を考えているのかもしれないなあと思いました。メリー・クリスマス。